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二章
⑨
しおりを挟むゴオォッと耳に膜を張られたようにくぐもった激しい音が襲い掛かる。抗えない強い力で身体は運ばれてぐるぐると目が回る。
ただ、腕の中の熱を離さないことに必死だった。
眼を開けることも息を吸うことも出来ず、段々と苦しさが競り上がってくる中でリアはどうにかしてイツキを助けなくてはと考えていた。
けれど碌に動くことも出来ない今の状況で川から上がるなど夢のような話だ。それではこのまま水に呑まれて死ぬしかないのか。
嫌な想像ばかりが駆け巡る頭で、ただ希望を見出す活力が失われていないのは最後にハリスの声を聞いたからだ。
(ハリス、心配してるかな……)
こんなことになるのなら、ネバスでちゃんと別れておくべきだった。この状況では上の人からハリスが叱責を受けるかもしれない。そしてハリス自身も気を病むだろう。
(あなたは優しい人だから……)
リアのことをよく思っていなかろうと目の前で川に落ちたとなればハリスは自分を責める。ハッキリとわかるからこそ、リアはこのまま死ぬわけにはいかない。
だが、この状況を打破する手立ても浮かばない。もっと魔法が上手く使えれば違ったのかもしれないと後悔を浮かべながらすでに呼吸が限界に達した。
頭で考えることすら難しい。苦しさだけが意識を埋めていく。
体の感覚がぼやけ、ああ、駄目だと思った時。強く閉じた瞼越しに眩しさを感じた。
息が楽になり、体を襲っていた衝撃が和らぐ。
(一体何が……?)
光に誘われるように少しずつ目元から力を抜いて瞼を開く。水の中にいるはずなのにすぐ近くで何かが光っている。
(ソニーさんのお守り……!)
イツキの背中に回しているリアの手首に巻かれたお守りが光を灯している。驚いて眼を見開く。いつの間にかリアたちの体は水中で停止してふわふわと心地よい僅かな浮遊感だけが残る。
一体何が起こっているのかわからない。ただ、お守りを光源として広がった光の輪がリアたちを包んでいた。
言葉を発しようとしたが、輪郭の定まらない音だけが喉から響き、コポコポと水泡が浮く。水の中にいるのに息が苦しくない。不思議な感覚だった。
光輪に囲われたままどこかに移動する。石の積み重なった壁に行き当たり、ここが川の端なのだと理解した時には水面から顔が飛び出していた。
「ゲホッ、ゴホ」
急に酸素が肺に飛び込んで来てむせ返りながら何とか岸に掴まる。まだお守りの光に囲われているせいか濁流はリアたちの周囲だけ穏やかになり、身体が持って行かれることもない。
しかし、明るさが時が経つごとにどんどん落ちている。あまりここで手をこまねいていればまた水に攫われてしまう。
「誰か……!」
片手にイツキを抱えた状態では川から上がれない。かと言ってイツキの手を離す気もない。
誰かにイツキを引き上げて貰うのが一番なのだが、どしゃ降りの雨の中で外を出歩いている者などいない。
流されて体力を失ったリアではそこまで声も届かない。段々と岸に掴まっていることすら厳しくなってきた。
(ハリス、ハリス助けて……!)
最後にリアの耳に届いた声の主を求める。
此処にいるよ。お願い、助けて……イツキくんを助けて。
せっかくソニーが助けてくれたのに、これではまた振り出しではないか。
「ハリスッ!」
雨が瞳に落ちて頬を伝う。か細く叫んだ声を最後に自分の腕から力が抜けていくのがわかる。
―――だめ、せめてイツキくんだけでも……。
体が言うことを聞かず少しずつ水面に沈んでいく。完全に岸から指が離れる直前、何かがリアの手首に強く巻きついた。
「リアッ!」
「……ハリス」
(来てくれたんだ……)
視線を上に向ければ、暗く淀む雲の下でもはっきりと灯る赤い色。
「ハリス……イツキくんを」
腕に抱えたイツキを何とか持ち上げる。すぐに意図を察したハリスが一度頷いてリアの腕から手を離した。
「少しだけ頑張れ」
「うん」
さっきまでもう駄目だと諦めていたのに、ハリスの姿が見えただけで不思議と力が湧いてきた。もう大丈夫だと無条件に体が安心している。
「リア、君も」
イツキを引き上げたハリスは次にリアに腕を伸ばす。両手を掴まれて痛いくらいの力で上に引っ張られる。上半身が川から上がるとすかさず片手を腰に回されて抱き上げるように岸に迎えられた。
「あ、ありがと……ハリス……」
「良かった、リア……でもどうして……」
背中を支えられてハリスの胸元に頭を預ける。頭上から落ちた疑問に手首のお守りを見下ろしながら「ソニーさんが守ってくれた」と呟く。
「お守りでそこまでの力を……?」
信じがたそうにハリスが言う。助かった安堵からか今更寒さに体が震えてきた。腕も足もひどく重たくてピクリとも動かせない。
震えるリアの体を、ハリスの手がさすって少しでも熱を与えようとしてくれる。
「イツキくんは……?」
「大丈夫……ちゃんと息をしている」
横たわったままのイツキが「リア」と囁いて身じろぐ。黒い瞳が二人の姿を捉えて跳ね上がる様に距離を詰めて来る。
「リア、リア……生きてる?大丈夫?」
「大丈夫だ。ちゃんと生きてる」
唇を青くして震えた指でリアの手を握る子供を、ハリスが落ち着いた声で宥める。
「イツキくん……大丈夫?」
握り返してあげたいけれど、本当に力が入らないのだ。自分の手足が付いているのかと怖くなってしまうほどに感覚が鈍い。
「俺の魔法で温めているが限界がある。早く医者に診せないと」
「リア死なない?」
「死なせない」
二人の会話が少しずつ小さくなる。眠気が襲ってきたと思えばあっという間に瞼が落ちる。
そうしていれば雨音に混じって賑やかな笛の音が届く。
「あれは……」
「警備隊だ。誰かが落ちたところを見ていたのかもしれないな」
鼓膜を打つ言葉に、指が反応を示す。完全に落ちきってしまった視界では二人と同じものを見ることは出来ないが、ここにいたら駄目だということはわかる。
イツキを引き留めるべく指に力を入れたところで、僅かにイツキの肌に触れるだけで抵抗にもなりはしない。
「俺、このまま戻るよ」
「いいのか」
「うん」
行かないでの短い言葉さえ、リアの口は発してはくれない。ぎゅっと一度だけ強く手を握られて柔い熱は離れていく。
「リアたちは早くここを離れて」
「イツキ……本当にいいのか」
「はは、ハリス初めて名前呼んでくれた」
再び問いかけたハリスの声をイツキは笑い声で打ち消す。小さく「いいの」と零した少年の声には、今までになかった気迫を感じる。
「リアのことは俺が守る。俺がやる」
芯の通った男の声だった。
ハリスが息を吸う気配がしたけれど、結局口は開かずにリアの体を抱いて立ち上がる。薄く開いた視界の奥で複数の灯りが近づいて来るのがわかる。あれが警備隊なのだろう。
今にも飛びそうな意識を繫ぎとめ、口に出来たのはイツキの名前だけ。
「リア、大好き」
振り返った少年の笑顔を最後に、リアの意識は黒く塗りつぶされた。
(ああ、結局お別れも言えない……)
※
次に目が覚めた時、リアは宿の部屋に戻っていた。
近所の町医者に診て貰ったが、特に体は問題ないらしい。衰弱が見られるので休養は必要だと言われたが。
枕元の時計を見るが日付は超えていなかった。雨はまだ降り続いていて、静かな部屋の中でくぐもった雨音が響く。
「ハリス……イツキくんは……」
「戻ったよ。あのまま保護されているだろう」
うろ覚えな記憶はどうやら夢ではなかった。改めて言葉にされるとどうしようもなく喉が詰まって息苦しさを覚える。
吸った空気を細く、長く吐き出す。
「ハリス、助けてくれてありがとうございました」
「ソニーさんのお守りのおかげだ。あれがなければ君たちを見失っていたし、助けることも出来なかった」
ベッド脇で腰掛けるハリスは悔しさを滲ませるように膝の上で拳を握った。その力は強く、グッと筋張った手は震えている。
(そんなに力を込めたら痛むよ……)
それを言うのも憚られるほど、ハリスは顔をしかめて瞳を伏せている。
何だか元気がない。それほど心労をかけてしまったのだろうか。
「ハリス……」
「ん……?」
覇気を無くした瞳がゆるりとリアを捉える。赤い瞳に横たわるリアが映ったことを確認して微笑みながら「あのね」と内緒話をする様に声を潜めた。
と言っても、潜める前に対して力など入れられないので細い音しか出ないけれど。
「必死に掴まっている時、もう駄目だって思って諦めそうになってて……でもハリスのことを見たら力が湧いてきた」
リアの言葉がハリスに届くにつれて、形の良い眉が下がっていく。
「心配かけてごめんなさい。でも、来てくれてうれしかった。ありがとう、ハリス」
微笑むリアが映ったのを最後に潤みを増した瞳は閉じられ、ハリスはリアの手に顔を押し当てて「俺は……ッ」と繰り返す。
その先の言葉は一向に出てこないけれど、リアは律儀に「うん」と相槌を返し続ける。
疲れのたまった体はすぐに休息を求め始めてまた視界が狭まっていく。
掠れたハリスの声を聞きながら、身体が動いたら抱き締めてあげたかったなと独り言ちる。
「ハリスとリアはいいな」
二人だけの部屋の中、イツキが言っていた。
「本当は俺、滝で二人のこと見てたんだ」
居心地悪そうに瞳をあっちこっちへ揺らしながらそう打ち明ける幼い少年。まさか見られていたなんて思っていなかった。
「手を繫いで歩いててさ、ハリスがリアのことを自分のマントに入れたでしょ?」
少し前のことを思い出してリアは頷いた。
「寄り添って歩く二人を見てて、いいなって思ってた」
「どうして?」
「んー」と唇を尖らせて唸った後にへにゃっと表情を崩してイツキが羨望を込めた声で笑う。
「お互いのこと、大事にしてるって感じたから」
そんなことはないのだと、リアは言えなかった。
(違うんだよ、イツキくん)
確かにハリスはリアのことを気にかけてくれるし、それが傍から見たら大事にしているように映るのかもしれない。
しかし、ハリスは優しいからそうやって気遣うのはリアだけではないのだ。リアが特別だってわけじゃない。
それが、悲しくて苦しい。
イツキのことだって最初は面倒事だと遠ざけていたが、宿の者に話を通して匿い、言葉では素っ気なくても気にしていた。
ハリスはそういう人なのだ。
(まさか、俺……イツキくんに嫉妬してるの……?)
二人のやり取りを微笑ましく見ていたくせに、思い返してみればやきもちを妬くなんておかしいものだ。
ハリスの優しさはリアのためだけの物ではないのに。どうしてそんな感情が抱けるのか。
(そっか……俺、ハリスのことが好きなんだ……)
今更そんなことに気付いた。それはずっとリアの中にあったのに。
(記憶がなくったってわかったじゃないか……)
少しずつ、少しずつ眠気に体が吸い込まれていく。ハリスに触れている手が異様に熱くて鼓動が普段よりも大きく聞こえる。
それが、リアがハリスに好意を持っていることを確信へと変えていく。
(ずっと、ずっと好きだったんだ……)
だから、項垂れたあなたの頭を撫でてあげたかった。
隠しごとをする綺麗な笑みにも気づけた。
嫌われていると知って悲しかった。
自分の知らないハリスを知っている前の自分が羨ましかった。
色んなところに欠片は転がっていたのに、リアはずっと気づかなかった。
(でも、気づかない方がよかった)
だってハリスは仕事でリアと一緒にいるのだから。自覚しなければ必要以上に傷つくこともなかったのに。
嫌われていて悲しいなって思うだけだった。こんな苦しさを味わわなくてもよかったのに……。
(本当に俺って馬鹿だな……)
眠りに落ちる直前。目尻に浮かんだ涙を枕にこすり付けて拭い、リアはハリスの声を遠くで聞きながら微睡みに落ちて行く。
(あとどれだけ、ハリスと一緒にいられるだろう……)
イツキと別れた様に、ハリスともいつか別れなくてはいけない時が来る。
「リア、大好き」
そう無邪気に笑って去って行った少年の姿が蘇る。果たしてリアは、あんな風にハリスに伝えることは出来るか。
嫌われていると知りながら、それを言葉にすることなどリアには出来そうにない。
(イツキくんはすごいなぁ……)
守ってあげなくてはと思っていたのに、その子供はリアなんかよりもよっぽど強くて眩しかった。
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