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ポラロイドの夜8
「どこに移るか聞いていないのですか?」
「一切を清算して出て行かれるお客様がどこに移転されようと私共がそれ以上に介入する権限などありませんよ。それが必要ならお客様の方から移転先の案内を掲示するよう連絡があります」
「お宅の店子とトラブルが発生している客がいるかもしれないじゃないか。そのくらいの責任はオーナーとしてあるんじゃないのかね」
「それはうちの関知する問題じゃありませんよ。当局に連絡したらどうですか。それにねえあなた、そんな重要な案件でしたらもう少し調査してから選んだらどうです。ちょっと耳を立てりゃ評判のいい先生かどうかすぐにわかったでしょうに」
警察は事件だと断定しなければ動かないでしょう。そもそも詐欺と立証できるのか、欲が先立ち、迂闊にも内容を確認せず押印と署名をしてしまったことを当局が事件と判定を下してくれるでしょうか。それより私は警察に相談できるほど潔癖なのでしょうか、この一件を振り出しに戻してしまったら相続なんて泡となって消えてしまい、犯罪者となって追われる身になる。ビルを出ると頭が混乱して交差点の前で動けなくなりました。横断歩道を渡り始めると信号が赤になってしまいクラクションの鋭い音が私目掛けて飛んできました。渡り切った所でたまたま止まったタクシーに乗り込み明美の待つマンションへ向かいました。
「お客さん轢かれるとこだったですよ。気をつけないと」
運転手は不審な私の挙動を目撃していたのでしょう、事故に発展しなかったことが残念そうでした。
チャイムを鳴らしても明美の応答はありませんでした。警戒して出ないのでしょうか、電話をしました。三回呼び出した後留守電に変わりました。もう一度繰り返すとまた三回なって留守電になりました。自宅に戻ったのでしょう、五階の自宅に行きました。チャイムを鳴らすとすぐにドアが開きました。明美は顔色を失い、がたがたと振るえていました。
「どうした、何かあったのか」
「だまされた」
「どうした、何をだまされたんだ?」
明美はA四版の紙切れを私に差し出しました。三日以内に退去するように書かれていました。
「やくざが来たの、ここを去年の暮れに現金で購入したって。田中がやくざに売ったのよ」
私の予想はまんまと当たってしまいました。田中は明美の印鑑と署名を巧みに利用して早々に売り払い姿を眩ましたのでした。
「さっき田中の事務所に寄ったが既に引き払った跡だった。初めからすべて計画的だったんだ」
「どうするの?ねえどうしたらいいの?」
明美は私のワイシャツを両手で掴み小刻みに揺らしました。田中に対抗する手段を考えようとするのですが明美が揺する振動によってすべての思考が振るわれた水滴みたいに飛んで行ってしまいます。
「よせ、揺するのはよせ」
「どうするの?ねえどうするの?」
私の制止を無視して激しく揺する明美が無性に憎たらしく感じました。私は両手で首を絞め、喉仏に親指の爪を立てました。明美は苦しんでいるのでしょうかそれとも誘っているのでしょうか、そのまま床に膝から崩れました。『はあはあ』と重症の喘息患者の息継ぎのように微かな隙間から必要最低限の酸素を求めています。そして膝をついた姿勢で下半身に纏った繊維と言う皮を剥がすと今度は私のパンツのベルトを抜き取り下着ごと一気に引き下げました。そしてそのまま倒れました。重なり喘ぎ、欲を満たすために命懸けのゲームが始まったのです。果てるのは力でしょうかそれとも命でしょうか、奇声一声白い目を天井に向けたまま明美は気を失ったようです。第一間接まで喰い込んだ親指の先は薄っすらと血が滲んでいました。明美の身体から離れ私も仰向けに倒れました。ほんの数秒の快楽のためにこれほど危険を冒さなければならないのでしょうか。死ぬ寸前の快楽を求める明美と殺す寸前までを愉しむ私との一致した強欲はこれからもエスカレートしていくでしょう。
「明美、明美」
返事がないのは余韻に慕っているせいでしょうか。
「明美、明美」
反応の無い明美に私は焦り身体を揺すりました。すると『ククク』という隠し笑いから『キャハハ』身体をくねらせてと大笑いを始めたのです。私の怒りは明美の笑い声に圧倒され消沈し、一緒になって笑い始めてしまいました。
「想い出した、あんた幸ちゃんのアルバムに貼り付けられた五人のうちのひとりでしょ。そして本命愛ちゃんのパパ。愛ちゃんが死んで五年ぐらいかな、目元がそっくりで見ていられないからってマジックで顔を塗り潰していたわ」
「ああ、びっくりしたよマジックを唾で消したときは、まさか自分の顔が出てくるとは。でも父親かどうかはわからないんじゃないかな」
「わかるのよ女は、何万という群れの中から我が子を見つけるペンギンのお母さんのようにね」
明美が母親のように感じました。なにかものすごく逞しく感じました。
「一緒に暮らそう。結婚だなんて野暮なことは言わない、お互いに好きなことをやっていればいいんだ。ここはやくざにくれてやればいいさ、最上階のベランダは一日中太陽が照らしてくれる。君さえよければずっといてもいい」
「橘さん、勘違いしてるわ、やくざに差し押さえられたのはあなたの相続する幸子のマンションよ、よくそれを読んでよ」
私は足元の紙切れを拾い上げ一字一句をしっかりと目で追いました。確かに2001号室が明日の正午を持って引き渡される云々が記されています。
「幸子んとこみたいに広くないし太陽も昼過ぎの一時間ぐらいしかあたらないけど、橘さんさえよかったらここにいていいのよ、あなたとはあっちの相性もいいし、しばらくは満足いく性生活が送れるし、お互いが飽きたらその時はその時で考えればいいっしょ。でもね、これは言わない方がいいかなあ、でもやっぱり知らせておこうかな、実はねもう七年も付き合っている男がいるのよ。滅多にここにはこないけどね。あたしと同じ北海道の苫小牧から出稼ぎで来ている男でさ、もう五十に手が届くおじさんだけどあたしだって四十五過ぎたおばさんだから丁度いいのかもしれないけどね。仕事は建築現場で土方しているの。背が低くて手がごっつい男でさ、ギャンブルも煙草もやらないしお酒だって夕食前に梅酒をコップ一杯しか飲まない面白くも痒くもない男だけどさ、あたしさえよければ苫小牧に帰って一緒に畑やろうって言ってくれるの。ほんとはさあたしだって、都会でさ、橘さんみたいなそんな会社勤めの人と一緒になるのが夢だったけど・・・」
天井を見つめたまま明美は独りで話し続けていました。私の生返事を期待するわけでもなくただ延々と天上の一点を見つめて話し続けるのでした。私の他に長く交際している苫小牧出身で手のごっつい男がいるようでしたがそんなこと私にはまったく興味のない話です。しかし端々に使われる北海道訛が妙に気になりました。夜中に足の周りを浮遊する一匹の蚊のような、叩き潰さなければただでさえ浅い眠りを奪われてしまう。私は反転して明美の上へ覆い被さりました。
「また?くくくくくっ」
押し殺した明美の笑いは人生を転落していく男を嘲笑しているようでした。私は明美の首に手をかけました。喉仏の下には指圧の壷を案内するように青黒くなった点があります。その点に両親指を当てるだけでその先の快楽を想像する獣の喘ぎ声が轟きました。私は容赦なく親指を押しました。悦楽に浸った明美の表情が一変するのに説明は必要ありませんでした。手足を蛙のようにばたつかせ『ひー』と馬のイナナキ一発、声を失ったようです。蟹のように泡を口元に溜めて、見上げる瞳は恨みを発しています。ドロドロの液体から気化した恨みは霧となって私の身体に降り注ぎ寒気を感じます。付け根まで刺し込んだ親指をゆっくりと抜きました。リュックに結わき付けているパープルのネッカチーフを明美の首に巻きつけました。
「似合うよ」
明美の屍が頷いたように見えたのは錯覚でしょうか、それとも既に私に復讐を始めたのでしょうか。明美を殺害してしまった後悔、それに伴う恐怖心はありませんでした。むしろ幸子の死に直面したときのことを想い出すと今でも背筋に寒気が走ります。しかしこの醜い姿で玄関に横たわる明美を誰が発見するのでしょうか、彼女にプロポーズしている同郷の男ではショックが大きいかもしれません。私はその男が不憫でならず、多少でもそのショックを和らげたいと、明美をベッドまで運び、剥き出しの下半身をタオルで覆い、べた付く口元をウエットティッシュで拭きました。そして首に巻いた幸子のスカーフを軽く引っ張ると不思議なくらいするすると明美の首から離れるのでした。そして焼き付いたあの日の光景が鮮明に蘇るのです。
『愛ちゃんごめんね』
私は首を振りその光景を払い飛ばしました。我に返り拾い上げた一枚の紙切れは、私自身の破壊を意味する文言が記されていました。明美の部屋に鍵をかけ、階段で二十階を目指しました。エレベーターには監視カメラがついていますが非常階段にはありません。犯罪者すべてがエレベーターを利用すると考えている管理会社の杜撰なのか、それとも住民の管理費の節約なのかわかりませんが、いざ自分が犯罪者側に立ってみると不思議な気がしました。山を歩き慣れている私にとっても二十階までの階段はきつかった。息を切らせながら鍵を開けると『ゆうパック』が届いていました。私はそれが粉末になった幸子と愛であることがすぐにわかりました。箱に貼り付けてある送り状に橘明美とサインがしてありました。二つの壷を持ち歩くわけにはいかないので、スーパーのレジ袋へ移しました。人間の骨がこんなにきれいになるとは考えていませんでした。パウダー状になった二人は袋の中で交じり合いました。リュックに数日分の下着と骨だけを入れました。保険証とか預金通帳だとか、ましてや印鑑などはもう必要ないでしょう。もう田中や礼子に募る恨みも萎えてしまいました。中村刑事が初めから疑っていた、正真正銘の殺人者となって逃亡生活を送るのです。スーツにノーネクタイ、トレンチコートにリュックサック、そのリュックの右肩掛けにはパープルのネッカチーフを二つ折りにして真結びにしました。どこに行くというあてもなく横浜までの百三十円切符を購入しすぐにやって来た上り電車に乗りました。通勤時間帯とあってほとんどの吊革も塞がっています。私の前に立っている男の乾いた咳が気になり、通勤時間帯だけ座席を収納してある隣の車両に移動しました。乗客数も少ないですが、その分逆に自分自身が目立ちはしないかと視線が気になります。ここにいる誰一人として私が殺人者であることなど知る由もなく、私の過剰な意識が敏感に反応しているだけでしょうが、ドラマ『逃亡者』の医師と重なって、疑いの眼差しを浴びせられているかと思うと何故か照れ臭くなります。横浜で降りた私の足は自然に東海道下りのホームに立っていました。どうしたらこれだけの作り笑顔ができるのか、美しい乗務員にグリーン車の料金を支払うとすぐに睡魔が襲い意識を失いました。睡魔に悪戦苦闘しながらも二本乗り継いで金谷のホームに立つと携帯の呼び出しが鳴りました。
「橘さん、あんたやっちゃったね」
中村刑事でした。私は沈黙していました。
「正月休みの間北海道に一時帰郷していて、横浜に戻って来た菅原って男から戸部署に連絡が入りましてね、その菅原ってのは遺体の腕掴んで、慟哭していたらしいですよ、駆けつけた刑事が引き離そうとしたら凄い力で跳ね飛ばされたって、数人掛かりで取り押さえて署に連れて帰り、ブタ箱に入れてるらしいですけど喚き騒いで収拾がつかないらしい。聞いてます橘さん?返事はしなくてもいいですから電話だけは切らないで話を聞いてくださいよ。現場にはウニやイクラが散乱して暖房が効いてるから生臭くて吐き気がするって同僚から連絡がありました。ええ、あなたのことを追っているのはその同僚に伝えてあるから関係者に何かあると、すぐに連絡をくれるんですよ。でその同僚が、撒き散らした海産物は菅原が同郷の明美に土産で持参したんじゃないかってね」
私は返事をしませんでしたが中村刑事はそんなことには無視して話し続けています。金谷の大井川鉄道ホームには蒸気機関車が入っていました。人差し指で一枚と告げると席はないけど宜しいでしょうかと駅員は話し中の電話に気遣うように小声で言った。私が首を縦に振るとわかりましたと小声でチケットを窓口から差し出した。
「でねえ、神奈川県警は殺人事件と断定し捜査班を結成したそうです。まあその菅原は最重要参考人として取り調べるでしょうが、私は菅原は白だってわかっています。同僚も同感らしい。明美のね、喉仏にね、両親指を刺すように押し付けた痣が死因だそうです。まあ鑑識の結果が出るまで断定はできませんがね。ところで橘さん明美と商売抜きで情交したことがありますか、実はね、私が川崎署に勤務していた頃度々彼女の勤めていた店に足を運んだことがあってね、そのうち気が合って商売抜きに何度か外で会っていたんですよ。性癖ってのは恐ろしいですね。私も始めて体験しましたよあんなの、もしかしたら橘さんもそうだったりして、限度を超えてしまったとか?だったら極刑は免れる、どうですか自首する気はないですか。幸子のことは事故と言うことで私も諦めます」
最後尾客車の連結部に寄り掛かり長い吊り橋を左手に見ながら受話器を耳に当てている。水量の寂しい現在の大井川は子供でも越えられる。カーブに差し掛かると汽笛一声、受話器はその音を拾ったでしょうか。
「もしもーし、ああ良かった、繋がってて。それで同僚にね、急いで二十階に行くよう頼んだんです、橘さんがいたら引き止めてくれってね、そしたらガラの悪い引っ越し屋が荷物運んでたらしくて、そのうちのひとりに尋ねたら、現場で指揮を取っている地元の不動産会社、暴力団らしいですけどね、同僚に売買成立の証文をかざしたらしいですよ。それにはあなたの名前ではなくて田中義弘と明記してあったそうです。田中義弘ってあなたの同期生の弁護士ですよね。そうだったんだあ、あの弁護士にすっかりやられてしまったんですねえ、気の毒に。億万長者の夢破れたりってとこですか」
ベテランの車掌がハーモニカを吹きながらこの車両に入ってきました。客のリクエストで『ふるさと』を吹き出しました。女性の一団がそれに合わせて歌いだすと釣られて周りの乗客も歌いだしました。私も口ずさんでしまったのでしょうか。
「えっなんです?『雨に風に』って、唄ですかそれ?」
そういえば新潟の両親にはもう四年も会っていませんでした。農家を継いだ長男に任せっぱなしです。
『最近元気なくなったから次の盆には帰って顔見せてやってくれねえか』
『ああ、近いうちに行く』と生返事をしてろくに親の声も聞かずに受話器を下ろしたのが、ハーモニカの音に郷愁を誘われ罪深く感じてしまいました。
「もしかして橘さん泣いてるの?勘弁してよ、センチは御免だ。もしそんな気があるなら自首してみたら。その方がいいって」
「中村さんはあの写真を見ましたか?」
私は啜り泣きを感付かれた気恥ずかしさを隠す為に中村に話しかけた。
「ああよかった、もう二度と口を聞いてくれないかと心配しましたよ。ええ見ましたよ、もう二十年以上も前の、あのポラロイドでしょ。驚きましたよあれには、でも橘さんの方が私よりよっぽど驚かれたでしょ、だってあのマジックで消されている顔が自分だなんて考えただけでもゾッとする」
やはり中村はあのポラロイド写真の存在を知っていました。それにマジックで顔を消された男が私であることにも気が付いていたのです。幸子を荼毘した後に中村刑事が『新着の情報』と私をからかっていたのはポラロイドのことだったのかもしれません。
「中村さん、わかっているなら教えてください。なぜ幸子は寸又峡に着いてから急に宿を替えたのでしょうか?彼女は私のことに気付いていたのでしょうか?」
「そうですね、もう話してもいいでしょう」
それから中村刑事はぽつぽつと、あのカシャリとシャッター音のする、ポラロイドの夜から話し始めたのです。
「一切を清算して出て行かれるお客様がどこに移転されようと私共がそれ以上に介入する権限などありませんよ。それが必要ならお客様の方から移転先の案内を掲示するよう連絡があります」
「お宅の店子とトラブルが発生している客がいるかもしれないじゃないか。そのくらいの責任はオーナーとしてあるんじゃないのかね」
「それはうちの関知する問題じゃありませんよ。当局に連絡したらどうですか。それにねえあなた、そんな重要な案件でしたらもう少し調査してから選んだらどうです。ちょっと耳を立てりゃ評判のいい先生かどうかすぐにわかったでしょうに」
警察は事件だと断定しなければ動かないでしょう。そもそも詐欺と立証できるのか、欲が先立ち、迂闊にも内容を確認せず押印と署名をしてしまったことを当局が事件と判定を下してくれるでしょうか。それより私は警察に相談できるほど潔癖なのでしょうか、この一件を振り出しに戻してしまったら相続なんて泡となって消えてしまい、犯罪者となって追われる身になる。ビルを出ると頭が混乱して交差点の前で動けなくなりました。横断歩道を渡り始めると信号が赤になってしまいクラクションの鋭い音が私目掛けて飛んできました。渡り切った所でたまたま止まったタクシーに乗り込み明美の待つマンションへ向かいました。
「お客さん轢かれるとこだったですよ。気をつけないと」
運転手は不審な私の挙動を目撃していたのでしょう、事故に発展しなかったことが残念そうでした。
チャイムを鳴らしても明美の応答はありませんでした。警戒して出ないのでしょうか、電話をしました。三回呼び出した後留守電に変わりました。もう一度繰り返すとまた三回なって留守電になりました。自宅に戻ったのでしょう、五階の自宅に行きました。チャイムを鳴らすとすぐにドアが開きました。明美は顔色を失い、がたがたと振るえていました。
「どうした、何かあったのか」
「だまされた」
「どうした、何をだまされたんだ?」
明美はA四版の紙切れを私に差し出しました。三日以内に退去するように書かれていました。
「やくざが来たの、ここを去年の暮れに現金で購入したって。田中がやくざに売ったのよ」
私の予想はまんまと当たってしまいました。田中は明美の印鑑と署名を巧みに利用して早々に売り払い姿を眩ましたのでした。
「さっき田中の事務所に寄ったが既に引き払った跡だった。初めからすべて計画的だったんだ」
「どうするの?ねえどうしたらいいの?」
明美は私のワイシャツを両手で掴み小刻みに揺らしました。田中に対抗する手段を考えようとするのですが明美が揺する振動によってすべての思考が振るわれた水滴みたいに飛んで行ってしまいます。
「よせ、揺するのはよせ」
「どうするの?ねえどうするの?」
私の制止を無視して激しく揺する明美が無性に憎たらしく感じました。私は両手で首を絞め、喉仏に親指の爪を立てました。明美は苦しんでいるのでしょうかそれとも誘っているのでしょうか、そのまま床に膝から崩れました。『はあはあ』と重症の喘息患者の息継ぎのように微かな隙間から必要最低限の酸素を求めています。そして膝をついた姿勢で下半身に纏った繊維と言う皮を剥がすと今度は私のパンツのベルトを抜き取り下着ごと一気に引き下げました。そしてそのまま倒れました。重なり喘ぎ、欲を満たすために命懸けのゲームが始まったのです。果てるのは力でしょうかそれとも命でしょうか、奇声一声白い目を天井に向けたまま明美は気を失ったようです。第一間接まで喰い込んだ親指の先は薄っすらと血が滲んでいました。明美の身体から離れ私も仰向けに倒れました。ほんの数秒の快楽のためにこれほど危険を冒さなければならないのでしょうか。死ぬ寸前の快楽を求める明美と殺す寸前までを愉しむ私との一致した強欲はこれからもエスカレートしていくでしょう。
「明美、明美」
返事がないのは余韻に慕っているせいでしょうか。
「明美、明美」
反応の無い明美に私は焦り身体を揺すりました。すると『ククク』という隠し笑いから『キャハハ』身体をくねらせてと大笑いを始めたのです。私の怒りは明美の笑い声に圧倒され消沈し、一緒になって笑い始めてしまいました。
「想い出した、あんた幸ちゃんのアルバムに貼り付けられた五人のうちのひとりでしょ。そして本命愛ちゃんのパパ。愛ちゃんが死んで五年ぐらいかな、目元がそっくりで見ていられないからってマジックで顔を塗り潰していたわ」
「ああ、びっくりしたよマジックを唾で消したときは、まさか自分の顔が出てくるとは。でも父親かどうかはわからないんじゃないかな」
「わかるのよ女は、何万という群れの中から我が子を見つけるペンギンのお母さんのようにね」
明美が母親のように感じました。なにかものすごく逞しく感じました。
「一緒に暮らそう。結婚だなんて野暮なことは言わない、お互いに好きなことをやっていればいいんだ。ここはやくざにくれてやればいいさ、最上階のベランダは一日中太陽が照らしてくれる。君さえよければずっといてもいい」
「橘さん、勘違いしてるわ、やくざに差し押さえられたのはあなたの相続する幸子のマンションよ、よくそれを読んでよ」
私は足元の紙切れを拾い上げ一字一句をしっかりと目で追いました。確かに2001号室が明日の正午を持って引き渡される云々が記されています。
「幸子んとこみたいに広くないし太陽も昼過ぎの一時間ぐらいしかあたらないけど、橘さんさえよかったらここにいていいのよ、あなたとはあっちの相性もいいし、しばらくは満足いく性生活が送れるし、お互いが飽きたらその時はその時で考えればいいっしょ。でもね、これは言わない方がいいかなあ、でもやっぱり知らせておこうかな、実はねもう七年も付き合っている男がいるのよ。滅多にここにはこないけどね。あたしと同じ北海道の苫小牧から出稼ぎで来ている男でさ、もう五十に手が届くおじさんだけどあたしだって四十五過ぎたおばさんだから丁度いいのかもしれないけどね。仕事は建築現場で土方しているの。背が低くて手がごっつい男でさ、ギャンブルも煙草もやらないしお酒だって夕食前に梅酒をコップ一杯しか飲まない面白くも痒くもない男だけどさ、あたしさえよければ苫小牧に帰って一緒に畑やろうって言ってくれるの。ほんとはさあたしだって、都会でさ、橘さんみたいなそんな会社勤めの人と一緒になるのが夢だったけど・・・」
天井を見つめたまま明美は独りで話し続けていました。私の生返事を期待するわけでもなくただ延々と天上の一点を見つめて話し続けるのでした。私の他に長く交際している苫小牧出身で手のごっつい男がいるようでしたがそんなこと私にはまったく興味のない話です。しかし端々に使われる北海道訛が妙に気になりました。夜中に足の周りを浮遊する一匹の蚊のような、叩き潰さなければただでさえ浅い眠りを奪われてしまう。私は反転して明美の上へ覆い被さりました。
「また?くくくくくっ」
押し殺した明美の笑いは人生を転落していく男を嘲笑しているようでした。私は明美の首に手をかけました。喉仏の下には指圧の壷を案内するように青黒くなった点があります。その点に両親指を当てるだけでその先の快楽を想像する獣の喘ぎ声が轟きました。私は容赦なく親指を押しました。悦楽に浸った明美の表情が一変するのに説明は必要ありませんでした。手足を蛙のようにばたつかせ『ひー』と馬のイナナキ一発、声を失ったようです。蟹のように泡を口元に溜めて、見上げる瞳は恨みを発しています。ドロドロの液体から気化した恨みは霧となって私の身体に降り注ぎ寒気を感じます。付け根まで刺し込んだ親指をゆっくりと抜きました。リュックに結わき付けているパープルのネッカチーフを明美の首に巻きつけました。
「似合うよ」
明美の屍が頷いたように見えたのは錯覚でしょうか、それとも既に私に復讐を始めたのでしょうか。明美を殺害してしまった後悔、それに伴う恐怖心はありませんでした。むしろ幸子の死に直面したときのことを想い出すと今でも背筋に寒気が走ります。しかしこの醜い姿で玄関に横たわる明美を誰が発見するのでしょうか、彼女にプロポーズしている同郷の男ではショックが大きいかもしれません。私はその男が不憫でならず、多少でもそのショックを和らげたいと、明美をベッドまで運び、剥き出しの下半身をタオルで覆い、べた付く口元をウエットティッシュで拭きました。そして首に巻いた幸子のスカーフを軽く引っ張ると不思議なくらいするすると明美の首から離れるのでした。そして焼き付いたあの日の光景が鮮明に蘇るのです。
『愛ちゃんごめんね』
私は首を振りその光景を払い飛ばしました。我に返り拾い上げた一枚の紙切れは、私自身の破壊を意味する文言が記されていました。明美の部屋に鍵をかけ、階段で二十階を目指しました。エレベーターには監視カメラがついていますが非常階段にはありません。犯罪者すべてがエレベーターを利用すると考えている管理会社の杜撰なのか、それとも住民の管理費の節約なのかわかりませんが、いざ自分が犯罪者側に立ってみると不思議な気がしました。山を歩き慣れている私にとっても二十階までの階段はきつかった。息を切らせながら鍵を開けると『ゆうパック』が届いていました。私はそれが粉末になった幸子と愛であることがすぐにわかりました。箱に貼り付けてある送り状に橘明美とサインがしてありました。二つの壷を持ち歩くわけにはいかないので、スーパーのレジ袋へ移しました。人間の骨がこんなにきれいになるとは考えていませんでした。パウダー状になった二人は袋の中で交じり合いました。リュックに数日分の下着と骨だけを入れました。保険証とか預金通帳だとか、ましてや印鑑などはもう必要ないでしょう。もう田中や礼子に募る恨みも萎えてしまいました。中村刑事が初めから疑っていた、正真正銘の殺人者となって逃亡生活を送るのです。スーツにノーネクタイ、トレンチコートにリュックサック、そのリュックの右肩掛けにはパープルのネッカチーフを二つ折りにして真結びにしました。どこに行くというあてもなく横浜までの百三十円切符を購入しすぐにやって来た上り電車に乗りました。通勤時間帯とあってほとんどの吊革も塞がっています。私の前に立っている男の乾いた咳が気になり、通勤時間帯だけ座席を収納してある隣の車両に移動しました。乗客数も少ないですが、その分逆に自分自身が目立ちはしないかと視線が気になります。ここにいる誰一人として私が殺人者であることなど知る由もなく、私の過剰な意識が敏感に反応しているだけでしょうが、ドラマ『逃亡者』の医師と重なって、疑いの眼差しを浴びせられているかと思うと何故か照れ臭くなります。横浜で降りた私の足は自然に東海道下りのホームに立っていました。どうしたらこれだけの作り笑顔ができるのか、美しい乗務員にグリーン車の料金を支払うとすぐに睡魔が襲い意識を失いました。睡魔に悪戦苦闘しながらも二本乗り継いで金谷のホームに立つと携帯の呼び出しが鳴りました。
「橘さん、あんたやっちゃったね」
中村刑事でした。私は沈黙していました。
「正月休みの間北海道に一時帰郷していて、横浜に戻って来た菅原って男から戸部署に連絡が入りましてね、その菅原ってのは遺体の腕掴んで、慟哭していたらしいですよ、駆けつけた刑事が引き離そうとしたら凄い力で跳ね飛ばされたって、数人掛かりで取り押さえて署に連れて帰り、ブタ箱に入れてるらしいですけど喚き騒いで収拾がつかないらしい。聞いてます橘さん?返事はしなくてもいいですから電話だけは切らないで話を聞いてくださいよ。現場にはウニやイクラが散乱して暖房が効いてるから生臭くて吐き気がするって同僚から連絡がありました。ええ、あなたのことを追っているのはその同僚に伝えてあるから関係者に何かあると、すぐに連絡をくれるんですよ。でその同僚が、撒き散らした海産物は菅原が同郷の明美に土産で持参したんじゃないかってね」
私は返事をしませんでしたが中村刑事はそんなことには無視して話し続けています。金谷の大井川鉄道ホームには蒸気機関車が入っていました。人差し指で一枚と告げると席はないけど宜しいでしょうかと駅員は話し中の電話に気遣うように小声で言った。私が首を縦に振るとわかりましたと小声でチケットを窓口から差し出した。
「でねえ、神奈川県警は殺人事件と断定し捜査班を結成したそうです。まあその菅原は最重要参考人として取り調べるでしょうが、私は菅原は白だってわかっています。同僚も同感らしい。明美のね、喉仏にね、両親指を刺すように押し付けた痣が死因だそうです。まあ鑑識の結果が出るまで断定はできませんがね。ところで橘さん明美と商売抜きで情交したことがありますか、実はね、私が川崎署に勤務していた頃度々彼女の勤めていた店に足を運んだことがあってね、そのうち気が合って商売抜きに何度か外で会っていたんですよ。性癖ってのは恐ろしいですね。私も始めて体験しましたよあんなの、もしかしたら橘さんもそうだったりして、限度を超えてしまったとか?だったら極刑は免れる、どうですか自首する気はないですか。幸子のことは事故と言うことで私も諦めます」
最後尾客車の連結部に寄り掛かり長い吊り橋を左手に見ながら受話器を耳に当てている。水量の寂しい現在の大井川は子供でも越えられる。カーブに差し掛かると汽笛一声、受話器はその音を拾ったでしょうか。
「もしもーし、ああ良かった、繋がってて。それで同僚にね、急いで二十階に行くよう頼んだんです、橘さんがいたら引き止めてくれってね、そしたらガラの悪い引っ越し屋が荷物運んでたらしくて、そのうちのひとりに尋ねたら、現場で指揮を取っている地元の不動産会社、暴力団らしいですけどね、同僚に売買成立の証文をかざしたらしいですよ。それにはあなたの名前ではなくて田中義弘と明記してあったそうです。田中義弘ってあなたの同期生の弁護士ですよね。そうだったんだあ、あの弁護士にすっかりやられてしまったんですねえ、気の毒に。億万長者の夢破れたりってとこですか」
ベテランの車掌がハーモニカを吹きながらこの車両に入ってきました。客のリクエストで『ふるさと』を吹き出しました。女性の一団がそれに合わせて歌いだすと釣られて周りの乗客も歌いだしました。私も口ずさんでしまったのでしょうか。
「えっなんです?『雨に風に』って、唄ですかそれ?」
そういえば新潟の両親にはもう四年も会っていませんでした。農家を継いだ長男に任せっぱなしです。
『最近元気なくなったから次の盆には帰って顔見せてやってくれねえか』
『ああ、近いうちに行く』と生返事をしてろくに親の声も聞かずに受話器を下ろしたのが、ハーモニカの音に郷愁を誘われ罪深く感じてしまいました。
「もしかして橘さん泣いてるの?勘弁してよ、センチは御免だ。もしそんな気があるなら自首してみたら。その方がいいって」
「中村さんはあの写真を見ましたか?」
私は啜り泣きを感付かれた気恥ずかしさを隠す為に中村に話しかけた。
「ああよかった、もう二度と口を聞いてくれないかと心配しましたよ。ええ見ましたよ、もう二十年以上も前の、あのポラロイドでしょ。驚きましたよあれには、でも橘さんの方が私よりよっぽど驚かれたでしょ、だってあのマジックで消されている顔が自分だなんて考えただけでもゾッとする」
やはり中村はあのポラロイド写真の存在を知っていました。それにマジックで顔を消された男が私であることにも気が付いていたのです。幸子を荼毘した後に中村刑事が『新着の情報』と私をからかっていたのはポラロイドのことだったのかもしれません。
「中村さん、わかっているなら教えてください。なぜ幸子は寸又峡に着いてから急に宿を替えたのでしょうか?彼女は私のことに気付いていたのでしょうか?」
「そうですね、もう話してもいいでしょう」
それから中村刑事はぽつぽつと、あのカシャリとシャッター音のする、ポラロイドの夜から話し始めたのです。
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センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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