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肩を貸し、何とか歩かせて上階の一室へ辿り着く。いっそのこと抱き上げられたら簡単だったのだろうが、目立つことは避けたかった。何も起こりはしないが、私との仲を邪推されるような噂が立って彼女に迷惑をかけたくなかったからだ。
そう、彼女を休憩させるだけ。しばらくしても彼女が目を覚まさないようなら、ここに泊まってもらって、私は帰ればいい。
部屋にある簡素だが清潔そうなベッドに彼女を横たえる。仰向けになった彼女は無防備に眠り続けている。その頰には涙の跡。こんなに魅力的な女性を傷付けて振った男に、怒りと嫉妬を覚える。それと同時に湧き上がる温かい気持ちにも、もう気付いている。
私は、この人が好きだ。
「……う、うん」
「!」
寝返りをうつ彼女に飛び上がる程驚く。心の声が聞こえてしまったのかと思った。
乱れた髪で顔が見えなくて、無意識に手を伸ばし、そおっとその髪を避ける。自分の気持ちを自覚したら、その寝顔でさえ眩しい。
もっと触れたい。
欲張った気持ちが伝わったかのように、彼女がまた身動ぎした。
眉間に寄る皺を指で解すように撫でると、少し表情が和らぎ、思わずつられてこちらの顔も緩む。駄目だ、これは。
離れ難くて、このままでは帰るタイミングを逸してしまう、と手を引っ込める。外から施錠して帰ろう。枕元に書置きを残しておけばいいだろう。
そう思ったのと、彼女の目がゆっくり開いたのは同じタイミングだった。
虚ろな視線が彷徨って、最終的に私の顔を認識したようだ。何と言われるか正直身構えた私に投げかけられたのは思ってもみなかった言葉。
「わたしをすてるの?」
それは元婚約者に対する言葉だったのかも知れない。でも自分に向けられたように感じた私には、それを否定せずにはいられなかった。
「捨てたりしない」
「うそ。わたしはいらないんでしょう?」
目に浮かぶ涙。もう泣かせたくない。
「嘘じゃない。捨てたりしない。君のことが必要だ」
「でも、いまどこかにいこうとしてた。わたしのこといらないから」
「いらなくなんかない。どこにも行かないよ」
私だと認識しているのだろうか。そう思いながら、伸ばされた手を握り返す。
「カルティさん、私が誰かわかっている?」
視線を真正面から見返し確認する。とろんとした瞳ではあるが、視線は合っている。
「わかっていますよ、だうにーかちょう。わたしのじょうしの」
自分が認識されていることにホッとする。彼女が今こうやって縋っているのは、酔って元婚約者と混同しているのではなく、私なのだ。そう思うと心の中が温かくなる。
「そう、ダウニー。リヒテル・ダウニーだ」
念押しするよう名を告げると、彼女はその可愛らしい唇で、私のフルネームを繰り返した。普段「ダウニー課長」としか呼ばれないので、ファーストネームを呼ばれるのはとても新鮮で胸が高まる。
「私には君が必要だ。できればずっと傍にいたい」
そう告げれば、一瞬不思議そうな顔をし、次には不機嫌そうに顔を顰めた。
「うそだ。こんなかわいげのないわたしといっしょにいたいはずない」
「そんなことない。君は、その、とても魅力的だよ」
女性を褒め慣れていない私には語彙が足りない。もっと上手く伝えたいのに。
その少しの間を不誠実に捉えたのか、彼女の表情は曇る。
「うそ。だったらふられるわけない」
「君の元婚約者が見る目がなかっただけだ」
「うそだ。だうにーかちょうみたいにもてるいけめんがわたしなんているはずない!」
モテるイケメン。そう思われていたことをちょっと嬉しく思う。これは脈はあるのか?
「君以外にモテる必要はないんだ。私は君がいい」
「さっきわたしをおいていこうとしたくせに」
彼女の手が私の上着の裾を掴んでいる。
「どこにも行かないよ」
「ほんとうに?」
「ああ、本当に」
不機嫌そうな表情が、ゆっくりと花開くように緩んで笑顔に変わる。
「やったあ、ふふ、うれし」
酔っているからなのか眠たいからなのか、舌足らずで喜ぶ様は心臓に悪いほど可愛い。普段の仕事のできる彼女とのギャップで余計に。
「じゃあねえ」
彼女は無邪気に両手をこちらに向けて広げてみせた。
「ぎゅうってして」
「……いや、それはちょっと今は。カルティさん、酔っているでしょう?」
自分の理性が天秤にかけられている。
「よってません! やっぱり、うそ、なの?」
「いや、嘘じゃない!」
「じゃ、ぎゅうってしてください」
ちょっと丁寧な言葉が普段の彼女と重なり、ぐ、と自分でも何だかわからない衝動を堪える。ハグくらいなら大丈夫だと、自分に言い聞かせながら、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。
こちらを見る彼女の中に、可愛さだけでなく、女性の色香も感じ取ってしまい、とりあえず留まった。駄目だ、多分これは私の理性が持たない。酔っている彼女が素面になってから、ちゃんと仕切り直すべきだ。
私は彼女の手を握り、床に膝をついた。怪訝そうにこちらを見る彼女の目に不安を感じとり、慌てて言葉を発した時には、言おうとしていたこととは全く違うことを口走っていた。
「カルティさん、私と結婚しよう! いや、結婚を前提にお付き合いして欲しい!」
きょとんとした目で見返す彼女は、一瞬呆けた顔でこちらを凝視してから、へにゃりと笑った。
「はい。こちらこそよろしくおねがいします」
お互い素面になってから仕切り直す、そう考えたはずなのに、彼女が自分を受け入れてくれた喜びで、一瞬にしてそれを忘れてしまう。そう、きっと私も少なからず酔っていたのだろう。
でも、私にとって、その場の勢いだけではない。本気だ。
私は今度こそ、迷わず彼女をぎゅうっと抱きしめた。いい匂いやら柔らかさやら可愛い笑い声に、理性はいとも容易く決壊した。
そう、彼女を休憩させるだけ。しばらくしても彼女が目を覚まさないようなら、ここに泊まってもらって、私は帰ればいい。
部屋にある簡素だが清潔そうなベッドに彼女を横たえる。仰向けになった彼女は無防備に眠り続けている。その頰には涙の跡。こんなに魅力的な女性を傷付けて振った男に、怒りと嫉妬を覚える。それと同時に湧き上がる温かい気持ちにも、もう気付いている。
私は、この人が好きだ。
「……う、うん」
「!」
寝返りをうつ彼女に飛び上がる程驚く。心の声が聞こえてしまったのかと思った。
乱れた髪で顔が見えなくて、無意識に手を伸ばし、そおっとその髪を避ける。自分の気持ちを自覚したら、その寝顔でさえ眩しい。
もっと触れたい。
欲張った気持ちが伝わったかのように、彼女がまた身動ぎした。
眉間に寄る皺を指で解すように撫でると、少し表情が和らぎ、思わずつられてこちらの顔も緩む。駄目だ、これは。
離れ難くて、このままでは帰るタイミングを逸してしまう、と手を引っ込める。外から施錠して帰ろう。枕元に書置きを残しておけばいいだろう。
そう思ったのと、彼女の目がゆっくり開いたのは同じタイミングだった。
虚ろな視線が彷徨って、最終的に私の顔を認識したようだ。何と言われるか正直身構えた私に投げかけられたのは思ってもみなかった言葉。
「わたしをすてるの?」
それは元婚約者に対する言葉だったのかも知れない。でも自分に向けられたように感じた私には、それを否定せずにはいられなかった。
「捨てたりしない」
「うそ。わたしはいらないんでしょう?」
目に浮かぶ涙。もう泣かせたくない。
「嘘じゃない。捨てたりしない。君のことが必要だ」
「でも、いまどこかにいこうとしてた。わたしのこといらないから」
「いらなくなんかない。どこにも行かないよ」
私だと認識しているのだろうか。そう思いながら、伸ばされた手を握り返す。
「カルティさん、私が誰かわかっている?」
視線を真正面から見返し確認する。とろんとした瞳ではあるが、視線は合っている。
「わかっていますよ、だうにーかちょう。わたしのじょうしの」
自分が認識されていることにホッとする。彼女が今こうやって縋っているのは、酔って元婚約者と混同しているのではなく、私なのだ。そう思うと心の中が温かくなる。
「そう、ダウニー。リヒテル・ダウニーだ」
念押しするよう名を告げると、彼女はその可愛らしい唇で、私のフルネームを繰り返した。普段「ダウニー課長」としか呼ばれないので、ファーストネームを呼ばれるのはとても新鮮で胸が高まる。
「私には君が必要だ。できればずっと傍にいたい」
そう告げれば、一瞬不思議そうな顔をし、次には不機嫌そうに顔を顰めた。
「うそだ。こんなかわいげのないわたしといっしょにいたいはずない」
「そんなことない。君は、その、とても魅力的だよ」
女性を褒め慣れていない私には語彙が足りない。もっと上手く伝えたいのに。
その少しの間を不誠実に捉えたのか、彼女の表情は曇る。
「うそ。だったらふられるわけない」
「君の元婚約者が見る目がなかっただけだ」
「うそだ。だうにーかちょうみたいにもてるいけめんがわたしなんているはずない!」
モテるイケメン。そう思われていたことをちょっと嬉しく思う。これは脈はあるのか?
「君以外にモテる必要はないんだ。私は君がいい」
「さっきわたしをおいていこうとしたくせに」
彼女の手が私の上着の裾を掴んでいる。
「どこにも行かないよ」
「ほんとうに?」
「ああ、本当に」
不機嫌そうな表情が、ゆっくりと花開くように緩んで笑顔に変わる。
「やったあ、ふふ、うれし」
酔っているからなのか眠たいからなのか、舌足らずで喜ぶ様は心臓に悪いほど可愛い。普段の仕事のできる彼女とのギャップで余計に。
「じゃあねえ」
彼女は無邪気に両手をこちらに向けて広げてみせた。
「ぎゅうってして」
「……いや、それはちょっと今は。カルティさん、酔っているでしょう?」
自分の理性が天秤にかけられている。
「よってません! やっぱり、うそ、なの?」
「いや、嘘じゃない!」
「じゃ、ぎゅうってしてください」
ちょっと丁寧な言葉が普段の彼女と重なり、ぐ、と自分でも何だかわからない衝動を堪える。ハグくらいなら大丈夫だと、自分に言い聞かせながら、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。
こちらを見る彼女の中に、可愛さだけでなく、女性の色香も感じ取ってしまい、とりあえず留まった。駄目だ、多分これは私の理性が持たない。酔っている彼女が素面になってから、ちゃんと仕切り直すべきだ。
私は彼女の手を握り、床に膝をついた。怪訝そうにこちらを見る彼女の目に不安を感じとり、慌てて言葉を発した時には、言おうとしていたこととは全く違うことを口走っていた。
「カルティさん、私と結婚しよう! いや、結婚を前提にお付き合いして欲しい!」
きょとんとした目で見返す彼女は、一瞬呆けた顔でこちらを凝視してから、へにゃりと笑った。
「はい。こちらこそよろしくおねがいします」
お互い素面になってから仕切り直す、そう考えたはずなのに、彼女が自分を受け入れてくれた喜びで、一瞬にしてそれを忘れてしまう。そう、きっと私も少なからず酔っていたのだろう。
でも、私にとって、その場の勢いだけではない。本気だ。
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