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37 決別の朝 2
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「半年後、ここを……アルカディアの島を出たら何をする?」
「……そうだな」
問われて、ヒロセは考え込みながら、ふっと笑う。
いつもと同じようでどこか違うもののように見えた。
どこがどう違うのかよく説明できないが、このときの彼がしたものが意外な表情だとカズヤは感じた。
「同じだ。何も計画していない。楽しいこととか、これから考えていこうと思うけど、多分、今と同じことをしていると思う。何も変わらない」
なごやかな眼差し。普段の彼の琥珀色の睛とは別の色が宿る。
時々現れる。ふっと、誰だかふいに現れ、意外な貌を覗かせる。
「カズヤはどうする?」
いつになく穏やかな声で問いかける。
「同じだろうな」ふ、と息をつきつつ、微笑み掛ける。
「ヒロセはいつもそうだ。顔をつくっている、いつも演技しているみたいだ。まるで君じゃないみたいだ」
ふと口をついて出た言葉に、「え?」とヒロセは驚く表情を見せる。
そして少しして、「じゃあ、誰なんだろう?」と問いかける。
「もしかして、本当の君に、俺は出会ったことがないのかもしれない」
「……っ」
表情を隠すように睛を伏せる。予想外の言葉に絶句した。
「本当の俺なんか知らなくてもいい。俺は、俺が、カズヤを好きでいる事実だけでいい。それだけでいい」
言葉に詰まりながら続きを吐き出す。
__________俺は自分が愛されることを求めたことがないから。
だけど、頬から涙が滑りおちる。なぜだろう。
理由も分からず、止めどなく流れ続ける。
カズヤは呆然と見遣る。 ヒロセの頬から、透明な雫が流れ落ちる様を黙って見つめていた。
泣くところなんてはじめて見た。
ヒロセが自分を晒し、泣いてくれている事実を嬉しく思う。
明日は雪が降るかもしれない。それほど珍しいことだ。
「…………知らないだろう?__________海水ってすごくしょっぱいんだ」
両眼から雫が落ちる。カズヤが頬に手をあてがって、それに触れる。
「ヒロセの涙みたいに?」
声にならずに頷く。「………っ、…………そうだよ」
喉の奥に何かが詰まっているように苦しい。やっとのことで話を続ける。
「海って、青いんだ。カズヤはここの海のような硫酸銅の眼の醒めるようなコバルトブルーだと思っているんだろ」
そうじゃないと、云い含める。
「こんな、色の……じゃない……もっと綺麗なんだ。透明で、澄んで、淡くて深いブルー。カズヤに見せたいんだ。……だから……!」
「…………うん……」
声を詰まらせ、必死に伝える。
「それに、ここの海はヘンな匂いがしていた。硫酸自体は無臭だけど、消毒液の混じった匂いがしていた。本物の海は潮の匂いがするんだ。_______海の風が、潮風を運んでくるんだ」
情景を思い浮かべる。見ることが叶わなかったけれど、きっと、綺麗なんだろう。
ゆるゆると延ばされた手に己が手を添える。
カズヤが微笑みながら、消え入りそうな声で囁いた。
「…………そうか、見たかったな」
まるでこれで終わりみたいな空気だ。分かっているからだ、彼がこの状況を。もう、この先がないことを。改めて思う。胸をつく想い。これで最後になるんだろうな……。
「約束、だっただろう……」
「うん、……」
いつか海に行こうって云っていたのに、「いつか」が永遠に来ない。……こんな絶望!
ヒロセと対照的にカズヤは穏やかな気持ちで口を開く。
「__________本当に、悪くない人生だったと思うよ」
ヒロセは泣くだろうか、悲しむだろうか。不思議と満たされた想い。今こうしていることに少しも怖くも不安でもない。そう思うのはなぜなんだろう。
ヒロセの頬に伝う涙を拭おうと手を伸ばそうとするが、届かない。
口元に笑みが浮かんだ。薄れゆく意識の中で最後に感じた感情は幸福かもしれなかった。
ゆるやかに伸ばされた手が静かに落ちた。顔に触れる寸前で。
ふっ、と意識が消え、その瞬間に生命の灯火が消えた。
ヒロセの表情は驚愕に変わる。声にならない悲鳴を上げながら。
目の前に横たわっている身体は友人だった者のものだ。
閉じた瞼や口元からは安らぐ表情が伺える。
光に満たされたように、とても穏やで安らかな表情を浮かべていた。
「カズヤ!カズヤ!目を醒ませ!」
躰にすがって悲痛に叫び、思いっきり揺さぶる。
まだぬくもりもある。たった今まで鼓動もあった。
「俺を置いて行かないでくれ!」
必死に訴える声も虚しく、ビクともしない。
「……っ!」
苦痛に声を搾り出し、このまま間を置かず異変に気づく。
ふと違和感に気付いた。ドアの向こうから大勢の人の気配がする。
まさかと思う間もなく、ドン……!と勢いよくドアが蹴破られ、ガスマスクをした特攻隊が部屋に詰めかけ、大勢押し寄せる。
ハッと振り向きながら驚愕する。
同時に、扉を煙のような花の芳香が部屋中に充満する。うっ、とキツイ香りに鼻を覆う。
そうこうする間に、ガスマスクの面々がカズヤの遺体に群がり、手を掛け運びだそうとする。
「やめろ!カズヤにさわるな」
喉を突き破るくらい鋭い声で制するも、暴れる身体をすぐさま取り押さえられる。
多数に対しひとりで、なすすべもなかった。
キツイ芳香に意識が眩む。眼に沁みる煙のせいか、それともこんな理不尽な状況に対しての悔しさからなのか、涙が溢れる。意識が混濁してゆく。
……そうして、混乱の最中、意識が曖昧になる。
揺蕩う河のように、波のように。どこかに流されてゆく。
アルカディアは極上の夢を見せるんだ。
理想郷。その名の通り、夢見る者の、望んだものの姿をそのままに見せるんだ。
__________どんな夢を見ているのか聞かせてほしい。
甘い幻想か、せつない夢想だったのか。
海の中のように極彩色の魚たちが彩る幻影の世界なのか。それとも……?
カズヤはふわりと微笑んでいた。蕩けるような笑み。幸せで、幸せで仕方がないというように。
そんな瞬間は人生のうち、そう何度もないことだ。
綺麗な夢を抱いて眠るのか……。
もっと言葉に云い表せないくらい、溶けゆく世界なのか。
はたまた天国なのか楽園なのか。
教えて欲しい。夢の結末を__________。
先を越されたという、仄かな嫉妬心すら入り混じっている。
でも、今はただ、瞼が重くて、もう指先一本すらも動かす気力がない……。
しばらく俺も眠りに就くのだろうか。永い眠りに。
流されていく、美しい世界。呑み込まれていく混沌へ。
きっと、そこは痛みも悲しみもなく、歓びに溢れている。
「……そうだな」
問われて、ヒロセは考え込みながら、ふっと笑う。
いつもと同じようでどこか違うもののように見えた。
どこがどう違うのかよく説明できないが、このときの彼がしたものが意外な表情だとカズヤは感じた。
「同じだ。何も計画していない。楽しいこととか、これから考えていこうと思うけど、多分、今と同じことをしていると思う。何も変わらない」
なごやかな眼差し。普段の彼の琥珀色の睛とは別の色が宿る。
時々現れる。ふっと、誰だかふいに現れ、意外な貌を覗かせる。
「カズヤはどうする?」
いつになく穏やかな声で問いかける。
「同じだろうな」ふ、と息をつきつつ、微笑み掛ける。
「ヒロセはいつもそうだ。顔をつくっている、いつも演技しているみたいだ。まるで君じゃないみたいだ」
ふと口をついて出た言葉に、「え?」とヒロセは驚く表情を見せる。
そして少しして、「じゃあ、誰なんだろう?」と問いかける。
「もしかして、本当の君に、俺は出会ったことがないのかもしれない」
「……っ」
表情を隠すように睛を伏せる。予想外の言葉に絶句した。
「本当の俺なんか知らなくてもいい。俺は、俺が、カズヤを好きでいる事実だけでいい。それだけでいい」
言葉に詰まりながら続きを吐き出す。
__________俺は自分が愛されることを求めたことがないから。
だけど、頬から涙が滑りおちる。なぜだろう。
理由も分からず、止めどなく流れ続ける。
カズヤは呆然と見遣る。 ヒロセの頬から、透明な雫が流れ落ちる様を黙って見つめていた。
泣くところなんてはじめて見た。
ヒロセが自分を晒し、泣いてくれている事実を嬉しく思う。
明日は雪が降るかもしれない。それほど珍しいことだ。
「…………知らないだろう?__________海水ってすごくしょっぱいんだ」
両眼から雫が落ちる。カズヤが頬に手をあてがって、それに触れる。
「ヒロセの涙みたいに?」
声にならずに頷く。「………っ、…………そうだよ」
喉の奥に何かが詰まっているように苦しい。やっとのことで話を続ける。
「海って、青いんだ。カズヤはここの海のような硫酸銅の眼の醒めるようなコバルトブルーだと思っているんだろ」
そうじゃないと、云い含める。
「こんな、色の……じゃない……もっと綺麗なんだ。透明で、澄んで、淡くて深いブルー。カズヤに見せたいんだ。……だから……!」
「…………うん……」
声を詰まらせ、必死に伝える。
「それに、ここの海はヘンな匂いがしていた。硫酸自体は無臭だけど、消毒液の混じった匂いがしていた。本物の海は潮の匂いがするんだ。_______海の風が、潮風を運んでくるんだ」
情景を思い浮かべる。見ることが叶わなかったけれど、きっと、綺麗なんだろう。
ゆるゆると延ばされた手に己が手を添える。
カズヤが微笑みながら、消え入りそうな声で囁いた。
「…………そうか、見たかったな」
まるでこれで終わりみたいな空気だ。分かっているからだ、彼がこの状況を。もう、この先がないことを。改めて思う。胸をつく想い。これで最後になるんだろうな……。
「約束、だっただろう……」
「うん、……」
いつか海に行こうって云っていたのに、「いつか」が永遠に来ない。……こんな絶望!
ヒロセと対照的にカズヤは穏やかな気持ちで口を開く。
「__________本当に、悪くない人生だったと思うよ」
ヒロセは泣くだろうか、悲しむだろうか。不思議と満たされた想い。今こうしていることに少しも怖くも不安でもない。そう思うのはなぜなんだろう。
ヒロセの頬に伝う涙を拭おうと手を伸ばそうとするが、届かない。
口元に笑みが浮かんだ。薄れゆく意識の中で最後に感じた感情は幸福かもしれなかった。
ゆるやかに伸ばされた手が静かに落ちた。顔に触れる寸前で。
ふっ、と意識が消え、その瞬間に生命の灯火が消えた。
ヒロセの表情は驚愕に変わる。声にならない悲鳴を上げながら。
目の前に横たわっている身体は友人だった者のものだ。
閉じた瞼や口元からは安らぐ表情が伺える。
光に満たされたように、とても穏やで安らかな表情を浮かべていた。
「カズヤ!カズヤ!目を醒ませ!」
躰にすがって悲痛に叫び、思いっきり揺さぶる。
まだぬくもりもある。たった今まで鼓動もあった。
「俺を置いて行かないでくれ!」
必死に訴える声も虚しく、ビクともしない。
「……っ!」
苦痛に声を搾り出し、このまま間を置かず異変に気づく。
ふと違和感に気付いた。ドアの向こうから大勢の人の気配がする。
まさかと思う間もなく、ドン……!と勢いよくドアが蹴破られ、ガスマスクをした特攻隊が部屋に詰めかけ、大勢押し寄せる。
ハッと振り向きながら驚愕する。
同時に、扉を煙のような花の芳香が部屋中に充満する。うっ、とキツイ香りに鼻を覆う。
そうこうする間に、ガスマスクの面々がカズヤの遺体に群がり、手を掛け運びだそうとする。
「やめろ!カズヤにさわるな」
喉を突き破るくらい鋭い声で制するも、暴れる身体をすぐさま取り押さえられる。
多数に対しひとりで、なすすべもなかった。
キツイ芳香に意識が眩む。眼に沁みる煙のせいか、それともこんな理不尽な状況に対しての悔しさからなのか、涙が溢れる。意識が混濁してゆく。
……そうして、混乱の最中、意識が曖昧になる。
揺蕩う河のように、波のように。どこかに流されてゆく。
アルカディアは極上の夢を見せるんだ。
理想郷。その名の通り、夢見る者の、望んだものの姿をそのままに見せるんだ。
__________どんな夢を見ているのか聞かせてほしい。
甘い幻想か、せつない夢想だったのか。
海の中のように極彩色の魚たちが彩る幻影の世界なのか。それとも……?
カズヤはふわりと微笑んでいた。蕩けるような笑み。幸せで、幸せで仕方がないというように。
そんな瞬間は人生のうち、そう何度もないことだ。
綺麗な夢を抱いて眠るのか……。
もっと言葉に云い表せないくらい、溶けゆく世界なのか。
はたまた天国なのか楽園なのか。
教えて欲しい。夢の結末を__________。
先を越されたという、仄かな嫉妬心すら入り混じっている。
でも、今はただ、瞼が重くて、もう指先一本すらも動かす気力がない……。
しばらく俺も眠りに就くのだろうか。永い眠りに。
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きっと、そこは痛みも悲しみもなく、歓びに溢れている。
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