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番外編2 男心と春の午後
一彰の告白
しおりを挟む「く、くるしい…」
腕の中で千紗子が上げた声に、一彰はハッとなりその腕を緩めた。
「す、すまない…力を入れ過ぎてた……」
一彰は眉を下げて、千紗子の背中に回した手でその背中を撫でる。
考え事をしているうちにいつの間にか、彼女を抱きしめる腕に力を籠めすぎていたらしい。
やっと緩んだ腕から、息継ぎをするように顔を上げた千紗子が、大きく息を吸っている。
「ほんと、ごめん。大丈夫か?」
もう一度謝ると、千紗子はすうっと息を吸ってゆっくりと吐きだすと、瞳を上げて一彰を見た。
「一彰さんこそ、大丈夫なの?」
「え?」
一彰が目を丸くすると、千紗子は一彰の額にそっと手を当てる。
「う~ん、熱はない…みたいだわ」
「千紗子?」
「一彰さん……何かあった?」
一彰は目を軽く見張る。
「ここ数日、一彰さんは少し変だわ……。仕事が忙しいのかな、とか思い過ごしかとも、とか思ったんだけど…。もし何か悩みとかあるなら、話して欲しいの。私じゃ相談相手にはならないかもしれないけど…黙って見ているのもやっぱり辛いから……」
千紗子は最後の言葉のところで、一彰を見つめていた瞳を、ふっと逸らした。
「千紗子……」
いつもは千紗子の些細な変化にもすぐに気付く一彰だが、今回は千紗子がそんなふうに思っていることに、全く気付いていなかった。
(気付かれていたなんてな……)
いつもは彼女に『なんでも口にして』と言っているのに、全く同じことで彼女を悩ませてしまったことに、一彰の胸が痛む。
しかも千紗子がそれを言い出せずに悩んでいたことにも、気付かなかったのだ。
じっと自分を見上げる瞳が、少しだけ潤んでいる。
一彰はそっとその目元に唇を寄せた。
「ごめん。心配させてしまっていたんだな……」
瞼に落とした唇をそっと離すと、千紗子は睫毛を震わせて瞳を開き、小さくかぶりを振った。
千紗子の頭を数度撫で、サラサラと絹のような手触りを確かめると、一彰は背中から腰に降りた手で、彼女の細い腰を抱き寄せた。
「異動の内示が出たんだ」
一彰の体の上で、千紗子がハッと息を飲むのが伝わってきた。
「まだ内示だから正式な辞令は今週末になる。中々言い出せなくて、すまない」
千紗子が一彰のシャツをきゅっと握り、大きく左右に首を振る。その顔は伏せられていて、千紗子がどんな表情をしているのか見えない。けれど、一彰には、彼女の顔が見えなくても分かっていた。
「泣かないで、千紗子。異動といっても、すぐ隣の分館だ」
宥めるように背中を撫でると、その小さな肩が微かに震えているのが分かる。
「千紗子……」
腕の中の彼女が、たまらなく愛おしくなって、小さな体をきゅっと抱きしめた。
しばらくの間、胸の上にいる千紗子を黙って抱きしめていた。
やがて、「すんっ」と鼻をすする音がした後、おずおずと千紗子が顔を上げる。
「ごめんなさい…泣いちゃって」
「どうして?ちぃが謝ることなんて何一つないだろ?」
「だって…、市内の分館に移るだけなのに、私、動揺して泣くなんて……」
言い辛そうにする千紗子の、逸らした目が少し赤くなっている。
確かに千紗子の言う通り、一彰の異動先は市内にいくつかあるうちの一つの分館で、彼の家から車で十五分ほどだ。他県に出る異動とは違い、引越しもなく、このまま家から通える範囲であることは間違いない。
だとしても、千紗子の胸には言いようもない寂しさが押し寄せていた。
千紗子の瞳が再び潤みだしたのを見て、一彰は彼女の頬を両手の平で包み込むと、優しく目を細める。
「俺は寂しいよ?ちぃと一緒に働けなくなるなんて」
一彰の切れ長の瞳は、目じりに掛け少し垂れ気味だ。その瞳を柔らかく細め、眉を下げた彼の表情は悲しげで、彼の言葉が本心であることを千紗子に伝えている。
千紗子の下瞼にみるみる膜が張っていく。
「泣き虫だな、俺のちぃは」
一彰はバリトンの甘い声で囁くと、「ちゅっ」と千紗子の目じりに溜まった滴を吸い取り、そのままリップ音を立てて頬や額やあちこちに口づけを落とす。
千紗子は黙ったまま眉間に力を入れ、泣くのを我慢していた。
「俺と離れたくなくて泣くちぃが可愛い。大好きだよ、千紗子」
甘い言葉に、千紗子の涙腺が崩れ落ちる。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、一彰はいつまでも拭い続けた。
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