婚約者の形見としてもらった日記帳が気持ち悪い

七辻ゆゆ

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「ルアニッチェェエエ! 君は僕のっ、僕のものだ」
「いいえ、いいえっ!」
「さあ、共にいこう、僕が教えてあげよう。ああ、病の苦しみだってどうにかして教えてあげようとも。僕がどれだけ苦しかったか! 僕が、僕がぼくがぼくが」
「私は……っ! あなたなんて!」
「心配することはない、全部、全部教えてあげるさ。君を置いていくわけないじゃないかぁ」

 マリーアさんの可哀想な唇から、次々に気持ちの悪い言葉が発せられます。これが誰であるのかなんてもう明白です。こんなことがあるのでしょうか?
 でも、目の前で起こっているのです。疑いようがありませんでした。

「殿下との婚約は破棄されました!」
「は? なんだ、と……っ」
「死者となんて……結婚できません!」
「な」

 殿下がわずかにひるんだ隙に、私は全身全霊の力でマリーアさんを押しのけました。

「はっ……はあっ!!」

 自由になった体で床を這うように転がり、なんとか立ち上がりました。殴られた部分がズキズキと痛みますが、構ってなどいられません。私はまだ死にません。
 あんな男と共にあるなど嫌です。せっかく逃げられたのです。あれに連れていかれるなんて嫌です。私はあれと決別して生きるのです。

「待てぇえ! ゆるさん、ゆるさんぞ!」
「……あなたの許しなんて……!」

 ですが必死で走るのに、すぐに影が追いかけてきました。日記帳が振り上げられたのがわかりました。私は振り向かずに逃げます。呼吸も、力も足りませんでしたが諦める気はありませんでした。

「アル……!」
「え?」

 闇の廊下を照らすように、愛らしい声が割って入りました。
 私は思わず振り返ります。足が絡んでよろめき、床に倒れてしまいましたが、日記帳が振り上げられることはありませんでした。

「ああ、アル、やっぱり来てくれたのね!」

 なんて可憐な声でしょうか。さきほどまでのものがただ、マリーアさんの喉を鳴らす雑音だったことがわかります。人間が発する声です。愛おしい人へと発する、歓びの声でした。

 マリーアさんの華奢で健気な手は、しっかりと日記帳を抱きしめています。

「会いたかった……! でも信じてたの。アルが私を置いていくわけがないもの、きっと迎えに来てくれるって……」

 愛おしさを全身で表現しながら、マリーアさんは腕の中の日記帳にささやきかけます。暗い世界で表情までは見えません。けれどきっと、幸福そのもののような美しい微笑みを浮かべているに違いありません。

「は……」

 私は彼女の邪魔をしないように、静かに息を吐きました。
 そう、間違いではありませんでした。マリーアさんこそが私の聖母です。私を悪夢から救ってくれる方です。

 全身の力が抜けて、私はぐったりと二人を、マリーアさんと彼女の愛する日記帳を見つめていました。

「愛してるわ、アル」

 マリーアさんの言葉が廊下に響きます。月明かりに照らされる彼女の美しいことを、きっと永遠に忘れないでしょう。
 私はようやく呼吸を整えて、ゆっくりと体を起こしました。やはり、マリーアさんにお願いしたのは間違いなかったようです。アルバラート殿下は、私にとってたまらなく気持ちの悪い男は、マリーアさんにとって絶対に手放せない人なのです。

 ああけれど、どうすればいいのでしょうか。マリーアさんが殿下をしっかり抑えておけるよう、協力しなければなりません。お父様は信じてくれるでしょうか。
 私だって、こんなことがなければ信じられませんでした。亡くなった殿下が、日記帳の中にいるなんて!

「ずっと一緒よ」

 ええ、そうして、絶対に離さないで欲しいです。
 気持ちが落ち着いてくると、さきほどの恐怖が思い出されます。殴られた場所はまだ痛んでいます。医者を呼ばなければ。

「私たちは運命なの。もうほか人のことなんて気にしなくていいのよ。アルには私がいるんだもの……アルはもう、私のものなんだもの……」

 これだけ騒動を起こしたのに、誰も起きてこないのはおかしいです。ミラはそんなにぐっすりと眠っているのでしょうか。慣れたはずの廊下は暗くしんとして、他人の顔をしています。
 声をあげてミラを呼びたかったのですが、マリーアさんの邪魔をしたくはありません。安堵しすぎたせいか言うことを聞かない足をなんとか動かして立ち上がりました。

「ああ、愛しい人。わかっているわ。心配しないで、私にはあなたしかいないのだから。あなたにも、私しかいないのだから」

 マリーアさんの指先が日記帳を撫でます。本当に、指先だけでどうしてあんなにも愛を伝えられるのでしょう。
 撫でられた日記帳が震えている気がしました。

「私が寝ていたから寂しかったの……? ふふ、いけないひとね……」

 ぶるぶるぶるぶる、見る間にはっきりと震え始めます。マリーアさんの体までが震えて見えるほどです。
 マリーアさんはそんな日記帳も愛しくてたまらないらしく、聞き分けのない子にするように微笑みながら押さえています。
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