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しおりを挟む『もう、いいのか』──てっきり身体の調子について尋ねられているのだと思ったアルウェンは、大丈夫だと返した。
するとサリオンの手が頬に伸び、優しく髪を梳いた。
「無理しなくていいんだぞ。俺はまだ待てる」
「待つ……?」
「おまえが望まないことはしたくない」
気まずそうに目を逸らすサリオン。
そこでアルウェンは、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。
『もう、いいのか』とは、『もう、気持ちに区切りはついたのか』ということで──
結婚した当初、サリオンは嫌でもずっと一緒なのだから、焦る必要はないと言った。
同じ寝台にいても決してアルウェンを求めず、たわいない話をし、眠りにつく毎日。
アルウェンは、それらの行動を自分への関心のなさだと半ば諦めのような気持ちで受け止めていた。
けれど今の言葉から推察するに、彼はアルウェンを女として見ていないわけではなかったのだ。
(殿下……!)
アルウェンの中で、これまでの葛藤が晴れて行くようだった。
サリオンの心に触れることができた今なら、自信を持ってこれまでのことを考えられる。
彼はこれまでずっと、アルウェンが心に負った傷が癒えるのを待ちながら、二人の関係を育ててくれていたのだ。
思い上がりでも、勘違いでもない。
なぜなら揺れる瞳の奥が、滲む目元が、アルウェンを求めていることを如実に語っている。
それは、かつて元婚約者が自分に向けた視線とはまるで違う、熱を孕んだものだった。
嬉しくて、身体の奥から震えるような喜びがせり上がってくる。
アルウェンが望まなければ、サリオンはきっと今夜もなにもせず、寄り添い合って眠るだけだろう。
(それは、嫌……)
けれど経験もないのに、自分から彼を望むなんてはしたないし、恥ずかしい。
(こんな時、なんて言ったらいいの)
これまでの知識と経験がなんの役にも立たないこの状況で、アルウェンはサリオンを見つめ返すことしかできない。
「もう遅い。寝るぞ」
サリオンは、アルウェンを追い詰めないよう寂しげに微笑んだ。
(悲しいくらい優しい人)
踵を返そうとしたサリオンの服の裾を咄嗟に掴むと、彼は少し驚いたような顔をした。
「殿下……私……私は……」
サリオンはなにも言わず、じっと言葉の続きを待っている。
(ここでちゃんと言わなければ、また失ってしまう)
あれほど苦しんだユランとの別れは、もう思い出すこともなくなった。
それは、サリオンとの日々があったから。
今アルウェンの頭と心を占めるのは、サリオンだけ。
サリオンだけは、誰にも渡したくない。
初めて自覚した強い執着心が、最後にアルウェンの背を押した。
「私の心の中には殿下しかおりません」
だから私を、私だけを見て欲しい。
妃としてではなく、女として求めて欲しい。
──愛して欲しい
サリオンはアルウェンの手を取り、抱き寄せた。
大切に、胸の中にしまい込むように両手が背中に回り、泣きたいような気持ちになる。
いつの間にかこの腕の中が、アルウェンにとって一番安心できる場所になっていた。
サリオンはアルウェンを抱き上げ、ゆっくりと寝台の上に横たえた。
膝立ちのサリオンが細い身体を跨ぎ、寝台がギシリと軋む。
心臓は痛いほど高鳴り、アルウェンは胸の前で強く手を握り締めた。
「……必要以上にかかわるのはやめようと思っていた。おまえの事情を考えれば、それが一番だろうと」
サリオンは上体を屈めると、アルウェンの顔の横に両手をついた。
鼻先が触れるほど近くに、この世のものとは思えない美しい顔がある。
眩いほどの神々しさに、アルウェンは目を細めた。
「でも、殿下はずっと一緒にいてくださいました。私が寂しいと感じる暇もないくらいに」
「……ずっと触れたかった」
額に、こめかみに、そして首筋に──順番に唇が押し当てられ、背筋に甘い痺れが走る。
耳朶を食まれ、思わず声を漏らしたアルウェンの唇に、そっと柔らかなものが触れた。
それはすぐに離れて、再び重なった。
今度は深く、長く。
「殿下……!」
この夜、アルウェンはサリオンの腕の中で、我を忘れるほどに甘やかされた。
幸せで幸せで、涙を流し続けるアルウェンをサリオンは黙って受け止めた。
二人は空が白み始める頃までお互いの気持ちを確かめ合った。
サリオンにとってはまだ途中だったのだが、限界を迎えたアルウェンは、日が昇り切る前に気を失うように眠りについた。
「……アルウェン……」
何度放っても冷めぬ熱を抱えながら、サリオンは後ろからアルウェンをきつく抱きしめ、目を閉じた。
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