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壱の章 最西端軍事国家キギス
壱 森の子 海時
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プロローグ. 『美しさの持ち主』
人は生まれ付き愛されそうな雰囲気を持っている。それは、密かに努力しているからだ。だが、いくら努力しても愛されない者もいる。その者たちを世間では半神と呼ぶ。
「どんな花でも美しくない花なんて存在しないのだが、一目でその美しさが分かる花があれば、そうでない花だってある。いつからともなく世界はそう作られていた。」
壱. 『森の子 海時』
十歳の海時
森の緑陰から漏れてくるそよ風が俺の全身を包み込む。風とともにそよめく木の枝や花、草。こんな気持ちいい風に当たるのは毎日の日課だ。
俺の名前は海時。この緑が沢山広がる森の住人だ。俺はこの森で生まれて森の外に出ることもなく十年も住んでいる。森にばっかり閉じこもっているけど退屈だと思ったことはなかったな。雨の日になると溜まった水溜りで水遊びをしながらはしゃいだりもして、俺は自分なりの幸せな人生を送ってきたつもりだった。
しかし、ある日のことを軸に俺は本当に幸せなんだろうかという疑問が生まれる。それは今から六年前のこと。俺が十歳だった頃の話だ。
いつもと変わらず、俺は森の東に流れる渓流で水を汲み両腕の天秤棒で担いで住処に帰るところだった。俺はその帰り道である女の子に出会う。それが俺がこの森に住みながら初めて会う同じ年頃の子…。
——わあ、俺みたいに小さい人は初めてだ。あいつどっから来たんだろう…俺と違って服も綺麗だし手も綺麗…。
紺色の髪を背中まで伸ばし、華奢な青に白い花柄がある小袖を着ている少女が森の真ん中で風に舞い散る木の葉を一葉左手で摘まんでいる。後ろから見た彼女の姿はまるで別世界の者にも見えた。最初は彼女が森で何をしているのか木の裏に隠れて様子を見ることにした。
俺は初めてみる外界人の彼女を目の前にして独り言をむにゃむにゃと呟いていた。あっそうだ。俺はこの森の外から来た人たちを外界人と呼んでいる。
「…の…。」
暫く考え事をしていた俺の耳元に何かしらの音が聞こえてくる。
「あの…。」
「うわああっ!」
いつの間にか彼女が俺の隣にしゃがんで声をかけていたのだった。俺は近寄られた彼女の顔を見てつい後ろに転んだ。そのおかげで汲んできた水が全部溢れてしまった。
「あの、大丈夫?」
彼女が声をかけた。
「てめぇ!…はなんでこの森にいるんだ?」
俺は溢れた水は置いておいて、なぜ彼女がこの森にいるのか理由を訊いた。
「遊びに来たの。でもちょっと道を迷っちゃって…。もしかしてあなたもお迷子さん?」
「いや、俺はここに住んでるんだ。な!な!それよりも、どうだ?ここはいい森だろ!」
俺は久々の外界人とのお喋りに浮かれた口調になっていた。
「え、嘘。ここに住んでるの?こんな虫だらけで気持ち悪いところに?」
槍で心臓を貫かれるような痛い返事が帰ってきた。
「気持ち悪いって何だよ!ほら!森の大樹一本一本が繋いでくれるこの気持ちいい風!それから俺が水を汲んできた東の渓流もすんごい綺麗だぜ?」
俺は両腕を大きく伸ばして言った。
「へえ、渓流もあるんだね!でも私母ちゃんと逸れちゃったから戻らないといけないの。ねえ、協力してくれない?森の外まで案内してほしいの。」
彼女は困った顔をして俺の顔をじっと見つめた。俺は仕方なく彼女に協力することにする。
「しょ、しょうがないなあ。いいよ。森の出口まで送ってやるわ。」
「本当に?やった!ありがと。」
そうして俺は彼女を森の外まで案内した。二人で森の茂みを潜り抜けながら森の外へ向かった俺はふと彼女がさっき話した言葉が気にかかって訊いてみることにした。
「あのさ。カア…ちゃんってなんだ?」
「ん?母ちゃんは母ちゃんだよ?」
てんで分からない。
「ぬんん…。だから、そのカアちゃんってどんなやつなんだ?っつうの!」
「母ちゃん知らないの?ママだよ。ママ!あんた母ちゃんいないの?」
彼女が眉を潜めて俺に訊いた。
「うん、そんなもんいない。」
「じゃあ、父ちゃんは?」
「何か知らないけどそれもいないな。」
俺はポリポリと頭を掻きながら言った。
「あんた不思議な子だね。」
「森の外から来たお前の方こそよっぽど不思議な子だと思うがな…。」
そうやったどうでもいい話も交わしながら茂みを潜り抜けると、普段は遠く感じていた森の出口にあっという間に着いた。彼女は意外だねと言わんばかりの口調で言う。
「わあ、本当に森から出られた!」
「本当にってなんだよ。失礼なやつだなぁ。」
森の出口に着いた彼女は俺にお礼を言ってすぐにその場から立ち去ろうとした。しかし、俺はせっかく同じ年頃の子と話す機会があったのに、ここで別れるのは少し…、少し残念な気がした。だから勇気を出して彼女に別れの挨拶を言う。
「お、おい!また遊びに来いよ!その時はもっと面白いところへ連れてってやるからよ。この森はすごいんだから!」
彼女が振り向いて俺の方を見ると、微笑んで言った。
「うん!また来るね。」
その姿を見て一瞬可愛らしさを覚えた俺は顔を赤らめてすぐそっぽを向いた。彼女はそのまま東の方へ行ってしまった。
そして彼女がまたこの森に訪れることはなかった。それが俺と彼女の最初で最後の出会いだった。
その後、俺はさっき水を溢した場所に戻った。そして溢したバケツを天秤棒にかけてもう一度東の渓流へ向かった。
「そういえば、あいつの名前訊くの忘れたな…。まあ、いっか。今度遊びに来る時に訊けばいいし。よいしょっと!」
渓流に着いて再び水を汲んだ俺は今度こそ住処へ戻った。お天道様はすでに海の向こうに顔を半分も隠して夕焼けの橙色だけが空に滲んでいた。
「そろそろだな。」
広い海が一望できる森の崖近くに丸太で建てられた二階建ての家が見えてくる。家の前に着いて両肩に担いだ天秤棒を地面に下ろした途端、玄関の扉が内側から蹴り飛ばされこっちに向かって正面から飛んできた。扉を運良くよけた俺はワナワナと怯えながら玄関の方を見る。すると、玄関から男性が怒鳴るような大声が聞こえてきた。
「海時!!水を汲んでくるのに何時間かかってるんだ!!」
「ご、ごめんなさいっ!!」
およそ六尺はする巨躯の男が歩いて玄関から出てきた。そう。この人が俺を育ててくれた大城戸(おおきど)のおっさんだ。
「海時お前ってやつは…。また寄り道したんだろ!」
「ちょ、ちょっと聞いてくれよ!これには深い訳があって…。」
「もう騙されんぞ!今日こそ晩飯抜きにするからな!」
「人に会ったんだ!」
大城戸のおっさんが渋面をして俺に訊く。
「また外の人と会ってきたのか?」
「そう!そうだけど、今まで見たことない俺と同じくらい背が小さくて髪が長い子だった。名前は知らないけど…。」
「外の人と接触するのはやめろと言ったはずだ。」
そうだ。俺はいつも森の外の人と会うたびにこうしておっさんに叱られる。なんでだろう。
「なんで外界人と会っちゃダメなんだ?別に悪い人じゃなかったんだぞ?」
俺は一体何のために毎回こんな誤解を解こうとするような弁解口調をしているんだろう。こうやって熱して話すと、毎回この言葉が返ってくる。
「それでもダメだ。危険すぎるから。」
俺はムカッとして声を上げる。
「おっさんはなんにも知っちゃいねえ!俺が会ってきた人たちはみんな…。」
俺は今まで森で出会った人たちを思い出した。
「美味い握り飯をくれた。兎の捕まえ方を教えてくれた。水切りを教えてくれた。木登りを教えてくれた…。いい人がたくさんいたよ!」
「極一部だけだ!お前はまだ幼いから外の世界を知らなすぎるんだ。外界は甘っちょろいところじゃねぇんだよ。」
そう言ったおっさんはなぜか辛そうな顔をして家に上がった。
「おっさん…。」
以後、俺は何も喋らず汲んできた水を台所まで運んで置いた。そして俺はもじもじしながら台所からおっさんを見据える。おっさんは居間で一人で夕飯を食べていた。
——腹減った…。俺も飯食いてぇな。
腹を鳴らす音が向こうまで聞こえたんだろうか、おっさんはこっちを見ながら俺に手招きをした。
「ヒヒッ!」
俺はすぐに卓袱台の前に腰を掛けた。卓袱台には白いご飯と昨日採ってきたキノコやウグイの塩焼き、蘭茶がホカホカと湯気を立てていた。
「冷める前に食えよ。」
「おう!!いただきます!」
冷たそうな口振りだけど、大城戸のおっさんはとても優しい。そして、
「コラ!野菜も食わんかい!!」
「ひいっ!食います!食いますうぅ…。」
よく怒る。
俺は小さい頃からずっとこの人と二人でこの森で過ごしてきた。二人だけでもこの森の生活は割と楽しかった。おっさんと渓流でウグイを釣ったり、猪の狩りに出たり。でも森の外については何も教えてくれなかった。
もちろん森に入ってくる外の人とは関わらないように、といつも俺に注意をしていた。
「おっさんって外のこと知ってるのかな…。」
俺は心の中で言ったつもりが、つい口から出してしまう。無意識の自分の行動に驚いた俺は咄嗟におっさんの方に顔を向けた。するとおっさんは俺の言葉が聞こえたんだろうか一度深く首を縦に振ってこう言った。
「俺は森の外から来た。」
俺は初めて聞いた。おっさんが外界の人だったってことを。
「え、まじ?なんで今まで黙ってたんだよーこのケチ!」
と言うが早いか、
「今まで訊かれてなかったから。」
と、素っ気ない返事だけが返ってきた。
「って即答かよ!」
俺は外の世界が死ぬほど気になる。俺にとって外の人たちはみんな優しくて物知りで強かった。俺も知らないうちに外の人たちに憧れていたんだろうか。普段は全く気にしてなかったけど、おっさんのことが気になったきた。
「おっさん!俺に外のこと教えてくれよ。」
「なんでそこまで外にこだわる。このガキが!」
おっさんは面倒くさそうな顔をした。
「だって、俺はこの森から出たことがないからさ、外界がどんなところかめっちゃくちゃ気になるんだよ!」
俺がしつこく言うとおっさんは手に持った茶碗を卓袱台に下ろして俺に訊く。
「お前はこの森がどの国に属してあるのか覚えてるか?」
「確かに、キギス…?って名前だったんだろ?」
「そうだ。この世界には十四の国が存在する。その中でも一番西に位置する国がここキギスだ。」
「へえ。ここが一番西なんだ。」
おっさんは左手の人差し指と中指を開いて俺に見せた。
「十四の国はまた二種類に分けられる。」
「二種類…?」
俺は右に首を傾げた。
「そう。七草と呼ばれる七つの国家。そしてアリスタータと呼ばれる七つの国家にな。」
「なんでそう分けてるの?」
傾げていた俺の首はさらに下に傾く。おっさんは渋い顔をして話を続けた。
「この世界には二種類の種族が存在するからだよ。」
「種族?」
「自然の力を養分として神才を呼び起こす神族と、鉄のような肉体を持ち神族には到底敵わない身体能力を有している人族。この二つの種族でこの世界は成り立っているんだよ。」
俺は神族ってやつが気になって訊く。
「その神才ってのはどんなやつだ?」
「神才は奇跡とも呼ばれる力だ。例えば海の加護を受けていればどこでも波を作り出すことができる。太陽の加護を受けていれば、暗闇でも光を作ることができるし太陽のように熱を出せる。」
「すごい!想像はつかないけど、俺もできるのかな?」
俺が訊いてもおっさんは素っ気なく次の話へ移る。
「話の続きだ。この世界にはまだもう一種の種族が存在する。」
「もう一種?」
「それは、神と人間の間で生まれた者、半神。」
「半神?神と人間が混ざった感じ?」
「そうだ。」
「じゃあ、神よりも人間よりもすごいやつじゃん!人間みたいに強いし、神みたいに神才ってやらも使えるし!」
俺は浮かれて半神のことを羨んだ。するとおっさんは一段と渋い顔で言う。
「問題はそこだ。」
「え?」
「神と人間はより強い兵士を作り出すためにいろんな悪行を犯してきたのさ。その段階で生まれた半神は必ず悲惨な末路をたどった。」
「強いのになんで?」
俺は箸を握っていた右手を止めて訊く。
「強いとみんなが思い込んでいた半神は、実はとてつもなく弱い存在だったからだよ。人間と神の血を両方とも引いているとはいえ、どっちも半分ずつしか引いていないから人間より劣る身体能力、神より劣る神才を持っていたんだ。」
「ええっ考えたのと全然違うんだ…。てっきり強いと思ってたのに。」
俺はがっかりして食事を続ける。
「無理もない。世界中の人たちがそう信じていたからさ。それで生まれてきた半神は皆、世間では『出来損ない』と呼ばれ、どこぞの貴族の奴隷に成り果てた。」
そしておっさんが俺に指を刺して言う。
「俺がお前を外に出さない理由は、お前も人間と神の血を半分ずつ引いているからだ…。」
俺はその話を聞いてキョトンとした。
「俺が半神…。」
「森で会った人は優しかったかもしれないが、森の外でお前が外界人にどんな目に合うのかは言わずと知れたことだ。ここキギスは七草ハギが統治する人族国だからガキのお前が外に出歩いていたら、さぞ奴隷にされて売られっちまうだろうな。それでもこの森から出たいのか?」
俺のその話を聞いて怯むどころか以前よりも外の世界を知りたくなった。
「おっさん。俺、森の外へ出る!!」
「お、おい!俺の話ちゃんと聞いてたのか?」
「聞いたよ。だから外の世界へ行きたいのさ。自分の目で見てみたいんだ!」
「ガキのお前に何ができると言うんだ!刀もろくに持てないやつが。」
「これから強くなればいい!なんかさ…。」
時々経験する。なぜか今やらなければならないと心の奥底から呼びかけられる感じがする。今回もそれと同じ感覚だった。
「今やらなければ後で後悔する気がするんだ!」
「あ、アヤメ…?」
今、一瞬おっさんが俺の顔を見て何かを呟いた気がした。おっさんはすぐに蘭茶をグッと飲んだ。俺は大したことじゃないと思って、今日森で会った子の話をした。
「あ、そういえば今日会った子にカア…ちゃんがいるのか訊かれた。おっさんが俺のカアちゃんか?」
すると、おっさんは飲んでいた蘭茶を俺の顔面に吹いた。
「何すんだよ!汚えな!」
「そういや、今までお前に両親のことを教えてなかったな。」
「両親?なんだそりゃ。」
俺は手拭いで顔を拭きながら訊く。
「両親ってのはお前をこの世に生んでくれた人のことなんだよ。父さんと母さんのことさ。二人が互いに愛し合ってお前はこの世界に生まれてきたんだ。」
「え、俺にもいるの?父ちゃん母ちゃん。」
「ああ、遠いところだけど、お前にも母ちゃんと父ちゃんはいる。」
「どこにいるの?」
俺が訊くとおっさんは崖が見える窓の方に顔を向けて言う。
「この崖から見える海の向こうかな。」
「そうなんだ。帰っては来ないの?」
「さあ、どうなんだろうな。随分遠いところにいるからな。」
俺は目をギラギラさせて言った。
「じゃあさ、俺が強くなって外界へ出たら母ちゃんにも会ってくるよ!」
するとおっさんは俺の言葉を無視して卓袱台を片づけた。そしておっさんは無言のまま洗い物を始めた。洗い物を終わらせたおっさんは手拭いで手を拭く。それからの一言。
「じゃあ、明日から覚悟しろよ。」
その一言で俺は一瞬全身に悪寒が走った。
話をしながら食事をするとすぐに橙色を帯びた空は闇に呑まれ、月も見えない夜がやってきた。外からはコオロギの鳴き声が聞こえる。俺は一階の風呂場で軽く体を洗い二階に上がって自分の部屋に入った。
「よーし!明日から頑張るぞ!さてと、とりあえず寝よう。」
整頓されていない汚い部屋の端っこに畳んである敷布団を敷いて横になった俺は森の外の世界を想像しながら目を瞑る。
人は生まれ付き愛されそうな雰囲気を持っている。それは、密かに努力しているからだ。だが、いくら努力しても愛されない者もいる。その者たちを世間では半神と呼ぶ。
「どんな花でも美しくない花なんて存在しないのだが、一目でその美しさが分かる花があれば、そうでない花だってある。いつからともなく世界はそう作られていた。」
壱. 『森の子 海時』
十歳の海時
森の緑陰から漏れてくるそよ風が俺の全身を包み込む。風とともにそよめく木の枝や花、草。こんな気持ちいい風に当たるのは毎日の日課だ。
俺の名前は海時。この緑が沢山広がる森の住人だ。俺はこの森で生まれて森の外に出ることもなく十年も住んでいる。森にばっかり閉じこもっているけど退屈だと思ったことはなかったな。雨の日になると溜まった水溜りで水遊びをしながらはしゃいだりもして、俺は自分なりの幸せな人生を送ってきたつもりだった。
しかし、ある日のことを軸に俺は本当に幸せなんだろうかという疑問が生まれる。それは今から六年前のこと。俺が十歳だった頃の話だ。
いつもと変わらず、俺は森の東に流れる渓流で水を汲み両腕の天秤棒で担いで住処に帰るところだった。俺はその帰り道である女の子に出会う。それが俺がこの森に住みながら初めて会う同じ年頃の子…。
——わあ、俺みたいに小さい人は初めてだ。あいつどっから来たんだろう…俺と違って服も綺麗だし手も綺麗…。
紺色の髪を背中まで伸ばし、華奢な青に白い花柄がある小袖を着ている少女が森の真ん中で風に舞い散る木の葉を一葉左手で摘まんでいる。後ろから見た彼女の姿はまるで別世界の者にも見えた。最初は彼女が森で何をしているのか木の裏に隠れて様子を見ることにした。
俺は初めてみる外界人の彼女を目の前にして独り言をむにゃむにゃと呟いていた。あっそうだ。俺はこの森の外から来た人たちを外界人と呼んでいる。
「…の…。」
暫く考え事をしていた俺の耳元に何かしらの音が聞こえてくる。
「あの…。」
「うわああっ!」
いつの間にか彼女が俺の隣にしゃがんで声をかけていたのだった。俺は近寄られた彼女の顔を見てつい後ろに転んだ。そのおかげで汲んできた水が全部溢れてしまった。
「あの、大丈夫?」
彼女が声をかけた。
「てめぇ!…はなんでこの森にいるんだ?」
俺は溢れた水は置いておいて、なぜ彼女がこの森にいるのか理由を訊いた。
「遊びに来たの。でもちょっと道を迷っちゃって…。もしかしてあなたもお迷子さん?」
「いや、俺はここに住んでるんだ。な!な!それよりも、どうだ?ここはいい森だろ!」
俺は久々の外界人とのお喋りに浮かれた口調になっていた。
「え、嘘。ここに住んでるの?こんな虫だらけで気持ち悪いところに?」
槍で心臓を貫かれるような痛い返事が帰ってきた。
「気持ち悪いって何だよ!ほら!森の大樹一本一本が繋いでくれるこの気持ちいい風!それから俺が水を汲んできた東の渓流もすんごい綺麗だぜ?」
俺は両腕を大きく伸ばして言った。
「へえ、渓流もあるんだね!でも私母ちゃんと逸れちゃったから戻らないといけないの。ねえ、協力してくれない?森の外まで案内してほしいの。」
彼女は困った顔をして俺の顔をじっと見つめた。俺は仕方なく彼女に協力することにする。
「しょ、しょうがないなあ。いいよ。森の出口まで送ってやるわ。」
「本当に?やった!ありがと。」
そうして俺は彼女を森の外まで案内した。二人で森の茂みを潜り抜けながら森の外へ向かった俺はふと彼女がさっき話した言葉が気にかかって訊いてみることにした。
「あのさ。カア…ちゃんってなんだ?」
「ん?母ちゃんは母ちゃんだよ?」
てんで分からない。
「ぬんん…。だから、そのカアちゃんってどんなやつなんだ?っつうの!」
「母ちゃん知らないの?ママだよ。ママ!あんた母ちゃんいないの?」
彼女が眉を潜めて俺に訊いた。
「うん、そんなもんいない。」
「じゃあ、父ちゃんは?」
「何か知らないけどそれもいないな。」
俺はポリポリと頭を掻きながら言った。
「あんた不思議な子だね。」
「森の外から来たお前の方こそよっぽど不思議な子だと思うがな…。」
そうやったどうでもいい話も交わしながら茂みを潜り抜けると、普段は遠く感じていた森の出口にあっという間に着いた。彼女は意外だねと言わんばかりの口調で言う。
「わあ、本当に森から出られた!」
「本当にってなんだよ。失礼なやつだなぁ。」
森の出口に着いた彼女は俺にお礼を言ってすぐにその場から立ち去ろうとした。しかし、俺はせっかく同じ年頃の子と話す機会があったのに、ここで別れるのは少し…、少し残念な気がした。だから勇気を出して彼女に別れの挨拶を言う。
「お、おい!また遊びに来いよ!その時はもっと面白いところへ連れてってやるからよ。この森はすごいんだから!」
彼女が振り向いて俺の方を見ると、微笑んで言った。
「うん!また来るね。」
その姿を見て一瞬可愛らしさを覚えた俺は顔を赤らめてすぐそっぽを向いた。彼女はそのまま東の方へ行ってしまった。
そして彼女がまたこの森に訪れることはなかった。それが俺と彼女の最初で最後の出会いだった。
その後、俺はさっき水を溢した場所に戻った。そして溢したバケツを天秤棒にかけてもう一度東の渓流へ向かった。
「そういえば、あいつの名前訊くの忘れたな…。まあ、いっか。今度遊びに来る時に訊けばいいし。よいしょっと!」
渓流に着いて再び水を汲んだ俺は今度こそ住処へ戻った。お天道様はすでに海の向こうに顔を半分も隠して夕焼けの橙色だけが空に滲んでいた。
「そろそろだな。」
広い海が一望できる森の崖近くに丸太で建てられた二階建ての家が見えてくる。家の前に着いて両肩に担いだ天秤棒を地面に下ろした途端、玄関の扉が内側から蹴り飛ばされこっちに向かって正面から飛んできた。扉を運良くよけた俺はワナワナと怯えながら玄関の方を見る。すると、玄関から男性が怒鳴るような大声が聞こえてきた。
「海時!!水を汲んでくるのに何時間かかってるんだ!!」
「ご、ごめんなさいっ!!」
およそ六尺はする巨躯の男が歩いて玄関から出てきた。そう。この人が俺を育ててくれた大城戸(おおきど)のおっさんだ。
「海時お前ってやつは…。また寄り道したんだろ!」
「ちょ、ちょっと聞いてくれよ!これには深い訳があって…。」
「もう騙されんぞ!今日こそ晩飯抜きにするからな!」
「人に会ったんだ!」
大城戸のおっさんが渋面をして俺に訊く。
「また外の人と会ってきたのか?」
「そう!そうだけど、今まで見たことない俺と同じくらい背が小さくて髪が長い子だった。名前は知らないけど…。」
「外の人と接触するのはやめろと言ったはずだ。」
そうだ。俺はいつも森の外の人と会うたびにこうしておっさんに叱られる。なんでだろう。
「なんで外界人と会っちゃダメなんだ?別に悪い人じゃなかったんだぞ?」
俺は一体何のために毎回こんな誤解を解こうとするような弁解口調をしているんだろう。こうやって熱して話すと、毎回この言葉が返ってくる。
「それでもダメだ。危険すぎるから。」
俺はムカッとして声を上げる。
「おっさんはなんにも知っちゃいねえ!俺が会ってきた人たちはみんな…。」
俺は今まで森で出会った人たちを思い出した。
「美味い握り飯をくれた。兎の捕まえ方を教えてくれた。水切りを教えてくれた。木登りを教えてくれた…。いい人がたくさんいたよ!」
「極一部だけだ!お前はまだ幼いから外の世界を知らなすぎるんだ。外界は甘っちょろいところじゃねぇんだよ。」
そう言ったおっさんはなぜか辛そうな顔をして家に上がった。
「おっさん…。」
以後、俺は何も喋らず汲んできた水を台所まで運んで置いた。そして俺はもじもじしながら台所からおっさんを見据える。おっさんは居間で一人で夕飯を食べていた。
——腹減った…。俺も飯食いてぇな。
腹を鳴らす音が向こうまで聞こえたんだろうか、おっさんはこっちを見ながら俺に手招きをした。
「ヒヒッ!」
俺はすぐに卓袱台の前に腰を掛けた。卓袱台には白いご飯と昨日採ってきたキノコやウグイの塩焼き、蘭茶がホカホカと湯気を立てていた。
「冷める前に食えよ。」
「おう!!いただきます!」
冷たそうな口振りだけど、大城戸のおっさんはとても優しい。そして、
「コラ!野菜も食わんかい!!」
「ひいっ!食います!食いますうぅ…。」
よく怒る。
俺は小さい頃からずっとこの人と二人でこの森で過ごしてきた。二人だけでもこの森の生活は割と楽しかった。おっさんと渓流でウグイを釣ったり、猪の狩りに出たり。でも森の外については何も教えてくれなかった。
もちろん森に入ってくる外の人とは関わらないように、といつも俺に注意をしていた。
「おっさんって外のこと知ってるのかな…。」
俺は心の中で言ったつもりが、つい口から出してしまう。無意識の自分の行動に驚いた俺は咄嗟におっさんの方に顔を向けた。するとおっさんは俺の言葉が聞こえたんだろうか一度深く首を縦に振ってこう言った。
「俺は森の外から来た。」
俺は初めて聞いた。おっさんが外界の人だったってことを。
「え、まじ?なんで今まで黙ってたんだよーこのケチ!」
と言うが早いか、
「今まで訊かれてなかったから。」
と、素っ気ない返事だけが返ってきた。
「って即答かよ!」
俺は外の世界が死ぬほど気になる。俺にとって外の人たちはみんな優しくて物知りで強かった。俺も知らないうちに外の人たちに憧れていたんだろうか。普段は全く気にしてなかったけど、おっさんのことが気になったきた。
「おっさん!俺に外のこと教えてくれよ。」
「なんでそこまで外にこだわる。このガキが!」
おっさんは面倒くさそうな顔をした。
「だって、俺はこの森から出たことがないからさ、外界がどんなところかめっちゃくちゃ気になるんだよ!」
俺がしつこく言うとおっさんは手に持った茶碗を卓袱台に下ろして俺に訊く。
「お前はこの森がどの国に属してあるのか覚えてるか?」
「確かに、キギス…?って名前だったんだろ?」
「そうだ。この世界には十四の国が存在する。その中でも一番西に位置する国がここキギスだ。」
「へえ。ここが一番西なんだ。」
おっさんは左手の人差し指と中指を開いて俺に見せた。
「十四の国はまた二種類に分けられる。」
「二種類…?」
俺は右に首を傾げた。
「そう。七草と呼ばれる七つの国家。そしてアリスタータと呼ばれる七つの国家にな。」
「なんでそう分けてるの?」
傾げていた俺の首はさらに下に傾く。おっさんは渋い顔をして話を続けた。
「この世界には二種類の種族が存在するからだよ。」
「種族?」
「自然の力を養分として神才を呼び起こす神族と、鉄のような肉体を持ち神族には到底敵わない身体能力を有している人族。この二つの種族でこの世界は成り立っているんだよ。」
俺は神族ってやつが気になって訊く。
「その神才ってのはどんなやつだ?」
「神才は奇跡とも呼ばれる力だ。例えば海の加護を受けていればどこでも波を作り出すことができる。太陽の加護を受けていれば、暗闇でも光を作ることができるし太陽のように熱を出せる。」
「すごい!想像はつかないけど、俺もできるのかな?」
俺が訊いてもおっさんは素っ気なく次の話へ移る。
「話の続きだ。この世界にはまだもう一種の種族が存在する。」
「もう一種?」
「それは、神と人間の間で生まれた者、半神。」
「半神?神と人間が混ざった感じ?」
「そうだ。」
「じゃあ、神よりも人間よりもすごいやつじゃん!人間みたいに強いし、神みたいに神才ってやらも使えるし!」
俺は浮かれて半神のことを羨んだ。するとおっさんは一段と渋い顔で言う。
「問題はそこだ。」
「え?」
「神と人間はより強い兵士を作り出すためにいろんな悪行を犯してきたのさ。その段階で生まれた半神は必ず悲惨な末路をたどった。」
「強いのになんで?」
俺は箸を握っていた右手を止めて訊く。
「強いとみんなが思い込んでいた半神は、実はとてつもなく弱い存在だったからだよ。人間と神の血を両方とも引いているとはいえ、どっちも半分ずつしか引いていないから人間より劣る身体能力、神より劣る神才を持っていたんだ。」
「ええっ考えたのと全然違うんだ…。てっきり強いと思ってたのに。」
俺はがっかりして食事を続ける。
「無理もない。世界中の人たちがそう信じていたからさ。それで生まれてきた半神は皆、世間では『出来損ない』と呼ばれ、どこぞの貴族の奴隷に成り果てた。」
そしておっさんが俺に指を刺して言う。
「俺がお前を外に出さない理由は、お前も人間と神の血を半分ずつ引いているからだ…。」
俺はその話を聞いてキョトンとした。
「俺が半神…。」
「森で会った人は優しかったかもしれないが、森の外でお前が外界人にどんな目に合うのかは言わずと知れたことだ。ここキギスは七草ハギが統治する人族国だからガキのお前が外に出歩いていたら、さぞ奴隷にされて売られっちまうだろうな。それでもこの森から出たいのか?」
俺のその話を聞いて怯むどころか以前よりも外の世界を知りたくなった。
「おっさん。俺、森の外へ出る!!」
「お、おい!俺の話ちゃんと聞いてたのか?」
「聞いたよ。だから外の世界へ行きたいのさ。自分の目で見てみたいんだ!」
「ガキのお前に何ができると言うんだ!刀もろくに持てないやつが。」
「これから強くなればいい!なんかさ…。」
時々経験する。なぜか今やらなければならないと心の奥底から呼びかけられる感じがする。今回もそれと同じ感覚だった。
「今やらなければ後で後悔する気がするんだ!」
「あ、アヤメ…?」
今、一瞬おっさんが俺の顔を見て何かを呟いた気がした。おっさんはすぐに蘭茶をグッと飲んだ。俺は大したことじゃないと思って、今日森で会った子の話をした。
「あ、そういえば今日会った子にカア…ちゃんがいるのか訊かれた。おっさんが俺のカアちゃんか?」
すると、おっさんは飲んでいた蘭茶を俺の顔面に吹いた。
「何すんだよ!汚えな!」
「そういや、今までお前に両親のことを教えてなかったな。」
「両親?なんだそりゃ。」
俺は手拭いで顔を拭きながら訊く。
「両親ってのはお前をこの世に生んでくれた人のことなんだよ。父さんと母さんのことさ。二人が互いに愛し合ってお前はこの世界に生まれてきたんだ。」
「え、俺にもいるの?父ちゃん母ちゃん。」
「ああ、遠いところだけど、お前にも母ちゃんと父ちゃんはいる。」
「どこにいるの?」
俺が訊くとおっさんは崖が見える窓の方に顔を向けて言う。
「この崖から見える海の向こうかな。」
「そうなんだ。帰っては来ないの?」
「さあ、どうなんだろうな。随分遠いところにいるからな。」
俺は目をギラギラさせて言った。
「じゃあさ、俺が強くなって外界へ出たら母ちゃんにも会ってくるよ!」
するとおっさんは俺の言葉を無視して卓袱台を片づけた。そしておっさんは無言のまま洗い物を始めた。洗い物を終わらせたおっさんは手拭いで手を拭く。それからの一言。
「じゃあ、明日から覚悟しろよ。」
その一言で俺は一瞬全身に悪寒が走った。
話をしながら食事をするとすぐに橙色を帯びた空は闇に呑まれ、月も見えない夜がやってきた。外からはコオロギの鳴き声が聞こえる。俺は一階の風呂場で軽く体を洗い二階に上がって自分の部屋に入った。
「よーし!明日から頑張るぞ!さてと、とりあえず寝よう。」
整頓されていない汚い部屋の端っこに畳んである敷布団を敷いて横になった俺は森の外の世界を想像しながら目を瞑る。
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