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5・オンとオフ
子守歌の代わりに他愛ない話を
しおりを挟む確かに千紗子は小さい頃から弟と妹の面倒を見てきた。
千紗子が六歳の時に末の妹は生まれた。父は仕事で忙しく、母は生まれたばかりの妹の世話で手いっぱいで、千紗子と弟はよく近所の祖母の家に預けられていた。その為、千紗子は五歳の弟の面倒を見ながら、必要な時には妹の世話もした。
子ども心にも父母と祖母を助けたいと思ったからだ。
生まれたばかりの妹は可愛い。けれど自分一人では何もできない赤子は、良く泣き手間が掛かることを、千紗子は六歳にして知ったのだ。
母親の関心を一身に受ける妹とやんちゃな弟。
手のかかる弟妹達と一緒に過ごすうちに、千紗子は自分の言いたいことを我慢したり後回しにしたりするのに慣れていったのだ。
「千紗子?」
言いかけた途中で黙り込んでしまった千紗子を雨宮が呼ぶ。
「あ、ごめんなさい。えっと、弟や妹の面倒は多少見ましたが、しっかり者にはなれませんでした」
「そうか?俺は千紗子はしっかりしてると思うけど」
「…そんなことはありません」
自分の主張を強く出すことの苦手な千紗子はどちらかというと大人しい方で、昔から気の合う友人はそんな彼女のことを引っ張って行ってくれるタイプが多い。唯一付き合ったことのある裕也も、そういうタイプだった。
誰かに合わせるのは苦にならないけれど、だからといって誰かに頼らないと何もできない気がして、千紗子はそんな自分が情けない気にもなる。
「雨宮さんは妹さんとは仲がいいんですか?」
この話題を終わらせたくて、千紗子は雨宮に尋ねた。
「う~ん、仲は悪くないかな。妹とは特に用がなと連絡を取ったりしないし、わざわざ会ったりもしないな。ああ、でも、たまに実家に帰った時にはお互いの話をすることはあるよ」
「そうなんですね」
「妹は両親と実家に住んでるが、他県だからそこまで会うこともないし、まあ仕事も忙しそうだしな」
坦々と話しをする雨宮の声には緊張感のかけらもなくて、彼の話に耳を傾けているうちに少しずつ千紗子の体から緊張が解けていく。
「千紗子は?仲良いのか?」
「はい、弟とは年も近いしそれなりに。妹はまだ高校生なんですが、たまにこっちに遊びに来たりして一緒に買い物に行ったりします」
「それはいいな。俺も一緒に行って、姉妹で楽しげに買い物をする千紗子を見てみたいな」
「え!そんな見るほどのものでもありませんよ……」
「そうか?俺には楽しそうに笑う千紗子を見れるだけで、十分価値があるけどな。」
千紗子の顔が赤面する。
普通の世間話なのに、唐突に甘い言葉を混ぜ込んでくる雨宮に、千紗子は対応できなくて、その度に赤くなるのを防ぐことが出来ない。
(雨宮さんに背を向けてて良かった……)
雨宮の温もりが背中に伝わる。
離れて横になっていた時は、やっぱり隙間が空いていて冷たい空気が布団に入り込んでいた。けれども、今は密着しているせいで、少し熱いくらいだ。
それからしばらくの間、ポツリポツリと他愛無い話をした。
雨宮のマンションの下にあるブランジェリーのお勧めのパンのこと、近所のお店にいる猫の話、学生の時の変わった教授の話。
どの話も他愛無いことばかりで、仕事の話など一つもない。
時間を忘れるくらいゆったりとした口調で語られ、千紗子は次第に体から力が抜けていった。
後ろから聞こえるバリトンボイスが心地良く耳に響き、千紗子はとうとう眠気に身を任せて瞼を閉じた。
「千紗子……寝たのか?」
小さく千紗子の名前を呼んで、雨宮は彼女が眠ったことを確かめた。
背中から抱えるように抱く千紗子の肩が規則正しく上下している。
(ちゃんと眠ってくれて良かった)
雨宮は千紗子の頭に顔を寄せて、その後頭部に唇を落とす。そして小一時間ほど前の、彼女の必死な顔を思い浮かべた。
(俺が『自分のことを適当に扱うのが、嫌』か……)
そんなこと、これまで付き合ってきたどの女性にも言われたことはなかった。
大抵は、相手の要望に合わせてきたから、『優しい』と言われることはあっても『適当』と言われたことはない。
控えめで可憐な千紗子から発せられる思いも寄らない台詞に、雨宮はカウンターパンチをもろに喰らってノックアウトする寸前だった。それくらい千紗子の意外な言動は雨宮の心を揺さぶるのだ。
そもそも千紗子は、雨宮が帰宅してからどれだけ理性を総動員して自分の欲望を押さえているのか知らない。
夕飯の片付けの時、自分のすぐ側で小さく笑う千紗子の体を抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だったことなど、千紗子には考えも及ばないだろう。
(俺のうちのキッチンで笑う千紗子なんて夢の中みたいだったな。本当に夢の中だったらその場で押し倒してるけどな)
彼女の笑顔を曇らせたくない一心で、湧き上がる劣情を必死に抑え込んだのだ。
(でも、あれは反則だろ…やっぱり千紗子は小悪魔だな。しかも無自覚なだけたちが悪い)
雨宮は「はぁっ」と小さくため息を漏らす。
千紗子の極めつけの一言を思い出したからだ。
千紗子の思わぬ誘いは、本人に他意はないと分かっていても、一瞬我を忘れるほどの衝撃を雨宮にもたらした。
(一緒のベッドに誘うなんて、他の男だったら食われてるぞ)
心の中で軽くぼやくけれど、そのおかげでこうして千紗子を抱きしめていられることを思うと、結果として悪くなかったとも思えてくる。
すやすやと良く眠る千紗子の体をそっと上向きに変える。
暗闇に慣れた目に、彼女の眠る顔がうっすらと見える。その顔は『やすらか』とは言えない。
せっかく眠った千紗子を起こさないように、そっと優しく彼女の頬を撫でる。
(我慢の代償に、これくらいは許せ)
そう心で呟いた雨宮は、羽根のように軽く、千紗子の唇に自分のを合わせた。
「おやすみ、千紗子」
千紗子を両腕に抱えたまま、雨宮は目を閉じた。
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