オレンジ

ユウキ カノ

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12.真泉海

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 それは、穏やかに晴れた土曜日だった。仕事という義務がないなら一歩も外に出たくないような晴天の下。
 このところ、休みの日にはやく起きられたためしがない。昼過ぎになってもそもそと布団を這いだして、なんとか身支度を整える。あれから何度もクリーニングや天日干しをくり返しているのに、ベッドの上の布団からは、まなとのにおいが消えない。
 牛乳を飲みながら部屋を見渡す。綺麗好きだ、と何度もまなとがほめてくれたのに、その片鱗は今のおれには微塵もなかった。総菜の脂でギトギトのパック、コンビニの底上げ弁当の空箱、中途半端に中身が残ったペットボトルに、チューハイの空き缶。
 ふ、と唇が歪む。メディアでよく見る典型的な汚い部屋だ。人間は、こんなにも簡単にそれまでの習性を捨てて生きられるものなのかと自問自答して、問う相手も、答えてくれる相手も、もう自分しかいないのだという事実に心がひしゃげそうになった。
 床に放り投げていた一週間ぶんのワイシャツをエコバッグにまとめて、一瞬迷ったあと、ワイシャツと同じように床に置いてあった段ボール箱もバッグに詰めた。玄関ドアの外に出たとたん目の前に広がった青空から、身を隠すようにして道を歩く。
 側溝の蓋に空いた穴や、そこに蹴り入れた小石。店先の小さな花壇と、雨のたびに溢れていた大きな甕。牛乳が安いスーパーマーケット。コンドームを買いに駆け込んだドラッグストア。
 コンビニまでの道のりには、視界のすべてにまなとと過ごした景色があった。肩に担いだエコバッグが、段ボール箱の中身のせいでずしりと重い。
 コンビニに入る勇気がなくて、馴染みのクリーニング店へと急ぐ。『スピードコース』でワイシャツを預けて、外にまなとが待っていないことから目を背けるように、道路の汚れを探しながら歩いた。
 社会人になってほんとうに一番嫌なことは、客に謝ることでも、上司に叱られることでもない。眠れないまま朝を迎えても、他人に会うことを心が拒絶していても、死にたくても、きちんと身支度を整えて、なんてことないふうを装って、仕事に出かけてしまえることだ。ワイシャツをクリーニングに出さなければ、おれは明後日、仕事にいけない。部屋がゴミ屋敷になりつつあることも、出勤すれば関係ない。
 小奇麗な格好をして働きにいけば、とりあえず、この社会に属する一員でいられる。だから、クリーニング店にいくことくらい、幾度となくまなとと通った店に赴くことくらい、大したことない。大したことないと、思わなくてはいけない。
 片手に乗せてしまえるほどコンパクトな段ボール箱を握り締めて、コンビニの前で立ち尽くす。この小さな箱を宅配便で送るだけ。それだけのことに、勇気が足りない。
 やめよう。今ならまだ、家に戻れる。今ならまだ、戻ってきてほしいと言える。
 太一がなんだ。まなと本人の気持ちだって、どうだっていい。太一に取られるくらいなら、まなとがいなくなるくらいなら、おれのそばにいろと言えばよかった。
 空の上で、雲がごうごうと音を立てて流れていった。高いところでは強風が吹いているのに、地上ではそよ風も感じない。
 帰ってきてほしい。そばにいてほしい。ポケットに入っているスマートフォンで素直にそうメッセージを送れば、きっとまなとは笑って許してくれる。
 風が変わった。急に空が暗くなって、空気が湿り気を帯びる。
 そんなことを言える自信があったなら、おれたちは今、こうなってはいないと、自分がよくわかっている。
「――うわ、降ってきた」
 道ゆくだれかが、つぶやいた声がした。さあ、と降り出した雨は、あっという間に本格的な降りになる。コンビニの軒先は狭い。このままだと箱が濡れてしまう。咄嗟に思って、コンビニの店内に駆け込んだ。
「こちらのレジどうぞー」
 店には、ひと気は少なかった。スタッフに招かれて、思わずレジに近づく。背の高いおれに怯んだのか、レジスタッフはおどろいた顔でこちらを窺っている。もう戻れない。それは、おれ自身がよく知っている。
「あ……え、っと、宅配便お願いします」
「はい、伝票記入お願いしまーす」
 言われるがまま、段ボールにまなとのマンションの住所を書き込んでいく。メモを見なくても、諳んじることのできる住所。自分の家ではないのに、自分の家と同じくらい身体に馴染んだ住所だ。
 『品名』の欄で、ペンが止まった。目ざとく見つけたレジスタッフが首を傾げる。
「記入方法大丈夫ですか?」
「……はい、大丈夫です」
 ペンを強く握って覚悟する。これで、もう終わりだ。
 『品名』に、『ワレモノ』と書き込んで、店員に荷物を託した。ついでに、ビニール傘も買う。
「ありがとうございましたー」
 背中に届く挨拶に、縋りついてみようか。その荷物を返してください。大切なひとの思い出が詰まった、大切なものなんです。そんなことを言われたら、きっと店員は困惑するだろう。もうだいぶ醜態を晒しながら生きてきたと思っていたけれど、まだ自分自身を守りたいのかと思うとおかしくなってくる。
 『ワレモノ』。あれは、そんな簡単なひとことで書き表していいものじゃなかった。
 まなとが誕生日に買ってくれた、雨の日のあぜ道みたいな色のマグカップ。お返しとしておれがプレゼントした、キャメル色のつるんとした質感のマグカップ。洗顔するときのヘアバンドや、まなとの好きなキャラクターのおまけ。あいつの持ちものなんて、なんにも置かれていないのだと思い知ったおれの部屋に残っていた、まなとの痕跡。
 新品の傘は、くっついたビニールが派手な音を立てて開いた。
 空は真っ暗で、雨は止みそうにない。このまま、ひとりで家に帰るのかと思ったら、どうにかなってしまいそうだった。
 どこか。ここではない場所。まなとの香りがしないところへ。スマホで時間を確認する。デジタルの数字は、もうすぐ十七時になることを表していた。迷って、迷ったことにおどろいて、すぐに腹を決めた。春の細い雨を受け止めるように、傘を宙に差し出す。おれひとりのための空間を作って、駅へと向かった。
「――真泉単語まいずみさん、いらっしゃい」
 髭の大将がにこりと笑う。白い暖簾をくぐった先には、いつもと変わらない場所があった。
「こんばんは。いつものください」
「はいよ」
 開店すぐの『なじょも』の店内は、すでに何人も客がいた。普段も見かける、いわゆる常連というやつだ。自分も、いつもの、なんて言葉で注文することができる客になっていることに、新鮮におどろく。休日にきたのははじめてなのに、大将も店員も普段通り接してくれた。大将に視線だけで誘導されて、カウンターの端、定番の席につく。
 その席に座るのをほんの少しだけ逡巡したのには、たぶんだれにも気づかれていない。
「めずらしいね。休日なのに」
「……どうも」
 みんながいつも通り。おれのことを特別扱いしない。だけど霧崎単語きりさきさんだけが、おれの新しい日常にナイフを突き刺す。この店の欠点は、このひとが常に存在していることだけだ。
「私服はじめて見た。新鮮だね」
 そう言う霧崎さんも、平日に見かける高そうなスーツは着ていなかった。少しルーズなサイズのニットは、たぶんこれも高価なのだろうとわかる品物だ。まなとが着たら、きっとよく似合っただろう。着こなせないものなんてない。それが、佐々木愛人という人間の魅力のひとつだった。
「霧崎さんみたいにセンスなくてすいません」
「いやいや、センスなくないでしょ。そういう自虐やめたほうがいいよ」
 その指摘に答える台詞を、おれは持っていなかった。黙り込んだのがわかったのか、霧崎さんは追いかけてはこない。このひとの、他人を見る瞳の正確さが、こわい。
「はいよ、ゴリゴリくんサワーお待ち」
「ありがとうございます」
 水色のアルコールは、しばらく時間を置かないと飲み頃にはならない。ジョッキに刺さったアイスキャンディの棒をなんとはなしに触りながら、沈黙に耐える。そうだ、いつからか、霧崎さんとは会話をするのが必然になっている。
「どうかした? いつも平日しかこないじゃん」
「なにかないと、きちゃだめですか」
「そういうこと言ってないでしょ」
 カウンターに両腕を置いて、霧崎さんが前のめりにこちらを覗き込む。この眼に見られると、イライラして、だけど同時に、すべてを吐き出してしまいたくなった。泥酔して胃が荒れたとき、どうしても嘔吐しないと治らない吐き気がある。腹の奥にあるどす黒いものに、熱を加えて沸騰させるような、そういう眼だ。
「……大切なものに、さよならを言ってきたので」
「ふうん。ずいぶん詩的な表現だね」
「……すみません」
 それだけ口にするのがやっとだった。斜めにおれを見ながら、霧崎さんが二の句を継ぐ。
「それが、真泉くんが酔っちゃいたいって思う理由?」
 急に質問が芯をついてきた。肯定することも否定することもできずに、大将へ「鶏からください」と声をかける。
 いつもみたいに、もっと突っ込んでくれればいいのに、霧崎さんはそうはしなかった。このひとなりに気を遣っているのか、あるいは別れごときで苦しんでいる人間に呆れているのか。わからないけれど、黙ったままでいることに居心地の悪さを覚える。なんて勝手なんだろう。会話を面倒だと思ったり、聞いてほしいと願ったり。自分の気持ちなのに、いつも上手くコントロールできない。
「そうだ、大将。来週のあれ、真泉くんも呼んでいい?」
 霧崎さんが、思いついたように首を伸ばした。ちょうど霧崎さんの焼き鳥を焼いていた大将が、なるほど、という顔をする。
「あ、それいいじゃないですか! おれからもお願いします」
 遠くても聞こえていたのか、店の奥からバイトの店員、森山くんも声を上げる。状況が読めない。場のなかで取り残されていることに気づいて、口を開いた。
「あの、えっと」
 問いかけたおれに、大将が髭の奥から笑いかける。
「来週、スタッフと常連さんで花見いこうって話してたんです。真泉さんも、よかったら」
 顔を上げたら、店のなかにいる、片手で少し余るくらいの人数が全員おれを見ていた。なにがいつも通りだ。なにが特別扱いしないだ。やわらかい笑顔で、やさしいまなざしで注がれる視線に、顔が熱くなる。ここで毎日晒している醜態を、きっと心配されていた。大将、森山くん、話したこともない常連さん、そして霧崎さんにも。
「おれなんか、仲間に入れてもらっていいんですか」
「いいんだよ。ね、大将」
「はいはい、決定権は霧崎くんにありますから」
 ははは。爆発的な笑いが、店を埋め尽くす。恥ずかしさとうれしさで、心臓がばくばくと跳ねる。
「よかったね、真泉くん」
 どこか、ここでない場所へ。逃げるためだったけれど、『なじょも』を選んだことは、今のおれにとって正解だったのかもしれない。心の上のうえのほうに、ひっそりした薄い膜が張っていて、その表面でアルコールがゆらゆらと揺れている。
 酒に溺れるのではなく、酒を楽しんだのは、久しぶりのことだった。

***

「まだ桜咲いてるとこあるんですか」
「あるんだよ。毎年恒例、ちょっと遅い『なじょも』のお花見会」
 店の前で待ち合わせをして向かうその場所は、『なじょも』から歩いていける場所にあるらしい。大将、スタッフ、何人かの常連と、霧崎さんとおれ。大の男たちが徒党を組んで、静かな町を歩いていく。どうしてか霧崎さんとふたり並んで移動することになったおれは、なんとなくの気まずさを抱えながら、きょろきょろ辺りを見まわした。
 東京の桜は、とっくに最盛期を終えた。あれだけメディアで騒がれていた花見の話題も、最近はすっかり花粉症にとって代わられている。先週は雨続きで心配だったけれど、地面がすっかり乾くくらいには、ここ数日は晴れ晴れとした天気だった。
「真泉くん、いつも休みの日なにしてるの」
「なに、って」
 休日には、おれはいったい、なにをしているだろう。まなとがそばにいた頃は、おれの生活はまなとを中心にまわっていた。まなとの食べたいものを食べて、まなとのしたいことをして、まなとの望む行為をした。まなとと過ごす週末のために、平日の五日間を生きた。東京に出てきて、六年。そのあいだ、休日のすべては、まなとに捧げた。
 捧げた、なんて言い方は被害者ぶっているかもしれない。おれがそうしたかった。まなとのために生きることが、自分をまっすぐ立たせるための、なによりの原動力だった。
「……なんにもしてないです」
「なんにも? 映画観たりとかは?」
「ワイシャツをクリーニングに出すこと、くらいで」
「ワイシャツ? ――あ、着いた」
 突然、霧崎さんが立ち止まる。見上げた先には、古いけれど丁寧に手入れされているとわかる一軒家が建っていた。
「大将の実家なんだよ」
 玄関には入らず、地面に埋め込まれた大きな石を踏みしめながら、道路から見て奥の塀に沿って敷地をぐるりとまわる。角を曲がった瞬間、目の前が一気に明るくなった。
「ほらね、満開だ」
 それは、霧崎さんの言うとおり、満開の桜だった。ソメイヨシノとは種類が違うのか、少し花びらの色が赤くて濃い。それでもその桜は、青空を背にして発光しているみたいに白っぽく見えた。
「きれい……」
「でしょ、よろこんでくれてよかった」
 霧崎さんが笑う。美しい桜を見たからなのか、その笑顔にいつもの胡散臭さはなかった。このひと、こういう表情もできるのか。そんな失礼な感情が胸にさざ波を立てる。不思議と、不快な感覚だとは感じない。
「真泉さん、ほら、こっち」
 大将に手招きされて、庭の奥へと足を踏み入れた。ブルーシートを敷いた上にゴザが用意されて、家のなかから次々と料理が運ばれてくる。こういうとき、どう振る舞ったらいいのかわからない。
 「真泉さん、これ持ってって」「は、はい」子どもみたいに突っ立っているおれに、みんなが声をかけて、どうにか輪から外れないようにしてくれる。
 この歳になっても積極性がないのが恥ずかしくて、だけど気を遣ってもらうのがうれしくて、体温が上がっていく。大の大人が頭を突き合わせて、笑いながら、茶化しあいながら、ああでもないこうでもないとセッティングに悩んでいるようすを、輪の端で眺めていた。
 知らなかった世界が、目の前に広がっている。その眩しさに、内臓がズタズタにされていくような気配がした。
「――じゃ、乾杯!」
 プラカップに注がれたノンアルのビールを、桜に向かって捧げる。おにぎり、いなり寿司、蒸した新玉ねぎ、筍のステーキ、茄子の揚げびたし、卵焼き、エビチリ、もちろん、定番の鶏から。どれも『なじょも』で出されるのと同じクオリティのものだ。これを、大将は通常営業の合間にこなしたのだと言う。
「真泉さん、鶏から、いつもより刺激的でうまいすよ」
「ほんとだ、これは……」
「黒胡椒、多めにガリっといってます」
 髭の奥で薄い唇が弧を描く。いたずらっ子のようなその笑みが、この空間の居心地のよさを物語っていた。
「ぜったい真泉さん好きだと思ったんで」
「……おいしいです」
「よかった」
 よかった。それはさっき、霧崎さんも口にしていた台詞だ。「よかったね」ではなく、「よかった」。おれに対して「よかったね」と言っているんじゃない。おれがよろこんだことに対して、彼ら自身が「よかった」と思ってくれている証の言葉だ。
 紅色の強い桜を見上げる。ただの花見じゃない。これは、これまでの人生で経験した、どの花見ともちがう。
 だけど。もうひとりの自分が問う。じゃあ、今までの花見は、ただの花見だったのか。隣にいてくれたひととの思い出を、「ただの」と、おれは言い切るのか。
 どんなにアルコールを摂取しても涼しい顔をしている霧崎さんが、酔っているとわかる表情で近づいてくる。「真泉くん、食べてる?」
「はい。あの、ありがとうございます。今日誘ってくれて」
 大きなゴザの端、外に足を出して桜に一番近いところで座っていたおれの隣に、霧崎さんが腰を下ろす。
 みんなに背を向けるようにして、おれたちは『なじょも』での定位置についた。胡坐をかいた霧崎さんの膝頭がぐっと近づいてきて、ほんの少しだけ身じろぎをする。
「――前に、桜を見るのが好きって言ってたでしょ」
 一瞬、だれの話をしているのかわからなかった。霧崎さんの視線が、つ、とこちらを見て、話の主題が自分のことだと気づく。
 言った。たしかに口にした。あれは、はじめて『なじょも』に足を踏み入れたときだった。あの日からたった一か月足らず。おれでさえ忘れていたあの一瞬の出来事を、覚えていたなんて。
「きみ、いつも暗い顔してるから」
 すっかり泡の消えたビールを霧崎さんが口にする。おれとはちがって、おいしそうに酒を飲むひとだ。最初に会ったときから、その印象は変わらない。
「少しでも元気になればいいなって」
 桜を見上げながら、だけど霧崎さんの意識は後ろにいる大将たちに向いていた。こちらのことなんて気にも留めずに、あちらはあちらで盛り上がっている。普段は調理に専念している大将も、開店中に飲食しない森山くんたちも、みんな楽しそうだ。
「真泉くんも楽しいですかー?」
 プラカップをマイクにして霧崎さんは問うた。無邪気で、真っ直ぐな問い。それが、もともと傷ついていたおれの内臓に、ぐるりと手を突っ込んで掻きまわす。
「……楽しいです」
 声が震えた。身体じゅうのあちこちに散らばっている涙の欠片が、その振動で集まって大きな粒になる。眼鏡にぽたぽたと涙が落ちて、顔を上げても、きっともう桜は見えない。
 楽しい。楽しかった。まなとがいない空間をこれまでで一番だと感じてしまうくらいに。
 桜を見るのが好きだった。三年間通った故郷の高校で、初詣にもいった神社で、あるいは、上京した慣れない土地の公園で、いろんな時期に、いろんな桜を見た。その時々で所属している場所や環境はちがったけれど、隣に視線を移せば、そこにはいつも、まなとがいてくれた。
 花見が好きだったわけじゃない。ただ、まなとのことが好きだっただけだ。
 まなとがいない世界に、どんどん慣れていく。まなとがいないことが、当たり前になっていく。時間が心を癒すとか、ひととの出会いが意味を持つとか、そんな言葉さえ薄っぺらく感じてしまうくらい急速に、おれの世界からまなとの残り香が消えていく。
「……おれ、友だちいないんです」
 つぶやく声が、自分でも情けないくらい濡れている。怖い。怖くて、今すぐ死んでしまいたい。まなとがいない日々に、日常を感じたくない。
「東京出てきて、職場のひと以外、知り合いっていなくて」
 震える身体を抑え込もうとして、よけい肩に力が入った。背中に、冷たい手の感触が触れる。その温度に慣れてしまいそうな自分も怖くて、大切なひとの名前を、叫ぶように口にする。
「まなとだけ、いればよかったのに……っ」
 背後にいるみんなが、おれを無視しようとよけいに盛り上がっているのを感じた。そういうやさしさの、ひとつひとつが皮膚に針のように刺さる。
「いてくれたら、よかったのに」
 いてくれたら、なんて、都合のいい言いわけだ。おれが別れを告げたのに。おれが、まなとに「もういい」と言ったのに。太一のことを見続けるまなとを、視界に入れたくなかっただけなのに。
 自分勝手な感情で振りまわして、まなとの手をずっと離さなかったことを後悔していた。だけど同時に、あの綺麗な顔に似合わないごつごつした手を振りほどいたことも、おれは後悔している。
「……まなとっていうのが、きみを泣かせたひと?」
 まなとのせいじゃない。ぜんぶ、おれが悪い。それだけはたしかだ。だからおれは、答える言葉を持たなかった。
「……そのひと、死んじゃった?」
 冷たい手のひらが、背中からそっと声を染み込ませてくる。
「なんですか、それ」
 頭に血が昇って、その勢いのまま顔を上げる。霧崎さんは、想像したよりずっと穏やかな感情のない表情でそこにいた。たぶんぐしゃぐしゃになったおれの顔を見て、霧崎さんの繊細な眉が寄せられる。
「怒らせたかったわけじゃないんだ、ごめんね」
 温度のない手のひらが、たった一度、頭のてっぺんをそっと撫でていく。そよ風みたいにささやかで、実体のない触れ方だった。
「死んだわけじゃないなら、きっとまた会えるよ」
 布越しじゃない肌に他人が触れるのは久しぶりだった。子ども扱いされている。おれは、このひとに、そして背後に感じるやさしいひとたちに見守られている。
 見守られているという事実が、またさらに目の奥に熱を持たせる。だっておれは、そうされるだけの価値がある人間じゃない。
 おれは、まなとに会いたいんだろうか。ちがう。最初からぜんぶちがう形で、ぜんぶなかったことにしたい。こんなにつらいなら、なかったことにしたい。
 生まれたこと、生きてきたこと、まなとに出会ったこと、まなとに恋心を知られたこと、まなとと身体を重ねたこと、まなとの前から去ったこと、そのことをいつまでも悔やんでいること。ぜんぶぜんぶ、もう取り戻せないけれど、ぜんぶぜんぶ、なかったことにしてしまいたい。
「……っ、うぅ……」
「いいよ。いっぱい泣きな」
 霧崎さんの手のひらが、背中の真ん中でじっとしている。蝋燭みたいに冷たかったはずのその肌に、少しずつひとらしい温度が移っていくのを、おれはただ、泣きながら感じとっていた。
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