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19.新名大智
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『久しぶりの地元 なにもかもが懐かしすぎる』
そんなメッセージが届いたのは、太一単語と過ごす最後の日になると覚悟した大学の卒業式の、その数日後のことだった。
あまりにも突然で、だけどあまりにも今まで通りの、太一が入力した文章だった。おれは実家の自室でベッドに寝ころんでいて、もうすぐ桜が咲くなあ、なんて考えながら、そのじつなんにも考えずにそこにいた。
空っぽの頭のなかに、降って湧いた太一の存在。びっくりして、びっくりしすぎて、おれは太一からのメッセージに、文字ではなく電話を返した。
『――もしもし』
画面にはきっとおれの名前が表示されていて、だれからの通話かなんてわかっているだろうに、太一は毎回、律儀に伝統的な電話の出方をした。
『どうした?』
「ごめん、急に」
『いや、べつに。こっちも暇だったし』
シャ、と電波の向こうから音がして、太一がカーテンを開けたのがわかった。つられて、おれもベッド脇のカーテンを覗く。雲もないのに、グレーに近い薄っすらとした闇色が空を覆っていた。春らしい、悩みの色をしたもやだ。
「地元、どう?」
『たった四年だけど、離れてるといろいろ変わってる。でも変わらないところもあって、不思議な感じだ』
「そっか。その感覚、わかんないからおもしろそう」
『おもしろいか? おれはそれがわからないかも』
大学だけじゃなく、就職さえも埼玉の実家に残ったまますることを選んだおれに、「故郷」の実感はほとんどない。太一が地元の話をするたび、その愛着と嫌悪の混じった言葉に憧れた。地元に戻って就職した太一は、「馴染めなかった」とつぶやいた都会で出会ったおれのことなんか、忘れて当然だと思っていた。
「……連絡、くれると思ってなかった」
この窓から見える地平のどこかに、太一はいるんだろうか。思えば、この街が位置する場所も、東西南北もよくわからない。数日前に顔を合わせたばかりなのに、もう、太一と会って話をしたいと思う。
『なんで? するよ、ふつうに』
「……そっか。そうだね」
そう、太一はそういう人間だった。だから友だちになったし、一緒に時間を過ごした。相手を大切にしていた気持ちを同じように向けてもらえるのが、こんなにくすぐったくて心地いいのなら、たしかにひとは、だれかと寄り添いたいと思うのかもしれない。
「今度、そっちにあそびにいこうかな」
太一が育った街を見てみたい。こんなおれに、だれかを大切に思う気持ちを教えてくれた太一が形づくられた街を。懐かしすぎるのはどこで、変わった風景はどれで、変わっていないのはどんなところか。きっと太一はいつもの、わかりにくい表情の変化で伝えてくれる。
『待ってる』
おれたちの友人関係は、卒業式で終わりだと思っていた。だけど、そう思っていたのは、おれだけだったらしい。太一のなんてことないメッセージで、ふたりのタイチの繋がりは、途切れる未来を一旦見失った。
一旦、見失った。――と、大学を出たばかりのおれは信じていた。つまり、太一との関係はすぐに終わるものだと信じて疑わなかった。太一から連絡がくるたびに、たぶんこれが最後だ、と言い聞かせた。おれからは手を離さない。太一がいつおれに見切りをつけても大丈夫なように、つねに心の準備をした。
ときどきメッセージをやりとりして、電話をして、年に一度か二度、太一のもとへ会いにいったり、東京に出てきてもらったりした。
一旦、どころの話じゃなかった。おれと太一の関係は、終わりそうな気配もないまま、大学を卒業してから、ちょうど五回めの春を迎えようとしていた。
職場近くの桜が満開になった。メディアが言うには、春は恋の季節らしい。恋の季節って、発情期のある動物じゃないんだから。呆れるけれど、結局春だろうが冬だろうが、人間たちは恋愛に忙しい。
とくに趣味もなく、家と職場の往復が人生の基本パッケージのおれにとって、仕事以外に打ち込めるものがあるのは、それはそれで羨ましかった。
ヴヴ。普段静かなおれのスマホが、急にメッセージを受け取った音を出した。こういうときの相手は決まっている。目の前の作業を放り出して、画面を確認した。
『ごめん、今から会えるかな』
差出人は想像どおりだった。だけど、想像どおりなのは相手だけで、思ってもみなかった文面に、突然心臓が暴れ出す。
スマホの小さなデジタル時計を凝視する。もう数十秒で定時だ。今日は絶対に定時で上がろうと、さっきもみんなで話していたところだった。
カチ、カチ、カチ。職場の時計が秒針を鳴らして動いている。みんなが、その音に耳をそばだてているのがわかった。
「さーて、定時です。みんないきましょー」
上司からの号令で、周囲が帰り支度をはじめる。窓の外に見える桜の樹を、期待に満ちた目で眺めながら。
金曜日の定時帰り。このあとは、職場全員で花見の予定だった。
ばたばたと準備をしている周囲と、スマートフォンの画面を見比べる。花見は毎年恒例で、おれもこの会社に就職してから、一度も欠席したことがない。
でも、そんなのは些細なことだ。
「――すみません、おれ今日帰ります」
「えっ、花見なのに?」
「ちょっと急用できちゃって。ほんとすみません、また今度飲みいきましょう」
引き留めようとしている声も振り切って、早口で言いわけを並べながら荷物を抱える。何度もなんども頭を下げて、すみませんを連発した。「すみません、お疲れさまでした」勢いよく声を上げて、職場を出る。エレベーターを待っているのも惜しくて、階段を駆け足で降りていく。同時に、最寄りのカフェで待っているようにメッセージを打った。
これはそう、ひとことで言うなら、一大事だ。
「――どうしたの」
太一は、あきらかに元気のない顔をしてそこにいた。詰問にならないように口にしたのに、その台詞には、やっぱりどこか責めるような音が響いてしまう。
「ごめん、急にきて。でももう、おれ、どうしたらいいかわからなくて」
生まれ育った街で今日も働いているはずの太一が、なぜか東京にいる。目の前の状況の異常さにめまいがした。
「いいよ、気にしないで。……どうしたの?」
今度の質問は少しやわらかい音で発音できた。太一は肩をぴく、と動かして、一度おれと視線を合わせたあと、すぐにうつむく。絡んだ視線は縋るように引っかかって、おれの神経をビリビリと割いた。
「昨日、先輩、と、会って」
「――うそ」
さすがのおれでも、大声が出ないほどの衝撃だった。
「なんか、おれもよくわかんないんだけど、先輩が、なんでおれがここにいると思う? って聞いてきて」
「うん」
「太一はそのままでいてくれるって、信じてたって、言われて」
「……うん」
「でもおれ、それ、ぜんぶ突っぱねてきて」
声にならなかった。混乱している太一の話は要領を得なくてよくわからなかったけれど、そこからおれに汲み取れる事実は、たくさんあった。
ずっと好きだったひとに会った。そして太一は、その手を取らなかった。唐突に現れた「先輩」の存在が、おれのなかにも染みついていることに改めて気づく。それだけの年月、太一の恋を見守って過ごしてきた。
「おれ、どうするべきだったんだろ」
太一自身も、まだこの状況を飲み込めていない。人間は、恋愛でこんなにも憔悴することができるんだ。新鮮に驚きながら、落ち着いた佇まいがベースの太一が見せる弱った姿に、目頭が熱くなる。
高校で出会った大切なひと。ほとんど会話を交わすこともなく、ただずっと思い続けていたひと。名前も顔も知らない「先輩」への、行き場のない怒りが、おれの腹のなかでぐるぐると渦を巻く。
「しかも、おれ、のぞみちゃんのこと、引き合いに出した」
のぞみちゃん、というのは、おれが大学で知り合った女の子で、今は太一の恋人だった。大学を卒業したあと、太一の地元に転勤したのをきっかけに付き合うようになって、もうすぐ一年になる。何度かふたりでいるようすを見たことがあるけれど、物静かな雰囲気がよく似合っていて、純粋に、いいなと思うカップルだった。
「あんないい子なのに、悪者にした。彼女いるから、ってただ言うより、もっと酷い言い方した」
のぞみちゃんと付き合うようになってから、太一は「先輩」の話をしなくなった。吹っ切れたんだろうと思うと、安心すると同時にさみしかった。でも、そんなのはおれの幻想だったみたいだ。
「もういやだ。やめたい、こんなの」
まだ、涙がぼたぼたとテーブルに落ちるくらい強烈に、太一は「先輩」のことを想い続けている。
うつむいて顔を覆う太一の後頭部には、いつものようにぴょんと跳ねた寝癖があった。昨夜、布団のなかで何回も寝返りを打ったんだろうか。太一の十年間を、おれは想像することもできない。「先輩」への気持ちを、推し量ることはできない。のぞみちゃんへの罪悪感を、想像することはできない。
恋愛、という一枚のレイヤーが増えるだけで、人生は異常なほど複雑さを増す。それをうらやましいと思う。目を離した次の瞬間、この世界から消えてしまいそうな太一の姿を見てもなお、そう思う。
だけど、うらやましいからこそ、おれは太一の知らない世界を知っている。
「うおー!」
大声と一緒に立ち上がって、太一の席の隣に滑り込む。こういう行動力だけはあってよかった。太一の肩を抱いて、左右に揺する。店内の注目を浴びるくらい大げさに、応援団の横揺れみたいに、がんばれって気持ちを込めて上半身を振った。
「いいよ、ぜんぶ、ゆっくり忘れていこ。忘れていい。いいんだよ、その気持ちがなくなったって、太一は太一のままだよ」
太一がゆっくり顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が、おどろいた表情でこちらを見ている。
「……そんなの、想像したこともなかった。ずっと、死ぬまで、このままだと思ってた」
そっと揺れを止める。それでも、肩にまわした腕にはさらに力を込めた。おれがいる。恋人にはなれないけど、おれは、太一からは離れない。
太一が必要だと言ってくれるなら、おれはいくらでも応援団長の真似をする。
「おれ見てごらんよ。恋とか愛とか無縁だけど、元気だよ」
テーブルの上の紙ナプキンを引き抜いて、太一の顔にぐりぐりと押しつけた。「痛いって」と文句を言いながら、太一の声に笑みが混じる。
「死ぬまで変わらないことなんて、生きてるってことだけだよ。大丈夫、太一は忘れられる。変わっていける」
それがほんとうかどうかなんて、実際死ぬときまでわからない。自分の言ったことに責任も持てなくなるかもしれない。「大丈夫」なんて簡単に使ったことを、いつか太一に責められるかもしれない。
「はは、ありがとう。ちょっと落ち着いた。アラタのとこ、きてよかった」
押しつけられた紙ナプキンで乱暴に顔を拭って、太一は目もとを真っ赤にしながら笑った。まだきっと混乱したままの気持ちを抱えて、それでも太一は、太一らしく笑った。
「せっかくだから花見してく? 外、満開だよ」
「していく」
桜みたいにやることが決まっていたら、どんなにいいだろう。毎年春に花を咲かせて、散って、実をつけて、葉を茂らせて。でもそうじゃないから、毎日になにか変化が起こって、おれはそれを、太一に話したくなるんだろう。そしてそんな日々を、たぶん死ぬまで続けていくんだろう。不確定なはずの未来が不思議と定まったような気がして、気がしてるだけってことにまた気づいて、「死ぬまで変わらないのは、生きてることだけ」って、自分で言った台詞に、どこかで救われた自分がいた。
そんなメッセージが届いたのは、太一単語と過ごす最後の日になると覚悟した大学の卒業式の、その数日後のことだった。
あまりにも突然で、だけどあまりにも今まで通りの、太一が入力した文章だった。おれは実家の自室でベッドに寝ころんでいて、もうすぐ桜が咲くなあ、なんて考えながら、そのじつなんにも考えずにそこにいた。
空っぽの頭のなかに、降って湧いた太一の存在。びっくりして、びっくりしすぎて、おれは太一からのメッセージに、文字ではなく電話を返した。
『――もしもし』
画面にはきっとおれの名前が表示されていて、だれからの通話かなんてわかっているだろうに、太一は毎回、律儀に伝統的な電話の出方をした。
『どうした?』
「ごめん、急に」
『いや、べつに。こっちも暇だったし』
シャ、と電波の向こうから音がして、太一がカーテンを開けたのがわかった。つられて、おれもベッド脇のカーテンを覗く。雲もないのに、グレーに近い薄っすらとした闇色が空を覆っていた。春らしい、悩みの色をしたもやだ。
「地元、どう?」
『たった四年だけど、離れてるといろいろ変わってる。でも変わらないところもあって、不思議な感じだ』
「そっか。その感覚、わかんないからおもしろそう」
『おもしろいか? おれはそれがわからないかも』
大学だけじゃなく、就職さえも埼玉の実家に残ったまますることを選んだおれに、「故郷」の実感はほとんどない。太一が地元の話をするたび、その愛着と嫌悪の混じった言葉に憧れた。地元に戻って就職した太一は、「馴染めなかった」とつぶやいた都会で出会ったおれのことなんか、忘れて当然だと思っていた。
「……連絡、くれると思ってなかった」
この窓から見える地平のどこかに、太一はいるんだろうか。思えば、この街が位置する場所も、東西南北もよくわからない。数日前に顔を合わせたばかりなのに、もう、太一と会って話をしたいと思う。
『なんで? するよ、ふつうに』
「……そっか。そうだね」
そう、太一はそういう人間だった。だから友だちになったし、一緒に時間を過ごした。相手を大切にしていた気持ちを同じように向けてもらえるのが、こんなにくすぐったくて心地いいのなら、たしかにひとは、だれかと寄り添いたいと思うのかもしれない。
「今度、そっちにあそびにいこうかな」
太一が育った街を見てみたい。こんなおれに、だれかを大切に思う気持ちを教えてくれた太一が形づくられた街を。懐かしすぎるのはどこで、変わった風景はどれで、変わっていないのはどんなところか。きっと太一はいつもの、わかりにくい表情の変化で伝えてくれる。
『待ってる』
おれたちの友人関係は、卒業式で終わりだと思っていた。だけど、そう思っていたのは、おれだけだったらしい。太一のなんてことないメッセージで、ふたりのタイチの繋がりは、途切れる未来を一旦見失った。
一旦、見失った。――と、大学を出たばかりのおれは信じていた。つまり、太一との関係はすぐに終わるものだと信じて疑わなかった。太一から連絡がくるたびに、たぶんこれが最後だ、と言い聞かせた。おれからは手を離さない。太一がいつおれに見切りをつけても大丈夫なように、つねに心の準備をした。
ときどきメッセージをやりとりして、電話をして、年に一度か二度、太一のもとへ会いにいったり、東京に出てきてもらったりした。
一旦、どころの話じゃなかった。おれと太一の関係は、終わりそうな気配もないまま、大学を卒業してから、ちょうど五回めの春を迎えようとしていた。
職場近くの桜が満開になった。メディアが言うには、春は恋の季節らしい。恋の季節って、発情期のある動物じゃないんだから。呆れるけれど、結局春だろうが冬だろうが、人間たちは恋愛に忙しい。
とくに趣味もなく、家と職場の往復が人生の基本パッケージのおれにとって、仕事以外に打ち込めるものがあるのは、それはそれで羨ましかった。
ヴヴ。普段静かなおれのスマホが、急にメッセージを受け取った音を出した。こういうときの相手は決まっている。目の前の作業を放り出して、画面を確認した。
『ごめん、今から会えるかな』
差出人は想像どおりだった。だけど、想像どおりなのは相手だけで、思ってもみなかった文面に、突然心臓が暴れ出す。
スマホの小さなデジタル時計を凝視する。もう数十秒で定時だ。今日は絶対に定時で上がろうと、さっきもみんなで話していたところだった。
カチ、カチ、カチ。職場の時計が秒針を鳴らして動いている。みんなが、その音に耳をそばだてているのがわかった。
「さーて、定時です。みんないきましょー」
上司からの号令で、周囲が帰り支度をはじめる。窓の外に見える桜の樹を、期待に満ちた目で眺めながら。
金曜日の定時帰り。このあとは、職場全員で花見の予定だった。
ばたばたと準備をしている周囲と、スマートフォンの画面を見比べる。花見は毎年恒例で、おれもこの会社に就職してから、一度も欠席したことがない。
でも、そんなのは些細なことだ。
「――すみません、おれ今日帰ります」
「えっ、花見なのに?」
「ちょっと急用できちゃって。ほんとすみません、また今度飲みいきましょう」
引き留めようとしている声も振り切って、早口で言いわけを並べながら荷物を抱える。何度もなんども頭を下げて、すみませんを連発した。「すみません、お疲れさまでした」勢いよく声を上げて、職場を出る。エレベーターを待っているのも惜しくて、階段を駆け足で降りていく。同時に、最寄りのカフェで待っているようにメッセージを打った。
これはそう、ひとことで言うなら、一大事だ。
「――どうしたの」
太一は、あきらかに元気のない顔をしてそこにいた。詰問にならないように口にしたのに、その台詞には、やっぱりどこか責めるような音が響いてしまう。
「ごめん、急にきて。でももう、おれ、どうしたらいいかわからなくて」
生まれ育った街で今日も働いているはずの太一が、なぜか東京にいる。目の前の状況の異常さにめまいがした。
「いいよ、気にしないで。……どうしたの?」
今度の質問は少しやわらかい音で発音できた。太一は肩をぴく、と動かして、一度おれと視線を合わせたあと、すぐにうつむく。絡んだ視線は縋るように引っかかって、おれの神経をビリビリと割いた。
「昨日、先輩、と、会って」
「――うそ」
さすがのおれでも、大声が出ないほどの衝撃だった。
「なんか、おれもよくわかんないんだけど、先輩が、なんでおれがここにいると思う? って聞いてきて」
「うん」
「太一はそのままでいてくれるって、信じてたって、言われて」
「……うん」
「でもおれ、それ、ぜんぶ突っぱねてきて」
声にならなかった。混乱している太一の話は要領を得なくてよくわからなかったけれど、そこからおれに汲み取れる事実は、たくさんあった。
ずっと好きだったひとに会った。そして太一は、その手を取らなかった。唐突に現れた「先輩」の存在が、おれのなかにも染みついていることに改めて気づく。それだけの年月、太一の恋を見守って過ごしてきた。
「おれ、どうするべきだったんだろ」
太一自身も、まだこの状況を飲み込めていない。人間は、恋愛でこんなにも憔悴することができるんだ。新鮮に驚きながら、落ち着いた佇まいがベースの太一が見せる弱った姿に、目頭が熱くなる。
高校で出会った大切なひと。ほとんど会話を交わすこともなく、ただずっと思い続けていたひと。名前も顔も知らない「先輩」への、行き場のない怒りが、おれの腹のなかでぐるぐると渦を巻く。
「しかも、おれ、のぞみちゃんのこと、引き合いに出した」
のぞみちゃん、というのは、おれが大学で知り合った女の子で、今は太一の恋人だった。大学を卒業したあと、太一の地元に転勤したのをきっかけに付き合うようになって、もうすぐ一年になる。何度かふたりでいるようすを見たことがあるけれど、物静かな雰囲気がよく似合っていて、純粋に、いいなと思うカップルだった。
「あんないい子なのに、悪者にした。彼女いるから、ってただ言うより、もっと酷い言い方した」
のぞみちゃんと付き合うようになってから、太一は「先輩」の話をしなくなった。吹っ切れたんだろうと思うと、安心すると同時にさみしかった。でも、そんなのはおれの幻想だったみたいだ。
「もういやだ。やめたい、こんなの」
まだ、涙がぼたぼたとテーブルに落ちるくらい強烈に、太一は「先輩」のことを想い続けている。
うつむいて顔を覆う太一の後頭部には、いつものようにぴょんと跳ねた寝癖があった。昨夜、布団のなかで何回も寝返りを打ったんだろうか。太一の十年間を、おれは想像することもできない。「先輩」への気持ちを、推し量ることはできない。のぞみちゃんへの罪悪感を、想像することはできない。
恋愛、という一枚のレイヤーが増えるだけで、人生は異常なほど複雑さを増す。それをうらやましいと思う。目を離した次の瞬間、この世界から消えてしまいそうな太一の姿を見てもなお、そう思う。
だけど、うらやましいからこそ、おれは太一の知らない世界を知っている。
「うおー!」
大声と一緒に立ち上がって、太一の席の隣に滑り込む。こういう行動力だけはあってよかった。太一の肩を抱いて、左右に揺する。店内の注目を浴びるくらい大げさに、応援団の横揺れみたいに、がんばれって気持ちを込めて上半身を振った。
「いいよ、ぜんぶ、ゆっくり忘れていこ。忘れていい。いいんだよ、その気持ちがなくなったって、太一は太一のままだよ」
太一がゆっくり顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が、おどろいた表情でこちらを見ている。
「……そんなの、想像したこともなかった。ずっと、死ぬまで、このままだと思ってた」
そっと揺れを止める。それでも、肩にまわした腕にはさらに力を込めた。おれがいる。恋人にはなれないけど、おれは、太一からは離れない。
太一が必要だと言ってくれるなら、おれはいくらでも応援団長の真似をする。
「おれ見てごらんよ。恋とか愛とか無縁だけど、元気だよ」
テーブルの上の紙ナプキンを引き抜いて、太一の顔にぐりぐりと押しつけた。「痛いって」と文句を言いながら、太一の声に笑みが混じる。
「死ぬまで変わらないことなんて、生きてるってことだけだよ。大丈夫、太一は忘れられる。変わっていける」
それがほんとうかどうかなんて、実際死ぬときまでわからない。自分の言ったことに責任も持てなくなるかもしれない。「大丈夫」なんて簡単に使ったことを、いつか太一に責められるかもしれない。
「はは、ありがとう。ちょっと落ち着いた。アラタのとこ、きてよかった」
押しつけられた紙ナプキンで乱暴に顔を拭って、太一は目もとを真っ赤にしながら笑った。まだきっと混乱したままの気持ちを抱えて、それでも太一は、太一らしく笑った。
「せっかくだから花見してく? 外、満開だよ」
「していく」
桜みたいにやることが決まっていたら、どんなにいいだろう。毎年春に花を咲かせて、散って、実をつけて、葉を茂らせて。でもそうじゃないから、毎日になにか変化が起こって、おれはそれを、太一に話したくなるんだろう。そしてそんな日々を、たぶん死ぬまで続けていくんだろう。不確定なはずの未来が不思議と定まったような気がして、気がしてるだけってことにまた気づいて、「死ぬまで変わらないのは、生きてることだけ」って、自分で言った台詞に、どこかで救われた自分がいた。
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暉さん
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傍から見ればうらやましくて仕方ないほどの恋、だけど本人たちにとっては苦しくつらい、人生をかけた想いだったのだと思います。
描きたかったすべてが集約された感想をいただいて、とてもうれしいです。
ご指摘のとおり、この作品には続編があります。
時間はかかってしまうかもしれませんが、完成したらまたアルファポリスに掲載します。
見届けたいと思っていただいたお気持ちに報いることができるよう、がんばりますね。