53 / 62
52
しおりを挟む「殿下、おはようございます」
主たちがめでたくも初めて結ばれたことなど知る由もないアルマをはじめとする侍女たちは、普段より少し遅く朝食の席に姿を現したサリオンに、いつも通り挨拶をした。
「今朝はアルウェンの分の支度はいらない。起きたらなにか用意してやってくれ」
「もしかして、お加減が優れないのでしょうか。でしたら侍医を──」
「いや、そういうわけじゃない。だが今日は起こさず寝かせてやってくれ」
「かしこまりました」
そういうサリオンも今朝はどこかうわの空。
用意された朝食にもほとんど手をつけず、執務室へと向かった。
いつもの朝。
けれどいつもとはどこか違う朝に疑問を感じた侍女たちが、二人の変化を感じ取るのはもう少し先のこと。
*
(おやまあ……)
執務室に入ってきた主人を見るなり、付き合いの長い側近は驚嘆した。
「殿下、おはようございます」
「ああ」
いつもと同じ、素っ気ない返事。
机の上に山のように積まれた書類と気怠そうに向き合う姿もいつも通り。
けれども今日の彼から滲み出る雰囲気は、明らかにこれまでとは違う。
時折手を止め、なにかを思い出すように微笑む主人に側近──ルイスは気遣わしげに声をかけた。
「殿下、裁可のいくつかは明日に回しましょうか」
「あ?なぜだ」
「いえその、お顔が」
「顔がどうした」
正直に言って良いものかどうか判断がつかないが、これ以上待たせると不機嫌になることは経験から予測済みなので、素直に口を割ることにした。
「肌艶が大変よろしい割に目の下のクマがすさまじいです。あと、時折不気味に微笑まれるのも見てるこちらとしてはどうしたものかと」
「おまえ、言わせたのは俺だが少し慎め」
「……おめでとうございます、と言ってもよろしいのでしょうか」
普段愛想もへったくれもない主人がほんのりと頬を赤らめる衝撃たるや。
ルイスは感慨に耽った。
「必要以上にかかわらないとおっしゃられた時はどうなることかと思いましたが……よかったですね。浮かれる気持ちはわかりますが、あまり無理をなさらないでくださいよ」
既に無理なら十分している。
なにせサリオンは昨夜から一睡もしていないのだから。
まだ会話中だというのに、サリオンはルイスそっちのけで昨夜のアルウェンとの一部始終を思い出していた。
サリオンの熱を呑み込む柔らかな身体が、涙を流しながら愛の言葉を紡ぐ果実のような唇が、いとも簡単に彼から自制心を奪い去った。
その結果、時間にもアルウェンの限界にも気づかずに、心のままひたすらに求めてしまった。
気を失うように眠ってしまったアルウェンを抱きしめても、サリオンの芯が持つ熱は収まってくれず、噛みつきたい衝動に駆られる白い首筋に顔を埋め、必死で耐えた。
力の抜けた頼りない細い身体と無垢な寝顔が愛おしくてたまらなくて、離れるのにかなりの時間と忍耐を要した。
自身の足場を固めるためにと割り切って結婚した相手に、自分がこれほど心を掻き乱される日が来るなんて。
最初の頃こそ戸惑いを覚えずにはいられなかったが、アルウェンと過ごすうちに自分の気持ちをしっかりと自覚するようになった。
「幸せに浸られているところ申し訳ないのですが、目を通していただきたい資料が」
「建国祭か。父上の容態はどうだ」
「出席は絶望的です。実質、次期皇帝、皇后陛下のお披露目の場になるかと」
建国祭には同盟国も数多く出席する。
式典に際し、サウラ妃陣営がなにか仕掛けてくるであろうことは容易に想像できる。
サリオンは深いため息をついた。
「妃に迎えたばかりだというのに……苦労をかけるな……」
現状、一番苦労しているのはルイスなのだが、頭に花が咲き乱れているサリオンは、すべてのベクトルがアルウェンに向かっていた。
もう少しこのまま穏やかな新婚生活を送らせてやりたい。
そしてサリオン自身、アルウェンとの時間をもっと持ちたいと思っている。
家族や元婚約者の元で傷ついた分、これからは自分の側で、真綿で包むようにして守ってやりたい。
アルウェンが求めるだけ……いや、それ以上のものを与えたい。
(あちらがどのような策を巡らせて来ようと、負ける気はない)
「サウラ妃の動向に引き続き目を光らせておけ。あと、シャトレ侯爵家もな」
「妃殿下のご生家を?確かに先日の茶会での出来事に関しては目を瞑ることはできませんが、あのシャトレ侯爵に限ってこれ以上の失態は許さないでしょうに」
「問題はあのとてつもない馬鹿だ。まったく、アルウェンと血の繋がりがあるとは到底思えない」
誰も気にも留めないような些末な存在が、破滅のきっかけであった事例など、帝国の長い歴史上でも数多く存在する。
アルウェンが生家と縁を切り、グラフトン公爵家との養子縁組が無事に済むまでは、足を引っ張られるわけにはいかない。
「アルウェンを迎えたことで、これから皇宮内の勢力図も大きく変わる。おまえたちもしっかり頼むぞ」
「心得ております」
1,173
あなたにおすすめの小説
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
公爵令嬢は逃げ出すことにした【完結済】
佐原香奈
恋愛
公爵家の跡取りとして厳しい教育を受けるエリー。
異母妹のアリーはエリーとは逆に甘やかされて育てられていた。
幼い頃からの婚約者であるヘンリーはアリーに惚れている。
その事実を1番隣でいつも見ていた。
一度目の人生と同じ光景をまた繰り返す。
25歳の冬、たった1人で終わらせた人生の繰り返しに嫌気がさし、エリーは逃げ出すことにした。
これからもずっと続く苦痛を知っているのに、耐えることはできなかった。
何も持たず公爵家の門をくぐるエリーが向かった先にいたのは…
完結済ですが、気が向いた時に話を追加しています。
【完結】君の世界に僕はいない…
春野オカリナ
恋愛
アウトゥーラは、「永遠の楽園」と呼ばれる修道院で、ある薬を飲んだ。
それを飲むと心の苦しみから解き放たれると言われる秘薬──。
薬の名は……。
『忘却の滴』
一週間後、目覚めたアウトゥーラにはある変化が現れた。
それは、自分を苦しめた人物の存在を全て消し去っていたのだ。
父親、継母、異母妹そして婚約者の存在さえも……。
彼女の目には彼らが映らない。声も聞こえない。存在さえもきれいさっぱりと忘れられていた。
月夜に散る白百合は、君を想う
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。
彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。
しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
前世と今世の幸せ
夕香里
恋愛
【商業化予定のため、時期未定ですが引き下げ予定があります。詳しくは近況ボードをご確認ください】
幼い頃から皇帝アルバートの「皇后」になるために妃教育を受けてきたリーティア。
しかし聖女が発見されたことでリーティアは皇后ではなく、皇妃として皇帝に嫁ぐ。
皇帝は皇妃を冷遇し、皇后を愛した。
そのうちにリーティアは病でこの世を去ってしまう。
この世を去った後に訳あってもう一度同じ人生を繰り返すことになった彼女は思う。
「今世は幸せになりたい」と
※小説家になろう様にも投稿しています
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
陛下を捨てた理由
甘糖むい
恋愛
美しく才能あふれる侯爵令嬢ジェニエルは、幼い頃から王子セオドールの婚約者として約束され、完璧な王妃教育を受けてきた。20歳で結婚した二人だったが、3年経っても子供に恵まれず、彼女には「問題がある」という噂が広がりはじめる始末。
そんな中、セオドールが「オリヴィア」という女性を王宮に連れてきたことで、夫婦の関係は一変し始める。
※改定、追加や修正を予告なくする場合がございます。ご了承ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる