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3・裏切りと告白
昨晩を振り返って
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ザーーーーッ
勢いよく出るシャワーを頭の上から被る。熱めのお湯が一瞬チリッと肌に痛い。
けれどそんなことも気にも止めずに、千紗子はシャワーの下で瞳を閉じた。
瞳を閉じると、昨夜の記憶がハッキリと思い出せる。
さっきまで夢かと思っていたのは、実際に彼女の身に降りかかったことなのだ。
____________________
______________
________
「雨宮さんはここで待っていてください」
意を決して玄関扉を開けた千紗子は、雨宮をその場に残して中に入った。
リビングまで真っ直ぐに延びた廊下を、一歩ずつ足を進める。すりガラスドアからは、暗い廊下に明かりがもれていた。
(私の思い違い、だよね………)
ドアの前に辿り着くと、心の中でそう呟いてからドアノブに手を掛けた。ゆっくりと力を込めて、ドアを押したその時―――
「…あぁっ、……はぁ~っん…」
ドアの向こうから、甲高い嬌声が耳に入ってきた。
ドアノブを握ったまま千紗子は固まった。
体は金縛りにあったみたいに一ミリも動かないのに、心臓だけは何倍ものスピードで音を立てて動いている。そうしている間にも、リビングからはあられもない嬌声と、その合間にくぐもった声が聞こえてくる。
千紗子の頭は真っ白だった。
ドアノブに置いた手が小刻みに震えているのが分かる。声なんて少しも出ずに息すらきちんと出来ているか怪しい。
いっそ耳も聞こえなくなればいいのに、いつもよりも研ぎ澄まされたように、部屋の中の小さな物音や聞きたくもない声を拾ってしまう。
時々聞こえてくるくぐもった声は、間違いなく自分の婚約者である裕也のもので、一緒にいる女と何をしているのかも、耳からの情報だけで明白だった。
手の震えは次第に体中に広がり、頭から血の気が下がって行く。スーッと意識が遠くなりそうになったその時。
左肩にふわりと温もりを感じた。
「大丈夫か?」
低音の声が耳元で聞こえて、遠くなりかけた意識を何とか取り戻す。斜め後ろを振り向くと雨宮がいた。
「雨宮さん」
そう口にしたはずなのに、千紗子の口からは息を吐く音しか出ない。
「無理をするな」
痛々しいものを見るかのような瞳が千紗子を見下ろしたその時、
「だっ、誰だ!!」
リビングから焦るような怒鳴り声が聞こえた。千紗子の肩がビクリと跳ねあがる。
そんな千紗子の背中を「大丈夫」と言う代わりに優しく撫でた雨宮は、千紗子が開けかけたドアをゆっくりと開いた。
ドアが開いて、リビングの光景が目に飛び込んでくる。
フローリングの上には点々と散らばった衣類。
靴下、ネクタイ、スカート。見覚えのあるものもないものも一緒くたになっていて、その中には脱ぎ捨てられたストッキングも見えた。
それはまるでソファーまでの道を作っているかのように。
リビングの顔となる大きなソファーは、同棲する時に千紗子と裕也が最後までこだわって買ったものだった。
ソファーの背越しに顔を出している裕也と目が合った。
「ち、千紗!」
目を大きく見開いた裕也に名前を呼ばれた瞬間、千紗子の体を大きな震えの波が駆け抜けた。
それは怒りなのか悲しみなのか。
今の千紗子にその判別は付かないけれど、これまで抱いたことの無い負の感情が自分の中に湧き上がってくる。
心を覆い尽くそうとする黒い何かを抑え込もうと、奥歯をギュッと噛みしめると、体がブルブルと震えた。
そんな千紗子の背中をそっと撫でる手があった。
(雨宮さん…)
そうだ、今ここには職場の上司がいる。
そのことを思い出した千紗子は、少しだけ冷静さを取り戻した。
「どう、して………」
それだけが音になって口から出た。
「…………」
ソファーの背越しの裕也は、千紗子から目を逸らし視線をさまよわせた後、そのまま口を閉じている。
「裕也………」
沈黙が落ちて、時間が果てしなく感じる。
二人の間の沈黙を破ったのは、高くて細い女の声だった。
「そんなの、あなたじゃ物足りなかったからに決まってるじゃないかしら?」
ソファーの向こうから声がした。
甲高いその声はさっきまでドア越しに聞いていた、それ。
千紗子は黙ったままソファーの向こうを凝視した。体の横に垂らしたままの両手を固く握りしめて。
ソファーの背から姿を現したのは、シャツを上半身に羽織っただけの女だった。
千紗子よりも年上と思われるその女は、茶色の巻き髪をサッと掻き上げて、千紗子を睨みつける。
「裕也が言ってた浮気されてることにも気付かない鈍い女って、あなたのことね。だから結婚しても私との関係は続けられるって。あなた最近彼に抱かれた?抱き心地が悪いから欲情しないって愚痴っていたのよ。――ほんとね」
その女は千紗子の体を上から下に舐めるように見た後、勝ち誇った顔で「ふんっ」と笑った。
「ちょっ、サユリ!……ちが、俺は…千紗」
「この状況で言い訳か。最低だな」
それまで千紗子の後ろで黙っていた雨宮が、突然そう言った。
「なっ!!この女の言うことはデタラメなんだ!分かってくれるよな、千紗?」
必死の形相で言い訳を口にする裕也の上半身は裸だ。
もっとも腰から下はソファーの背に隠されていて見えないけれど。
ついさっきドア越しに聞いた二人の声と、目の前の二人の素肌。
聴覚と視覚からの二つの情報が頭の中で合わさって、千紗子は吐き気すら覚えた。
目の前の男をただ黙って見る。
この人は本当に自分の恋人なのだろうか。
(私が好きだった裕也は、どこか別のところに行ってしまったのかしら………)
今朝だって彼の態度に何の疑問も抱いてなかった。
毎晩帰りが遅いのも二人の将来の為に頑張ってくれてるんだと、つい少し前まで千紗子は信じていたのだ。
(一緒に幸せになろう、って言ってくれたのは嘘だったの?)
千紗子の頭の中に、嵐のように様々な言葉が浮かんでは消える。
そのどれ一つも彼女の口から出ることはなく、反対に唇を血が滲むほど噛みしめた。
胃から込み上げてくるのは、吐き気なのか自分の感情なのか。
ただそれを堪える為に、千紗子は両手と唇に痛いほどに力を込めた。
彼女の体はずっと小刻みに震えたままで、血の気が引いて体中が冷たくなっている。けれど、当の本人の千紗子は、冷たさなど感じていない。ただ、この場で崩れ落ちてしまうことだけは、したくなかった。
そんな彼女の冷えきった体の中に、一か所だけずっと温かいままの場所があった。
雨宮の手が触れている背中だ。
体の感覚すら分からなくなっている千紗子の背中を、その手はそっと支えるように添えてあって、彼女の体が大きく震える度に小さく静かに撫でる。
雨宮が口を開いたのはさっきの一度だけだけれど、千紗子がその存在を忘れることは一瞬も無かった。
背中に灯る温もりは、今の千紗子にとって途切れそうな意識を保つ唯一の拠り所になっていた。
「千紗…なんとか言ってくれ」
縋るするような目をした裕也が、ソファーから立ち上がろうとしたその時、サユリ、と裕也が呼んでいた女が素早く裕也の腕を掴んだ。
「裕也ったら、その女のご機嫌をとることないわよ」
「サ、サユリ!離せっ」
「だって、見なさいよ。隣に男がいるでしょ。その女だって男連れ込んでるじゃない。おあいこね」
そう言って裕也から顔を千紗子に向け女は、楽しげにクスクスと笑った。
「しかも極上の男ね。いい男捕まえたわねぇ」
ちがう、と反論したいのに、想像を遥かに超えた言いがかりに、目を見張ることしか出来ない。
「ち、千紗…そうなのかっ?お前…俺を裏切って……」
サユリの言葉を聞いた途端、目の色が変えた裕也の言葉が、千紗子の胸をえぐった。
「もう、やめてっ!!」
千紗子は両耳を塞ぎながら叫んだ。
もう何も聞きたくなった。
これ以上ここに居たら心が粉々になってしまう。
千紗子は踵を返して玄関から飛び出した。
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勢いよく出るシャワーを頭の上から被る。熱めのお湯が一瞬チリッと肌に痛い。
けれどそんなことも気にも止めずに、千紗子はシャワーの下で瞳を閉じた。
瞳を閉じると、昨夜の記憶がハッキリと思い出せる。
さっきまで夢かと思っていたのは、実際に彼女の身に降りかかったことなのだ。
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「雨宮さんはここで待っていてください」
意を決して玄関扉を開けた千紗子は、雨宮をその場に残して中に入った。
リビングまで真っ直ぐに延びた廊下を、一歩ずつ足を進める。すりガラスドアからは、暗い廊下に明かりがもれていた。
(私の思い違い、だよね………)
ドアの前に辿り着くと、心の中でそう呟いてからドアノブに手を掛けた。ゆっくりと力を込めて、ドアを押したその時―――
「…あぁっ、……はぁ~っん…」
ドアの向こうから、甲高い嬌声が耳に入ってきた。
ドアノブを握ったまま千紗子は固まった。
体は金縛りにあったみたいに一ミリも動かないのに、心臓だけは何倍ものスピードで音を立てて動いている。そうしている間にも、リビングからはあられもない嬌声と、その合間にくぐもった声が聞こえてくる。
千紗子の頭は真っ白だった。
ドアノブに置いた手が小刻みに震えているのが分かる。声なんて少しも出ずに息すらきちんと出来ているか怪しい。
いっそ耳も聞こえなくなればいいのに、いつもよりも研ぎ澄まされたように、部屋の中の小さな物音や聞きたくもない声を拾ってしまう。
時々聞こえてくるくぐもった声は、間違いなく自分の婚約者である裕也のもので、一緒にいる女と何をしているのかも、耳からの情報だけで明白だった。
手の震えは次第に体中に広がり、頭から血の気が下がって行く。スーッと意識が遠くなりそうになったその時。
左肩にふわりと温もりを感じた。
「大丈夫か?」
低音の声が耳元で聞こえて、遠くなりかけた意識を何とか取り戻す。斜め後ろを振り向くと雨宮がいた。
「雨宮さん」
そう口にしたはずなのに、千紗子の口からは息を吐く音しか出ない。
「無理をするな」
痛々しいものを見るかのような瞳が千紗子を見下ろしたその時、
「だっ、誰だ!!」
リビングから焦るような怒鳴り声が聞こえた。千紗子の肩がビクリと跳ねあがる。
そんな千紗子の背中を「大丈夫」と言う代わりに優しく撫でた雨宮は、千紗子が開けかけたドアをゆっくりと開いた。
ドアが開いて、リビングの光景が目に飛び込んでくる。
フローリングの上には点々と散らばった衣類。
靴下、ネクタイ、スカート。見覚えのあるものもないものも一緒くたになっていて、その中には脱ぎ捨てられたストッキングも見えた。
それはまるでソファーまでの道を作っているかのように。
リビングの顔となる大きなソファーは、同棲する時に千紗子と裕也が最後までこだわって買ったものだった。
ソファーの背越しに顔を出している裕也と目が合った。
「ち、千紗!」
目を大きく見開いた裕也に名前を呼ばれた瞬間、千紗子の体を大きな震えの波が駆け抜けた。
それは怒りなのか悲しみなのか。
今の千紗子にその判別は付かないけれど、これまで抱いたことの無い負の感情が自分の中に湧き上がってくる。
心を覆い尽くそうとする黒い何かを抑え込もうと、奥歯をギュッと噛みしめると、体がブルブルと震えた。
そんな千紗子の背中をそっと撫でる手があった。
(雨宮さん…)
そうだ、今ここには職場の上司がいる。
そのことを思い出した千紗子は、少しだけ冷静さを取り戻した。
「どう、して………」
それだけが音になって口から出た。
「…………」
ソファーの背越しの裕也は、千紗子から目を逸らし視線をさまよわせた後、そのまま口を閉じている。
「裕也………」
沈黙が落ちて、時間が果てしなく感じる。
二人の間の沈黙を破ったのは、高くて細い女の声だった。
「そんなの、あなたじゃ物足りなかったからに決まってるじゃないかしら?」
ソファーの向こうから声がした。
甲高いその声はさっきまでドア越しに聞いていた、それ。
千紗子は黙ったままソファーの向こうを凝視した。体の横に垂らしたままの両手を固く握りしめて。
ソファーの背から姿を現したのは、シャツを上半身に羽織っただけの女だった。
千紗子よりも年上と思われるその女は、茶色の巻き髪をサッと掻き上げて、千紗子を睨みつける。
「裕也が言ってた浮気されてることにも気付かない鈍い女って、あなたのことね。だから結婚しても私との関係は続けられるって。あなた最近彼に抱かれた?抱き心地が悪いから欲情しないって愚痴っていたのよ。――ほんとね」
その女は千紗子の体を上から下に舐めるように見た後、勝ち誇った顔で「ふんっ」と笑った。
「ちょっ、サユリ!……ちが、俺は…千紗」
「この状況で言い訳か。最低だな」
それまで千紗子の後ろで黙っていた雨宮が、突然そう言った。
「なっ!!この女の言うことはデタラメなんだ!分かってくれるよな、千紗?」
必死の形相で言い訳を口にする裕也の上半身は裸だ。
もっとも腰から下はソファーの背に隠されていて見えないけれど。
ついさっきドア越しに聞いた二人の声と、目の前の二人の素肌。
聴覚と視覚からの二つの情報が頭の中で合わさって、千紗子は吐き気すら覚えた。
目の前の男をただ黙って見る。
この人は本当に自分の恋人なのだろうか。
(私が好きだった裕也は、どこか別のところに行ってしまったのかしら………)
今朝だって彼の態度に何の疑問も抱いてなかった。
毎晩帰りが遅いのも二人の将来の為に頑張ってくれてるんだと、つい少し前まで千紗子は信じていたのだ。
(一緒に幸せになろう、って言ってくれたのは嘘だったの?)
千紗子の頭の中に、嵐のように様々な言葉が浮かんでは消える。
そのどれ一つも彼女の口から出ることはなく、反対に唇を血が滲むほど噛みしめた。
胃から込み上げてくるのは、吐き気なのか自分の感情なのか。
ただそれを堪える為に、千紗子は両手と唇に痛いほどに力を込めた。
彼女の体はずっと小刻みに震えたままで、血の気が引いて体中が冷たくなっている。けれど、当の本人の千紗子は、冷たさなど感じていない。ただ、この場で崩れ落ちてしまうことだけは、したくなかった。
そんな彼女の冷えきった体の中に、一か所だけずっと温かいままの場所があった。
雨宮の手が触れている背中だ。
体の感覚すら分からなくなっている千紗子の背中を、その手はそっと支えるように添えてあって、彼女の体が大きく震える度に小さく静かに撫でる。
雨宮が口を開いたのはさっきの一度だけだけれど、千紗子がその存在を忘れることは一瞬も無かった。
背中に灯る温もりは、今の千紗子にとって途切れそうな意識を保つ唯一の拠り所になっていた。
「千紗…なんとか言ってくれ」
縋るするような目をした裕也が、ソファーから立ち上がろうとしたその時、サユリ、と裕也が呼んでいた女が素早く裕也の腕を掴んだ。
「裕也ったら、その女のご機嫌をとることないわよ」
「サ、サユリ!離せっ」
「だって、見なさいよ。隣に男がいるでしょ。その女だって男連れ込んでるじゃない。おあいこね」
そう言って裕也から顔を千紗子に向け女は、楽しげにクスクスと笑った。
「しかも極上の男ね。いい男捕まえたわねぇ」
ちがう、と反論したいのに、想像を遥かに超えた言いがかりに、目を見張ることしか出来ない。
「ち、千紗…そうなのかっ?お前…俺を裏切って……」
サユリの言葉を聞いた途端、目の色が変えた裕也の言葉が、千紗子の胸をえぐった。
「もう、やめてっ!!」
千紗子は両耳を塞ぎながら叫んだ。
もう何も聞きたくなった。
これ以上ここに居たら心が粉々になってしまう。
千紗子は踵を返して玄関から飛び出した。
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