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7. 聞こえる声と見えない心
近づいてくる足音
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***
翌日泣きはらした瞳で仕事に向かった千紗子に、美香がいち早く気付いて声を掛けてきた。
「千紗ちゃんっ!どうしたの!?何かあったの!?」
彼女の慌て振りに、千紗子は力なく首を左右に振る。
「なんでも、ありません……」
「そんな顔して、なんでもないなんてことないでしょ!?鏡を見た?酷い顔してるわよ。もしかして嫌な視線のことと関係ある?」
自分よりよっぽど青い顔をした美香を見て、千紗子は微苦笑を浮かべる。
「美香さんが心配しているようなことは何も」
そう。ただ短い間に、二度の失恋を経験しただけ。
千紗子の返事に、納得出来ないと眉を寄せた美香だったが、遅番の彼女は千紗子とは入れ替わりで業務に入ることになり、詳しいことを聞けずじまいになったのだった。
早番の勤務を終わらせた千紗子が、図書館を出たのは午後六時前。
辺りはすっかり暗く、北風が吹いている。街灯だけが道を照らす河沿いの歩道を、千紗子は家路を急いだ。
冷たい風がいつもよりも湿気を含んでいる。もしかしたら雨が降り出すのかもしれない。
街灯の明かりにうっすらと浮かぶ川面が、吸い込まれそうなほど真っ黒に見えた。
睡眠不足と不摂生な食事、そして昨日の出来事。
それらが千紗子の気力と体力を削り、細い糸が切れる一歩手前の状態まで彼女を追い込んでいた。
様子のおかしい千紗子に、「タクシーで帰るように」と言ってくれた美香の言葉すら、今の千紗子の頭の上をすり抜けていくほどに。
もうすぐ駅の高架をくぐる、その時になって、千紗子は自分の後ろからずっと同じ足音が着いて来ていることに気付いた。
途端、千紗子の全身がぞわりと粟立つ。
今日はあの嫌な視線を感じなかった、と千紗子は思っていた。けれど、本当はそれに気づく余裕すらなかったのかもしれない。
千紗子の足が速くなる。けれど後ろの足音も同じように速くなっていく。
(こわい……)
小走りに近い千紗子の足音が、薄暗い高架に響く。
駅の反対側は繁華街で明るい。帰宅を急ぐ人達が交差するように歩いていて、その波をくぐるように縫いながら、千紗子は自宅のマンションまで一直線に足を進めた。
あと少しでマンションに辿り着く。
千紗子の緊張が一瞬緩んだ、その時だった。
彼女の腕が、何者かによって掴まれた。
「千紗っ!」
「ゆ、裕也!」
千紗子の腕を掴んだのは、一週間前に別れた恋人だった。
千紗子の腕を掴んだまま黙っている裕也の顔は、ショッピングモールで出会った時の険のあるものではない。
千紗子を引き留めているのは彼なのに、千紗子と目を合わせようとせず視線が泳がせている。彼の人柄を現したような上がり気味の眉が、今は少しだけ下がっていて、どこか頼りなく見えた。
(裕也……?)
千紗子はそんな表情をした裕也を見た記憶がなかった。
付き合い始めてから三年間、ずっと裕也は自分の行動に自信を持っていて、自分の希望や要求をはっきりと千紗子に伝えてきた。
千紗子自身もそんな裕也を頼もしいと思っていたし、誰かを引っ張っていくような行動力がある彼のことを好きだったのだ。
だから今目の前にいる裕也の態度が、不思議で仕方なかった。
「千紗、俺……。」
裕也は何かを言いたそうにしているけれど、口をもごもごとさせるだけで続きをはっきりと話さない。
けれど千紗子の腕を掴む手にはしっかりと力が込められていて、千紗子は、彼が自分に何か伝えたいことがあるのだ、ということを感じ取った。
「裕也。ここじゃ寒いから、あそこに入ってもいいかしら?」
千紗子は掴まれているのとは反対の手で、すぐそこにあるコーヒーショップを指差す。
千紗子の控えめだがしっかりとした声色に、裕也がハッと顔を上げた。
この時初めて、二人の視線が重なった。
翌日泣きはらした瞳で仕事に向かった千紗子に、美香がいち早く気付いて声を掛けてきた。
「千紗ちゃんっ!どうしたの!?何かあったの!?」
彼女の慌て振りに、千紗子は力なく首を左右に振る。
「なんでも、ありません……」
「そんな顔して、なんでもないなんてことないでしょ!?鏡を見た?酷い顔してるわよ。もしかして嫌な視線のことと関係ある?」
自分よりよっぽど青い顔をした美香を見て、千紗子は微苦笑を浮かべる。
「美香さんが心配しているようなことは何も」
そう。ただ短い間に、二度の失恋を経験しただけ。
千紗子の返事に、納得出来ないと眉を寄せた美香だったが、遅番の彼女は千紗子とは入れ替わりで業務に入ることになり、詳しいことを聞けずじまいになったのだった。
早番の勤務を終わらせた千紗子が、図書館を出たのは午後六時前。
辺りはすっかり暗く、北風が吹いている。街灯だけが道を照らす河沿いの歩道を、千紗子は家路を急いだ。
冷たい風がいつもよりも湿気を含んでいる。もしかしたら雨が降り出すのかもしれない。
街灯の明かりにうっすらと浮かぶ川面が、吸い込まれそうなほど真っ黒に見えた。
睡眠不足と不摂生な食事、そして昨日の出来事。
それらが千紗子の気力と体力を削り、細い糸が切れる一歩手前の状態まで彼女を追い込んでいた。
様子のおかしい千紗子に、「タクシーで帰るように」と言ってくれた美香の言葉すら、今の千紗子の頭の上をすり抜けていくほどに。
もうすぐ駅の高架をくぐる、その時になって、千紗子は自分の後ろからずっと同じ足音が着いて来ていることに気付いた。
途端、千紗子の全身がぞわりと粟立つ。
今日はあの嫌な視線を感じなかった、と千紗子は思っていた。けれど、本当はそれに気づく余裕すらなかったのかもしれない。
千紗子の足が速くなる。けれど後ろの足音も同じように速くなっていく。
(こわい……)
小走りに近い千紗子の足音が、薄暗い高架に響く。
駅の反対側は繁華街で明るい。帰宅を急ぐ人達が交差するように歩いていて、その波をくぐるように縫いながら、千紗子は自宅のマンションまで一直線に足を進めた。
あと少しでマンションに辿り着く。
千紗子の緊張が一瞬緩んだ、その時だった。
彼女の腕が、何者かによって掴まれた。
「千紗っ!」
「ゆ、裕也!」
千紗子の腕を掴んだのは、一週間前に別れた恋人だった。
千紗子の腕を掴んだまま黙っている裕也の顔は、ショッピングモールで出会った時の険のあるものではない。
千紗子を引き留めているのは彼なのに、千紗子と目を合わせようとせず視線が泳がせている。彼の人柄を現したような上がり気味の眉が、今は少しだけ下がっていて、どこか頼りなく見えた。
(裕也……?)
千紗子はそんな表情をした裕也を見た記憶がなかった。
付き合い始めてから三年間、ずっと裕也は自分の行動に自信を持っていて、自分の希望や要求をはっきりと千紗子に伝えてきた。
千紗子自身もそんな裕也を頼もしいと思っていたし、誰かを引っ張っていくような行動力がある彼のことを好きだったのだ。
だから今目の前にいる裕也の態度が、不思議で仕方なかった。
「千紗、俺……。」
裕也は何かを言いたそうにしているけれど、口をもごもごとさせるだけで続きをはっきりと話さない。
けれど千紗子の腕を掴む手にはしっかりと力が込められていて、千紗子は、彼が自分に何か伝えたいことがあるのだ、ということを感じ取った。
「裕也。ここじゃ寒いから、あそこに入ってもいいかしら?」
千紗子は掴まれているのとは反対の手で、すぐそこにあるコーヒーショップを指差す。
千紗子の控えめだがしっかりとした声色に、裕也がハッと顔を上げた。
この時初めて、二人の視線が重なった。
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