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太子薨去(622) その②
片岡の旅人
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厩戸の死より8年前――
613年12月1日夕方、厩戸は片岡山(斑鳩から西へ2~3kmほど離れたあたりにある山)の中で、一人の男が倒れているのを見つけた。
「行き倒れのようだ、見てやれ。」
と厩戸は左右に命じた。昔は多かったが、ここ10年ほどは見かけない光景であった。
その男はすでに反応が鈍く、息もたえだえであった。従者たちは、もう助からなそうだ、という感じでわずかに首を振った。
男は変わった風貌をしており、見かけない着物を着ていた。言葉も通じない様子であった。どうも異国から来たものではないか、と従者たちは話し合った。
厩戸は馬を降りて近寄り、食べ物や水を口に含ませようとしたが、男は力なく首を振るのみであった。ならばと、斑鳩宮まで連れて帰ろうとしたが、男は構ってくれるな、この場にいさせてくれ、という仕草をして、そのまま横たわった。
夕闇が近づき、風が冷たかった。厩戸はせめてもと、着ていた上着を脱いで男にかけてやった。男は目を閉じ、やがて厩戸の言葉にも反応しなくなった。
「やすらかに眠れ。」
と声をかけながら、その場を後にした。
翌日、厩戸は昨日の男を見に行かせた。すでに亡骸は冷たくなっていた。厩戸は、その男を手厚く葬るように指示をした。亡骸は草花のように軽く、葬ったものは不思議がった。
それから数日後の夜、厩戸は居室で文章を書いていた。
「太子と呼ばれているお方よ、少しよろしいか。」と声がした。
目を上げると、いつの間にか男が立っていた。あっと思った。片岡山で倒れていた男であった。
「先日はどうもお世話になりました。」
「あなたは…?」
「はるか遠くからやってきた者でございます。この時空に来たついでに貴方とも会っておこうと思い、仮の肉体を山奥に捨てようとしていたところを、間が悪く貴方に見つかってしまい、とんだご迷惑をおかけしてしまいました。」
「そういうことでありましたか…私に会いに来たとはどのようなご用件が?」
「はい、単刀直入に申し上げますと、近い将来、貴方がこの国でなすべきことが一段落したら、私とともに時空(とき)の旅にでませんか?」
「時空の旅とは?」
気付くと、周りは何もない空間となっていた。
「時空を超えた存在になり、いろいろな姿を変えて世界のさまざまな時代、さまざまな場所に出現する。大事な場面に立ちあい、時には人々を導き、教え諭す。あるいはただ見守る。そのような旅です。」
「ああ…それならば見たことがあります。」
「はい、貴方も何度か、そういう者たちを見かけられたり、何かを教えられたりしたことがあるはずです。」
「非常に興味があります。ですが、まだ私はこの時空にやり残したことがあります。今はもう少しこの国のことを見守っていたいのです。」
「はい、今すぐにとは申しません。整理しておくべきこともありましょう。また折を見て誘いに参りますので、そのときはよろしくお考えください。」
突如、厩戸の目の前に何かの光景が広がった。並んだ無数の光点、その一つ一つが意味をもっていた。意識を向けると、その意味がイメージとして見えた。それが無数に並んでいた。
(マンダラ…?)
その光景が急に回りだし、空間の一点に渦を巻きながら吸い込まれるように消えた。厩戸の居室に戻っていた。筆がころころ机の上を転がっていた。
** * * ** *** * ** ** * * **
明くる朝、厩戸は従者を呼び、もう一度、片岡の墓を見に行かせた。
「墓は触られた様子はありませんでしたが、棺を開けてみると亡骸は何もなくなっていて、ただ、太子がおかけになった服だけが棺の上にきれいに畳んでおかれていました。」
厩戸はその服を取りに行かせた。特に汚れもなかった。ただ、かすかにいい香りがした。
「時空の旅か…」
戻ってきた服を見ながら、厩戸はつぶやいた。多くの地域と時代を回って見分を広め、また多くの賢者と交わり、多くの者を救う…つねづね憧れていた生活である。
ただ、自分には、この世界・この時間でまだやっておきたいことが残っており、中途半端に終わらせたくない。それに、厩戸が急にいなくなれば母や妻は非常に悲しむであろうし、まだ若い山背も、あっという間につぶされてしまうだろう。
あの片岡の聖人は、そういう点はつらくはなかったのだろうか、いったいどのようにそういうことを処理したのだろうか?
「まだ行くことはできぬ。」
と厩戸は思わず叫んでいた。周りの者が怪訝そうに厩戸を見てきた。
613年12月1日夕方、厩戸は片岡山(斑鳩から西へ2~3kmほど離れたあたりにある山)の中で、一人の男が倒れているのを見つけた。
「行き倒れのようだ、見てやれ。」
と厩戸は左右に命じた。昔は多かったが、ここ10年ほどは見かけない光景であった。
その男はすでに反応が鈍く、息もたえだえであった。従者たちは、もう助からなそうだ、という感じでわずかに首を振った。
男は変わった風貌をしており、見かけない着物を着ていた。言葉も通じない様子であった。どうも異国から来たものではないか、と従者たちは話し合った。
厩戸は馬を降りて近寄り、食べ物や水を口に含ませようとしたが、男は力なく首を振るのみであった。ならばと、斑鳩宮まで連れて帰ろうとしたが、男は構ってくれるな、この場にいさせてくれ、という仕草をして、そのまま横たわった。
夕闇が近づき、風が冷たかった。厩戸はせめてもと、着ていた上着を脱いで男にかけてやった。男は目を閉じ、やがて厩戸の言葉にも反応しなくなった。
「やすらかに眠れ。」
と声をかけながら、その場を後にした。
翌日、厩戸は昨日の男を見に行かせた。すでに亡骸は冷たくなっていた。厩戸は、その男を手厚く葬るように指示をした。亡骸は草花のように軽く、葬ったものは不思議がった。
それから数日後の夜、厩戸は居室で文章を書いていた。
「太子と呼ばれているお方よ、少しよろしいか。」と声がした。
目を上げると、いつの間にか男が立っていた。あっと思った。片岡山で倒れていた男であった。
「先日はどうもお世話になりました。」
「あなたは…?」
「はるか遠くからやってきた者でございます。この時空に来たついでに貴方とも会っておこうと思い、仮の肉体を山奥に捨てようとしていたところを、間が悪く貴方に見つかってしまい、とんだご迷惑をおかけしてしまいました。」
「そういうことでありましたか…私に会いに来たとはどのようなご用件が?」
「はい、単刀直入に申し上げますと、近い将来、貴方がこの国でなすべきことが一段落したら、私とともに時空(とき)の旅にでませんか?」
「時空の旅とは?」
気付くと、周りは何もない空間となっていた。
「時空を超えた存在になり、いろいろな姿を変えて世界のさまざまな時代、さまざまな場所に出現する。大事な場面に立ちあい、時には人々を導き、教え諭す。あるいはただ見守る。そのような旅です。」
「ああ…それならば見たことがあります。」
「はい、貴方も何度か、そういう者たちを見かけられたり、何かを教えられたりしたことがあるはずです。」
「非常に興味があります。ですが、まだ私はこの時空にやり残したことがあります。今はもう少しこの国のことを見守っていたいのです。」
「はい、今すぐにとは申しません。整理しておくべきこともありましょう。また折を見て誘いに参りますので、そのときはよろしくお考えください。」
突如、厩戸の目の前に何かの光景が広がった。並んだ無数の光点、その一つ一つが意味をもっていた。意識を向けると、その意味がイメージとして見えた。それが無数に並んでいた。
(マンダラ…?)
その光景が急に回りだし、空間の一点に渦を巻きながら吸い込まれるように消えた。厩戸の居室に戻っていた。筆がころころ机の上を転がっていた。
** * * ** *** * ** ** * * **
明くる朝、厩戸は従者を呼び、もう一度、片岡の墓を見に行かせた。
「墓は触られた様子はありませんでしたが、棺を開けてみると亡骸は何もなくなっていて、ただ、太子がおかけになった服だけが棺の上にきれいに畳んでおかれていました。」
厩戸はその服を取りに行かせた。特に汚れもなかった。ただ、かすかにいい香りがした。
「時空の旅か…」
戻ってきた服を見ながら、厩戸はつぶやいた。多くの地域と時代を回って見分を広め、また多くの賢者と交わり、多くの者を救う…つねづね憧れていた生活である。
ただ、自分には、この世界・この時間でまだやっておきたいことが残っており、中途半端に終わらせたくない。それに、厩戸が急にいなくなれば母や妻は非常に悲しむであろうし、まだ若い山背も、あっという間につぶされてしまうだろう。
あの片岡の聖人は、そういう点はつらくはなかったのだろうか、いったいどのようにそういうことを処理したのだろうか?
「まだ行くことはできぬ。」
と厩戸は思わず叫んでいた。周りの者が怪訝そうに厩戸を見てきた。
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