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はんぶんこ
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田んぼに水が入った。夜になると一斉にカエルたちが鳴き声を上げるようになって、水気の濃くなった空気を埋め尽くしている。朝がくるとカエルたちは眠ってしまうのか、世界は静寂に包まれてあっさりとした空気で満ちた。
早起きをして、念入りにひげを剃って。センスなんてないけど、なんとか変に見えないように服を選んで。約束の時間のきっかり三十分前に、アパートを出た。
愛車の軽で、土っぽい道路を駆け抜ける。空は真っ青で、田んぼと田んぼのあいだを貫くまっすぐな農道は、果てが見えないほど遠くまで伸びていた。住んでいる小さな町から出かけるには、必ずこの道を通らないといけない。
この道を「長い」と思うか、それとも「一瞬だ」と感じるかで、おれはその日気分をはかっている。今日はたぶん、前者の気分だ。自分のことなのになんで「たぶん」なのかって、それはおれの心臓が楽しみと緊張っていう相反する気持ちで押し潰されそうになっているからだった。
農道を抜けて、国道に入り、今度は山も田んぼもない道を車で走る。いろんな店が並ぶ通りに、目的の店はあった。スーパーと共有している駐車場のなか、店の真ん前に車を停める。顔を上げたら、斜向かいに見覚えのある黒い車が置いてあった。ぴかぴかに磨かれた運転席のドアに背中を預けて、車の主がスマホをいじっている。
黒い車は覚えた。だけどそのひとの姿には、まだ慣れない。
車を降りて、そのひとに近づく。じっと見つめた視線が頬を刺したらしい。すぐにおれに気づいて、ぱ、と表情を明るくしてから、そのひと――『凶器さん』は、ひらひらと手を振った。
「おつかれ。よかった、きてくれて」
「……きますよ。あたりまえです」
楽しみと、緊張と。相反する気持ちがぐちゃぐちゃになって、まっすぐに目を見れない。凶器さんが「ふ」とほほえんだのが、そらした視界のなかでもわかった。
高校の卒業式で顔を合わせてから、凶器さんとは連絡先を交換して、休みの日になんとなく予定を合わせて、なんとなくごはんを食べるようになった。今日は何回めの約束だろう。回数を数えることを手放せるくらいには、凶器さんと過ごす休日は当たり前になっている。
「――いつもファミレスでいいの?」
合皮のソファ。ガヤガヤとうるさい店内。タッチパネルでしか注文できないメニューと、セルフサービスで持ってくるお冷。おれはともかく、身綺麗な凶器さんには、たしかに不釣り合いな場所だった。
「いいです、身の丈に合ってるので」
「おれがぜんぶ払うからいいのに」
テーブルに頬杖をついて、凶器さんは首を傾けた。この角度でじっと見つめられると、心臓の奥底を覗かれている気がして落ち着かない。
「……それじゃ、だめなんで」
「うん?」
――それじゃ、凶器さんとおれが対等じゃないことの証になってしまう。
年齢も、立場も、年収も。おれたちのあいだには明らかな差があって、そのことが、おれはいつも悔しかった。同じなのは高校を卒業した年度と、共有してきた景色だけ。
だけど、「対等でいたい」と思う時点で、おれたちの立ち位置が同じ高さにはないのはわかっている。そして、ファミレスで食事を摂ることを強要して、それを凶器さんが飲んでいる時点で、おれたちは、ちっとも対等じゃない。
「とにかく、おれは好きなんで、ファミレス」
「そう? ならいいけど」
知っている。おれのこの迷いを、凶器さんが手に取るように理解していること。その余裕がムカつくっていうおれの気持ちを刺激しないように、凶器さんが振る舞ってくれていることも。
その思いやりがうれしくて、同時に歯がゆい。
「なに食べる?」テーブルを覆いつくすような大きさのメニュー表を開いて、凶器さんが首を傾げる。メニュー表は、もちろんおれに正面が向けられている。
「……ピザ、食べたいです」
「いいね。どれがいい?」
丸い生地の上にある、赤と白と緑とを見比べる。カタカナの羅列に、めまいがした。凶器さんはおれが選ぶのを、ただじっと待っている。
「……よくわかんないんで、決めてもらっていいですか」
「じゃあ、クアトロフォルマッジにしようかな」
あっという間にタブレットを操作して、凶器さんはメニュー表を元の場所に立てかけた。クアトロフォルマッジ、ってなんだろう。ほんとはメニュー表を仕舞ってほしくなかった。説明文を読んで、どんなピザか把握しておかないと、凶器さんとの差が埋まらない理由が、またひとつ増えてしまう。
わからないって、知らないって、高校にいたときみたいに素直に言えたらいいのに。凶器さんと会うたびに、プライドが高くて無知な自分を許せない自分自身が、どんどん輪郭をはっきりさせていく。
「おれ、お冷持ってきます」
「おお、お願いします」
ドリンクバーのサーバーから、氷水をグラスに注ぐ。ちら、と視線を席に戻したら、凶器さんが手を挙げてほほえんでいた。こういう瞬間、どんな顔をするのが正解なんだろう。わからないまま、軽く会釈をして、もうひとつのグラスに集中する。
「ありがとう」
「いえ」
お互いの目の前にグラスを置いて、そのあとテーブルに落ちたのは、沈黙だった。
凶器さんは、あんまり話さないひとだった。口下手、っていうのとも、きっとちがう。なにを話したらいいのか、たぶん凶器さんも迷っている。その事実が、おれに安心感をくれた。
不用意に言葉をこぼすわけじゃないけど、おれの全身に注意が向けられているのは伝わってくる。それだけで、無理に会話をしようとする自分を宥めることができた。
おれだけじゃない。緊張しているのも、それでも会いたいと思うのも。
凶器さんといると、反対の感情がいろんなベクトルで生まれてきて苦しい。同じ年度に同じ校舎で同じ景色を見ていたときの、楽しい気持ちに一〇〇パーセント埋め尽くされていた頃の自分は、もういない。
机の上のメッセージでやりとりしていたときには生まれなかったもやもやが、おれと凶器さんとのあいだを漂って、濃くなったり薄くなったりをくり返す。
それでもどうしてか、会うのをやめようとは思わなかった。
グラスに口をつけて、水を飲む。喉が大げさに鳴らないように細心の注意を払いながら、食道を落ちていく冷たさを追いかけた。
「――あ、虹だ」
とん、と音を立ててグラスを置いたおれの手もとを指して、凶器さんが口を開く。グラス、なんてのは名ばかりの、プラスチックのコップ。水が入ったその中心を、窓からの太陽の光が射抜いている。透明な液体と、透明なプラスチックを通り抜けた光が、テーブルに虹を落としていた。
木を模したテーブルに、七色よりもっとたくさんの色をはらんだ光が広がる。少しグラスを動かしたら、水の揺らめきと一緒に、虹もそっと形を変えた。
「……きれい」
思わず声が漏れる。目を離せないまま、言葉だけを紡いだ。「これ、授業でやりました。光には色があるって」。
「――きみも?」
ささやくように凶器さんが言う。つられて顔を上げたら、視線の先に小豆色の瞳があった。うなずいて見せたおれに、凶器さんは、顔をくしゃくしゃにして、泣きそうな顔で笑った。
「やっぱりきみは、おれが伝えたかった景色をぜんぶ拾い上げてくれた、あの子なんだな」
小豆色の瞳が、おれをじっと見る。言葉より雄弁なその瞳を、おれは、怖くてずっと見ることができなかった。
「ずっと、だれかと同じ景色を見たかった」
でも、この眼を見れば、一瞬で伝わってくる。
「それがきみでよかった。ほんとうに、心から思うよ」
首を傾けて、凶器さんが深く息を吸う。テーブルに落ちる虹に、凶器さんがそっと手を伸ばした。触れないように。だけど、限りなく近づけるように。そのごつごつした手の横に、おれも指先を置いた。
「――ファミレス、この前はじめてきたんです」
数センチのあいだを置いた指先と指先。その距離に目を落としながら、つぶやく。
「外食とか、させてもらえる家じゃなくて」
差があるのは当たり前だ。だって、おれたちはちがう人間なんだから。
「だから、ファミレスがいいんです」
爪の先で、凶器さんの肌を一瞬つつく。皮膚の厚い、大人のひとの手だった。
「……そっか、うん。そうか」
ありがとう。さっきと同じ言葉を、だけど凶器さんは、もっとやわらかい声で言った。店のなかはすごくうるさいのに、その小さな声は、ちゃんとおれの耳に届いた。
しばらくして届いたピザは、チーズしか乗っていなくて、蜂蜜をかけて食べる不思議な食べものだった。「こちらご自由にカットしてお召し上がりくださいー」と店員が置いていった、見たことのない丸い刃の道具に、心がときめく。
「おれ、切りたいです」
道具を握って、チーズしか乗っていないピザの真ん中を突っ切る。見た目よりずっと切れ味のいい刃物に少しビビりながら、おれたちから一番遠いテーブルの端に道具を避けた。
「……半分?」
人生ではじめて切ったピザ。ずい、と差し出したら、凶器さんは目を丸くしておれを見た。
「え、だって、ふたりで分けるんだから、はんぶんこですよね」
あ、これ、まちがえた。背中がす、っと冷たくなる。これまでも何百回とこの場面に遭遇してきた。おれだけが知らない。おれだけがわからない。常識っていう怖いこわいルールの上に乗れなかった自分を、久しぶりに実感する。
「あの、すみま――」
「ふふ、ははは」
声を必死に抑えて、凶器さんが笑う。今日だけで、このひとは何回笑っただろう。人間はこんなにもいろんな笑い方ができるのだと、おれは今日、人生ではじめて知った。
「はんぶんこ、たしかにそうだ」
くくく。馬鹿にされているような、だけどどこか、感心されているような。変な笑い方をする凶器さんの小豆色の瞳が、太陽の光で虹色に光って見えた。
「はー、最高だよ。きみから教えてもらったもの、これで何個めかな」
凶器さんが教えてくれたもののほうが、絶対ぜったい、ぜっったい多いのに。こんなのたぶん、常識からは大きく外れたことなのに。おれからも与えられるものがあるってことが信じられないほどうれしくて、おれは思わず「一〇〇個めくらいですか?」なんて軽口を叩いた。
「うーん、もっとかな」
だから、真顔の凶器さんからそんな返事が返ってきたとき、おれはまた、小豆色の瞳を直視できないおれに、逆戻りしてしまったのだった。
早起きをして、念入りにひげを剃って。センスなんてないけど、なんとか変に見えないように服を選んで。約束の時間のきっかり三十分前に、アパートを出た。
愛車の軽で、土っぽい道路を駆け抜ける。空は真っ青で、田んぼと田んぼのあいだを貫くまっすぐな農道は、果てが見えないほど遠くまで伸びていた。住んでいる小さな町から出かけるには、必ずこの道を通らないといけない。
この道を「長い」と思うか、それとも「一瞬だ」と感じるかで、おれはその日気分をはかっている。今日はたぶん、前者の気分だ。自分のことなのになんで「たぶん」なのかって、それはおれの心臓が楽しみと緊張っていう相反する気持ちで押し潰されそうになっているからだった。
農道を抜けて、国道に入り、今度は山も田んぼもない道を車で走る。いろんな店が並ぶ通りに、目的の店はあった。スーパーと共有している駐車場のなか、店の真ん前に車を停める。顔を上げたら、斜向かいに見覚えのある黒い車が置いてあった。ぴかぴかに磨かれた運転席のドアに背中を預けて、車の主がスマホをいじっている。
黒い車は覚えた。だけどそのひとの姿には、まだ慣れない。
車を降りて、そのひとに近づく。じっと見つめた視線が頬を刺したらしい。すぐにおれに気づいて、ぱ、と表情を明るくしてから、そのひと――『凶器さん』は、ひらひらと手を振った。
「おつかれ。よかった、きてくれて」
「……きますよ。あたりまえです」
楽しみと、緊張と。相反する気持ちがぐちゃぐちゃになって、まっすぐに目を見れない。凶器さんが「ふ」とほほえんだのが、そらした視界のなかでもわかった。
高校の卒業式で顔を合わせてから、凶器さんとは連絡先を交換して、休みの日になんとなく予定を合わせて、なんとなくごはんを食べるようになった。今日は何回めの約束だろう。回数を数えることを手放せるくらいには、凶器さんと過ごす休日は当たり前になっている。
「――いつもファミレスでいいの?」
合皮のソファ。ガヤガヤとうるさい店内。タッチパネルでしか注文できないメニューと、セルフサービスで持ってくるお冷。おれはともかく、身綺麗な凶器さんには、たしかに不釣り合いな場所だった。
「いいです、身の丈に合ってるので」
「おれがぜんぶ払うからいいのに」
テーブルに頬杖をついて、凶器さんは首を傾けた。この角度でじっと見つめられると、心臓の奥底を覗かれている気がして落ち着かない。
「……それじゃ、だめなんで」
「うん?」
――それじゃ、凶器さんとおれが対等じゃないことの証になってしまう。
年齢も、立場も、年収も。おれたちのあいだには明らかな差があって、そのことが、おれはいつも悔しかった。同じなのは高校を卒業した年度と、共有してきた景色だけ。
だけど、「対等でいたい」と思う時点で、おれたちの立ち位置が同じ高さにはないのはわかっている。そして、ファミレスで食事を摂ることを強要して、それを凶器さんが飲んでいる時点で、おれたちは、ちっとも対等じゃない。
「とにかく、おれは好きなんで、ファミレス」
「そう? ならいいけど」
知っている。おれのこの迷いを、凶器さんが手に取るように理解していること。その余裕がムカつくっていうおれの気持ちを刺激しないように、凶器さんが振る舞ってくれていることも。
その思いやりがうれしくて、同時に歯がゆい。
「なに食べる?」テーブルを覆いつくすような大きさのメニュー表を開いて、凶器さんが首を傾げる。メニュー表は、もちろんおれに正面が向けられている。
「……ピザ、食べたいです」
「いいね。どれがいい?」
丸い生地の上にある、赤と白と緑とを見比べる。カタカナの羅列に、めまいがした。凶器さんはおれが選ぶのを、ただじっと待っている。
「……よくわかんないんで、決めてもらっていいですか」
「じゃあ、クアトロフォルマッジにしようかな」
あっという間にタブレットを操作して、凶器さんはメニュー表を元の場所に立てかけた。クアトロフォルマッジ、ってなんだろう。ほんとはメニュー表を仕舞ってほしくなかった。説明文を読んで、どんなピザか把握しておかないと、凶器さんとの差が埋まらない理由が、またひとつ増えてしまう。
わからないって、知らないって、高校にいたときみたいに素直に言えたらいいのに。凶器さんと会うたびに、プライドが高くて無知な自分を許せない自分自身が、どんどん輪郭をはっきりさせていく。
「おれ、お冷持ってきます」
「おお、お願いします」
ドリンクバーのサーバーから、氷水をグラスに注ぐ。ちら、と視線を席に戻したら、凶器さんが手を挙げてほほえんでいた。こういう瞬間、どんな顔をするのが正解なんだろう。わからないまま、軽く会釈をして、もうひとつのグラスに集中する。
「ありがとう」
「いえ」
お互いの目の前にグラスを置いて、そのあとテーブルに落ちたのは、沈黙だった。
凶器さんは、あんまり話さないひとだった。口下手、っていうのとも、きっとちがう。なにを話したらいいのか、たぶん凶器さんも迷っている。その事実が、おれに安心感をくれた。
不用意に言葉をこぼすわけじゃないけど、おれの全身に注意が向けられているのは伝わってくる。それだけで、無理に会話をしようとする自分を宥めることができた。
おれだけじゃない。緊張しているのも、それでも会いたいと思うのも。
凶器さんといると、反対の感情がいろんなベクトルで生まれてきて苦しい。同じ年度に同じ校舎で同じ景色を見ていたときの、楽しい気持ちに一〇〇パーセント埋め尽くされていた頃の自分は、もういない。
机の上のメッセージでやりとりしていたときには生まれなかったもやもやが、おれと凶器さんとのあいだを漂って、濃くなったり薄くなったりをくり返す。
それでもどうしてか、会うのをやめようとは思わなかった。
グラスに口をつけて、水を飲む。喉が大げさに鳴らないように細心の注意を払いながら、食道を落ちていく冷たさを追いかけた。
「――あ、虹だ」
とん、と音を立ててグラスを置いたおれの手もとを指して、凶器さんが口を開く。グラス、なんてのは名ばかりの、プラスチックのコップ。水が入ったその中心を、窓からの太陽の光が射抜いている。透明な液体と、透明なプラスチックを通り抜けた光が、テーブルに虹を落としていた。
木を模したテーブルに、七色よりもっとたくさんの色をはらんだ光が広がる。少しグラスを動かしたら、水の揺らめきと一緒に、虹もそっと形を変えた。
「……きれい」
思わず声が漏れる。目を離せないまま、言葉だけを紡いだ。「これ、授業でやりました。光には色があるって」。
「――きみも?」
ささやくように凶器さんが言う。つられて顔を上げたら、視線の先に小豆色の瞳があった。うなずいて見せたおれに、凶器さんは、顔をくしゃくしゃにして、泣きそうな顔で笑った。
「やっぱりきみは、おれが伝えたかった景色をぜんぶ拾い上げてくれた、あの子なんだな」
小豆色の瞳が、おれをじっと見る。言葉より雄弁なその瞳を、おれは、怖くてずっと見ることができなかった。
「ずっと、だれかと同じ景色を見たかった」
でも、この眼を見れば、一瞬で伝わってくる。
「それがきみでよかった。ほんとうに、心から思うよ」
首を傾けて、凶器さんが深く息を吸う。テーブルに落ちる虹に、凶器さんがそっと手を伸ばした。触れないように。だけど、限りなく近づけるように。そのごつごつした手の横に、おれも指先を置いた。
「――ファミレス、この前はじめてきたんです」
数センチのあいだを置いた指先と指先。その距離に目を落としながら、つぶやく。
「外食とか、させてもらえる家じゃなくて」
差があるのは当たり前だ。だって、おれたちはちがう人間なんだから。
「だから、ファミレスがいいんです」
爪の先で、凶器さんの肌を一瞬つつく。皮膚の厚い、大人のひとの手だった。
「……そっか、うん。そうか」
ありがとう。さっきと同じ言葉を、だけど凶器さんは、もっとやわらかい声で言った。店のなかはすごくうるさいのに、その小さな声は、ちゃんとおれの耳に届いた。
しばらくして届いたピザは、チーズしか乗っていなくて、蜂蜜をかけて食べる不思議な食べものだった。「こちらご自由にカットしてお召し上がりくださいー」と店員が置いていった、見たことのない丸い刃の道具に、心がときめく。
「おれ、切りたいです」
道具を握って、チーズしか乗っていないピザの真ん中を突っ切る。見た目よりずっと切れ味のいい刃物に少しビビりながら、おれたちから一番遠いテーブルの端に道具を避けた。
「……半分?」
人生ではじめて切ったピザ。ずい、と差し出したら、凶器さんは目を丸くしておれを見た。
「え、だって、ふたりで分けるんだから、はんぶんこですよね」
あ、これ、まちがえた。背中がす、っと冷たくなる。これまでも何百回とこの場面に遭遇してきた。おれだけが知らない。おれだけがわからない。常識っていう怖いこわいルールの上に乗れなかった自分を、久しぶりに実感する。
「あの、すみま――」
「ふふ、ははは」
声を必死に抑えて、凶器さんが笑う。今日だけで、このひとは何回笑っただろう。人間はこんなにもいろんな笑い方ができるのだと、おれは今日、人生ではじめて知った。
「はんぶんこ、たしかにそうだ」
くくく。馬鹿にされているような、だけどどこか、感心されているような。変な笑い方をする凶器さんの小豆色の瞳が、太陽の光で虹色に光って見えた。
「はー、最高だよ。きみから教えてもらったもの、これで何個めかな」
凶器さんが教えてくれたもののほうが、絶対ぜったい、ぜっったい多いのに。こんなのたぶん、常識からは大きく外れたことなのに。おれからも与えられるものがあるってことが信じられないほどうれしくて、おれは思わず「一〇〇個めくらいですか?」なんて軽口を叩いた。
「うーん、もっとかな」
だから、真顔の凶器さんからそんな返事が返ってきたとき、おれはまた、小豆色の瞳を直視できないおれに、逆戻りしてしまったのだった。
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