8 / 21
7.白石夏海
しおりを挟む
彼氏とけんかした。仕事で大きなミスをした日、落ちこんだあたしに気を遣って作ってくれたナポリタンにセロリが入っていて、ついカッとなって怒鳴ってしまった。セロリが嫌いなことを知っているのに、「冷蔵庫の端に残ってたから」というくだらない理由で、あたしのために作ってくれた料理にセロリを使ったことが許せなかった。
彼のサラダにはいつもセロリを入れる。だって彼はセロリが好きだから。においももちろん嫌いだけど、包丁で切っているあいだだけ我慢すれば、なんとかなる。自分のためだけに存在していることを理解していて、彼氏はあたしが食べる料理にセロリを入れた。
普段あんまり家事をしないあたしへの当てつけなんじゃないか。いつも仕事の愚痴がうるさいから、たまには嫌な気持ちになれ、って仕返ししたんじゃないか。勝手に疑心暗鬼になって、泣いて喚いてまくらを投げた。彼氏は仕事の荷物だけ持って、ふたりで暮らしているマンションを出ていった。どこがどうなったのか、宙に浮いたまくらには小さな穴が空いた。羽毛が部屋じゅうに舞って、ああ、きれいだな、なんて、にじんだ視界で思った。
***
「あ、雪だ」
羽毛によく似た綿雪が、真っ暗な空から降ってくる。掃除をして数日経っても、いまだに部屋のどこからか現れる羽毛は、やわらかいのにあたしの心をちくちくと刺す。
「ほんとだ」
佐々木さんが、腕を伸ばして雪を手のひらに乗せた。ギラギラと容赦ない飲み屋街の看板にも負けない、繊細で線の細い横顔だ。
「ホワイトクリスマスになるかな」
「そうですね、もうすぐクリスマスですもんね」
そう、クリスマスはもう目の前だというのに、あたしは彼氏とけんかしてしまった。クリスマスにひとりだなんて、哀しくてさみしくて耐えられそうにない。だけど、バカみたいに喚き散らしたくせに、さみしいから戻ってきて、なんて、プライドが邪魔して言えなかった。
この時期、仕事は納期が立てこんでいて忙しい。飲み会なんてやっている場合じゃないと思いながら、忘年会にはしっかり参加した。普段あまり話したことのないひととお酒を飲んで、すこしわがままな顧客への愚痴を言いあうのは、そんなに悪くないと思える。
場は盛りあがって二次会へなだれこみ、さらに予定の時間を過ぎて、みんな急いで居酒屋を出た。あたしと佐々木さんは、タイミング悪く次の電車までの間隔が開いてしまって、繁華街のコンビニでコーヒーを買い、駅が臨めるその店先で時間を潰していた。
社内のありとあらゆる女の子が、佐々木さんだけは男性として特別だと思っている。今日だって、飲み会のあいだ、何人もの女性社員がさりげなく佐々木さんのとなりに座り、さりげなくあしらわれて玉砕していった。いつもならあたしも、イケメンオーラを浴びたくて参戦するのだけど、今回はどうしてかそんな気分になれなかった。操立てしたって、彼氏が帰ってきてくれるわけじゃないのに。
だから、ほんとのことを言うと、こうしてふたりきりになってしまったのは、神さまからの戒めなんじゃないか、なんて気分になる。こんなときばかりいい子ぶろうとしても無駄だよ。ちゃんと見てるよ、と神さまが言っているような、そんな気持ちに。
「……雪、好きなんですか?」
白い息を吐きながら、佐々木さんはうれしそうに空を眺めている。行き交うひとも、車の量も多いこの通りで、ひとりだけ世界から切り取られたみたいに、佐々木さんはしずかで落ち着いていた。
「うん。地元は雪が多いところでさ。もうずいぶん帰ってないから、なんか懐かしくて」
マフラーにあごを埋めて、佐々木さんは笑った。いつ見ても、どんな表情をしていても絵になる、ふつうのサラリーマンにしておくにはもったいない美人だ。
「そういえば、白石さんて夏海っていうんだね」
席次表で見たんだけど、と佐々木さんが口を開く。
「えっ、はい、そうです」
いくら彼氏がいても、佐々木さんみたいなイケメンに名前を呼ばれたらどきどきする。同時に、「なつみ」とやわらかくあたしを呼ぶ、彼氏の声を思いだして、またすこし切なくなった。
「やっぱり夏生まれ? 家が海に近いとか」
紙コップから立ちのぼる湯気に目をすがめながら、佐々木さんは話を続ける。その表情があんまりにもやさしいから、勘違いしてしまいそうだ。
「そうです。出身は静岡の海のほうなんですけど。……安易ですよね」
夏海という名前は、決して嫌いではなかった。だけど幼いころ、小学校で名づけの由来を調べるよう言われたとき、友人たちの名前にこめられた複雑で意味深い願いを、うらやましく思ったのも事実だった。「夏に海の近くで生まれたから」と、プリントの枠に書きいれたときの物足りなさを、二十年近く経ったいまでも覚えている。
「安易かな? おれの地元の友だちにも、夏生まれで海ってやつがいてさ。なんかそいつとおんなじだ、って、ちょっとうれしくなっちゃった」
寒さで頬を赤くして笑う佐々木さんを見て、自分が恥ずかしくなる。やさしい顔をしていたのは、あたしに気があるからじゃなくて、その友だちのことを思いだしていたからだ。
「……大事なお友だちなんですね」
うれしくなった、と言ったその言葉どおりうれしそうな瞳をする佐々木さんに、だからあたしは思ったままの言葉を伝えた。佐々木さんはちら、とあたしのほうを見てほほえんだけど、質問には応えずに続けた。
「おれたちの地元は日本海側、てやつなんだけど。おんなじ『海』って名前でも、太平洋生まれと日本海生まれじゃぜんぜんちがうね」
それはつまり、「海」という佐々木さんの友人と、あたしの印象がずいぶんちがう、ということだろうか。日本海のようすを思い浮かべてみようとして、うまく想像できないことに思いあたる。
「あたし、日本海って見たことないです」
海といえば、静岡か、旅行でいった沖縄やバリのものしか知らない。沖縄もバリも、となりには彼氏がいた。「いつか、なっちゃんの地元の海にも連れてって」と、そう言ってくれていたひとのことを、どうしてあたしはあんなに怒鳴ってしまったんだろう。もし彼が戻ってきてくれなかったら、あたしは実家に帰省するたび、海を見ては彼を思いだして泣いてしまうかもしれない。
鼻の奥が熱くなる。泣いちゃだめだ。その一心で、会話をうながす。「太平洋となにがちがうんですか」。
「色がね、まずちがうんだ。落ちたら二度と浮かんでこれないんじゃないかってくらい黒くて。穏やかに見える日でも、近くにいくと荒れてる。海ってやつも、そういうとこあって」
海という友だちについて、佐々木さんは頬を緩ませて話した。照れて素直に肯定できないくらいには、大事な友だちなんだな、と、さっき返事のなかった質問を思いながら、佐々木さんの茶の髪が揺れるのを見ていた。
女の子から人気があって、周囲にひとが絶えなくても、佐々木さんはいつもひとりだった。全員参加の飲み会以外の集まりに加わっているところを見たことがないし、休日になにをしているかとか、どんな食べものが好きなのかとか、そういう、佐々木さんの個人的なことについての話は、一度も聞いたことがない。
今だって、出身地のことを「雪深い日本海側」だとは言っても、具体的にどこの街なのか、佐々木さんは話してくれない。尋ねたって、きっと笑ってごまかされる。そんな態度が、みんなの王子さまたる佐々木さんの特別なイメージを創りあげていた。
佐々木さんの髪の毛は、いつからこの色に染まっているんだろう。その友だちと一緒に過ごしていた地元での日々を、佐々木さんはどんな表情で生きていたのか、すこし見てみたい気持ちになる。
「――白石さんは太平洋らしいよね、いつも穏やかで取り乱したりしない」
ほめられているのだ、と気づくまで、すこし時間がかかった。いつも穏やかという、今のあたしにはいちばん不似合いな形容詞が、胸に刺さる。
「……そんなことないです。この前も」
あの日食べたナポリタンは、涙が出るくらいおいしかった。自分だって疲れているに決まっているのに、あたしが着替えもしないでぐったりしているのを見て、ワイシャツの袖をまくってパスタを茹でてくれた。不器用で、照れ屋で、わかりやすいやさしさなんてめったにくれないひとなのに、黙ってあたしの好きなナポリタンを作ってくれた。このひととつきあえてよかった、そう心から思えた。
でもだからこそ、「おいしい」と言ったつぎの瞬間、口のなかに大嫌いなセロリの味が広がってしまって、冷蔵庫掃除をしたかったから入れたなんて言われたとき、彼氏への感謝の気持ちが、ぜんぶぜんぶ吹き飛んでしまった。
言ってしまおうか。いまの佐々木さんなら、聞いてくれるかもしれない。
「……この前も彼氏に、ひどく当たっちゃって。穏やかなんて、とんでもない」
疲れきってイライラしていた気持ちを、硬くかたく押し固めて、できるだけ先端をとがらせてから彼氏に投げつけた。あのときの殺意にも似た強い感情と、彼が出ていく後姿を眺めながら胸にじわりと湧いた深い後悔を、鮮明に思いだせる。
「まだケンカ中?」
佐々木さんは、ひどくしずかに、瞳だけをこちらに動かして問いかけた。話したくて、だけど深入りはされたくない気持ちが、ぜんぶ見透かされているみたいだった。やっぱりモテるんだろうな、と、すこし高い位置にある横顔を見て思う。泣いているのを見ないように、視線をそらされている。
首を縦に振って返事をしたら、「そっかあ」と、ため息を混ぜた声が降ってきた。自分のことみたいな、真剣なため息だった。
「素直になるのってむずかしいもんね」
その言葉に実感がこもっているのは、あたしにもわかった。なんでもそつなくこなして、会社のなかで立ちまわるのも上手な佐々木さんが素直になれないのは、いったいどんなときなんだろう。
「……佐々木さんは、彼女、いるんですか」
好奇心だった。泣いてしまった情けない姿を見せてしまったことへの、照れもあった。一瞬、視線を宙に漂わせて、佐々木さんは破顔した。
「いるよ。大好きなひとが」
握ったコーヒーに目を落として、佐々木さんが目を細める。涙は、すぐに引っこんだ。
「わ、ラブラブだ。つきあってまだ間もないとか?」
「ううん。もう十年以上いっしょ」
「えっ」
秘密を口にしているみたいに、佐々木さんの声はちいさくて落ち着いていた。やわらかな表情を崩さない佐々木さんの代わりに、あたしのほっぺは、たぶん真っ赤だ。女は、どんなときでも恋バナを愛する。
「結婚しないんですか」
出来心で訊いてしまってから、あたしは馬鹿だなと思う。自分のなかには踏み込ませたくないのに、相手にはずけずけとこんな質問をしている。
「……できたらいいなって、ずっと思ってるけどね」
佐々木さんの答えが、雪と一緒に足元に落ちて、跡形もなく融けていった。
「できない理由があるんですか」
「お互いね、いろいろ」
それまでふんわりしていた佐々木さんの雰囲気が、一気に固くなる。これ以上は、突っこんではいけない話題。だけどあたしは、べつの方向から攻められないか、なんて、ずる賢く頭をめぐらせた。お酒も入っているし、彼氏のことを思いだせばつらくなる。
「十年もいっしょにいて、あきたりしないですか?」
「あきる、って?」
だんだん冷えてきた。コートのえりを寄せた佐々木さんが、会話をうながす。この話は大丈夫らしい。
「いやなとこが見えてきたり、嫌いになったり?」
そう、たとえば、疲れているとき恋人に当たるような人間だとバレてしまうとか。ケンカをしても素直に謝ることもできなくて嫌われてしまうとか。
考えながら、また涙が出そうになる。彼は、もうあたしのことなんて、嫌いになってしまっただろうか。佐々木さんみたいに長くつきあっている恋人がいるひとなら、あたしみたいに卑屈になったりすることはないのだろうか。そうなのだとしたら、秘訣を教えてもらいたかった。彼を傷つけなくてもいい理由を、あたしは「これから」をつくるために知りたくて仕方がない。
期待を持って佐々木さんを見あげる。目を伏せて、佐々木さんは唇の端を歪めた。伏せたまつげがあんまり長くて、雪のかけらがついてしまいそうだ。
「……嫌いになるとしたら相手のほうだよ」
意外な答えだった。佐々木さんと同じ会社で働いていて、不快な思いを持ったことは一度だってない。謙虚で、やさしくて、だけど華やかで。憧れることはあっても、嫌いになる要素なんて、どこにもないのに。
「佐々木さんのこと嫌いになるひとなんているんですか?」
問うと、佐々木さんは「ありがと」と言ってほほえんだ。表情を変えず、そのまま「でも」と言葉を継ぐ。
「おれはずるくてやさしいから。嫌われたら一瞬だよ」
「え」
それは、どういう意味だろう。やさしい、はわかる。でも、ずるい、はわからない。
「あ」
佐々木さんが声をあげた。腕時計をこちらに向けてほほえんでいる。
「はやくいかないと遅れるよ」
あたしが乗る電車の、すぐあとにやってくる車両に乗るはずなのに、佐々木さんはそこから動こうとしなかった。もう話は終わりなんだと気づいて、一歩踏みだす。
「話聞いてくださってありがとうございました。おやすみなさい」
空っぽになっていたコーヒーのカップをゴミ箱に放り入れて、お辞儀をした。雪はあいかわらず降りづいていて、コンビニの軒先から一歩出るだけでよけいに寒く感じる。
「白石さん」
後ろから呼びかけられて、振り向いた。コンビニの光を背にした佐々木さんの表情は、暗くてよく見えない。
「伝えられるうちに、伝えたいことは言わなきゃだめだよ」
栗色の瞳だけが、真っ黒なシルエットのなかで輝いていた。あたしの名前を呼んだはずなのに、あたしに話しかけているのか、自信を持って認識できない声だった。
「仲直りできるといいね」
顔を傾けたせいで光があたって、佐々木さんの笑顔が見えた。ひらひらと落ちてくる雪の向こうで、佐々木さんの笑う姿は、ひどくきれいだった。
なにか言わなきゃ、そう思って口を開いたとき、追い打ちをかけるようなアナウンスが駅から聞こえた。
「じゃ、おやすみ」
そう言って、佐々木さんは手を振った。頭を軽くさげて、駅へと急ぐ。
ホームに入ってすぐにやってきた電車に乗っているあいだ、男のひとらしい、佐々木さんの大きな手が頭に焼きついて離れなかった。彼氏の手のほうがもうすこし線が細くて、そしてその手は、いつだってあたしの肌に繊細に触れてくれていたことを思いだす。
――伝えられるうちに、伝えたいことは言わなきゃだめだよ。
スマートフォンを取りだして、メッセージをしたためる。彼に、会って謝りたい。帰ってきてほしい。「なっちゃん」と名前を呼んでほしい。やわらかな指で触れてほしい。そして、ときどきは大好きなナポリタンを作ってくれたら、たとえそこにセロリが入っていても、それだけであたしはしあわせなのだと伝えたい。
車窓の外を雪が舞う。彼が帰ってくるまでに、部屋の大掃除をしよう。あたしが破ったまくらの羽毛が、もう二度と出てこないように。
彼のサラダにはいつもセロリを入れる。だって彼はセロリが好きだから。においももちろん嫌いだけど、包丁で切っているあいだだけ我慢すれば、なんとかなる。自分のためだけに存在していることを理解していて、彼氏はあたしが食べる料理にセロリを入れた。
普段あんまり家事をしないあたしへの当てつけなんじゃないか。いつも仕事の愚痴がうるさいから、たまには嫌な気持ちになれ、って仕返ししたんじゃないか。勝手に疑心暗鬼になって、泣いて喚いてまくらを投げた。彼氏は仕事の荷物だけ持って、ふたりで暮らしているマンションを出ていった。どこがどうなったのか、宙に浮いたまくらには小さな穴が空いた。羽毛が部屋じゅうに舞って、ああ、きれいだな、なんて、にじんだ視界で思った。
***
「あ、雪だ」
羽毛によく似た綿雪が、真っ暗な空から降ってくる。掃除をして数日経っても、いまだに部屋のどこからか現れる羽毛は、やわらかいのにあたしの心をちくちくと刺す。
「ほんとだ」
佐々木さんが、腕を伸ばして雪を手のひらに乗せた。ギラギラと容赦ない飲み屋街の看板にも負けない、繊細で線の細い横顔だ。
「ホワイトクリスマスになるかな」
「そうですね、もうすぐクリスマスですもんね」
そう、クリスマスはもう目の前だというのに、あたしは彼氏とけんかしてしまった。クリスマスにひとりだなんて、哀しくてさみしくて耐えられそうにない。だけど、バカみたいに喚き散らしたくせに、さみしいから戻ってきて、なんて、プライドが邪魔して言えなかった。
この時期、仕事は納期が立てこんでいて忙しい。飲み会なんてやっている場合じゃないと思いながら、忘年会にはしっかり参加した。普段あまり話したことのないひととお酒を飲んで、すこしわがままな顧客への愚痴を言いあうのは、そんなに悪くないと思える。
場は盛りあがって二次会へなだれこみ、さらに予定の時間を過ぎて、みんな急いで居酒屋を出た。あたしと佐々木さんは、タイミング悪く次の電車までの間隔が開いてしまって、繁華街のコンビニでコーヒーを買い、駅が臨めるその店先で時間を潰していた。
社内のありとあらゆる女の子が、佐々木さんだけは男性として特別だと思っている。今日だって、飲み会のあいだ、何人もの女性社員がさりげなく佐々木さんのとなりに座り、さりげなくあしらわれて玉砕していった。いつもならあたしも、イケメンオーラを浴びたくて参戦するのだけど、今回はどうしてかそんな気分になれなかった。操立てしたって、彼氏が帰ってきてくれるわけじゃないのに。
だから、ほんとのことを言うと、こうしてふたりきりになってしまったのは、神さまからの戒めなんじゃないか、なんて気分になる。こんなときばかりいい子ぶろうとしても無駄だよ。ちゃんと見てるよ、と神さまが言っているような、そんな気持ちに。
「……雪、好きなんですか?」
白い息を吐きながら、佐々木さんはうれしそうに空を眺めている。行き交うひとも、車の量も多いこの通りで、ひとりだけ世界から切り取られたみたいに、佐々木さんはしずかで落ち着いていた。
「うん。地元は雪が多いところでさ。もうずいぶん帰ってないから、なんか懐かしくて」
マフラーにあごを埋めて、佐々木さんは笑った。いつ見ても、どんな表情をしていても絵になる、ふつうのサラリーマンにしておくにはもったいない美人だ。
「そういえば、白石さんて夏海っていうんだね」
席次表で見たんだけど、と佐々木さんが口を開く。
「えっ、はい、そうです」
いくら彼氏がいても、佐々木さんみたいなイケメンに名前を呼ばれたらどきどきする。同時に、「なつみ」とやわらかくあたしを呼ぶ、彼氏の声を思いだして、またすこし切なくなった。
「やっぱり夏生まれ? 家が海に近いとか」
紙コップから立ちのぼる湯気に目をすがめながら、佐々木さんは話を続ける。その表情があんまりにもやさしいから、勘違いしてしまいそうだ。
「そうです。出身は静岡の海のほうなんですけど。……安易ですよね」
夏海という名前は、決して嫌いではなかった。だけど幼いころ、小学校で名づけの由来を調べるよう言われたとき、友人たちの名前にこめられた複雑で意味深い願いを、うらやましく思ったのも事実だった。「夏に海の近くで生まれたから」と、プリントの枠に書きいれたときの物足りなさを、二十年近く経ったいまでも覚えている。
「安易かな? おれの地元の友だちにも、夏生まれで海ってやつがいてさ。なんかそいつとおんなじだ、って、ちょっとうれしくなっちゃった」
寒さで頬を赤くして笑う佐々木さんを見て、自分が恥ずかしくなる。やさしい顔をしていたのは、あたしに気があるからじゃなくて、その友だちのことを思いだしていたからだ。
「……大事なお友だちなんですね」
うれしくなった、と言ったその言葉どおりうれしそうな瞳をする佐々木さんに、だからあたしは思ったままの言葉を伝えた。佐々木さんはちら、とあたしのほうを見てほほえんだけど、質問には応えずに続けた。
「おれたちの地元は日本海側、てやつなんだけど。おんなじ『海』って名前でも、太平洋生まれと日本海生まれじゃぜんぜんちがうね」
それはつまり、「海」という佐々木さんの友人と、あたしの印象がずいぶんちがう、ということだろうか。日本海のようすを思い浮かべてみようとして、うまく想像できないことに思いあたる。
「あたし、日本海って見たことないです」
海といえば、静岡か、旅行でいった沖縄やバリのものしか知らない。沖縄もバリも、となりには彼氏がいた。「いつか、なっちゃんの地元の海にも連れてって」と、そう言ってくれていたひとのことを、どうしてあたしはあんなに怒鳴ってしまったんだろう。もし彼が戻ってきてくれなかったら、あたしは実家に帰省するたび、海を見ては彼を思いだして泣いてしまうかもしれない。
鼻の奥が熱くなる。泣いちゃだめだ。その一心で、会話をうながす。「太平洋となにがちがうんですか」。
「色がね、まずちがうんだ。落ちたら二度と浮かんでこれないんじゃないかってくらい黒くて。穏やかに見える日でも、近くにいくと荒れてる。海ってやつも、そういうとこあって」
海という友だちについて、佐々木さんは頬を緩ませて話した。照れて素直に肯定できないくらいには、大事な友だちなんだな、と、さっき返事のなかった質問を思いながら、佐々木さんの茶の髪が揺れるのを見ていた。
女の子から人気があって、周囲にひとが絶えなくても、佐々木さんはいつもひとりだった。全員参加の飲み会以外の集まりに加わっているところを見たことがないし、休日になにをしているかとか、どんな食べものが好きなのかとか、そういう、佐々木さんの個人的なことについての話は、一度も聞いたことがない。
今だって、出身地のことを「雪深い日本海側」だとは言っても、具体的にどこの街なのか、佐々木さんは話してくれない。尋ねたって、きっと笑ってごまかされる。そんな態度が、みんなの王子さまたる佐々木さんの特別なイメージを創りあげていた。
佐々木さんの髪の毛は、いつからこの色に染まっているんだろう。その友だちと一緒に過ごしていた地元での日々を、佐々木さんはどんな表情で生きていたのか、すこし見てみたい気持ちになる。
「――白石さんは太平洋らしいよね、いつも穏やかで取り乱したりしない」
ほめられているのだ、と気づくまで、すこし時間がかかった。いつも穏やかという、今のあたしにはいちばん不似合いな形容詞が、胸に刺さる。
「……そんなことないです。この前も」
あの日食べたナポリタンは、涙が出るくらいおいしかった。自分だって疲れているに決まっているのに、あたしが着替えもしないでぐったりしているのを見て、ワイシャツの袖をまくってパスタを茹でてくれた。不器用で、照れ屋で、わかりやすいやさしさなんてめったにくれないひとなのに、黙ってあたしの好きなナポリタンを作ってくれた。このひととつきあえてよかった、そう心から思えた。
でもだからこそ、「おいしい」と言ったつぎの瞬間、口のなかに大嫌いなセロリの味が広がってしまって、冷蔵庫掃除をしたかったから入れたなんて言われたとき、彼氏への感謝の気持ちが、ぜんぶぜんぶ吹き飛んでしまった。
言ってしまおうか。いまの佐々木さんなら、聞いてくれるかもしれない。
「……この前も彼氏に、ひどく当たっちゃって。穏やかなんて、とんでもない」
疲れきってイライラしていた気持ちを、硬くかたく押し固めて、できるだけ先端をとがらせてから彼氏に投げつけた。あのときの殺意にも似た強い感情と、彼が出ていく後姿を眺めながら胸にじわりと湧いた深い後悔を、鮮明に思いだせる。
「まだケンカ中?」
佐々木さんは、ひどくしずかに、瞳だけをこちらに動かして問いかけた。話したくて、だけど深入りはされたくない気持ちが、ぜんぶ見透かされているみたいだった。やっぱりモテるんだろうな、と、すこし高い位置にある横顔を見て思う。泣いているのを見ないように、視線をそらされている。
首を縦に振って返事をしたら、「そっかあ」と、ため息を混ぜた声が降ってきた。自分のことみたいな、真剣なため息だった。
「素直になるのってむずかしいもんね」
その言葉に実感がこもっているのは、あたしにもわかった。なんでもそつなくこなして、会社のなかで立ちまわるのも上手な佐々木さんが素直になれないのは、いったいどんなときなんだろう。
「……佐々木さんは、彼女、いるんですか」
好奇心だった。泣いてしまった情けない姿を見せてしまったことへの、照れもあった。一瞬、視線を宙に漂わせて、佐々木さんは破顔した。
「いるよ。大好きなひとが」
握ったコーヒーに目を落として、佐々木さんが目を細める。涙は、すぐに引っこんだ。
「わ、ラブラブだ。つきあってまだ間もないとか?」
「ううん。もう十年以上いっしょ」
「えっ」
秘密を口にしているみたいに、佐々木さんの声はちいさくて落ち着いていた。やわらかな表情を崩さない佐々木さんの代わりに、あたしのほっぺは、たぶん真っ赤だ。女は、どんなときでも恋バナを愛する。
「結婚しないんですか」
出来心で訊いてしまってから、あたしは馬鹿だなと思う。自分のなかには踏み込ませたくないのに、相手にはずけずけとこんな質問をしている。
「……できたらいいなって、ずっと思ってるけどね」
佐々木さんの答えが、雪と一緒に足元に落ちて、跡形もなく融けていった。
「できない理由があるんですか」
「お互いね、いろいろ」
それまでふんわりしていた佐々木さんの雰囲気が、一気に固くなる。これ以上は、突っこんではいけない話題。だけどあたしは、べつの方向から攻められないか、なんて、ずる賢く頭をめぐらせた。お酒も入っているし、彼氏のことを思いだせばつらくなる。
「十年もいっしょにいて、あきたりしないですか?」
「あきる、って?」
だんだん冷えてきた。コートのえりを寄せた佐々木さんが、会話をうながす。この話は大丈夫らしい。
「いやなとこが見えてきたり、嫌いになったり?」
そう、たとえば、疲れているとき恋人に当たるような人間だとバレてしまうとか。ケンカをしても素直に謝ることもできなくて嫌われてしまうとか。
考えながら、また涙が出そうになる。彼は、もうあたしのことなんて、嫌いになってしまっただろうか。佐々木さんみたいに長くつきあっている恋人がいるひとなら、あたしみたいに卑屈になったりすることはないのだろうか。そうなのだとしたら、秘訣を教えてもらいたかった。彼を傷つけなくてもいい理由を、あたしは「これから」をつくるために知りたくて仕方がない。
期待を持って佐々木さんを見あげる。目を伏せて、佐々木さんは唇の端を歪めた。伏せたまつげがあんまり長くて、雪のかけらがついてしまいそうだ。
「……嫌いになるとしたら相手のほうだよ」
意外な答えだった。佐々木さんと同じ会社で働いていて、不快な思いを持ったことは一度だってない。謙虚で、やさしくて、だけど華やかで。憧れることはあっても、嫌いになる要素なんて、どこにもないのに。
「佐々木さんのこと嫌いになるひとなんているんですか?」
問うと、佐々木さんは「ありがと」と言ってほほえんだ。表情を変えず、そのまま「でも」と言葉を継ぐ。
「おれはずるくてやさしいから。嫌われたら一瞬だよ」
「え」
それは、どういう意味だろう。やさしい、はわかる。でも、ずるい、はわからない。
「あ」
佐々木さんが声をあげた。腕時計をこちらに向けてほほえんでいる。
「はやくいかないと遅れるよ」
あたしが乗る電車の、すぐあとにやってくる車両に乗るはずなのに、佐々木さんはそこから動こうとしなかった。もう話は終わりなんだと気づいて、一歩踏みだす。
「話聞いてくださってありがとうございました。おやすみなさい」
空っぽになっていたコーヒーのカップをゴミ箱に放り入れて、お辞儀をした。雪はあいかわらず降りづいていて、コンビニの軒先から一歩出るだけでよけいに寒く感じる。
「白石さん」
後ろから呼びかけられて、振り向いた。コンビニの光を背にした佐々木さんの表情は、暗くてよく見えない。
「伝えられるうちに、伝えたいことは言わなきゃだめだよ」
栗色の瞳だけが、真っ黒なシルエットのなかで輝いていた。あたしの名前を呼んだはずなのに、あたしに話しかけているのか、自信を持って認識できない声だった。
「仲直りできるといいね」
顔を傾けたせいで光があたって、佐々木さんの笑顔が見えた。ひらひらと落ちてくる雪の向こうで、佐々木さんの笑う姿は、ひどくきれいだった。
なにか言わなきゃ、そう思って口を開いたとき、追い打ちをかけるようなアナウンスが駅から聞こえた。
「じゃ、おやすみ」
そう言って、佐々木さんは手を振った。頭を軽くさげて、駅へと急ぐ。
ホームに入ってすぐにやってきた電車に乗っているあいだ、男のひとらしい、佐々木さんの大きな手が頭に焼きついて離れなかった。彼氏の手のほうがもうすこし線が細くて、そしてその手は、いつだってあたしの肌に繊細に触れてくれていたことを思いだす。
――伝えられるうちに、伝えたいことは言わなきゃだめだよ。
スマートフォンを取りだして、メッセージをしたためる。彼に、会って謝りたい。帰ってきてほしい。「なっちゃん」と名前を呼んでほしい。やわらかな指で触れてほしい。そして、ときどきは大好きなナポリタンを作ってくれたら、たとえそこにセロリが入っていても、それだけであたしはしあわせなのだと伝えたい。
車窓の外を雪が舞う。彼が帰ってくるまでに、部屋の大掃除をしよう。あたしが破ったまくらの羽毛が、もう二度と出てこないように。
1
あなたにおすすめの小説
fall~獣のような男がぼくに歓びを教える
乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。
強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。
濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。
※エブリスタで連載していた作品です
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
宵にまぎれて兎は回る
宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで
水城
BL
ある地方の城下町で、高校2年生のα、β、Ωが性的にも友情的にもグッチャグチャに惹かれ合う話です。
美術部の美貌のオメガ小鳥遊奏(たかなし かなで)は、オメガである自分を恥じ、迫りくる初ヒートに恐怖を感じていた。
名士の長男である藤堂尊(とうどう たける)は非の打ちどころのないアルファ。後継者として父からの厳しく倒錯的な教育を受けている。
ベータの春日悠一(かすが ゆういち)は、ある日、ひとりで走ることを望んで陸上部をやめた。
湧水と高い山々に包まれた古い城下町。
征服の手段としての肉体しか教え込まれなかったアルファは、風のように走るベータに対し、初めて人間としての興味を抱く。
大切な友人としての関係を壊したくないのに、ベータとオメガは尊敬と恋心と愛欲を交差させる。
心身をバース性に囚われた思春期の少年たちが、それぞれの道を見つける物語。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
もう一度言って欲しいオレと思わず言ってしまったあいつの話する?
藍音
BL
ある日、親友の壮介はおれたちの友情をぶち壊すようなことを言い出したんだ。
なんで?どうして?
そんな二人の出会いから、二人の想いを綴るラブストーリーです。
片想い進行中の方、失恋経験のある方に是非読んでもらいたい、切ないお話です。
勇太と壮介の視点が交互に入れ替わりながら進みます。
お話の重複は可能な限り避けながら、ストーリーは進行していきます。
少しでもお楽しみいただけたら、嬉しいです。
(R4.11.3 全体に手を入れました)
【ちょこっとネタバレ】
番外編にて二人の想いが通じた後日譚を進行中。
BL大賞期間内に番外編も完結予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる