『勝手に同居して嫁いびりした夫一家の末路』

第14話「もしもあの時」

第14話「もしもあの時」

　新居のリビングには、
　コーヒーの香りがゆっくりと広がっていた。
　豆を挽いた瞬間に漂う、あの深い香り——
　以前の家では油の匂いにかき消されていたものが、
　ここではふわりと空気を満たしていく。

　窓の向こうには、穏やかな午後の光。
　風がレースカーテンをそっと揺らし、
　白い布越しに光が柔らかくこぼれた。

　私はコーヒーを一口飲んで、
　ゆっくりと目を閉じる。

　もしも。

　もしも“あの日”——
　出張から帰ってきた玄関で見たあの靴の山。
　義母のスリッパ、義妹の派手なサンダル、
　夫の投げ出されたままの革靴。

　あのとき、
　彼らが違う言葉を口にしていたら。
　今とはまったく違う未来になったのかもしれない。

　私は、静かに、ひとりごとのように呟いた。

　「……もし、あの日。
　“ここにおいてね、ごめんね”って言われてたら……」

　目の前に、あの日の光景が鮮やかに浮かぶ。
　玄関の湿った空気、
　漂っていたインスタントラーメンの匂い。
　リビングから聞こえた義母の甲高い笑い声。

　そして——
　夫の、あの軽い調子の声。

　『今日から母さんと妹と住むから！』

　その瞬間に胸を刺した、
　氷みたいに冷たい違和感。

　でも——
　もし、あれが別の言葉だったら。

　私は続けた。

　「もしもあなたたちが……
　 “少しだけ” 謙虚だったら」

　ソファに腰を下ろし、
カップを持つ指に優しい温度が染み込んでくる。

　「“ごめんね、急に……でも、どうしても頼らないといけなくて”
　たったそれだけでもよかったのよ」

　風がカーテンを揺らし、光の粒が足元に落ちる。
　まるで、優しかった未来の影がそこに触れたようだった。

　「もし、義母さんが……
　“出したものは戻すね” って言ってくれたら」

　皿を積み上げた音じゃなくて、
　食器を戻す優しい音が響いていたら。

　「もし、義妹さんが……
　“あなたは仕事をしてるから、家のことは私たちが頑張るね”
　そう言ってくれたなら」

　たとえ完璧じゃなくても。
　たとえ上手じゃなくても。

　私は苦笑した。

　「そうしたら、家政婦さんを一人頼んで……
　それで全部、丸く収まっていたのにね」

　離婚だって、
　不法占拠の証拠だって、
　強制退去だって、
　全部、必要なかった。

　夫婦として続けられた未来も、
　わずかに……わずかにだけど、
　あったのかもしれない。

　私は静かに言った。

　「残念ね。
　変わろうとしなかったのは“あなたたち”よ」

　その言葉が部屋の空気にゆっくり溶けていく。

　あの日、
　義母も義妹も夫も、
　最初の一歩を踏み出すチャンスは確かにあった。

　でも——
　彼らは選んだ。
　私を下に置く未来を。
　私を使い潰す未来を。
　私を侮辱し続ける未来を。

　風が吹き抜け、
　カーテンがまたそっと揺れた。

　私はコーヒーを飲み干し、
　小さくつぶやいた。

　「もしも……を選ばなかったのは、あなたたち。
　だから“今”があるのよ」

　午後の日差しが優しく頬を照らす。
　静かで、暖かい光。

　——私の未来は、
　もう二度とあの日の家には戻らない。