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二章
③
しおりを挟む次の日は厚く雲のかかった空が広がっていた。
起床してから顔を見合わせて「おはよう」の挨拶。ハリスはケロリとした顔でリアを見て笑って言った。
「今日は神殿に行こうか。明日は祈りの日だから人が多いし」
「はい。ここから遠いですか?」
朝食に手を付けながら聞くとそう間も置かずにハリスが首を振る。
「そこまで遠くはないよ。神殿は特に水気の多い滝の側にあるから」
昨日は滝を見たあと濡れていたこともあってそう遠くない宿に入った。きっとそこまで歩くような場所ではないんだろう。
「神殿に行って帰りにお店を見ようか?昨日羽織が飛んでしまったし」
「はい、せめてフードは欲しいかな……」
このままじゃ何かあった時に隠すことも出来やしない。不安そうに髪に触れるリアに、ハリスが安心させるように頷いた。
ノストグの住居はネバスの物とそう変わらない。レンガ造りの家たちはネバスは暖かな色味のものが多かったが、ノストグは薄い水色や藍色など寒色がよく見られる。水と共存している街だからだろうか。
そして、街の至る所に大小さまざまな水路がある。細長く一列に人が座ることの出来る船で街中を移動できるような大きなものから、道路の両脇をちょろちょろと流れる大人の足幅ほどの小さなものまで。
ノストグでは、一歩外に出るとそこら中で水の音がする。
宿を出て、住宅の隙間を進んで行けばある地点で街並みが途切れ、何もない地面が続いている。
緑の神殿のように木々に埋もれているわけではなく、水の神殿は住宅の先にポツンと佇んでいた。
後ろを振り返ればすぐそこに住宅が並ぶのに、神殿を見れば世界が変わったように感じた。爽やかな朝の空気が一気に重さを増してリアにのしかかる。
神殿はどこも造りは変わらないとハリスは言ったけれど、森の深い所にあった緑の神殿とはガラリと印象が変わる。
真っ白なその姿は同じなのに、神殿を囲うように水路が引かれており、街中と同じで絶えず水音が聞こえる。
ネバスでは森の奥にあって物静かでどこか不気味に感じたれど、ノストグは逆に清廉さが強く入ることを躊躇う。
「ほら、リア」
ハリスに促されてようやく足を踏み入れた。カツンと廊下に響く高い靴音は同じだ。
真っ直ぐ廊下を抜けた先、丸い広間にはやはり大きな壁画があった。
跪く男の姿は同じだが、ネバスとは違いその視線は上を見上げている。その向かいには白い羽で宙に浮く神の姿。その手には水瓶があり、そこから流れた水が地上で川になっている。
水が流れすその絵に、昨日見た滝の様子が思い出される。あの冷たい空気を感じた気がしてふるりと体を揺らす。
―――あ、
何かが体の中に入りこんできた不思議な感覚。身体から力が抜けて目の前の壁画が揺れる。倒れるとわかってはいたが体の自由が利かなかった。
衝撃に備えようと瞳を閉じる。しかし、すぐに何かに抱き留められて想像していた痛みは訪れなかった。
「大丈夫、眠っていい」
(ああ、ハリスが受け止めてくれたんだ……)
ハリスの腕がしっかりとリアの体に回り、ゆっくりとしゃがむ。冷えた床の感触が薄いパンツ越しに肌に伝わり、限界だったリアはそのまま意識を旅立たせた。
眼を開ければ、緑の神殿で見たものと同じ、霧の立ち込めた真っ白な空間にいた。くるりと一周回って見ても、見上げても下を覗き込んでもどこかも白いだけで何もない。ただ、立っているという感覚はあるので見えないだけで地面はあるのだと思う。
以前は動揺していたが、二度目とあって今回は落ち着いている。
(これでハリスの仮説が合っていたことになるのかな……)
まだ胸に残る不安な気持ちを何とか持ち直す。今度は何を見るのかと怯えていれば、リアの正面の霧が薄くなり、そこに人影が見えた。
(この前の人だ……ってえっ!)
白い髪が後頭部で丸められていて知った姿に一度肩を落としたものの、その姿にギョッとした。
―――な、なんで裸なんだ!
相変わらず表情は見えないが、身体は丸見えだ。タオルを一枚胸元で持って垂らしているから大事な部分は見えていないが視界に悪い。
つい視線を逸らしてしまうリアは悪くないだろう。
(ああ、でも記憶の手掛かりかもしれないし……それにハリスの仮説ならあれは俺本人ってことだし見ても問題ないんじゃ……)
意気込んでもう一度瞳を向ける。
―――あれ?
青年はリアに背を向けていた。そのままどこかに足を入れる。多分お風呂、いや屋外だから温泉だろうか。そこに肩まで浸かってしまった。
一瞬しか見えなかったけれど、確かにあった。
真っ白な肌の中で、左右の肩甲骨の当たりに二つの大きな傷跡。思わず自分の体を抱きしめた。リアの背中にあんな傷跡はあっただろうか。
わからない。背中など自分では見られない。
(本当にあの青年は俺なのか……?)
では、あれは誰だと問われてもリアにはわからない。記憶がないと言うのもそうだし、何故他人の様子をリアが見ているのかもわからない。
此処はどこなのだと不安がぶり返す。視線の先では、黒髪の男が湯に飛び込んで白髪の青年に怒られている。
二人とも頭からぐっしょり濡れていて、それでも最後には笑い合っている。
笑い声が遠のいてまた霧に包まれる。早く帰りたかった。ハリスの所に帰りたい。
早く覚めないかと思うがまだ意識ははっきりとしている。何故だろう。すでに見終わったのではないのか?
不思議に思っていれば、また声が聞こえてきた。
「―――、大丈夫、怖くないさ」
「待って―――、まだ足が震えて、」
二人は今度はちゃんと衣服を着こんでいた。冬の景色だろうか。厚く服を重ねて手袋した手を繫ぎながら向かい合って二人はどこかに立っている。
(凍った水面……?)
つるつるとした氷の上を、黒髪の男は青年の手を掴み、自分は進行方向に背を向けたままゆっくりと滑っている。
白髪の青年はそれにひどく怖がっていて腰が引けている。それを見てまた男が笑うものだから少し怒ったような声で男の名を呼んだ。
いつも一緒にいるんだなぁ。とぼんやり思った。
前回はまだ緑のある暖かな草原でのことだったが、寒い中でもこうして二人でいるのだからきっと一年を通して共にいるのだろう。
青年が一度手を離して背筋を伸ばしていく。しかし、途中で足を滑らせて声を上げながら体勢を崩した。
「―――ッ!」
男が寸での所で受け止めた。抱き合うように体を密着させたまま青年は安心して体から力を抜く。
きっと青年は黒髪の男のことを随分と信頼しているのだろう。
(俺もハリスに受け止められたら勝手に力抜けちゃったもんな……)
勝手に共感して笑っていた。目の前の二人は仲睦ましいが、リアとハリスはそうではない。ちゃんと割り切ったはずなのに、何だか寂しくなった。
二人の様子に感化されたからだろうか。
抱き合ってすぐ目の前の顔にお互いが笑う。自然とそう出来るのがやはり羨ましい。
段々と二人の姿が遠ざかっていく。
ああ、目が覚めるんだなと思っていれば少しずつ眠気にも似た感覚に瞼が落ちる。
(やっぱりあの青年は俺じゃないだろうな……)
もし、リアがああやって笑い合えるとするなら、それはハリスがいい。記憶があろうとなかろうときっとそう思うだろうと何故か断言できた。
「ん、うぅ……」
「……リア」
ゆっくりと意識が戻っていく。頬を撫でているのはハリスだろうか。
「ハリス!」
「うわ、リア⁉」
勢い飛び起きてハリスに攻め寄る。
「俺の背中を見て下さい」
「せ、背中……?」
それはっきりさせられればあれがリア本人なのかわかる。驚いてギョッとした顔のままこちらを見つめるハリスがじれったくてその場でシャツを脱ごうとボタンに手をかけた。
「待て待て、リア急にどうしたんだ?」
「背中の傷を見て欲しいんです」
「背中に傷があるのか?いつ?」
リアの言葉にハリスが真剣さを増した瞳で投げかける。ああ、俺が怪我をしたわけじゃないんだ。
まずは夢の説明からと思ったけれどハリスが口を開こうとしたリアを止める。
「さすがに広間で長話は出来ない。一度買い物だけ済ませて宿に戻ろう」
その言葉に、冷静になってきた頭でリアも頷いた。
神殿からそう離れていない商店街に足を向ける。昼食時だからか飲食店は込み合っているが立ち並ぶお店の中に人はそれほど見かけない。
「ハリス、そのお店は高そうじゃ……」
「髪を隠すだけじゃなくて防寒具としても役に立つしそれなりの値段の物を買っておいて損はないと思うよ?」
「それなりの値段」をリアが払えないから言っているのに。引き留めようとするリアの手をすり抜けてカラカラと扉の鈴を鳴らしながらハリスが中に入ってしまう。
置いて行かれるのも困ると後を追ったが、入ったことをすぐに後悔した。
それほど広い店ではないが、物静かな空気と暖かな橙の照明が合わさった店内は穏やかで親しみやすさを持ちつつも、少し気後れしてしまう。
(ハリスに感じたような品の良さがある……)
華美過ぎず、しかし優雅でほおっと息をついてしまうような美しさを持つもの。ピッシリと並べられた柔らかな生地で作られた洋服たち。置かれている机や家具などは歴史を感じさせるが古くは思わない。趣があって落ち着く。
チラリと垣間見えた値札にはバクバクと心臓が跳ねるけれど。
「いらっしゃいませ」
初老の店主がこちらに眼を向けて柔らかに微笑む。和やかに挨拶を返すハリスに合わせてリアもペコリと頭を下げた。
「おや、黒い髪とは珍しい」
丸眼鏡の奥で店主の瞳が瞬く。リアが大げさに反応したからかすぐにその瞳は申し訳なさそうに目尻を落とした。
「すみません。ついお声をかけてしまいました。気分を害されたら申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。ちょっと敏感になってまして……」
「ああ、時期が時期ですからね……黒い髪ではいらぬトラブルも招きましょう」
髭を蓄えた口で「ゆっくりとご覧ください」と微笑む。それにほっとして体を抜いた。
年配の男の人に少し恐怖心もあったが、むしろこちらが申し訳なく思うほどに丁寧な所作で店主はリアたちを招き入れる。
「この子の羽織が欲しいんだ。出来れば今私が着ているようなフードがある物がいい」
「かしこまりました。それでしたら右手にいくつか似たような作りのものがあります」
示された方にはハンガーにかかって並ぶマントがいくつか見える。
ハリスは戸惑いのない動きで触れて一つ一つリアに合わせて見せた。
「生地はどれも柔らかくて良いな……丈の長いもので……色は濃くない方がリアの黒髪も映える」
一つ取っては戻し、次を手に取る。身体の上から丈や色を見ているのだろうがリアは大人しく立っていることしか出来ない。
どうしよう。ソニーさんに貰った財布の中身で買えるだろうか。それだけが心配でまともに服を吟味している余裕がない。
内心冷や汗をかいているリアを置いて、ハリスはある一点を手に取ってじっと見つめる。
気に入ったものがあったのだろうか。リアとしては途中にあったハリスと同じ臙脂色の物が気になったけれど、鏡で見たがハリスが着ている時とどうも印象が違う。
多分リアには似合わないのだろう。それ以外は特に気にかかった物はないため何でも来いと言う気分だ。出来れば金額は良心的だとありがたい。
「うん、これがいい」
そう言ってハリスが手に取っていたのは淡いベージュ色のマントだ。丈は太ももの中間あたりだろうか。前はボタンで留めることの出来る袖なしの外衣だ。
フードもついているため髪を隠せるし、ボタンなので昨日のように紐が緩んで飛んでいくということもないだろう。
「これを一つ」
「かしこまりました。今、奥から新しい物お持ちしますので少々お待ちを」
リアが値段を確認する前に店主に引き渡されてしまった。
とりあえず財布の確認をしなければと焦って鞄を漁っていれば、そのうちに店主が戻って来てハリスと話を進めていく。
「これで頼む」
「お預かりします。すぐに着ていかれますか?」
止める間もなくハリスの財布から金が出されて会計が済む。虚しく上げた手をそのまま呆然としていれば、そこで初めて店主がリアに眼を向けた。
「あ、あの、」
「着ていくよ。タグは取ってくれ」
「かしこまりました」
結局ハリスが答えてしまった。差し出されたマントを受け取る。軽くて柔らかい。
「ほらリア、羽織って」
「はい……」
お金……と思ったが店内でそれを言うのは無粋な気がして宿に帰ったら確認しようと素直に身体に羽織る。
「うん、やっぱり似合う」
まっすぐ見つめて来るハリスの瞳が満足そうに細くなる。
「よくお似合いです。今度お披露目がありますからね、そのための対策ですか?」
「お披露目……?」
リアの呟きに店主が「まだご存じではありませんか?」と首を傾げる。ハリスと共に頷けば、店主が壁にかかったカレンダーを見て続ける。
「神子様のお披露目の日程が決まったそうで……今度の週末、ちょうど一週間後ですね。ノストグにはこの日に神子様がいらっしゃるんです」
店主の言葉に、思わずハリスと顔を見合わせて目を瞬かせた。
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