Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

汐埼ゆたか

文字の大きさ
11 / 92
3・裏切りと告白

昨晩を振り返って

しおりを挟む
 ザーーーーッ
 勢いよく出るシャワーを頭の上から被る。熱めのお湯が一瞬チリッと肌に痛い。
 けれどそんなことも気にも止めずに、千紗子はシャワーの下で瞳を閉じた。

 瞳を閉じると、昨夜の記憶がハッキリと思い出せる。
 さっきまで夢かと思っていたのは、実際に彼女の身に降りかかったことなのだ。


____________________
______________
________
 

 「雨宮さんはここで待っていてください」

 意を決して玄関扉を開けた千紗子は、雨宮をその場に残して中に入った。

 リビングまで真っ直ぐに延びた廊下を、一歩ずつ足を進める。すりガラスドアからは、暗い廊下に明かりがもれていた。

 (私の思い違い、だよね………)

 ドアの前に辿り着くと、心の中でそう呟いてからドアノブに手を掛けた。ゆっくりと力を込めて、ドアを押したその時―――

 「…あぁっ、……はぁ~っん…」

 ドアの向こうから、甲高い嬌声が耳に入ってきた。

 ドアノブを握ったまま千紗子は固まった。
 体は金縛りにあったみたいに一ミリも動かないのに、心臓だけは何倍ものスピードで音を立てて動いている。そうしている間にも、リビングからはあられもない嬌声と、その合間にくぐもった声が聞こえてくる。

 千紗子の頭は真っ白だった。
 ドアノブに置いた手が小刻みに震えているのが分かる。声なんて少しも出ずに息すらきちんと出来ているか怪しい。

 いっそ耳も聞こえなくなればいいのに、いつもよりも研ぎ澄まされたように、部屋の中の小さな物音や聞きたくもない声を拾ってしまう。
 時々聞こえてくるくぐもった声は、間違いなく自分の婚約者である裕也のもので、一緒にいる女と何をしているのかも、耳からの情報だけで明白だった。

 手の震えは次第に体中に広がり、頭から血の気が下がって行く。スーッと意識が遠くなりそうになったその時。

 左肩にふわりと温もりを感じた。

 「大丈夫か?」

 低音の声が耳元で聞こえて、遠くなりかけた意識を何とか取り戻す。斜め後ろを振り向くと雨宮がいた。

 「雨宮さん」

 そう口にしたはずなのに、千紗子の口からは息を吐く音しか出ない。
 
 「無理をするな」

 痛々しいものを見るかのような瞳が千紗子を見下ろしたその時、

 「だっ、誰だ!!」

 リビングから焦るような怒鳴り声が聞こえた。千紗子の肩がビクリと跳ねあがる。
 そんな千紗子の背中を「大丈夫」と言う代わりに優しく撫でた雨宮は、千紗子が開けかけたドアをゆっくりと開いた。

 ドアが開いて、リビングの光景が目に飛び込んでくる。

 フローリングの上には点々と散らばった衣類。
 靴下、ネクタイ、スカート。見覚えのあるものもないものも一緒くたになっていて、その中には脱ぎ捨てられたストッキングも見えた。
 それはまるでソファーまでの道を作っているかのように。

 リビングの顔となる大きなソファーは、同棲する時に千紗子と裕也が最後までこだわって買ったものだった。

 ソファーの背越しに顔を出している裕也と目が合った。

 「ち、千紗!」
 
 目を大きく見開いた裕也に名前を呼ばれた瞬間、千紗子の体を大きな震えの波が駆け抜けた。

 それは怒りなのか悲しみなのか。
 今の千紗子にその判別は付かないけれど、これまで抱いたことの無い負の感情が自分の中に湧き上がってくる。
 心を覆い尽くそうとする黒い何かを抑え込もうと、奥歯をギュッと噛みしめると、体がブルブルと震えた。

 そんな千紗子の背中をそっと撫でる手があった。

 (雨宮さん…)

 そうだ、今ここには職場の上司がいる。
 そのことを思い出した千紗子は、少しだけ冷静さを取り戻した。

 「どう、して………」

 それだけが音になって口から出た。

 「…………」
 
 ソファーの背越しの裕也は、千紗子から目を逸らし視線をさまよわせた後、そのまま口を閉じている。

 「裕也………」

 沈黙が落ちて、時間が果てしなく感じる。
 二人の間の沈黙を破ったのは、高くて細い女の声だった。

「そんなの、あなたじゃ物足りなかったからに決まってるじゃないかしら?」 
 
 ソファーの向こうから声がした。
 甲高いその声はさっきまでドア越しに聞いていた、それ。

 千紗子は黙ったままソファーの向こうを凝視した。体の横に垂らしたままの両手を固く握りしめて。

 ソファーの背から姿を現したのは、シャツを上半身に羽織っただけの女だった。
 千紗子よりも年上と思われるその女は、茶色の巻き髪をサッと掻き上げて、千紗子を睨みつける。

 「裕也が言ってた浮気されてることにも気付かない鈍い女って、あなたのことね。だから結婚しても私との関係は続けられるって。あなた最近彼に抱かれた?抱き心地が悪いから欲情しないって愚痴っていたのよ。――ほんとね」

 その女は千紗子の体を上から下に舐めるように見た後、勝ち誇った顔で「ふんっ」と笑った。

 「ちょっ、サユリ!……ちが、俺は…千紗」

 「この状況で言い訳か。最低だな」

 それまで千紗子の後ろで黙っていた雨宮が、突然そう言った。
 
 「なっ!!この女の言うことはデタラメなんだ!分かってくれるよな、千紗?」

 必死の形相で言い訳を口にする裕也の上半身は裸だ。
 もっとも腰から下はソファーの背に隠されていて見えないけれど。

 ついさっきドア越しに聞いた二人の声と、目の前の二人の素肌。

 聴覚と視覚からの二つの情報が頭の中で合わさって、千紗子は吐き気すら覚えた。

 目の前の男をただ黙って見る。
 この人は本当に自分の恋人なのだろうか。

 (私が好きだった裕也は、どこか別のところに行ってしまったのかしら………)

 今朝だって彼の態度に何の疑問も抱いてなかった。
 毎晩帰りが遅いのも二人の将来の為に頑張ってくれてるんだと、つい少し前まで千紗子は信じていたのだ。

 (一緒に幸せになろう、って言ってくれたのは嘘だったの?)

 千紗子の頭の中に、嵐のように様々な言葉が浮かんでは消える。
 そのどれ一つも彼女の口から出ることはなく、反対に唇を血が滲むほど噛みしめた。
 胃から込み上げてくるのは、吐き気なのか自分の感情なのか。
 ただそれを堪える為に、千紗子は両手と唇に痛いほどに力を込めた。
 彼女の体はずっと小刻みに震えたままで、血の気が引いて体中が冷たくなっている。けれど、当の本人の千紗子は、冷たさなど感じていない。ただ、この場で崩れ落ちてしまうことだけは、したくなかった。

 そんな彼女の冷えきった体の中に、一か所だけずっと温かいままの場所があった。
 雨宮の手が触れている背中だ。 

 体の感覚すら分からなくなっている千紗子の背中を、その手はそっと支えるように添えてあって、彼女の体が大きく震える度に小さく静かに撫でる。
 
 雨宮が口を開いたのはさっきの一度だけだけれど、千紗子がその存在を忘れることは一瞬も無かった。
 背中に灯る温もりは、今の千紗子にとって途切れそうな意識を保つ唯一の拠り所になっていた。

 「千紗…なんとか言ってくれ」

 縋るするような目をした裕也が、ソファーから立ち上がろうとしたその時、サユリ、と裕也が呼んでいた女が素早く裕也の腕を掴んだ。

 「裕也ったら、その女のご機嫌をとることないわよ」

 「サ、サユリ!離せっ」

 「だって、見なさいよ。隣に男がいるでしょ。その女だって男連れ込んでるじゃない。おあいこね」

 そう言って裕也から顔を千紗子に向け女は、楽しげにクスクスと笑った。

 「しかも極上の男ね。いい男捕まえたわねぇ」

 ちがう、と反論したいのに、想像を遥かに超えた言いがかりに、目を見張ることしか出来ない。

 「ち、千紗…そうなのかっ?お前…俺を裏切って……」

 サユリの言葉を聞いた途端、目の色が変えた裕也の言葉が、千紗子の胸をえぐった。

 「もう、やめてっ!!」

 千紗子は両耳を塞ぎながら叫んだ。

 もう何も聞きたくなった。
 これ以上ここに居たら心が粉々になってしまう。

 千紗子は踵を返して玄関から飛び出した。


________________

________________
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!

【完結】憧れていた敏腕社長からの甘く一途な溺愛 ~あなたに憧れて入社しました~

瀬崎由美
恋愛
アパレルブランド『ジェスター』の直営店で働く菊池乙葉は店長昇格が決まり、幹部面談に挑むために張り切ってスターワイドの本社へと訪れる。でもその日、なぜか本社内は異様なほど騒然としていた。専務でデザイナーでもある星野篤人が退社と独立を宣言したからだ。そんなことは知らない乙葉は幹部達の前で社長と専務の友情に感化されたのが入社のキッカケだったと話してしまう。その失言のせいで社長の機嫌を損ねさせてしまい、企画部への出向を命じられる乙葉。その逆ギレ人事に戸惑いつつ、慣れない本社勤務で自分にできることを見つけて奮闘していると、徐々に社長からも信頼してもらえるように…… そして、仕事人間だと思っていた社長の意外な一面を目にすることで、乙葉の気持ちが憧れから恋心へと変わっていく。 全50話。約11万字で完結です。

若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~

雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」 夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。 そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。 全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載

諦めて身を引いたのに、エリート外交官にお腹の子ごと溺愛で包まれました

桜井 響華
恋愛
旧題:自分から身を引いたはずなのに、見つかってしまいました!~外交官のパパは大好きなママと娘を愛し尽くす ꒰ঌシークレットベビー婚໒꒱ 外交官×傷心ヒロイン 海外雑貨店のバイヤーをしている明莉は、いつものようにフィンランドに買い付けに出かける。 買い付けの直前、長年付き合っていて結婚秒読みだと思われていた、彼氏に振られてしまう。 明莉は飛行機の中でも、振られた彼氏のことばかり考えてしまっていた。 目的地の空港に着き、フラフラと歩いていると……急ぎ足の知らない誰かが明莉にぶつかってきた。 明莉はよろめいてしまい、キャリーケースにぶつかって転んでしまう。そして、手提げのバッグの中身が出てしまい、フロアに散らばる。そんな時、高身長のイケメンが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのだが── 2025/02/06始まり~04/28完結

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

処理中です...