オレンジ

ユウキ カノ

文字の大きさ
3 / 21

2.夏目太一

しおりを挟む
 部室からグラウンドへと続く道を進み、アスファルトと土の境目に立つ。すっと胸を膨らませ、息を吐きだした。
「お願いします」
 背を伸ばし、ぼくたちにとって神聖な場所へと頭をさげる。一歩踏みだすと、雨にしっとりと濡れた土の感触が、スパイクを伝わって心臓をやわらかく包んだ。
 春休み、授業がなくても部活は休みにはならない。一秒でも長く布団にくるまっていたい気持ちと、走りだしたい気持ちを比べてみたとき、その天秤はいつも同じ角度で陸上競技へと傾いた。
 習慣になっているストレッチをこなし、軽くランをして身体をあたためる。まだすこしひんやりとする春風が、ひざから下だけ露出した肌を冷やしていった。
 東京では桜が満開なのだと、今朝テレビで言っていた。この街ではまだ、陰になる場所に汚れた雪が残っているというのに。
 ぼくが立つトラックから一番近い校舎の入り口は体育館にあった。グラウンド脇から階段を上がると、体育館に入る扉がある。三段しかないその小さな階段に、あのひとは毎日座っていた。キャメルのセーターを着て、頬杖をつき、熱さと冷たさが器用に混ざった目をして、ぼくたちの練習を眺めていた。雨の日でも、雪の日でも、そう、今日みたいにきれいに晴れた、空の高い日でも。
 先輩は、どうしているだろうか。いまいる場所で、桜は咲いただろうか。雪は残っているんだろうか。制服を脱いだあのひとは、どんな姿で日々を過ごしているだろう。
 冬から春へと変わりゆく季節のなかで、景色が徐々に色づいていく。芽吹きはじめた世界に、だけど、キャメルのあの色だけがたしかに足りない。ぼく以外にも、そう思っている部員がきっといる。
 佐々木愛人は、よくも悪くも目立つひとだった。
 男女問わず憧れの対象となるうつくしい造形をした顔に、生まれつきひとより茶色の髪。制服はいつもだらしなく着崩しているし、言葉遣いも丁寧とは言えない。それでも先生たちからの評判はよかったし、自称進学校であるうちの高校で、かなり上位の成績を保っていたらしい、というのを聞いたことがある。運動神経だっていいのにどこの部活にも所属せず、陸上部の練習を毎日見学していた。
「はよー」
「おはよ」
 部活仲間たちがどんどんグラウンドに集まってきて、自然と輪になる。各々ストレッチをしながら、昨日の部活後から今までにあったできごとを共有するのが習慣だった。
「おまえら、結局進路どうする? 親と揉めたんだけど」
 ひとりが、だれに言うでもなくつぶやいた。ぼくたちはあと数日でやってくる四月になれば、その先に待つ未来を見据えながら高校最後の一年間を過ごさなければいけない。
「おれ専門」
「そっかー、おれは大学いくかなあ」
「……おれも大学」
 それぞれが、まだ確定していない卒業後のイメージを語る。実際には、二年生に上がる段階で進路希望によってクラスが決められている。そのルートから逸れることは、たぶん許されないのだろう。一年生の自分がした決断に自信なんて持てないのに、ただ自分に「この道は間違ってない」と言い聞かせながら、追い立てられるように勉強することしかできない。浅い春によく似合う薄い青をした空の下で、ぼくたちの足元もまた、薄い氷が張っているみたいに不安定だ。
「夏目、大学でも陸上やる?」
 高校で部活をやっている人間にとって避けては通れない選択を、チームメイトが問いかける。それは、ぼくにとって一番の悩みの種だった。
「……正直、迷ってる」
「だよなー。おれ、高校で部活辞めろって親に言われた」
「しんど」
「ま、たしかにおれらみたいな選手はいてもいなくても関係ないんだろうけど。真泉さんなんかとはちがうもんな」
 そう、佐々木先輩が目立っていたのは、本人の振る舞いからだけじゃなかった。佐々木先輩がいる場所には、いつも必ず、眼鏡をかけた背の高いシルエットがあった。
 真泉海という名は、地元の陸上界ではそこそこ知れたものだった。一〇〇メートルが専門種目で、中学のころから県大会決勝はあたりまえ、そのうえの大会でも、入賞することだってあった有名な選手だった。
 太い黒縁の眼鏡をかけたすらりと縦に長い身体はまるで長距離選手のようで、その姿からは想像できないようなスピードでトラックを駆け抜ける姿に、ぼくも、そしてきっと佐々木先輩も、目を奪われていた。
「真泉さん、陸上やめちゃうなんてもったいないよな」
 地元の国立に進学する。陸上はもうしない。真泉さんは、陸上部最後の打ち上げでそう言った。迷いのない、まっすぐな瞳だった。ぼくはそのとき、真泉さんの才能が発揮されないことを憂うんじゃなく、佐々木先輩のことを考えた。
「佐々木先輩は、どこいったんだろうな」
 だれかがぽつりとつぶやく。声に引っ張られるように、その場にいたみんなが顔をあげて、体育館へとつながる短い階段へ視線をうつした。
 お世辞にも広いとは言えないこのグラウンドで、風を切って走り抜ける真泉さんと、髪を風に揺すられる佐々木先輩は、まちがいなく主役だった。脇役のぼくは、だから真泉さんに、一度だって勝ったことがない。
 いつだって前を走っていた細い背が、ぼくはうらやましくて、妬ましかった。競技者としても、ひとりの人間としても。
 ――かーい、帰ろ。
 佐々木先輩は、毎日真泉さんとグラウンドにやってきて、毎日、真泉さんと一緒に帰っていった。
 だれに対してだって飄々としていた佐々木先輩が、子どものように無邪気な声で真泉さんを呼ぶ。その声を聞くたび、ぼくの腹のなかには黒いものがぐるぐると渦巻いた。「海」と、ほかのだれも呼ばない名前で笑いかけられた真泉さんが、それまでの厳しい瞳を細めて佐々木先輩を見る瞬間が、たまらなく嫌だった。
 ふたりが並んでいるようすは絵になったし、めったに笑わない真泉さんが、佐々木先輩の前では表情をゆるめる姿は、彼らがなにか特別な関係にあることを想像させた。ふたりを包む空気は、周囲から口出しされないだけのたしかさがあるものだった。
 体育館へと続く薄緑色のドア。三段しかない小さな階段にその足を投げだして、まっすぐ真泉さんを見つめる佐々木先輩の横顔は、とてもきれいだった。すっととおった鼻筋に、光が飽和して、さらにきらきらと輝きを放つ。その姿を見ているとき、ぼくだって真泉さんのように、どこまでも走っていけると思った。
 佐々木先輩と交わした言葉は、決して多くはない。黙っていてもすぐに近づいて並び立つ真泉さんと佐々木先輩の会話に混ざることなんて、部員のだれもできなかった。真泉さんと同じ種目を走り、部活のあいだは常にふたりのそばにいた、ぼくもそうだった。
 だけど、それだけなら、今、ぼくはこんなにさみしくないにちがいない。
 練習のあと、ぼくは部員のなかで一番早く部室を出る習慣をつけていた。狭い部室に押し込められているのは、たとえ仲間でも息苦しい。駅まで歩く時間を考えれば、みんなより早く学校を出発して電車の時間に間に合わせないといけないからだ。
 コンクリートでできた冷たい部室棟の階段を降りていくと、その下にはどんなときでも佐々木先輩が待っていた。暑い日でも、寒い日でも、晴れの日でも、雨の日でも、彼はそこで、携帯電話も開かず、黙って立っていた。
 足音に気づくと、先輩は横目でちらりとこちらを見て、また視線を前に戻し、ぼくなんてはじめからいなかったんじゃないかと思うほど、冷たい態度を取った。ああ、やっぱりぼくは無視されるんだ。そう思って目の前を通りすぎると、後ろから、なあ、と声が聞こえることがあった。
 ――じゃーな、またあした。
 振り向くと、キャメルの袖を振って、佐々木先輩が笑っていた。真泉さんにしか向けられないはずの、あたたかな笑み。どう返事をしたらいいのかわからなくて、頭を下げ、それまでよりペースを上げて、ぼくはそこから立ち去った。
 それが、ぼくと、佐々木先輩との、何度も繰り返された密やかなやりとりだった。先輩がなにを考えていたのか、あるいはなにも考えていなかったのか、答えは聞いたことがない。だけどぼくは、どんなに練習が長引いても、どんなに疲れていても、だれより先に部室を出た。ささいなつながりが、うれしくてたまらなかった。
 もう二度と、部室棟の下にあのひとが待っていることはない。体育館のドアの前で、練習を眺めていることもない。これから先、会うことだって二度とないだろう。
「集合!」
「はい!」
 自主的なアップの時間が終わり、部長が声を張る。これからはぼくらが三年生だ。ひっぱりあげてくれる上級生は、卒業していなくなってしまった。
 先輩のいなくなってしまった空白を、ぼくはすこしずつ、だけどたしかに実感していく。ついこのあいだまで先輩たちが使っていた教室で過ごすようになって、校舎のなかで姿を見かけることもなくて、当たり前だった景色から彼らが消えたことに気づくのだ。
 春風に冷えたこぶしを握る。このからっぽな心が、手のひらからこぼれ落ちないように。今はもう、さみしさだけが先輩のいた証だ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城
BL
ある地方の城下町で、高校2年生のα、β、Ωが性的にも友情的にもグッチャグチャに惹かれ合う話です。 美術部の美貌のオメガ小鳥遊奏(たかなし かなで)は、オメガである自分を恥じ、迫りくる初ヒートに恐怖を感じていた。 名士の長男である藤堂尊(とうどう たける)は非の打ちどころのないアルファ。後継者として父からの厳しく倒錯的な教育を受けている。 ベータの春日悠一(かすが ゆういち)は、ある日、ひとりで走ることを望んで陸上部をやめた。 湧水と高い山々に包まれた古い城下町。 征服の手段としての肉体しか教え込まれなかったアルファは、風のように走るベータに対し、初めて人間としての興味を抱く。 大切な友人としての関係を壊したくないのに、ベータとオメガは尊敬と恋心と愛欲を交差させる。 心身をバース性に囚われた思春期の少年たちが、それぞれの道を見つける物語。

優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―

無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」 卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。 一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。 選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。 本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。 愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。 ※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。 ※本作は織理受けのハーレム形式です。 ※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

宵にまぎれて兎は回る

宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…

処理中です...