31 / 66
第31話 クラリッサ=リドグレイ 婚約破棄される
しおりを挟む
『ガラスの婚約』
―紅き薔薇、契りの終焉―
クラリッサ=リドグレイは、真紅のドレスを身にまとい、王都の貴族街にあるサロンの個室でひとり座っていた。
銀糸の刺繍が施された絹のドレス。完璧な化粧。欠けのない笑み。
けれど、胸の奥はざわついていた。
ローマン=アルヴィス。
彼と最後に顔を合わせたのは、数日前。いつもなら週に三度は顔を見せてくれるはずの彼が、今は何の連絡もよこさない。
そして今朝、彼から届けられた手紙。
《本日、昼下がり。サロンにて会いたい》
その文面は丁寧だったが、どこかよそよそしい筆跡に、クラリッサは嫌な予感を拭えなかった。
カチャリとドアの開く音がする。
彼が来た。
赤いマントに金糸の縁取り、切れ長の瞳と整った顔立ち。
文武両道と名高い王都の青年貴族――ローマン=アルヴィス。かつて、誰もが羨んだ二人だった。
「お待たせしました、クラリッサ嬢」
「ええ、ずいぶんと……ご無沙汰だったわね?」
努めて微笑む。だが、ローマンは目を合わせようとしなかった。
クラリッサの胸が、ギリ、と音を立てて軋む。
「……何の用? まさか、久々にお茶でも、と?」
「……いえ。今日は、大切なお話があって参りました」
ローマンは深く息を吐き、静かに告げた。
「――婚約を、破棄させていただきたいのです」
その言葉が空気を切り裂いた。
「……何ですって?」
「繰り返します。クラリッサ=リドグレイ嬢との婚約を、正式に取りやめたいと考えています」
目の前の景色が、ぐらりと揺れる。
「どうして……? 私の何が、いけなかったの?」
クラリッサは必死に問い詰める。声が震えるのを抑えられなかった。
ローマンは黙ったまま、彼女を見つめていた。
その瞳に、かつての優しさはなかった。
「トリノの件でしょう?」
「……関係は、あります」
ローマンの声は冷静だった。
「トリノ嬢が正式にリドグレイ伯爵家の後継者であると、王家の文書でも確認されました。貴族として、私は“未来ある家”と結ぶ必要がある」
「……つまり、私が“未来のない女”だと、そう言いたいのね」
「そういう言い方はしたくありません」
「だったら何!? 私は、ずっとあなたの隣にふさわしくあろうと――」
言葉が喉に詰まる。
「私が誰より美しく、聡明で、社交界で注目を集めていたこと……あなたが一番知ってるはずでしょう!?」
「確かに、あなたは完璧でした。ですが……それは、仮面のようにも見えた」
「――何ですって?」
「あなたは、弱さを見せない。でも、人の弱さも認めない」
その言葉が、刃のように突き刺さる。
「トリノ嬢は……たしかに魔力はない。けれど、あの子は人を見下さない。使用人にも、笑いかける。音楽隊の仲間を、本気で思っている。そんな姿を、私は初めて見たんです」
「じゃあ、あなたは私より“あの子”を選ぶの?」
クラリッサは信じられなかった。
“灰かぶり令嬢”と呼ばれた少女。
その娘に、自分が負けたという現実。
「ねえ……ローマン。あなたが私を選ばなかったら……私は、誰が見てくれるの?」
泣きたくなかった。でも、瞳の奥が滲んでいく。
「……クラリッサ。私たちは、もう別の道を歩むべきです」
「子供が……いるのよ」
震える声で、クラリッサは言った。
「あなたとの子よ。だから、婚約破棄なんて……できるはずがないわ」
ローマンの瞳が細くなる。
「……それは、嘘だ」
「なっ……!」
「すでに医師に確認しました。あなたが受診したという医師も、“懐妊は確認できなかった”と証言しています」
言葉が出なかった。
――見抜かれていた。
「……あなたは、焦っていたのだと思います」
ローマンは立ち上がり、帽子を取って静かに頭を下げた。
「さようなら、クラリッサ嬢。あなたの未来に、幸多からんことを」
その姿は、凛としていた。
そしてもう二度と、自分の隣には戻らないと、はっきり分かった。
クラリッサは、立ち尽くした。
薔薇のドレスが、絹擦れの音を立てて震えた。
頬に涙が伝っても、拭う手はなかった。
完璧であろうとした“塔の薔薇”は、静かに、音もなく散っていった。
―紅き薔薇、契りの終焉―
クラリッサ=リドグレイは、真紅のドレスを身にまとい、王都の貴族街にあるサロンの個室でひとり座っていた。
銀糸の刺繍が施された絹のドレス。完璧な化粧。欠けのない笑み。
けれど、胸の奥はざわついていた。
ローマン=アルヴィス。
彼と最後に顔を合わせたのは、数日前。いつもなら週に三度は顔を見せてくれるはずの彼が、今は何の連絡もよこさない。
そして今朝、彼から届けられた手紙。
《本日、昼下がり。サロンにて会いたい》
その文面は丁寧だったが、どこかよそよそしい筆跡に、クラリッサは嫌な予感を拭えなかった。
カチャリとドアの開く音がする。
彼が来た。
赤いマントに金糸の縁取り、切れ長の瞳と整った顔立ち。
文武両道と名高い王都の青年貴族――ローマン=アルヴィス。かつて、誰もが羨んだ二人だった。
「お待たせしました、クラリッサ嬢」
「ええ、ずいぶんと……ご無沙汰だったわね?」
努めて微笑む。だが、ローマンは目を合わせようとしなかった。
クラリッサの胸が、ギリ、と音を立てて軋む。
「……何の用? まさか、久々にお茶でも、と?」
「……いえ。今日は、大切なお話があって参りました」
ローマンは深く息を吐き、静かに告げた。
「――婚約を、破棄させていただきたいのです」
その言葉が空気を切り裂いた。
「……何ですって?」
「繰り返します。クラリッサ=リドグレイ嬢との婚約を、正式に取りやめたいと考えています」
目の前の景色が、ぐらりと揺れる。
「どうして……? 私の何が、いけなかったの?」
クラリッサは必死に問い詰める。声が震えるのを抑えられなかった。
ローマンは黙ったまま、彼女を見つめていた。
その瞳に、かつての優しさはなかった。
「トリノの件でしょう?」
「……関係は、あります」
ローマンの声は冷静だった。
「トリノ嬢が正式にリドグレイ伯爵家の後継者であると、王家の文書でも確認されました。貴族として、私は“未来ある家”と結ぶ必要がある」
「……つまり、私が“未来のない女”だと、そう言いたいのね」
「そういう言い方はしたくありません」
「だったら何!? 私は、ずっとあなたの隣にふさわしくあろうと――」
言葉が喉に詰まる。
「私が誰より美しく、聡明で、社交界で注目を集めていたこと……あなたが一番知ってるはずでしょう!?」
「確かに、あなたは完璧でした。ですが……それは、仮面のようにも見えた」
「――何ですって?」
「あなたは、弱さを見せない。でも、人の弱さも認めない」
その言葉が、刃のように突き刺さる。
「トリノ嬢は……たしかに魔力はない。けれど、あの子は人を見下さない。使用人にも、笑いかける。音楽隊の仲間を、本気で思っている。そんな姿を、私は初めて見たんです」
「じゃあ、あなたは私より“あの子”を選ぶの?」
クラリッサは信じられなかった。
“灰かぶり令嬢”と呼ばれた少女。
その娘に、自分が負けたという現実。
「ねえ……ローマン。あなたが私を選ばなかったら……私は、誰が見てくれるの?」
泣きたくなかった。でも、瞳の奥が滲んでいく。
「……クラリッサ。私たちは、もう別の道を歩むべきです」
「子供が……いるのよ」
震える声で、クラリッサは言った。
「あなたとの子よ。だから、婚約破棄なんて……できるはずがないわ」
ローマンの瞳が細くなる。
「……それは、嘘だ」
「なっ……!」
「すでに医師に確認しました。あなたが受診したという医師も、“懐妊は確認できなかった”と証言しています」
言葉が出なかった。
――見抜かれていた。
「……あなたは、焦っていたのだと思います」
ローマンは立ち上がり、帽子を取って静かに頭を下げた。
「さようなら、クラリッサ嬢。あなたの未来に、幸多からんことを」
その姿は、凛としていた。
そしてもう二度と、自分の隣には戻らないと、はっきり分かった。
クラリッサは、立ち尽くした。
薔薇のドレスが、絹擦れの音を立てて震えた。
頬に涙が伝っても、拭う手はなかった。
完璧であろうとした“塔の薔薇”は、静かに、音もなく散っていった。
290
あなたにおすすめの小説
【本編完結済】夫が亡くなって、私は義母になりました
木嶋うめ香
恋愛
政略で嫁いだ相手ピーターには恋人がいたそうです。
私達はお互いの家の利益のための結婚だと割りきっていたせいでしょうか、五年経っても子供は出来ず、でも家同士の繋がりの為結婚で離縁も出来ず、私ダニエラは、ネルツ侯爵家の嫁として今後の事を悩んでいました。
そんな時、領地に戻る途中の夫が馬車の事故で亡くなったとの知らせが届きました。
馬車に乗っていたのは夫と女性と子供で、助かったのは御者と子供だけだったそうです。
女性と子供、そうです元恋人、今は愛人という立場になった彼女です。
屋敷に連れてこられたロニーと名乗る子供は夫そっくりで、その顔を見た瞬間私は前世を思い出しました。
この世界は私が前世でやっていた乙女ゲームの世界で、私はゲームで断罪される悪役令嬢の母親だったのです。
娘と一緒に断罪され魔物に食われる最後を思い出し、なんとかバッドエンドを回避したい。
私の悪あがきが始まります。
第16回恋愛小説大賞 奨励賞頂きました。
応援して下さった皆様ありがとうございます。
転生先がヒロインに恋する悪役令息のモブ婚約者だったので、推しの為に身を引こうと思います
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【だって、私はただのモブですから】
10歳になったある日のこと。「婚約者」として現れた少年を見て思い出した。彼はヒロインに恋するも報われない悪役令息で、私の推しだった。そして私は名も無いモブ婚約者。ゲームのストーリー通りに進めば、彼と共に私も破滅まっしぐら。それを防ぐにはヒロインと彼が結ばれるしか無い。そこで私はゲームの知識を利用して、彼とヒロインとの仲を取り持つことにした――
※他サイトでも投稿中
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢
岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか?
「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」
「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」
マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。
心が折れた日に神の声を聞く
木嶋うめ香
ファンタジー
ある日目を覚ましたアンカーは、自分が何度も何度も自分に生まれ変わり、父と義母と義妹に虐げられ冤罪で処刑された人生を送っていたと気が付く。
どうして何度も生まれ変わっているの、もう繰り返したくない、生まれ変わりたくなんてない。
何度生まれ変わりを繰り返しても、苦しい人生を送った末に処刑される。
絶望のあまり、アンカーは自ら命を断とうとした瞬間、神の声を聞く。
没ネタ供養、第二弾の短編です。
牢で死ぬはずだった公爵令嬢
鈴元 香奈
恋愛
婚約していた王子に裏切られ無実の罪で牢に入れられてしまった公爵令嬢リーゼは、牢番に助け出されて見知らぬ男に託された。
表紙女性イラストはしろ様(SKIMA)、背景はくらうど職人様(イラストAC)、馬上の人物はシルエットACさんよりお借りしています。
小説家になろうさんにも投稿しています。
【完結済み】婚約破棄致しましょう
木嶋うめ香
恋愛
生徒会室で、いつものように仕事をしていた私は、婚約者であるフィリップ殿下に「私は運命の相手を見つけたのだ」と一人の令嬢を紹介されました。
運命の相手ですか、それでは邪魔者は不要ですね。
殿下、婚約破棄致しましょう。
第16回恋愛小説大賞 奨励賞頂きました。
応援して下さった皆様ありがとうございます。
リクエスト頂いたお話の更新はもうしばらくお待ち下さいませ。
【完結】旦那様、どうぞ王女様とお幸せに!~転生妻は離婚してもふもふライフをエンジョイしようと思います~
魯恒凛
恋愛
地味で気弱なクラリスは夫とは結婚して二年経つのにいまだに触れられることもなく、会話もない。伯爵夫人とは思えないほど使用人たちにいびられ冷遇される日々。魔獣騎士として人気の高い夫と国民の妹として愛される王女の仲を引き裂いたとして、巷では悪女クラリスへの風当たりがきついのだ。
ある日前世の記憶が甦ったクラリスは悟る。若いクラリスにこんな状況はもったいない。白い結婚を理由に円満離婚をして、夫には王女と幸せになってもらおうと決意する。そして、離婚後は田舎でもふもふカフェを開こうと……!
そのためにこっそり仕事を始めたものの、ひょんなことから夫と友達に!?
「好きな相手とどうやったらうまくいくか教えてほしい」
初恋だった夫。胸が痛むけど、お互いの幸せのために王女との仲を応援することに。
でもなんだか様子がおかしくて……?
不器用で一途な夫と前世の記憶が甦ったサバサバ妻の、すれ違い両片思いのラブコメディ。
※5/19〜5/21 HOTランキング1位!たくさんの方にお読みいただきありがとうございます
※他サイトでも公開しています。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる