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しおりを挟むサリオンの寝台で目を覚ましたアルウェンは、ぼんやりとした意識の中、ふと辺りが暗いことに気づく。
隣を見るとサリオンの姿はない。
身体を起こそうとしたアルウェンの目に、なにも身に着けていない自身のあられもない姿が映り、昨夜の光景がよみがえる。
(私……殿下と……)
刹那、彼を受け入れた場所が切なく疼いた。
初めて感じる喪失感にも似たそれに、瞬く間に顔に熱が集まる。
アルウェンの涙を唇で拭い、何度も何度も優しく愛してくれた。
心の底から幸せだと、生まれて初めて感じることができた夜だった。
できるなら目覚めた時に側にいてほしかったのに、サリオンはどこへ行ったのだろう。
そして今の時刻は──
「妃殿下、お目覚めになられましたか……?」
天蓋から下がるカーテン越しに、アルマの遠慮がちな声が聞こえてきた。
「申し訳ございません、殿下からは妃殿下が目を覚まされるまではそっとしておくよう言われたのですが、待てども待てどもお出でにならないので、さすがに心配になりまして」
「アルマ、今何時かしら」
「五時を回ったところです」
「五時!?」
そういえば意識を失う直前、空が白み始めていたのを覚えている。
アルウェンは慌てて昨夜着ていた衣服を探す。
重だるい身体に鞭を打って、足元にあった夜着を急いで身につけると寝台を降りた。
(もうすぐ殿下がお帰りになる……急がなくちゃ)
聞くところによると、サリオンは今朝、いつも通りの時間に執務室に向かったという。
サリオンだって寝不足だろうに、アルウェンは夕方まで呑気に寝ていた自分が恥ずかしくなった。
「アルマ、湯浴みの支度をお願いできる?」
「かしこまりました。ではすぐに──」
「待って!あ、あとね、その……」
「どうかなさいましたか?」
「あの……ベッドを綺麗に……整えておいて欲しいの……」
消え入りそうな声にアルマはピンときた。
長年の侍女勤めで培った勘は大当たりで、アルウェンに断りを入れて覗き込んだ寝台は……色々大変なことになっていた。主にシーツが。
顔を真っ赤にして俯くアルウェンに、アルマは深く頭を垂れた。
「おめでとうございます、妃殿下」
「……ありがとう、アルマ」
湯浴みを終え、サリオンの帰りを待つが、どうにも落ちつかない。
立ったり座ったりを繰り返すアルウェンを、使用人たちは生温い眼差しで見守った。
「殿下がお戻りになられました」
侍女の声掛けに、アルウェンの胸は痛いくらい大きな音を立てて跳ねた。
会いたいけど会いたくないような、むず痒い気持ちでいっぱいだった。
「お帰りなさいませ」
入室してきたサリオンは、迷いない足取りでアルウェンの前までやってきた。
覚悟していたはずなのに、いざ彼を目の前にすると恥ずかしくて顔が見れない。
「少しは眠れたか」
サリオンの手が優しく頬から首筋に触れる。
この手が自分を抱いたのだと思うと、甘く胸が締め付けられる。
「殿下はいつも通り執務に向かわれたのに、私ときたら呑気に夕方まで寝てしまって……申し訳ありません」
「謝るな。むしろそうしてくれて助かる」
「どういうことですか?」
首を傾げるアルウェンの耳元に、サリオンは唇を寄せた。
「ちゃんと休まなければ、今夜もすぐに眠ってしまうだろう?……俺は足りなかった」
いつもと変わらぬ口調と表情で、とんでもないことを言ってのけるサリオン。
アルウェンは、なんと返したらいいのかわからず慌てふためいた。
しかしどうやら彼はあんなに長い時間愛し合ったにもかかわらず、不満足でいらっしゃるようだ。
(さすがハイリンデンの戦神……)
アルウェンにとっては比喩でなく命懸けの騒ぎだったが、サリオンからすればあれくらいのことは準備体操にもならないのかもしれない。
もっと体力をつけなければ──アルウェンは密かに心の中で誓った。
(でも……あら?)
アルウェンは、いつも完璧なサリオンの顔に影を落とす巨大なクマを見つけ驚いた。
「あの、殿下。昨夜は少しでも休まれましたか?」
「ああ、それはぐっすりとな」
どう考えても通らない嘘に、アルウェンを始め側で聞いていた侍女たちも、思わず吹き出そうになるのを必死で堪えたのだった。
食卓につくと、サリオンから来月行われる建国祭についての話が出た。
同盟国が数多く集まる年に一度の祭典を、皇帝陛下が不在の今、サリオンとアルウェンで仕切ることになるという。
「サウラ妃は父上から緊急時において一切の権限を与えられていない。なにごとも起こらぬようこちらも注意するが、用心だけはしておいてくれ」
「わかりました。私は皆さまをもてなすことに力を尽くせばよろしいですか?」
「ああ。宴の采配など一切をおまえに任せる。俺の側近──ルイスを頼れ」
「わかりました。それとその……」
「ん?」
「式典に際し私の生家はどうされますか」
「欠席というわけにはいかないだろう」
サリオンとしても早急にアルウェンとグラフトン公爵家の養子縁組を済ませたいところだが、問題はシャトレ侯爵がそれを拒んでいることだ。
養子縁組には必ず両家の了承とサインが必要になる。
シャトレ侯爵は妻子の愚行を恥じていて、謝罪の意を示してきた。
それだけではない。なんとあの馬鹿者が猛省のち改心し、再教育を受けることを自ら望んだというのだ。
おまけにシャトレ侯爵からは、愛する我が子を捧げたのに、縁まで切らせるつもりかと恨み言まで。
意地でも外戚としての地位を維持したいのか、それとも純粋に娘への愛なのかどうかはサリオンも判断がつきかねる。
だが、サリオンとしても無理矢理ことを進めてシャトレ侯爵家を敵に回すことは避けたい。
シャトレ侯爵家とアルウェンの縁は切れても、帝国との縁は家門が取り潰しにでもならない限り永遠に続いていくのだから。
「面倒なことになったな……だが心配するな。必ずなんとかする」
「殿下……」
不思議だ。
サリオンのくれる言葉は、アルウェンをなによりも安心させてくれる。
どんなことが起こっても大丈夫だと思わせてくれる。
「おまえも初めての大仕事だからと無理はするなよ。まずはできる範囲から徐々に広げていけ」
「はい。殿下、ありがとうございます」
「それと、アルウェン」
彼が名前で呼ぶのは珍しい。
だいたい『おい』か『おまえ』なのに。
「その『殿下』という呼び方、そろそろやめてもいいだろ」
「お名前を呼んでもよろしいのですか?」
クマに覆われた目がジトーっと見つめてくる。怖い。
「では……サリオン様……」
名前を口にしただけなのに、じんわりと胸の中が温かくなる。
「サリオン様……今夜はなるべく早く寝ましょうね」
『あんまり盛るなよ』と暗に窘められた気がして、サリオンは咀嚼していた肉を喉に詰まらせかけた。
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