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6・甘い楔(くさび)と苦い逃亡
出勤直前に
しおりを挟む十二月も中旬に差し掛かり、吐きだす息が白くなる。歩道に沿って立っている街路樹の葉は全て落ち、時々吹く北風に小枝を震わせている。
通勤時間帯を過ぎているせいで駅に向かう道には人がまばらだ。慌ただしい時間をやり過ごした後の、ホッと緩んだ雰囲気の中、千紗子は一人歩道を歩いていた。
目的地はすぐそこだけど、出来たら早く済ませてしまいたい為、気持ちが焦るから自然と足早になる。
足だけはせっせと動かしながらも、千紗子の意識は数時間前に雨宮と交わした遣り取りを反芻していた。
―――――――――――――――
――――――――――
―――――
「俺は先に出るから、千紗子は出勤時間までのんびりしてて。家のことは何もしなくて構わないから」
「はい、ありがとうございます」
雨宮は八時前にはマンションを出る準備を終わらせていた。
早番の出勤時間は九時。それよりも一時間も前に家を出るのだから、誰よりも早く図書館にいるわけだ。
スーツを着た雨宮の後ろを着いて廊下を進みながら、千紗子は納得した。
「じゃあ、行ってくる」
靴を履いた雨宮が千紗子を振る。
「いってらっしゃい」
当たり前の挨拶を口にした千紗子に、雨宮が一瞬丸く目を見開いた。
「??」
そのまま出ていくだろうと思っていた彼が、千紗子の目の前で固まっている。
(何か忘れものでも思い出したのかしら?)
千紗子が小首を傾げて雨宮を見上げていると、雨宮がビジネスバックを持っていない方の手で自分の口を覆った。
「―――やばいな」
「どうかしましたか?何か忘れ物でも?私で分かるなら取ってきますよ」
もしかしたら仕事に関わる大変なことでもあったのかと、千紗子はハラハラする。
目の前の雨宮は口元を手で覆って、なぜか千紗子から目を逸らしたままだ。
「いや、大丈夫だ」
じゃあ、何なんだろう?と千紗子は不思議に思った。自分の方を見ようとしない雨宮の様子もなんだか変だ。
「雨宮さん?」
呼びかけに、雨宮は視線だけを寄越す。彼の頬が心なしか赤く見える。
「やばいな……『いってらっしゃい』って送り出して貰えるなんて……弁当も作って貰ったし、千紗子が奥さんになったみたいだ」
「っ!!」
一瞬で千紗子の顔が真っ赤に染まった。
そんな千紗子に雨宮は目を細めながらも、尚も言葉を続ける。
「このまま俺の嫁に来ないか?」
そんな冗談とも本気とも知れない台詞を吐きながらはにかむ雨宮に、千紗子は返す言葉もなく唇をわなわなと震わせる。
「千紗子のおかげで今日も一日頑張れそうだ。いってきます」
頬を赤くしたまま照れくさそうに笑う雨宮の、その滅多に見ることのできない表情に、千紗子は思わず見惚れてしまう。
雨宮の顔がなぜか近付いて来て、千紗子の頬に柔らかな感触がして素早く『チュッ』と音を立てて離れて行った。
(えっ!?)
あまりの早業に千紗子が状況を飲みこむ前に、玄関扉から雨宮は出て行ってしまった。
爽やかさと甘さの絶妙に混じった香りだけを、その場に残して。
(もうっ、オフの雨宮さんは全然分からない!!)
雨宮を送り出した千紗子は、しばらく玄関で呆然と立ち尽くしていた。
けれど我に返ると、彼の行動が自分をからかっているようにしか思えず、段々と腹が立ってくるのだった。
真っ赤になった顔がなかなか戻らなかったけれど、今日は遅番出勤の前にやりたいことが山のようにあった千紗子は、顔の色なんか気にしている場合ではなくて、急いでリビングへと踵を返したのだった。
__________
雨宮の出勤から一時間半後の今、千紗子が向かっているのは駅前にある不動産会社だ。
これまで裕也と暮らしていたマンションにはもう帰らないつもりでいる。
二人の思い出が沢山詰まったあの部屋には、最悪の記憶も付いてくる。そんなところに短時間でも居たくないのが正直な気持ちなのだ。
最後に一度だけ自分の荷物を運び出す必要があるだろうけれど、足を踏み入れるのはそれを最後にしたいと千紗子は思っていた。
けれど、だからと言ってこのまま雨宮の厚意に甘えて彼のマンションに居座るなんて出来るわけもない。
今日良い物件が見つからなかったら、そのまま駅前のホテルに数日間滞在しようと、千紗子は決めていた。
(だけど黙っていなくなるなんて不義理にもほどがあるものね……)
出かけの彼の笑顔が、千紗子の脳裏に甦る。
荷物は沢山はないので、そのまま持ってきてもよかったのだけど、こんなにお世話になっておいてきちんと挨拶もせずに居なくなることが出来るほど、千紗子は恩知らずではないつもりだ。
(今夜のきちんと雨宮さんに説明してお礼を言ってから、お暇させてもらおう)
そう心に決めた千紗子は、肩から下げた通勤かばんの紐をキュッと固く握りしめた。
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