【完結】『ルカ』

瀬川香夜子

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二章

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 壁に寄りかかって窓の外を見る。雨粒がガラスに当たり、小さな水滴になって視界を遮る。
 一人になった部屋で、樹ははっきりとしない外の風景を眺めていた。
 自身が暮らしていた世界とは街並みも何もかもが違う。車も走っていなければ、見慣れた電信柱、信号もない。自転車に乗って集団で帰る学生もいなければ、スーツ姿で先を急ぐサラリーマンだっていない。
 本の中で読んだような中世の時代を思わせる古い家が並び、見たことのないカラフルな髪を揺らす人々が歩いている。
 自分の知っている世界は、どこにもなかった。
(リア……)
 唯一、自分と同じ黒い髪を持った綺麗な人。
 樹よりも長く腰のあたりまで伸ばした黒髪はサラサラと視界で揺れて艶めく。青い瞳は樹とは違うが、けれど落ち着いた深い海の色を持ったあの目で見つめられて微笑まれれば息が楽になる。
 同じ年だというハリスと比べても線の細い容姿と穏やかな人柄ゆえか、どこか「母」という存在を彷彿とさせる、そんな優しい人。
―――大丈夫だよ
 この世界で、初めて樹に触れてくれた人。
 雨で視界の悪いなか必死に進んだ知らない街で、自身も雨にうたれながら樹の手を引いてくれた熱を忘れない。
 縋る様に抱き着いて、背中に回った腕の優しさを忘れない。眠れずにいた夜に、ずっと背中をさすってくれた感触を忘れない。
 ずっとずっと、樹の欲しかったものをくれた大好きな人。
 城にいた時は、誰も近寄っては来なかったから、余計に人の温もりと言うものが嬉しく感じた。

「神子様、よくお出で下さいました」

 一人の老人が言う。膝を折り、皺の寄った目尻に涙を浮かべて樹を恍惚とした表情で見上げていた。

「神子など、所詮異界の者でしかありませぬ」

 一人の老人が言う。イツキよりも上背のある大人が二本の足で威圧するように立ち、子供の自分を鋭い眼差しで見下ろしていた。

「神子よ、その力を国の為に」

 豪華な衣装を身に纏った、一人の男が言う。椅子の上で凛とした雰囲気を纏い、感情を見せぬ瞳で樹をただ見ていた。
 毎日、見知らぬ大人たちに世話をされ、代わる代わる訪れる教師から知らない勉強をさせられる。
 聞いたこともない地名。見たこともない魔法と言う現象。
 出来なかった時の落胆した瞳たち。
 あそこでは、「有田樹」を見てくれる者など誰もいなかった。
 「神子」という樹ではない誰かに期待する者、嫌悪する者、様々な感情を向けられたが、それは「樹」にではない。
「イツキくん」
(リアだけが、俺の名前を呼んでくれた)
 それだけで、自分がちゃんとここに存在しているのだと実感出来る。
 だから、リアの傍で自分は落ち着くのだと思っている。
―――それなのに
 首を傾げて窓枠にもたれさせる。先ほどまでリアに触れていた自身の手を見下ろして軽く下唇を噛んだ。
(本当にそれだけなのか……?)
 自分と同じ色の髪を持ち、唯一名前で呼んでくれる人。だからこそ樹はリアに心を開いている。しかし、心の奥で何かがざわめく。
 樹自身にですら理解できない、本能にも近い場所がリアの傍にいると波立ち、心地よく揺らぐ。
 黒い髪は、魔法を使うことが出来ないと聞いた。だから、異界から来た樹は特別なのだと。黒い髪を持ち、魔法を行使できるのは神子だけなのだとある一人の教師が熱弁していた。
 なら、どうしてリアは魔法が使える?
 教師の言葉が嘘だった?いや、リア本人も自分は特別だと言っていた。この世界では黒い髪は魔法を使えない、というのは周知の事実なのだろう。
 「特別」とはどう意味なのか。
 記憶がないというリア。森で目覚めたのは今から一ヶ月ほど前だと言っていた。
(俺がこっちに来たのもほとんど同じ……)
 同じ時期に、黒い髪を持つ人物が二人現れた。一人は王宮に、一人は人気のない森林に。記憶を失っているリアには自分がどこから来てどこで生活をしていたのか知る術はない。
―――ある一点、ハリスを除いて。
 何故、ハリスと共にいるのかと聞いた時、リアは寂しそうな顔で「仕事だから」と笑った。行方が分からなくなったリアの捜索の為にハリスが遣わされたのだと。
 今はリアの記憶の手掛かりを探るため、神殿を回っていると言っていた。そして、その道中で魔法が使えるようになったとも。
 ハリス以外にリアがこの国の住人でそこで生活していたと知る人間はいない。ハリスの発言だけしか証明できるものがない。
(本当にリアはこの国の住人なのか……?)
 もしかしたら、リアこそが「神子」なのではないか?
 話を聞くごとにその疑問は確信に変わっていく。
 もし、この世界に来た時の反動で記憶を失っていたら?神殿を回っているのは魔力を上手く発露できるようにするためではないのか?
 ハリスが、国から出された監視役でないと否定が出来るか?
 グルグルと嫌な予感だけが頭を巡る。考え出したら止まらない。
 膝を抱えて頭を埋める。もし、この予想が正しかったとしたら、俺は一体なんのためにここにいるのだろう。

「リアはどうした?」

 部屋に、自分以外の男の声が響く。ハッと跳ねるように頭を上げれば、赤い髪を濡らしたハリスが扉をくぐって帰ってきた。
 驚きで上手く回らない口で掠れながら「お風呂……」と零せば、その切れ長の瞳をスッと浴室に向けてすぐに逸らした。
 荷物からタオルを出して無造作に拭くハリスを呆然と眺める。樹の視線に気づいたのか、無感情な赤い瞳がこちらを捉えるが特に言葉をかけてくることはない。
 蛇に睨まれているような恐怖と緊張感が身体に沁みてゴクリと唾を呑みこんだ。
 ハリスは、リアがいないとまるで人形のように表情を落とす。まだ宿の者の前や第三者がいればにこやかな笑みを浮かべて応対するが、それがただ貼り付けられたものだとこの短い付き合いで樹は嫌と言うほど知ってしまった。
 樹と二人の時は、抜け落ちた表情と何を考えているか分からない瞳。そしてよほどのことが無ければ声をかけてくることもない。
 きっとリアと対している時のハリスが、ハリスにとっての楽な姿で「素」の要素を垣間見せているのだと思う。
 リアの言動に合わせてコロコロと眼の色が変わり、笑う場面こそ少ないが、人間らしい表情を作るのはリアの前だけだ。

「ねえ、ハリス」

 声をかけるのは、まだ数えられる程しかない。しかもリアがいない時に呼びかけたのは初めてだ。
 視線がこちらを向いたのを確認して「リアのことなんだけど」と呟けば、途端に相手の気配が張り詰めたのが分かった。
 見下ろされる瞳を怖いと思うが、そこに嫌悪が交じっていない分お城にいた頃よりはマシだ。

「リアってなんなの……?」
「質問の意図が分からない」

 誤魔化しているのか、本当にわからないのか。

「リアは、神子なんじゃないの?」

 表情の変化を見逃さないように瞬きもせずにいたが、樹の言葉を聞くと興味もなさそうに息をついた。

「君の言う神子ではないよ。第一リアはこの国の人間だ」
「でも、それを証明してくれるのはハリスしかいない。嘘をつかれたらわかんないよ」

 明らかに面倒そうに口がへの字に曲がった。しかし、樹だって「はい、そうですか」では終わらせられない。自分にとっては本当に大事なことだから。
 樹が引かない様子を見せれば、ハリスは大げさに息を吐きだして口を開く。
 こういう所はリアもハリスも似ている。樹を子ども扱いしてくるところ。

「確かに証明するのは俺の言葉だけだが、リアはこの国の人間だよ……カルタニアの教会でいつも子供の面倒を見て、本を読むことが好きで、花の手入れをしながら穏やかに微笑んでいる人間だった」

 懐古する瞳が柔らかく緩む。リアのことを話しているハリスの赤い色は暖かいと感じる。

「ハリスは、リアのことが好きなの?」

 虚を突かれたように赤目が丸まったのを見て胸がすく思いだ。あのハリスの表情を変えてやったって。しかしそれも一瞬のことで、すぐに目元に皺を寄せて瞳が細くなる。

「本当に子供はそういう話題が好きだな」

 今のは嫌な子ども扱いだ。やれやれと肩を落とすハリスに内心ムッと思いつつも言葉にはしなかった。

「イツキくん、お風呂出たよ~って……ハリス、おかえりなさい」
「ああ、ただいまリア」

 さっきまでの樹への態度はどこに行ったのかハリスは口元に微笑を携えてリアに返す。

「イツキくん?どうしたの?」

 二人を見つめている樹に気付いたリアがこちらに近寄る。ハリスの前を通った時、その瞳がリアの姿をずっと追っている。
 それに気付いてしまって「何だかなぁ」と釈然としない気持ちで眺めた。
 緩くまとめた髪を肩から流してタオルで水気を切りながらリアが樹の顔を窺う。目の前に来たリアの姿に、ベッドに座ったまま上体を乗り出して腕を伸ばした。

「イツキくん?濡れちゃうよ?」
「大丈夫……」

 リアの腰に抱き着いてそのまま腹に埋めるように額を当てる。お風呂上がりのせっけんの香りと普段よりも少し高い体温にほっと心が安らいだ。

「本当にどうしたの?何かあった?」
「ハリスが怖かった」
「えっ?」

 リアが体を捻ってハリスを振り返る。それを咎めるように腕の力を強くして制止した。
 自分からハリスのことを話したくせに他に意識を向けられるのは嫌で……。子供みたいな嫉妬だ。
 当のハリスは、と首を傾けてリアの体越しに覗いてみる。リアが振り返ろうとしたからか、その表情は取り繕ってはいるものの眉がピクピクと痙攣していて、樹に苛立っているのが分かる。
―――いつもそうしていればいいのに。
 そうすれば、近寄りがたさも薄まるだろう。しかし、ハリスがこういうぞんざいな態度をとるのは樹にだけなので、ある意味ではリアと同じ特別扱いと言うものなのか。
 全く嬉しくはないけれど。
 怒りや苛立ち、不快さなどと言った負の感情をこの男はリアに見せようとしない。
 リアの言葉に、態度に、ハリスが目元に力を込めている時、リアは「怒らせちゃった……」と言うけれど樹はそうではないと気付いていた。
(違うよ、リア……あれは怒っているんじゃないよ)
 思っても親切に伝えてはやらない。ハリスはリアに自分の感情を隠そうとするから。わざわざ手助けをしてやることもない。
 この男も、リアに救われているからなのだと、樹は知っていた。例え向ける感情は違っても、樹だけは同じだからこそ気づいていた。

「リア……」
「ハリスは怖くないよ。イツキくんのこと心配してるよ?」

「今日は甘えただね」と呑気に微笑むリア。そうやって甘やかされるとどういう顔をしていいのかわからない。結局照れ隠しにリアの腹にぐりぐりと頭をすり寄せた。
 樹が濡れないように手早く髪をタオルで巻いて、背中をさすってくれる。その優しさがくすぐったくて、余計に手を離しづらくなる。
 ハリスはタオルを被ったままこちらを頻りに気にしていた。
 本当は知っている。
 リアは俺が帰るのを怖がっているとわかってこうして甘やかしてくれる。ハリスは、毎日外の様子を見に行ってくれるし、宿の人にお金を大目に渡して樹の存在を隠しているのも知っている。
 二人に守られていると、ちゃんとわかっている。
 だから、樹は期日が来たらこの夢から覚めなければいけないと、わかっているのだ。それまでは、こうして二人と一緒にいたい。
(だけど、不安になる)
 リアに触れているとその温もりに安堵すると同時に何かが樹の中に流れてくる。胸がざわついて息が苦しくなる。
 不安を慰めるためにリアに触れているのに、そのせいでどんどん漠然とした恐怖が大きくなる。
(リア、リアは一体何者なの)
 ハリスの言葉に嘘がないと信じたい。けれど、どうしたって疑問は樹の頭にこびり付いて離れない。
 遠くに行かないで、離れていかないで。母に縋る子供のように、樹はリアの体に触れていた。
(リア、俺たちのことを置いて行かないで)


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