銀色九尾な孤の彼と

山法師

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始まりの日

17 本心から来る普通の笑顔

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「すみませんでした」

 まさか一時間も寝てしまうとは。

(チラッと見えた壁の時計)

 時刻を見間違えてなければ、本当に一時間……一時間以上。
 彼にずっと抱えてもらった状態で、寝ていたらしい。

「良いから早く飯を作れ。お前の作る美味い飯を食わせろ。頭を上げろ、立て。気分が悪くなる」

 立ち上がったらしい彼が苛立ったように言い、舌打ちする音を聞く。

「はい、すみません。今すぐ作ります」

 目を覚まして状況を把握した瞬間、彼の腕の中から逃げるように抜け出して土下座してしまった凪咲も、素早く立ち上がってシンクへ向かう。

「気分が悪くなると言ったんだが? 顔を上げろ。お前の呼び方も教えろ。硬くなっている口調もどうにかしろ。それがお前のなら構わないが」

 やめてくれ。苛立った声で心にぶっ刺さることを言わないでくれ。

(なんなんだよマジで)

 目を覚ました時、とんでもなく不機嫌そうなカオで睨まれたから、ある意味やらかしたと思ったのに。

(やらかしたことには変わりないけど)

 何に苛立ってるのか分かんなくなってくるよ?

 手を洗う凪咲は内心で叫び、舌に乗りかけた勘違いしそうな疑問を呑み込む。

「顔は、えと、はい、うん。泣いちゃったので、あまり見せられる顔ではないかな、と」

 一時間も見せてしまいましたが。
 頭の中で言いながらエプロンを着け、冷蔵庫や棚から食材を出していく。

(一時間寝ちゃってたからもう十二時近いし、お昼ごはん作るつもりで)

 今ある食材で手早く作れてなるべく美味しくて栄養も摂れて、あと念の為に胃に優しいもので。

 考えている凪咲へ、

「半刻程度、一時間ほどか。その顔で寝ていたというのに、今さら何を言う」
「はいすみません。作るのお昼ごはんで良いですか。苦手な食べ物とかアレルギーとかありますか」

 全くもってその通りだよ、こんちくしょう。

 呆れたように言わないでくれ。

「美味い昼飯なら構わない。苦手なモノはない、アレルギーとやらも恐らくない。お前の呼び方を早く教えろ。寝顔を眺める趣味などない、めつける趣味もない。それほど見ていた訳でもない。ここまで言えば、少しは気が楽になるか、阿呆」

 苛立ったまま、俺を安心させようとしないでくれるかな。

(てか)

 それならなんで、不機嫌そうに睨まれてたのかな? 俺は。

(聞いちゃいけない気がする)

 聞いたらまた、なんか心にぶっ刺さることを言われる気がする。

(もう、あれだ)

 ぶっ刺される覚悟を決めよう。
 いちいち狼狽えてたら、こっちの身が保たない。精神が保たない。
 相手は人間じゃないし。

(対人用のモノも)

 今取っ払えるモノだけでも、全部取っ払ってしまえ。

「ちょっと一回、深呼吸させて」

 凪咲は彼の返事を待たず、その場で深呼吸して──切り替えた。

「色々、了解。気にかけてくれてありがとう」

 彼へ『本心からの笑顔』を向ける。
 呆気にとられている様子だけど、彼は勘が鋭そうだったし。

(俺がずっと、下手な処世術でやり取りしてたのも分かってたんだろうな)

 だから、「本心から来る普通の笑顔」なんかで、呆気にとられてしまったんだろう。

(それともアレかな)

 最近始めた対人用の見た目、変えた髪色が馴染んでいない可能性がある凪咲が「本心からの笑顔」を向けたから。

(余計、変に思えるのかな)

 でも。

(髪色戻すの、時間かかるし)

 妙に見えていても我慢してくれませんか。

 思った凪咲が「本心からの苦笑」を浮かべると、呆気にとられていた彼は動揺したように耳と尻尾を動かし、本能が警戒を示すように素早く半歩ほど後ずさった。
 見開かれた銀色の瞳からは、動揺を超えて混乱している色が映っている。

 察しが良くて勘が鋭くて、こんな自分を気にかけてくれる彼からすれば「人が変わった」ように見えるんだろう。

 松崎凪咲じぶんがそれだけ「世渡りが下手」だという、ただの事実。

(気持ちは分かるけど)

 優しいあなたを助けたいし、俺も下手なりに頑張るから、ほんの少しでも慣れてくれたりすると助かる、嬉しいかな。

 苦笑した凪咲は、自分を動揺したまま見つめる彼から視線を外す。
 冷蔵庫や棚から出して調理台に並べた食材と向き合い「今あるモノで手早く作れる、できるだけ美味しくてなるべく栄養があって胃にも優しめな、お昼ごはんになるもの」を作っていく。

 無言でいるより何か話していたほうが、混乱させてしまった彼の気も少しは解れるだろうか。

 優しいあなたと。

(友人まではいけなくても)

 知人くらいにはなりたいし。

 思って、凪咲は口を開く。

「俺の呼び方、名前もね。俺、ちょっと面倒でさ」

 凪咲という名前も、松崎という苗字も。

「あなたの言う通りに、呼ばれると微妙な気分になっちゃうけど、完全に苦手とか嫌いとかでもないんだ」

 できることなら。

「好きになれたらなって、思っちゃったりもするくらいなんだよ」

 そんな日は、永遠に来ない。来てはならない。

(優しいあなたに)

 伝えるべきではない。伝えてはならない。
 だから。

「あなたの好きなように呼んで。あなたがどう呼ばれたいかも、良かったら教えて」

 後ろから、髪をかき回す音とため息らしき音を聞く。

「……どこまでお人好しなのか、お前は」

 呆れたように言った彼が。

「どこぞの誰かと呆れるほど似通ったことを考える奴だ。呆れるほど不安になる」

 とても小さな声で続けた言葉は、自分に向けたモノではないだろう。

(どこぞの誰かさんのこと、本当に大事なんだなぁ)

 自分が寝ぼけてた時にも「どこぞの誰か」さんを大事に思っていることを言っていた気がするなと、凪咲は思い返した。

(優しいあなたと)

 あなたが大事に思う「どこぞの誰か」さんのためにも。
 あなたを助けるよ、できる限りのことをするよ。

「俺がお人好しかどうかは、ちょっと疑問があるけど」
「疑問を持つな。お人好しの阿呆が」

 苛立った彼の声がすぐ後ろから聞こえて、凪咲の肩が大きく跳ねる。

「ごめん、ちょっとびっくりした。そこに居るって思ってなくて」

 声がしたほうへ顔を向けたら、少し驚いている彼が居た。安心できて、固くなりかけていた表情が安堵から来る微笑みに変わる。
 足音がしなかったのは、浮かんで移動したのか、幽霊、霊魂、魂だけの状態だからか。

(なんにしても)

 ここに居るのは、凪咲じぶんと彼だけだ。怯える必要はない。

「……すまない、驚かせてしまったか。気を付けよう」

 真面目だ。真面目で素直で、本当に次から気をつけるつもりがあると分かる表情と声と雰囲気だ。

(切り替えたのに)

 心にぶっ刺さりそうです、どうしてくれる。

「まあ、うん。俺もびっくりしすぎたところ、あるから。それで、あなたをどう呼べばいい? あ、服も、これ作り終わったら持ってくるね」

 凪咲は食材へ向き直り、仕上げにかかっていた調理を再開した。

(これ作って、着れそうな服持ってきて)

 それからお風呂の準備と、今できる着物の手入れと、なんか理由つけて店に連絡して彼の着物をちゃんと──

 そこまで考えて、ふと。

「あのさ、今日どうする? 泊まる? ここで暮らして大丈夫ってのは本当だし、遠慮して欲しくないけど、帰る場所とか──」
「俺の呼び方はお前が決めろ。先ほどから見ていて思うが、何を作っているかさっぱり分からない。汁物らしき何かだという──」

「ん?」「あ?」

 同時に話し始めてしまい、それも結構長めに喋ってからまた同時に気づく。そんな自分も彼も同時に止まったと理解した凪咲は、どうしてか。

「──ふっ、……くっ、ごめ、ちょっと……」

 どうしてか、急に可笑しく思えて。こみ上げてくる笑いを堪らえようと、口元に手の甲を当てる。

「……笑いたいなら思い切り笑え。笑いたくないなら話は別だが」

 呆れた声での真面目な言葉に、

「ちょっ、と……ヤバ……ムリ……それは笑う……」

 笑いそうになるのを堪えきれない、抑え込めない、それらをする必要もない。

(なら、もう)

 笑ってしまえ。

 凪咲は素早く、食材全てを入れた鍋のフタを固定し調節した火が自動で消えるようタイマーをセットしてから床に座り、

「も、ホント、ムリ……!」

 声を上げて思いきり笑った。

(こんな、大笑いみたく笑うの)

 いつぶりだろう。てか、今まであったっけ。
 辿っても、それらしい記憶がない。

(あ、そっか)

 声を上げて笑うことを「求められた」ことも「許可された」こともなかった。

(俺、今)

 人生で初めて「声を上げて大笑いする」経験をしているのか。

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