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第3話「始まる嫁いびり」
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第3話「始まる嫁いびり」
昼下がりの光が、薄いレース越しに差し込んでいた。
本来なら、こんな穏やかな午後は、優しい匂いや気配が漂うはずだった。
だけど今は——。
シンクから立ちのぼる油臭が、鼻の奥をじわりと刺激している。
「……どうしてこんなに……」
山積みにされた皿。
ペタリと貼りついたケチャップ。
油で濁ったままのフライパン。
義妹のチーズまみれの皿。
義母が放置していった汁物の残骸。
仕事場の厨房よりもひどい。
私は食器に触れながら、胸の奥に張り付く“ざらつき”を感じていた。
その時だった。
義妹・明美が、ジュースをわざとテーブルにこぼした。
氷が転がり、冷たい液体が床に“ぴちっ”と跳ねた。
「あ、やば~。こぼしちゃったぁ」
わざとらしい声。
わざとらしい笑顔。
そして、
「これ片付けといて~」
棒読みみたいな、軽い命令。
私はゆっくり顔を上げ、明美を見る。
彼女はソファに脚を投げ出し、スマホをいじりながらニヤッと笑った。
「ねぇ、聞こえてるよね?
片付けてって言ってんの。嫁さんでしょ、あんた」
——嫁さん。
義妹から発せられるその“呼び方”は、穏やかさの欠片もなかった。
義母・静江が加勢するように言う。
「そうよ。うちの家に来たんだから、嫁として当然でしょ。
こぼれたものくらい、さっさと拭きなさいよ」
“うちの家”
その言葉が、まるで針のように胸の奥に刺さる。
私は口を開きかけた。
けれど、その瞬間。
「んー……眠い」
夫・和成が、見て見ぬふりをしながらソファに寝転がった。
「お前が怒んなくていいから。
母さんと明美、疲れてんだしさ。
……てか、お前がやるの普通じゃね?」
普通——?
私の中の何かが静かにきしむ音を立てた。
怒鳴られたわけではない。
叩かれたわけでもない。
だけど、
**“存在そのものを軽視される痛み”**は、声より深く刺さる。
私はタオルを手に取り、こぼれたジュースと氷を黙って拭いた。
床の冷たさが膝に染みていく。
義妹の足が、無造作に私のすぐ横を通り過ぎた。
その足裏のざらつきすら、嫌な音に感じられる。
「ねぇ、お義姉さん、さぁ」
明美が天井を見たまま言った。
「家にいるなら、もっと空気読んで動いたら?
あんたが動くのが一番効率良いんだから」
静江も追い打ちをかける。
「そうよ。うちの家に入ったからには覚悟が必要よ?
嫁ってのはね、家族より下なのよ。
それがうちのルールだから」
“家族より下”
胸の奥が、まるで薄い氷にひびが走るように冷たくなる。
私はタオルを絞り、静かにシンクへ向かった。
水の音が、小さく拳を握る音みたいに響いた。
夫はその音を聞いても無関心なまま、スマホを眺めている。
「なあ、○○、夕飯早めにしてくれよ。母さんたち、腹減ってんだからさ」
その瞬間、
胸の奥で何かがひっそり積み重なった。
怒鳴りたいわけじゃない。
泣きたいわけでもない。
一切の“瞬間的な感情”ではなく、ただ——
“積もる”。
粉雪のように。
音もなく。
しかし確実に。
私は食器の山に手を伸ばした。
冷えた皿の感触が、皮膚にいやな重さで貼りついてくる。
義母と義妹は笑っていた。
まるで、自分たちが“正しい側”であると信じ切った笑顔。
夫は、見ない。
聞かない。
理解しようともしない。
私は静かに思った。
——ああ、これは嫁いびりなんて生易しいものじゃない。
これは、私を“召使い”として扱う空気そのもの。
そして、その空気を作ったのは——
この家ではなく、
この人たちだった。
私は皿を洗いながら、ゆっくり呼吸を整えた。
鼻先には油の臭い。
耳には義妹の笑い声。
指先には冷たい食器の感触。
全部が、心の奥に積もっていく。
——静かに。
——確実に。
——耐え難いほど美しく、怒りが形を作っていく。
私はふと、窓の外に目をやった。
青空が穏やかに広がっていた。
その静けさが、逆に心を研ぎ澄ませる。
——そろそろ、準備を始めよう。
私が沈むんじゃない。沈むのは——あの人たちだ。
昼下がりの光が、薄いレース越しに差し込んでいた。
本来なら、こんな穏やかな午後は、優しい匂いや気配が漂うはずだった。
だけど今は——。
シンクから立ちのぼる油臭が、鼻の奥をじわりと刺激している。
「……どうしてこんなに……」
山積みにされた皿。
ペタリと貼りついたケチャップ。
油で濁ったままのフライパン。
義妹のチーズまみれの皿。
義母が放置していった汁物の残骸。
仕事場の厨房よりもひどい。
私は食器に触れながら、胸の奥に張り付く“ざらつき”を感じていた。
その時だった。
義妹・明美が、ジュースをわざとテーブルにこぼした。
氷が転がり、冷たい液体が床に“ぴちっ”と跳ねた。
「あ、やば~。こぼしちゃったぁ」
わざとらしい声。
わざとらしい笑顔。
そして、
「これ片付けといて~」
棒読みみたいな、軽い命令。
私はゆっくり顔を上げ、明美を見る。
彼女はソファに脚を投げ出し、スマホをいじりながらニヤッと笑った。
「ねぇ、聞こえてるよね?
片付けてって言ってんの。嫁さんでしょ、あんた」
——嫁さん。
義妹から発せられるその“呼び方”は、穏やかさの欠片もなかった。
義母・静江が加勢するように言う。
「そうよ。うちの家に来たんだから、嫁として当然でしょ。
こぼれたものくらい、さっさと拭きなさいよ」
“うちの家”
その言葉が、まるで針のように胸の奥に刺さる。
私は口を開きかけた。
けれど、その瞬間。
「んー……眠い」
夫・和成が、見て見ぬふりをしながらソファに寝転がった。
「お前が怒んなくていいから。
母さんと明美、疲れてんだしさ。
……てか、お前がやるの普通じゃね?」
普通——?
私の中の何かが静かにきしむ音を立てた。
怒鳴られたわけではない。
叩かれたわけでもない。
だけど、
**“存在そのものを軽視される痛み”**は、声より深く刺さる。
私はタオルを手に取り、こぼれたジュースと氷を黙って拭いた。
床の冷たさが膝に染みていく。
義妹の足が、無造作に私のすぐ横を通り過ぎた。
その足裏のざらつきすら、嫌な音に感じられる。
「ねぇ、お義姉さん、さぁ」
明美が天井を見たまま言った。
「家にいるなら、もっと空気読んで動いたら?
あんたが動くのが一番効率良いんだから」
静江も追い打ちをかける。
「そうよ。うちの家に入ったからには覚悟が必要よ?
嫁ってのはね、家族より下なのよ。
それがうちのルールだから」
“家族より下”
胸の奥が、まるで薄い氷にひびが走るように冷たくなる。
私はタオルを絞り、静かにシンクへ向かった。
水の音が、小さく拳を握る音みたいに響いた。
夫はその音を聞いても無関心なまま、スマホを眺めている。
「なあ、○○、夕飯早めにしてくれよ。母さんたち、腹減ってんだからさ」
その瞬間、
胸の奥で何かがひっそり積み重なった。
怒鳴りたいわけじゃない。
泣きたいわけでもない。
一切の“瞬間的な感情”ではなく、ただ——
“積もる”。
粉雪のように。
音もなく。
しかし確実に。
私は食器の山に手を伸ばした。
冷えた皿の感触が、皮膚にいやな重さで貼りついてくる。
義母と義妹は笑っていた。
まるで、自分たちが“正しい側”であると信じ切った笑顔。
夫は、見ない。
聞かない。
理解しようともしない。
私は静かに思った。
——ああ、これは嫁いびりなんて生易しいものじゃない。
これは、私を“召使い”として扱う空気そのもの。
そして、その空気を作ったのは——
この家ではなく、
この人たちだった。
私は皿を洗いながら、ゆっくり呼吸を整えた。
鼻先には油の臭い。
耳には義妹の笑い声。
指先には冷たい食器の感触。
全部が、心の奥に積もっていく。
——静かに。
——確実に。
——耐え難いほど美しく、怒りが形を作っていく。
私はふと、窓の外に目をやった。
青空が穏やかに広がっていた。
その静けさが、逆に心を研ぎ澄ませる。
——そろそろ、準備を始めよう。
私が沈むんじゃない。沈むのは——あの人たちだ。
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