オレンジ

ユウキ カノ

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4.夏目太一

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 関東の秋は長い。夏の息苦しさが過ぎ、公園の銀杏並木が色づいてしばらくしても雪が降ったりしないし、ましてや積もったりすることもない、東京の秋の終わり。いつまでも治らない風邪みたいな季節の変わり目に、三年経っても慣れることがない。
 キャンパス正面のチャペルに這うツタが枯れはじめて、ぼくは先週、ブルゾンと厚手のカーディガンを買った。一瞬、キャメルのカーディガンを買おうか迷って、でもそれがぼくみたいな脇役のためにあるものじゃない色だと知っていたから、横にあった黒を選んだ。「またそんな地味なやつ」とアラタは言ったけれど、なにものにも混じらない黒を着たことで、ほんのすこし強くなれた気がした。たとえふるさとの街のように雪が降らなくても、徐々に冷たくなっていく風のそっけなさから、身体と心を守らなければいけないのだから。
 天井の高い学食はあたたかくて、背骨の支えさえも溶かしてしまう。余らせた自分のカーディガンの袖を眺めながら、かつて何度も盗み見たキャメルの色を思いだす。ふ、とゆるんだ心の隙間に「先輩」が顔を覗かせて、ぼくは目を強くつむった。
「あ、太一また考えごとしてる」
 となりで課題をしていたアラタが、ペン先をこちらに向けながら眉を下げた。しょうがないなと、そう言う声が聞こえてきそうな顔だ。
「……悪い」
「謝んないでよ。悪いことじゃないっていつも言ってるじゃん」
 アラタは、大学に入って以来、毎日のようにつるんでいる友達だった。ドラマで見る外国人のようにおおげさな身振りで手を広げて、アラタがため息をつく。
「てかおれこそごめん。気になっちゃうんだよ、あんまり真剣だからさ」
「いや、変な顔してるおれが悪いんだ。不快なもの見せてごめん」
「変な言いかたしたのはこっち――ってもう謝り合戦だ! やめよ!」
 アラタが目の前で手のひらを合わせて、乾いた音が学食に響く。昼はとっくに過ぎているけれど、周囲にはぼくらと同じように課題や雑談に勤しむ学生がたくさんいた。そのうちの何人かがちら、とこちらを見て、またすぐに自分たちの世界に戻っていく。
「太一、そんなちっちゃくならなくても、だれも責めたりしないよ」
 アラタは他人の視線を気にしない。注目を集めることに慣れているのだ。明るくて、社交的で、物怖じしないところは、ぼくとは正反対だった。
「……なに考えてたの?」
 課題への集中は完全に切れてしまったらしい。やわらかな声で、アラタが問いを投げかける。
「いつもと同じ」
「そっか。訊くまでもないよね」
 答えになっていないのに、アラタはそれだけで納得したようだった。すごいね、ほんと、とつぶやいて、また手元の課題に目を向ける。
 いつもまっすぐ純粋に向けられるアラタからの好奇心は、ぼくにとってなぜか不快ではなかった。踏みこんでいいところと、そうでないところの線引きが、アラタはとてもうまい。
「そういえば、サークルの集まりあるんじゃなかったっけ」
 ふと見あげた壁の時計に違和感を覚えて、もくもくとペンを走らせていたアラタに声をかける。んー、と唸りながら、アラタはすこし目を伏せた。
「なんか、もういっかなって。疲れちゃった」
「……また女子か」
 背伸びをして、アラタが笑う。一瞬前までの暗い顔は、もうどこかにいっていた
「そ、ずっと付き合ってって言われてたんだけど、まあ、いつものように冷たくしてたら、みんながいるとこで泣かれちゃった」
 向かいに座るアラタの、無造作にアレンジされた金に近い茶の髪に目をやる。
「困るよね、だめなものはだめなのに。だから、サークルも、またしばらくはお休み」
 カラリとアラタが笑う。なにも考えていないようで、そのじつ、アラタは抱えきれないほどたくさんの痛みと闘っている。女子に言い寄られてはひどくなじられて、せっかく入ったサークルから足が遠のくのは何度目だろう。ぼくならそれで諦めてしまいそうなのに、それでもひとと関わることをやめないアラタの生き方は、それはそれでつらいのかもしれない。
「好きになれるもんなら、おれだってなりたいよ。太一みたいになれたら、どんなにしあわせか」
 ついさっき、ぼくに小さくならなくていい、と言ってくれたアラタの声は、聞きとれないほど小さかった。
「……しあわせ、なのかな」
「しあわせの形は、ひとそれぞれだからね。……って、お互いさまか」
 はは。アラタの乾いた笑顔につられて笑う。「しあわせ」とアラタが言うそれが、ぼくにとってどれだけ大切でどれだけ遠ざけたいものか、アラタはたぶん知っていて、それでもぼくがうらやましいと言う。ぼくはといえばアラタがうらやましくて、お互いないものねだりなのだということも、よくわかっていた。
「というわけで、おれが信じるしあわせを見つけるために後ろは振り向きませーん。十円玉ともサヨナラ」
「十円玉?」
「サークルで立て替えたら十円ばっか集まっちゃってさ。ざっと三十枚くらい」
 差し出されたアラタの財布には、十円玉が山のように入っていた。詳しくは知らないけれど、有名なブランドのマークがついている財布が、パンパンに膨らんでしまっている。
「忘れたいからぜんぶ使いたいんだ。おごるからなんか選んで」
「いいのか」
「いいのいいの、はい、選んで」
 手招きされて、自動販売機へと近づくアラタの後ろについていく。十円玉を次々に機械に飲みこませて、うながされるがままに「あったか~い」カフェオレのボタンを押す。もう一度小銭をじゃらじゃら入れて、アラタは黄色の炭酸飲料を買った。
「さんきゅ」
「やーこっちこそ! 財布軽くなった! よかったー」
 歓喜の声はやっぱり大きかった。ざわざわとした学食にきちんと響いた音に、また周囲から視線が届いて、だけどさっきより余裕ができたぼくは、その視線の主がほとんど女の子であることに気づいていた。本人が望まなくても注目を浴びてしまう人間というのが、この世界には必ず存在する。アラタや――あのひともそのひとりで、彼らはまちがいなく人生の主役だった。ぼくみたいな脇役とは、ちがう役割を担って生きていく人間だ。
「あっ、そーだ」
 席に戻ると、アラタが携帯電話を取りだして操作しはじめた。どうやらなにか検索しているらしい。
「へー、そーなんだ」
 画面を見つめてひとりごとをつぶやきながら、なにかに感心している。無視してカフェオレに口をつけていると、アラタが、ねー、と顔をあげた。
「太一知ってた? 十円玉って一枚四.五グラムなんだって」
 まだ財布に残っていた十円玉を差し出されて、思わず受け取った。四.五グラム。なんて、なんて軽いんだろう。あの浅い春の日、佐々木先輩に手渡した十円玉の重さが、唐突に手のひらによみがえる。
「……軽いな」
「太一もそう思った? でもたくさんあると重くて地獄だったよ」
 ぼくの手首を覆う長めの袖は黒色で、キャメルとはぜんぜんちがうのに、どうしてか今、自分の身体を包んでいる色が、明るくなったように感じた。悔しい。苦しい。だって、まだこんなにも、身体の奥底にあのひとの居場所がある。
 わずか四.五グラムの重さ。手のひらに乗せても、なにも感じないほど軽いものを、ぼくは何度も、なんどもなんども記憶のなかでなぞっている。アラタの言うように、そうやって膨らんだ感情は、地獄で受ける責め苦のように心を占領していった。軽かったはずなのに、すっかり重くなってしまった思い出をよすがにして、ぼくはこれまでを生き、これからを生きていくんだろうか。
 アラタの財布に入っていた十円玉のように、思い出のなかのそれに別れを告げられたら、どんなにいいだろう。
 先輩が高校を卒業してから四年、冬の日に再会してから、もうすぐ三年が経つ。今、あのひとがどこでなにをしているかすら、ぼくは知らない。それでも捨てられない想いが、腹のなかでどんどん存在感を増していく。
「……十円って重いな」
「ほんとだよー」
 好きや、嫌いや、後悔や、さみしさや思い出なんかの、ありとあらゆる感情が乗った十円玉の重さを、ぼくはいつか、忘れる日がくるだろうか。カフェオレの缶を握りしめて、散らばっていきそうな自分自身をかき集めることしか、今のぼくにできることはなかった。

***

 思い出す。大学の合格発表の日は、ぼくらの街の冬にしてはめずらしく、すっきり晴れた青空だった。発表を控えてぴりぴりしていたぼくに、「おにいちゃん胴上げされるの?」と、恵利香が無邪気な顔をして聞いたことがあった。小学生の妹にとって大学受験というのは、テレビで見るような派手なシーンを想像させるものらしい。だけど、ぼくはその日、自分の受験番号が合格者一覧にあることをパソコンの画面で確認したから、胴上げなんてされるはずがなかった。たとえ大学まで発表を見にいっていたとしても、ぼくが輪の中心にいることはない。それが、脇役としてのぼくの人生のセオリーだ。
「まさか、太一が東京にいくなんてねえ」
「……何度目だよ、それ」
 ぼふるさとを旅立つ前夜、かあさんはため息を重ねた。食卓にはぼくの好物が並んでいて、でもご馳走がたくさんあることをよろこんでいたのは、ぼくより恵利香のほうだった。
「だって、ひと付き合いは苦手だし、愛想はないし、都会で暮らしていけるなんて思わないじゃない」
「それは……まあ、自分でも思うけど」
「急に東京の大学受けるって言ったときはどうなるかと思ったけど、ちゃんと合格したし、それだけでもめでたいからね」
 かあさんの言うように、高校三年生の秋、ぼくはだれにも相談せず、突然進路を変えた。
 県内の大学を受験するつもりでセンター試験の申込みを終えたあとだった。両親は呆れ、担任は怒った。会うひと会うひとに、思いとどまるよう諭された。
 だけど、ぼくは譲らなかった。譲れなかった。
 ――たった、たった四年前のことだ。この四年でぼくが得たのは、英語試験の高得点と、就職内定と、大学卒業という肩書、それだけだった。

***

「太一、そっちビール足りてる?」
 卒業式を間近に控えた三月、ぼくは誘われるがままに、大学の学科の飲み会に参加していた。ほんとうは乗り気じゃなかったけど、最後なのだからと同期に肩を組まれ、アラタに困ったようにほほえまれたら、もうあとに引くことはできなくなっていた。
「十分すぎるくらいだよ。もうみんな潰れてるだろ」
 居酒屋の座敷には十五人ほどのメンバーがいて、そのうちの半分くらいが、ぐったりとして眠りこけていた。暖房のよく利いた室内は酒を飲んで倒れこむにはうってつけだろう。と言っても、ぼくはろくに酒を飲んだことがないからわからないのだけど。
「おまえぜんぜん酔ってないじゃん」
「烏龍茶しか飲んでないから」
 手元にあるコップに目を落とす。それだって、たいした量は飲んでいなかった。みんなが楽しそうに騒いでいるのを、端のほうで眺めているだけの時間は、そんなに悪いものでもない。こういう飲み会でのふるまいが、ぼくは性に合っている。
「あーはいはい。おまえは最後までそういうやつなんだな」
 がしがしと頭を掻きながら、甲谷かいたにが横に座りこむ。アラタと仲が良くて、なにかあるたびぼくにも声をかけてくれた。酒と女の子が好きな、うるさいけれど嫌いになれないやつだった。
「もうこんなふうにバカ騒ぎすることもないんだなあ」
「……うん」
 ハイボールだろうか、ビールより薄い色の飲みものを、まるで日本酒を舐めるみたいにちびちびと、甲谷が口に運ぶ。慣れ親しんだ横顔を、ぼくは黙って見ていた。
 同じ講義を取っていた甲谷とこうして並んでいると、一年生のころ、眠い目をこすって聞いた教授の話を思いだす。
 少年たちが死体を探す有名な映画をぼくらに見せたあと、とうさんと同じくらいの年の教授は「出会いは大事にしてください。となりにいる友だちと、これからも一緒にいられるとは限らないのだから」と、しみじみ語っていた。
 そのときにはなんの感慨も持てなかった言葉が、今、鋭い切っ先を胸に突きつけてくる。この四年間で、ぼくは、英語試験の高得点と、就職内定と、大学卒業という肩書以外にも、なにかを得られたのだろうか。
「太一は就職どこよ」
 冷めてしなしなになった唐揚げをつまんで、甲谷が問いかける。卒業後の行先は、まるで箝口令が敷かれているかのように、だれも口にしなかった。探りあえるほどの絆を周囲と築けていなかった、というのも事実で、だからこんなふうに同期と話をするのは、ほとんどはじめてのことだった。
「地元に戻るよ」
 家族やアラタに告げたときに感じた喉のつかえが、今も違和感としてそこにある。握りこんでいた烏龍茶を胃に流しこむと、ぬるい液体はするすると食道を滑り落ちていった。
「わざわざ東京出てきたのに戻るのかよ! もったいねー」
 甲谷は天を仰いで素っ頓狂な声をあげた。行動にも、声量にもブレーキが効いていない。潰れていないだけで、すでにかなり酔っているのは、まとうアルコール臭でもわかった。
「もったいない、かな」
「そうだよ、田舎なんてたのしくないだろ。アフターファイブしたくないの!?」
 甲谷の言う、もったいない、という言葉の意味を考える。それは、両親にも言われたことだった。「わざわざ東京に出したのに戻ってくるなんてもったいない。あんたの考えてることはよくわからんわ」。かあさんは電話口でそう嘆いた。
「もったいないって、まだ東京にいる意味があるってことだろ。ないよ、そんなもの」
「ええー、あるだろ、意味」
 東京にいる意味。そんなもの、とっくになかった。すでに決まってしまったことなのに、甲谷はなおも東京のよさを楽しそうに語っている。ひとの多さ、あそび場の豊富さ、電車の便利さ。ぼくも四年間たしかに恩恵を受けてきたメリットたちが、目の前にひとつひとつ並べられていく。視線をあげたら、部屋の反対にいたアラタと目が合う。アラタはちらりと甲谷に目をやって、「ごめん」と口だけで言って寄越した。
「おまえ彼女いるんだっけ? いっつも合コン断ってたじゃん」
「……いないよ、そんなの」
 茶色の髪が目に浮かんで、すぐにパッと消えていく。その姿は、女の子のものではない。
「えーじゃあなんで合コンこなかったんだよー。女子好きだろー」
 甲谷のことは、嫌いではない。ないけれど、酔っ払うと女子の話ばかりになるところが、ぼくはどうしても苦手だった。思わずすこし身体を引いてあたりを見まわしたところで、近づいてくるアラタが見えた。
「あーはいはいそこまで。甲谷、向こうで呼ばれてるよ」
「えっほんと! いくいくー」
 指さした先で甲谷のことを手招きしているのは、さっきまでアラタと話していたやつらだった。「助かった?」と笑うアラタを、あらためて尊敬の念をこめて見あげる。
「助かった。ありがとう」
 そのままアラタは甲谷の座っていたところに腰をおろした。手に持っているのはぼくと同じ烏龍茶だけど、ただ単に酒の量を調節しているだけで、酔っているのか、いつも以上に雰囲気がふわふわしている。
「太一、ほんとに地元帰っちゃうんだね」
「……うん」
 甲谷との会話を聞いていたんだろう、話の続きをするように、アラタが口を開く。
「東京、もういいの? 会いにきたんでしょ」
 言葉をそのまま吐いてしまいそうなくらい、頭のなかで繰り返した質問だった。だからこそ、アラタの問いかけに、浮かぶ答えはひとつしかない。
「……もう、疲れたんだ」
 アラタは、ぼくが上京してきた理由を知っていた。そうでなくても、アラタになら話してもいいと思った。主役と脇役ではあるけれど、ぼくらの境遇は、よく似ている。
「……『疲れた』?」
 高校三年生の秋、風のうわさで、あのひとが東京の大学へ進学しているらしいと知った。あんなに人気のあるひとだったのに、学内でその進路が話題にならなかったのは、先輩自身が秘密にしていたからだと、あとから陸上部のOBに聞いた。周囲から愛されても、どこかでほんとうの自分を見せないところが、とても先輩らしいと思った。
 あのひとを、追いかけるつもりはなかった。ただ、先輩の見ている景色を、ぼくも見てみたいと、強く思ったのはほんとうだった。同じ空気を吸えたら、それだけで満たされるんじゃないかと思った。だけど、人間の欲は、どんどん膨らんでいくものなのだ。
「――街を歩きながら、いつも姿が見えないか探してた。似たひとを見かけて、勝手に期待して、でもやっぱりちがって、そのたびにがっかりして」
 最近は、思いだすその姿がほんとうに先輩のものなのかさえ、信じられなくなっていた。毎日、毎日、思いだしては記憶をなぞり、刻みこんでいた先輩の輪郭が、重ねられすぎた線のせいで確かさを失っているような気がした。
 それだけの年月が、ぼくらのあいだにはあった。
 高校三年の冬。あの日、雪の街で出会った先輩は、あいかわらずきれいで、あいかわらず、真泉さんのとなりで笑っていた。真泉さんのとなりにいるとき、先輩は一番ただしい形をしていて、パズルのピースとピースがぴったりはまっているみたいに、ふたりはお似合いだった。
「会いたいって、ずっと思ってた。でももし、を見たら、もう立ち直れないかもしれないって」
 ――あいかわらず仲いいんですね。
 それは、ぼくなりの攻撃だったのかもしれない。ほんとうのほんとうに、心の底からそう思ったから漏れた台詞だった。だったつもりだけれど、そこに、嫉妬とか、羨望とか、揶揄のような感情がなかったとは、どうしても言いきれない。
 先輩は、自分はこの会話には関係ないと、ぼくのことなんて知らないと、そう言いたげな顔をして、真泉さんの後ろに隠れていた。マフラーにあごを埋めて、視線をそらして、地面をじっと見つめていた。だからぼくも、真泉さんからぜったいに目を離さなかった。
 久しぶりに会えたよろこびより、苦しさのほうがずっとずっと強かった。目の前にいるのに、言葉を交わすことはおろか、真正面から顔を見ることさえできないなんて。ぼくの想いは、まちがっている。そう言われているような気持ちになった。
 「十円ぜったい返すから」。先輩はそう言って笑い、ぼくはその言葉を頼りに、遠く離れたこんな土地までやってきた。――やってきてしまった。
「思い出だけで生きてるんだよ、おれ。笑うだろ」
 真泉さんが辞めたからという理由だけで、大学でも陸上部に入った。先輩の視界にいつもあった、陸上競技を続けたかった。高校時代と変わらず競技成績は悪いまま、楽しい思い出さえできなかった。陸上を辞めないことで先輩につながっていられるような気がしていた。でもそんなのは、ぼくの妄想だ。
「なにを選んだって、おれが選ばれることはないのに」
 一〇〇メートルを走っていなくても、真泉さんは佐々木先輩のとなりに、当然のように並んでいた。ぼくは受験となんとか両立させて血を吐きながら走っているのに、先輩に正面から見てもらうことすらできなかった。
 地元の大学に進学した真泉さんと、東京にいるはずの先輩が一緒にいた。そうなるのは当たり前だと知っていたのに、ふたりが変わらない距離で並び立っていることに、狂いそうなほど嫉妬した自分がいた。
 はじめからわかっていた。ぼくが、この物語の主人公じゃないということ。陸上競技を続けていようがいまいが、先輩の人生の登場人物にはなれないということ。すべて馬鹿げているとわかっていたのに、それでもぼくは毎年春、陸上部の継続届を提出した。
 今年は春一番が吹かなかったとニュースで言っていたけれど、春はきちんと一年に一度やってきて、ぼくらの生活を一歩前に進ませる。
 先輩はぼくより一年早く大学を卒業したはずで、だから今もこの人混みが煩わしい街にいるのかどうかさえ、またわからなくなってしまっていた。それでも、真泉さんと佐々木先輩は、きっと関係を続けている。それは、ゆるぎない確信だった。
「会っても会わなくても変わらないなら、ぜんぶ変わらないままでいたい。あの頃のままでいい」
 この記憶と生きていく。いつか、この命を閉じるその日まで。雨が降っていた春の日、バスで貸した十円は、もう二度とあのひとから返ってこない。だからぼくは、ひとりでこの気持ちを抱え続ける。とっくに気づいていたその事実を受け入れるまでに、四年もかかってしまった。
 先輩が暮らした都会に――かあさんの言うとおり、ぼくの性格には合わなかった都会に、これ以上人生の重みを預けるのはつらい。
 すれ違うだけでもよかった。名前を見つけるだけでもよかった。だけど先輩の欠片すら感じられなかったこの街は、ぼくにとってもう、何度も切りつけた傷痕と同じだった。
「疲れたんだ。もう、いいんだよ」
 アラタに向かって、同じ言葉をくり返す。「疲労感」なんて、簡単な単語では表せない。パンパンに膨らんだ風船からすこしずつ空気が抜けていって、それでも完全には萎まずにいるような、そんなわずかな思い込みに縋って毎日を生きるのは、死にたくなるほど苦しかった。
 友人もできた。知識を得ることはたのしかったし、都会に出てきたことで、特別なにかが変わったわけでもないのに、世界が広がったような気持ちになれた。だけどぼくの四年間は、まばたきの隙間も、秒針の動きひとつ分も、ぜんぶ先輩のためにあった。
 世界が広がったなんて嘘だ。ぼくの世界は、あの高校のグラウンド脇、百メートルのトラックと体育館に続く階段しかない場所から、なにも変わっていないのだから。
 うつむいて、手のなかにあるグラスを強く握りこむ。力を入れても、グラスは簡単には割れない。割れて、粉々に砕けて、消えてしまえばいいのに。そう願っても、握りつぶすことさえできない。忘れられたら、ぼくがぼくじゃなくなってしまう。
「……そっか。がんばったね」
 アラタのささやく声と一緒に、背中にあたたかな感触が触れた。ぽんぽんと手のひらで軽く叩かれて、目頭が熱くなる。ありがと、とつぶやくのが、ぼくにとっての精いっぱいだった。
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