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第四章 二刀流の用心棒
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第四章 二刀流の用心棒
一
小次郎は、京へ戻っていた。
ある男と、彼は落ち合う約束をしている。
その待ち合わせ場所へ向かっているのだった。
刻限までは、まだかなり余裕がある。だが、
――遅れるよりはいい。
そう思って、あえて寄り道はしないことにした。
このあたりは性分というしかないが、彼は約束や待ち合わせに遅れることを潔しとしなかった。相手に待たされるのは仕方ないが、相手を待たせるのは、おのれの矜持が許さない。
目的地へ着いてみると、はたして相手はまだ来ていないようであった。
――さすがに少し早かったか。
刻限まで、まだ一刻(約二時間)近くもある。
――しばらく休むとしよう。
小次郎は傍らにあった大きな松の木のほうへゆっくりと歩いて行く。
一乗寺下り松。
かつて小次郎が寄宿していた名門吉岡道場が、一介の武芸者によって、破滅の淵へ追いやられた因縁の地である。
忘れもしない、あの男――たしか名は、新免武蔵といった。
当時、吉岡家の当主清十郎の子又七郎が、十歳にも満たぬ少年であったにも関わらず一門の総大将に祭り上げられ、武蔵の手で惨殺された、その場所こそ今、小次郎の目の前に屹立している巨大な松の根元だった。
――かわいらしい利発な子だった。あんないたいけな少年の命まで奪うことが兵法者のなすべきことだろうか。
俺にはとてもできぬ、と小次郎は思う。
それでいいとみずからに言い聞かせる一方では、一度だけ顔を合わせたことのある新免武蔵という男の、どこか狂気を孕んだ目つきを、些か恐怖にも似た感覚とともに思い出していた。
あの目と対峙した時、はたして自分は平静を保って戦うことができるだろうか。
――清十郎さんも伝七郎さんも、ひとかどの遣い手だった。それが、ふたりとも手もなく捻られたのだ。今の俺が、もしあの男と立ち合うことになったら、とても勝ち目はないのではないか。
そんなことを考えているうちに、うとうとと眠気に襲われ始めた。
松の木に腰掛けて、静かに目を閉じる。
すぐに彼は眠りの世界へ誘われた。
どれぐらいの時が経っただろうか――。
ぼんやり目を開けると、ひとりの男がゆらりとそこに立っていた。まさしく、
――ゆらり
という表現がぴったりの、飄然とした佇まいである。
そのくせ総身に一点の隙もない。下手に斬りかかったりすれば、たちどころに返り討ちに遭ってしまうだろう。そのことは、小次郎のように剣の修行を積み、高い境地に到達している者ほどよくわかるのだった。
「久しぶりだな、小次郎」
「ああ、間さん。いつからそこに?」
「四半刻ほど前かな」
「さすが間さんだ。まったく気づかなかった」
「いい寝顔だったよ。俺にそのけがあったら、武者ぶりつきたくなっただろうな」
「笑えない冗談はやめてください」
「怒った顔もまた妖艶だ」
「間さん」
「すまん、すまん。久しぶりに会えた嬉しさで、ちょっとからかってみたくなっただけだ」
「ご無沙汰しております」
「ああ、一別以来だな」
間と呼ばれた男は松の大木をしげしげと見詰めながら、
「吉岡道場は閉鎖したよ」
ぽつりと呟くように言った。
「ここで武蔵に敗れた直後に、半数以上の弟子が出て行った。伝七郎さんも又七郎坊も死に、ただひとり生き残った清十郎さんも二度と剣を振るえぬ体になった。これでは道場など、とうてい立ち行かぬさ」
「そうですか」
残念なことですね、と小次郎は応じる。
吉岡家は、かつて室町将軍の剣術指南役を務めたほどの名門である。最盛期には門弟数百名とまでいわれた一大勢力が、たったひとりの道場破りに敗れたことがきっかけで、閉鎖に追い込まれてしまう。剣に生きる道の厳しさ、険しさを改めて思い知らされたような気がした。
「で、今日はどうしたのだ。わざわざこんなところへ呼び出して」
隣に腰を降ろして、屈託のない笑顔で訊ねる。
間新次郎――小次郎とともに吉岡道場に寄宿していた剣客である。小次郎よりはひと回りほども年上だが、少しも偉ぶったところがなく、小次郎を実の弟のように可愛がってくれていた。
「間さんは、九州のご出身でしたよね」
「ああ、そうだよ」
「たしか肥前日野江」
「いかにも、有馬公のご領地だ」
間は飄々とした口振りで、
「そうか、おぬしはキリシタンだったな。であれば、わが殿には格別の思い入れがあろう」
と、言った。
小次郎は無言のまま小さく頷く。
有馬公――有馬修理大夫晴信は、元亀・天正の争乱期を生き延びた古強者だが、同時に敬虔なキリシタン大名としても知られていた。彼はかつて協調関係にあった大友宗麟、大村純忠ら有力諸侯と相語らい、四名の優秀な少年たちを選抜して、宣教師ヴァリニャーノの引率のもと、スペインやポルトガルへ派遣したことがある。後に、
――天正遣欧少年使節
と呼ばれることとなるこの使節団に、晴信は従兄弟に当たる千々石紀員(洗礼名のミゲルで知られる)を加わらせていた。
既に大友、大村の両家は断絶してしまっている。唯一生き残った晴信は、今や全国のキリシタンにとって憧れの的であり、希望の星であった。
「それがどうかしたのか」
「有馬家は今、朱印船貿易を積極的に推し進めていますね」
「ああ」
「どなたか、そのあたりの事情に詳しい方を紹介していただけませんか」
「別にかまわないが……、どうしたのだ、藪から棒に。まさか剣の道を捨てて船乗りに転身しようというのではあるまいな」
「違いますよ。そんな才覚は俺にはありません」
「ならば、よかった。何しろ俺は、おまえはいつか必ず日本一の兵法者になると確信しているのだからな」
「ありがとうございます」
「周りの友人たちにもずいぶん吹聴してしまった。もしおまえが剣を捨てるなどと言い出したら、俺はそいつらみんなに謝ってまわらなければいけなくなる」
「悪いけれど、そんなことまで俺は責任を持てませんよ」
「いいんだ、いいんだ。おまえはただ剣の道に邁進していてくれればいい。そうしてくれれば、俺が言ったことはいずれ真実になる」
新次郎は軽い調子で言った。
「間さんもつづけているのでしょう」
「一応な。しかし、まあ微妙なところだ」
「微妙なところ?」
「おまえと違って、俺には天稟がない。このままつづけていたところで、これ以上の上達は望めないような気がするのだ」
小次郎は、あえて否定しない。
天下の吉岡道場に寄宿していたぐらいだから、新次郎もひとかどの遣い手ではある。しかし、その剣は性格同様、あまりにも淡々とし過ぎていて、勝利への執着というものが希薄に感じられた。道場では通用しても、いざ戦いの場へ出て真剣で命のやり取りをする段になると、その淡白さが致命的な弱点になるのではないかと小次郎は睨んでいた。
頭のいい新次郎は、自分でもその欠点に気がついていたらしい。
「最近、道場を開いたのだ。吉岡道場の門弟だった奴等にも手伝ってもらって、今はもっぱら近所の子どもたちを中心に剣術を教えている」
「なるほど、新次郎さんらしいな」
小次郎は笑った。
新次郎は昔から子ども好きだった。吉岡道場にいる時も、当主清十郎のひとり息子又七郎をずいぶんかわいがっていたものだ。その又七郎が新免武蔵に無惨に斬り殺されたことも、新次郎に虚しさを覚えさせ、求道の生きかたからの転身を図らせたのかもしれなかった。
「まあ、あまり立ち入ったことは聞くまい。おまえにはおまえの事情があるだろうしな」
新次郎はひとりごちると、懐から紙と筆を取り出して、何やらさらさらと書き始めた。
「ほれ」
と、差し出されたその紙には、
――この者は佐々木小次郎といって、私にとっては弟のような存在である。何か聞きたいことがあるようだから、そちらへ行かせることにした。手間をかけて申し訳ないが、いろいろ教えてやって欲しい。
そう記されていた。
「紹介状だ」
新次郎が微笑みながら言う。
「これを持って、日野江藩の千々石玄蕃殿を訪ねるといい。俺がまだ禄を食んでいた頃、ずいぶんと世話になったお人だ」
「千々石玄蕃殿、ですね」
「千々石姓といえば有馬家中では名門の家柄だが、玄蕃殿は飾らぬお人柄ゆえ、俺の紹介と聞けば必ずや親切にしてくだされよう」
「かたじけない。感謝します」
「おまえほどの腕があれば、そのまま有馬家に剣術指南役として仕官することも夢ではあるまい。なんならそれも、ひとこと書き添えておいてやろうか」
「本当ですか」
小次郎の顔がパッと明るくなった。
「有馬公といえば元亀・天正以来の家柄。しかも晴信公はキリシタン大名として有名なお方です。もし仕官できるのならば、これほど嬉しいことはありません」
「そうか。ただし、有馬家はそれほど大きな身代があるわけではない。仕官が叶ったとしても、禄高はそれほど期待できないぞ」
「かまいません。元より天涯孤独の身です。俺ひとり生きて行ける食い扶持さえいただければ、それで十分です」
「そうか、ならば改めて紹介状を書いてやろう」
新次郎は屈託なく笑いながら、ふたたび懐から紙と筆を取り出した。
そして、またさらさらと筆を軽やかに走らせる。
いかにも人の好さそうなその横顔を、小次郎は嬉しそうに見詰めていた。
二
新次郎と別れた小次郎は、夢見心地で自宅へ帰った。
五軒並びの襤褸長屋の一角である。
残る四軒にも小次郎と同じような独り者の浪人たちが住んでいる。ろくな金にもならぬ日雇い労働に精を出す者、傘張りの内職で細々と生計を立てている者……。
身の振りかたはさまざまだが、いずれも決して裕福な暮らしをしているわけではない。むしろ、その日の暮らしを満足に終えるのがやっとという生活だった。
みな淀んだ表情をして、疲れの色が濃い。
そんな中にあって、小次郎は明るさを失っていなかった。
物心ついた頃からずっと剣の稽古に明け暮れてきた。他にこれといった趣味も持たず、楽しみもなかったが、それだけ剣の修行には一心不乱に打ち込んだ。天稟に恵まれたこともあって、やがてこの道であれば誰にも負けぬという自信を持つことができた。
――いつか必ず剣で身を立ててみせる。
その一念が、彼の心に張りを持たせていたのだ。
だが、このところ少しずつその気持ちが揺らぎ始めていた。
関ヶ原の合戦が終わり、家康が江戸に幕府を開いてから、はや五年。未だ大坂に豊臣家は健在とはいえ、その勢力は摂河泉六十万石に抑えられ、もはや昔日の面影はない。徳川幕府による幕藩体制は急速に整備され、戦国乱世は一気に過去のものへと押し流されようとしていた。武士といえども内治に関する知識や算段の技術などを持ち合わせていなければ、これからの世の中では重用されぬと知った浪人たちは先を争うようにして学問に精を出し始めた。小次郎のように剣の腕だけを頼りに身を立てようとしている者には、仕官の口などそうたやすくは見つかりそうになかった。
――このまま陋巷で朽ち果てて行くのか。
焦燥と諦観がない交ぜになったようなもやもやした気持ちを胸の奥底で燻らせながら、小次郎は日々を過ごしてきた。
もし新次郎の紹介状がうまく功を奏して有馬家への仕官が実現したら――。
ようやくこれまで厳しい修行に耐えてきた労苦が報われるかもしれない。
湧き立つような気持ちを抑えながら、小次郎は奥の戸棚を開けた。
中から取り出したのは、掌におさまるほどの小さな十字架だった。
それを恭しく胸元に押し当てて、小次郎は目を閉じる。
そして、かすかに口を動かしながら何事かを呟く。
祈りを捧げているのだ。切支丹の祈りを――。
彼がキリスト教の教えに触れたのは、かつて恋仲だった女性を通じてのことだった。
彼女の名は、結布といった。
結布と知り合ったのは、小次郎がまだ越前にいた頃のことである。近在の百姓の娘だった結布は、縁あって富田道場の手伝いによく顔を見せていた。炊事・洗濯から庭木の手入れまで気立てよくなんでもこなす結布は、道場に通うむくつけき男たちに癒しと安らぎを与える存在だった。
そんな結布と、小次郎は恋に落ちた。
どちらが先に惚れ込んだのかは、よくわからない。とにかく気付いた時には、燃えるような熱い恋心が互いの胸を支配し、ごく自然な流れの中でふたりを結び付けていた。
やがてふたりは暮らしをともにし始めた。
一介の武者修行の身に過ぎない小次郎と、百姓の娘――若く夢見がちなふたりの、ともすればどこかままごとのような同棲生活ではあったが、当の本人たちは幸せそのものだった。
しかし、そんな満たされた日々の終わりは、あまりにも突然に訪れた。
結布が病に倒れたのだ。
医師に診せたところ、死病であるという。
――だいぶ進んでおるゆえ、おそらくそう長くはもつまい。
残酷すぎる宣告に、小次郎の頭は真っ白になった。
医師が帰った後、結布とどんなことを話したのか、ほとんど覚えていないほどだった。
医師の診立てどおり、結布の病状は悪化の一途を辿った。ふた月ほどで床から起き上がれなくなり、ふっくらとしていた頬は見る影もなくやつれていった。
小次郎は、わずかな手持ちから薬を買って来ては、結布に飲ませた。どんなに不味い薬でも結布は厭な顔ひとつせず飲み、
――私が早くよくならないと、小次郎さんが剣の修行に集中できないものね。
そう言って笑ったが、その笑顔も声の張りも日に日に弱くなっていく。
――剣の修行に身が入らぬのもたしかだが、このままでは金が尽きてしまう。そうなってしまっては、薬を買い与えることすらできない。
困り果てた小次郎のもとへ、
――いい儲け話がある。
と、持ち掛けてきた男がいた。日頃、小次郎とはほとんど会話すら交わしたことがなく、たまに道場ですれ違えば会釈をする程度の間柄である。それほど熱心に稽古をしているわけでもなく、悪所通いに明け暮れて身を持ち崩しているという噂だった。その男が突然、小次郎の傍へすり寄ってきて、
――たった一日で夢のような大金が稼げる仕事なんだ。乗らないか?
そう囁いたのだった。
不審に感じながらも、あるいは渡りに舟かもしれぬと思い、とりあえず話を聞いてみると、どうやら用心棒の口を持ち掛けてきたものらしい。
もとより剣の腕には自信がある。用心棒ならばやってやれぬことはなかろうとさらに詳しく話を聞いてみると、どうやらその用心棒を必要としている雇い主というのが、阿漕なことで名高い商人らしかった。はっきりとは言わないのだが、男の言葉を総合すると、どうやらその商人は近々、ご禁制の取引を極秘裏に行うらしい。商人は目当ての品を受け取った後、口封じのために取引相手を始末してしまう算段を立てており、その任務を遂行できる腕利きを探しているというのが事の真相のようであった。
――断る。
すべてを察した小次郎は、即座にこの申し出をはねつけた。
――俺の剣は、そのような卑怯者のために使うものではない。
男は鼻白んだ様子だったが、それ以上は何も言わなかった。小次郎の腕は知っている。下手なことを言って怒らせては元も子もないと思ったのだろう。
それから三日後に、結布の容体が急変した。
高熱を発し、朦朧とする意識の中で、彼女は懐中から見慣れぬ小さなものを取り出し、弱くなった握力で懸命に握り締めながら、繰り返し何事か呪文のような言葉を唱えつづけた。
「なんだ、これは」
小次郎の問いかけに、結布はほとんど聴き取れぬぐらいの声で、
「クルス……」
と、応える。
「クルス?」
「イエスさまの……教え、信じていれば……、死ぬのは、怖くない……。ハライソへ……行くことが……できるから」
「はらいそ? なんだ、それは」
「ハライソ……死後の、楽園」
「死後の楽園? 浄土のようなものか」
結布はそれには応えず、ただかすかに微笑みながら、手にしていた「クルス」をゆっくりと小次郎のほうへ差し出した。
小次郎はその端をしっかりと握り締める。
「ありがとう」
それが結布の最期の言葉になった。
「結布、しっかりしろ、結布!」
小次郎の懸命の呼び掛けにも、彼女の目がふたたび開くことはなかった。
結布を失った小次郎は、抜け殻になった。
事実、そうとしか言いようがないほどに、彼は虚ろになった。
日中から何もせず部屋の中で寝そべっているだけで、道場からもいつしかすっかり足が遠のいてしまった。
ろくに食事を摂ろうともせず、ふとしたはずみに暗がりのなかでひとりはらはらと涙を流す。そんな日々が何ヶ月もの間、つづいた。
しばらくすると、さすがに何日かに一度ずつぐらいは外出もするようになった。
かつてならば、とりあえず道場へ行ってひと汗流すところだったが、しばらく顔を見せなかっただけになんとなく気まずさがあり、ただこれといった当てもなく街中を彷徨い歩くだけだった。
そんな、ある日。
小次郎は道端に十数名の人だかりができているのに遭遇した。
――何事だろう。
ふらふらと近付いてみると、輪の真ん中で異相の男が何やら熱弁を振るっている。
――南蛮人か。
このところ町の至るところで姿を見るようになった。聞けば商人として諸大名に武器などを売り付ける者もいれば、イエスなる男が始めたキリスト教という宗教を広めるためにやって来た「伴天連」と呼ばれる僧侶のような者たちもいるという。見たところ、この南蛮人は「伴天連」のほうだろう。
片言の日本語で、大きな身振り手振りを交えながら、聴衆らに何事かを訴えかけようと必死に話す、その男――小次郎の目に止まったのは、彼が手に握り締めている小さな銀色のものだった。
「それは、なんだ」
人波をかき分けて伴天連の前まで進み出た小次郎は、訊ねる。
「クルス――ではないのか」
「おお」
伴天連は驚いた顔をして、
「そう、クルス。貴方、イエスの教え、知っている」
「いや、そういうわけではないのだが……」
困惑する小次郎に向かって、伴天連は嬉々として教えを説き始める。
行きがかり上、はじめは仕方なしにその話を聞いていた小次郎だったが、気付けばすっかりその虜になっていた。
――なんという素晴らしい教えだろう。
胸の奥底から熱いものが込み上げてきて、文字どおり小次郎の「魂」を激しく揺さぶった。
いつしかその双眸からは滂沱の涙が零れ落ちていた。
――主イエスの御魂のもとでは、人はみな平等である。
と、伴天連は言う。
結布は百姓の娘だった。
対する小次郎は、曲がりなりにも武士である。
普通ならば、結ばれる見込みのない間柄だった。
小次郎はそんなことを気にしたことはなかったが、やはり結布のほうは、心のどこかに引っ掛かりがあったのかもしれない。今、伴天連からイエスの教えを聞いていると、切支丹の教えにすがった結布の気持ちが無性に切なく、いじましいものに思われた。
――結布。
今は亡きその面影に、小次郎は誓いを立てた。
――いつまでも塞ぎ込んでいたところで、結布はもう戻ってこない。パライソへ召された結布が安心できるよう、俺がもっとしっかりしなければ……。
彼は陋屋へ帰ると、結布が大事にしていたクルスをそっとおのれの懐へ仕舞い込んだ。そして、この先たとえ何があろうとも、決してこれを肌身から離すまいと心に決めた。
これを境に小次郎はおのれを取り戻した。
これまで以上に激しく稽古に打ち込み、みるみる腕を上げていった。
こうして悲しみを乗り越えた小次郎は、深い信仰の力にも助けられながら、無双の剣を手にするに至ったのである。
三
「おい、よく見てみろよ」
ふたたび、場面は堺。
豪商丹波屋に隣接した小料理屋の二階席だ。
窓から顔を出しているのは、仁左衛門とオインである。
「いろんな奴が出入りしていやがる。あの中に、おまえの見知った顔はあるか」
身を乗り出すようにして、オインは玄関先を見遣る。
「どうだ」
「わからない。日本人、みんな同じ顔」
「そんなことはないだろう。たとえば俺と、ほら、あそこにいるひょっとこみたいな顔の親父とでは、ぜんぜん違うじゃないか」
「……よくわからない」
「なんでだよ。俺はあんなに不細工じゃないぜ」
仁左衛門は苛立ったが、オインは心底から困ったような顔をしている。どうやら見分けがつかないというのは本当のことらしい。
「弱ったな」
仁左衛門は溜息を吐いた。
さすがは名うての豪商だけあって、実に多くの人間が出入りしている。今のオインに、この中から見知った日本人を探せというのはたしかに酷な話かもしれない。
「まあ、もう少しだけ頑張ってみようか」
そう言って、ふと傍らに目を遣ると、さっきまでそこにいたはずのオインの姿がなくなっている。
「どこへ行くんだ、オイン」
ふらふらと夢遊病者のような歩みで階段のほうへ向かっているオインの背中に向かって、仁左衛門は声をかけた。
「諦めるのは、まだ早いぜ」
オインは振り返らない。覚束ない足取りで歩きつづけている。
「おい」
怒りを含んだ表情で、仁左衛門は立ち上がってオインの肩を掴んだ。
「待てったら」
「放して」
思いのほか強い口調で、オインが言い返す。
「日本人の顔、よくわからない。でも、あの中にサララック、必ずいる」
「サララック? ああ、おまえの想い人の名だったな」
「サララック、あの屋敷の中、閉じ込められている。私、助けに行く」
「助けに行くって、どうやって――」
仁左衛門の言葉をみなまで聞かず、オインは肩にかかった手を払い除けた。
「私、サララック、助けに行く!」
叫ぶや否や、脱兎の如く駆け出すオイン。
猛然と階段を駆け降りる。
そして、そのまま店の外へ――。
「おい、待て。無茶な真似はやめろ」
仁左衛門は慌ててその後を追った。
オインは一目散に丹波屋の屋敷内へ駆け込もうとする。
「お、なんだ、おまえは」
突然の闖入者に周章狼狽する門番を体当たりで吹き飛ばして、オインは門の中へ突入して行った。
――くそっ、あいつ、やりやがった。これじゃあ、殺されたって文句は言えないじゃないか。
チッと舌打ちをして、仁左衛門も倒れている門番の横を走り抜ける。
門を潜れば、そこはもう広大な庭だ。
その奥に屋敷がある。丹波屋の主は、そこに住んでいるのだろう。
「サララック!」
オインが喚いた。
「サララック! 私だ! オインだ!」
何事かと、屋敷の中から男たちが出て来た。
みな揃いも揃って、ごつい体つきをしている。人相の悪さからすると、用心棒として雇い入れられたごろつき連中だろう。
「助けに来た! どこだ、サララック!」
「おい、なんだ、てめえは」
男のひとりが庭へ降りて来た。左頬に大きな刀傷がある。それがいっそうこの男の人相を凶悪なものに変えていた。
「痛めつけられたくなければ、さっさと帰りやがれ」
「サララックはどこだ!」
「さら……、なんだ、それは」
「サララックだ!」
「そんな奴は知らん」
「おい」
ふたりがやり合っているところへ、もうひとり別の男がにやつきながら歩み寄って来た。痩せ型の優男だが、目つきはやはり凶暴だ。
「こいつ、日本人じゃないだろう」
「なに」
刀傷の男は身を屈めるようにしてオインの顔を覗き込み、
「本当だ。こいつはシャム人か何かだな」
と、せせら笑うように言った。
「そうか、こいつ、あの女のことを言っているのだな」
「女! やはりサララック、ここにいるのか!」
オインが激昂して男に掴みかかろうとする。
傍らから優男の手が伸びてきて、オインの腕を掴んだ。
「放せ」
「おまえ、あの女のなんだ」
「あの人……、サララック、俺の愛しい人だ!」
「ほう」
優男が舌なめずりをする。
「なかなかいい女ではないか。ちょっと肌が黒いのが気にかかるが、あれだけの美形ならば、それはそれでひとつの味だからな」
下卑た笑いを口辺に浮かべながら、優男は愚弄するような口振りで、
「依頼主もさぞ喜ぶことだろうよ」
「依頼主?」
オインの声が上ずる。
「依頼、許さない! サララック、連れて帰る!」
「それは駄目だ。あいにく俺たちは、もう金をもらってしまっている」
「金? サララック、どこへ売るつもりだ!」
「さあて、それは言えないな」
優男がオインの腕を掴んでいた手を放した。
よろめきながら、オインは優男をきっと睨みつける。
「おお、怖」
どこまでも揶揄するような声音で、優男は笑った。
「あの女を連れて帰りたいのならば、無駄だ。もうここにはいないのだからな。わかったら諦めて、さっさと失せろ」
代わって凄味を利かせたのは、刀傷の男である。
「嘘だ!」
オインは一歩も引かない。
「サララック、ここにいる。私、必ず連れて帰る」
「こいつ、さっさと消えなければ、本当に痛い目に遭うことになるぞ」
「おい、ちょっと待て」
ここまでずっと黙っていた仁左衛門だが、たまらなくなって前へ進み出た。
「なんだ、おまえは」
「突然、屋敷の中へ入り込んで来た無礼については謝る。だが、この男は想い人を探すために、はるばるシャムから危険を顧みずこの国へやって来たんだ。どうやらその想い人がこの屋敷の中にいるらしいと聞いて、居ても立ってもいられなくなってな。ちょっと無茶をやらかしてしまったというわけだ。悪気はない。どうか、許してやってくれないか」
「おまえは誰だ」
「俺か。俺は山田仁左衛門といって、まあ、こいつの友人だ」
「友人? シャム人のか?」
「友人に日本人もシャム人もないだろう。そんなことより、俺からも頼むよ。こいつの想い人に対する気持ちは本物なんだ。もし本当に、その女がここにいないと言い張るのならば、屋敷の中を改めさせてやってくれないか」
「なに」
刀傷の男が胴間声でがなり立てる。
「てめえ、何をふざけたこと言ってやがる」
「いいじゃないか、少しぐらい。どのみち、ここにはいないんだろう。自分の目でたしかめて、そうとわかれば、こいつだって諦めがつくさ」
「黙れ、若僧。いいから、そいつを連れてさっさと帰りやがれ」
「まあ、そうつれないことを言うなよ。ちょっと見るだけだからさ」
仁左衛門も引かない。
口調は穏やかだが、その目は笑っていなかった。
真っ直ぐに対手の男を見据える双眸には、傍で見ていても思わず背筋を伸ばしてしまうほどの鋭さが秘められている。
だが、敵もさるもの。譲る様子はない。
「あっ」
不意にオインが、なんとも素っ頓狂な叫び声を上げた。
「なんだ、どうした」
「サララック!」
「なんだって」
仁左衛門が制する間もなかった。
「サララック!」
オインは血相を変え、屋敷の中に向かって一目散に駆けて行く。
その視線の先で、かすかに何かが動いた。
柱の後ろにさっと隠れたのは、たしかに女人の影であった。
――あれがサララックか。
と、仁左衛門が思った瞬間である。
濡れ縁を駆け上がろうとしたオインが一転、地面に叩きつけられた。
「ぐうっ」
苦しげな声を上げて、腹部を手で押さえる。
「オイン!」
仁左衛門はすぐさま駆け寄り、オインの体を抱き起こした。
意識は朦朧として、口から泡を吹いている。どうやら木刀でしたたかに腹部を突かれたらしい。
「なんてことしやがる」
呻く仁左衛門を、黒い影が覆った。
ゆっくりと視線を上げる。
目の前に、ひとりの男が立っていた。
背丈は人並みだが、がっしりした体躯である。渋柿色の着物から覗く二の腕の筋肉は、ちょっと恐ろしいほどに発達している。
肌は浅黒い。
「く、くそっ……」
ようやく我に返ったオイン。
「サララックを、返せ……」
あれほどの痛手を被ったにもかかわらず、凄まじい執念だ。
「この先へは入れぬ」
男はしかし、低い声で冷酷に告げた。
「早々に立ち去れ」
「サララック!」
よろめきながら起き上がり、体当たりしようとするオインを、男はさらりとかわしてみせる。
次の瞬間――。
「ぐうっ」
ふたたび倒れ込み、悶絶するオイン。
男の木刀で、今度はしたたかに肩を打たれたのだ。
迅い。
目にも止まらぬ早業とは、まさにこのことだった。
男は横たわっているオインの体を片手で軽々と持ち上げると、勢いよく投げ捨てた。
襤褸雑巾のように転がったオインは、ぴくりとも動かない。どうやら失神したようだ。
「オイン!」
仁左衛門は叫び、男を睨みつける。
「何をしやがる」
男は顔色ひとつ変えない。何事もなかったような感情のこもらぬ目で、仁左衛門を見下ろしている。
「くそっ」
仁左衛門の胸に、沸々と怒りが湧き起こってきた。
――こいつ、馬鹿にしやがって。
徒手空拳のまま、対手に飛びかかって行く。
懐に入り、襟首を掴んだ。
――よし!
一気に足を払い、投げ飛ばそうとする。
が、しかし――。
男の足におのれの足を引っ掛けた瞬間、凄まじい力で地面に引き倒された。
「うっ」
背中を強打して、思わず気が遠のきそうになる。
「く、くそ……」
上体を起こそうとしたところで、第二撃が来た。
男の木刀が唸りを上げて仁左衛門の頭を襲ったのだ。
「うおっ」
体を横に回転させ、ぎりぎりのところで、なんとかこれをかわす。
――殺す気か。
仁左衛門の心を強烈な恐怖が捉えた。
男の目は相変わらず乾いていて、その奥にある感情を読み取ることができない。だが、今の攻撃の鋭さ、激しさは、どう考えても、
――ちょっと痛めつけてやろう。
という程度のものではなかった。間違いなく脳天を打ち割るつもりだった。
「わかった」
仁左衛門は手を上げた。
こんなところで殺されては元も子もない。ここは降参して、出直すのが得策だ。
「今日のところは帰るよ」
腰を押さえて、ふらふらと立ち上がる。
「悪いことは言わぬ。二度とこの屋敷へは近づかぬことだ」
男の声は穏やかだが、有無を言わさぬ強さがあった。
「もしふたたび狼藉に及べば、その時は迷わずおまえたちを叩き殺す」
気を失ったままのオインを肩に担いで、仁左衛門は足を引き摺りながら丹波屋の屋敷を後にする。
背中越しに、男たちの会話が聞こえてきた。
「先生、このままあいつらを逃がすおつもりですかい」
「いけないかね」
「丹波屋の主人が帰って来たら、怒られやしませんか」
「我等に課せられた役割は、闖入者を追い払うことのみ。それを果たしたのだから、これ以上、痛めつける必要もあるまい」
「しかし……」
「俺のやりかたに不服か」
「いや、そういうわけでは……」
「俺はあの者たちに警告した。二度目はないと。あの者たちが愚かでなければ、ふたたびこの屋敷の門を潜ろうとはしないはずだ。それでもなお異存があるというのならば――」
「ま、待ってください。宮本先生がそうおっしゃるのならば、あっしらに異議なんてあろうはずがないんでさ。へへへ。いやはや、それにしても、あいつら命拾いいたしましたなあ」
追従笑いを浮かべながら男たちが逃げるように立ち去って行く。
その後ろ姿に、宮本と呼ばれた男は乾いた眼差しを注いでいた。
四
逃げ込むようにして小次郎の陋屋へやって来た仁左衛門は、押し入れから見つけ出した膏薬を、未だ痛みの癒えぬオインの腰に塗りたくりながら、
「たしかか、オイン。たしかにサララックはあの屋敷の中にいたんだな」
額がつくほどの距離まで顔を近づけて、何度もそう訊ねた。
「間違いない。あれ、絶対、サララック。私、サララック見間違えるはずない」
「そうか」
「い、痛い! その薬、しみる。少し塗り過ぎ、ないか」
「ガタガタ言うな。薬ってのは、これぐらいじゃないと効かないものなんだよ」
小次郎は笑ってオインの頭をはたく。
「つまり、その丹波屋という商人が南蛮人と手を組んで人身売買を行っているというわけか」
「ああ、そうだ。間違いない」
仁左衛門が大きく頷く。
「丹波屋は日本国内だけでなく、シャムにまでその商いの手を広げている。シャムでは貴族たちの権力争いがつづいているから、奴等は巧みにそこに付け込んでいき、政争に敗れた貴族の家族や使用人たちを売り物にしているんだ」
「オインもその中に加えられようとしていた」
「そう、そして、みずから身代わりになることでそれを防いだのがサララックというわけさ」
「ああ、サララック……。こんな私たちなんかのために……」
膏薬を塗り終えたオインが、さめざめと泣き出した。
「今すぐにでも、私、代わりにつかまりたい。サララック、解放してあげられるのなら、私、辛い奴隷になってもかまわない」
「よせよ、オイン。それじゃあ、サララックの思いをまったく無にすることになってしまうじゃないか」
「でも……、でも……」
「仁左衛門の言うとおりだ。今は余計なことを考えず、どうすればサララックを丹波屋から救い出せるか、その一事のみを考えるべきだ」
強い口調で、小次郎が断じる。
「おまえたちも知ってのとおり、俺は切支丹だ。当然、南蛮の伴天連たちともいろいろな話をする。彼等はみな一部の南蛮商人たちがこの国で行っている悪事の数々を憂い、本国に対してもその振舞いをやめさせるよう訴えつづけてきた。彼等の本国であるポルトガルやイスパニアの政府は、口ではわかったと言い、なんとかしようと言って寄越すものの、実際のところは何ひとつ有効な手を打とうとしなかった」
「なぜだ」
「結局のところ、そうした南蛮商人たちは裏では本国の政府ともつながっているからさ」
「なんだって」
「奴等は政府の有力者に抜け目なく献金を行い、自分たちの悪事に目を瞑るよう働仕掛けている。だから、政府が本腰を入れて奴等を取り締まろうとすることはない」
「まったく……金と権力のある奴等が考えることってのは、どこでも同じなんだな」
仁左衛門が嘆息する。
「切支丹のおぬしには悪いが、いっそ南蛮人なんて、この国からいなくなってもらったほうがいいんじゃねえのか」
「たしかに、そういう考えを持つ人間も少なくはないだろう。現に亡き太閤秀吉は伴天連追放令を出し、長崎で多くの切支丹の命を奪った」
「……」
「だが、考えてもみろ。同じ人間なんだ。丹波屋のような悪徳商人の存在に目をつけ、それに手を貸すことでおのれの欲望を満たそうとする者が、この国にもいないとどうして言いきれる」
「というと、丹波屋の後ろには――」
「ああ、間違いなくこの国の有力者がいる」
「それか、例の九州の大名というわけか」
「たしかなことは、まだわからない。だが、与五郎さんが追っている長岡刑部という男が、何かを知っているのは間違いない」
「ああ、じれったいな。与五郎さんの線以外にも、俺たちで手繰れる伝手はないものか」
仁左衛門は歯噛みして口惜しがったが、冷静に考えてみれば、どだい無理な話である。何しろ今は籍を離れているとはいえ、与五郎は元を正せば大藩細川家の御曹司だ。それに引き換え仁左衛門と小次郎は、いってみれば野良犬同然の身なのである。大名家に伝手などあろうはずもない。
が、しかし――。
「実はな」
小次郎はニヤリと微笑みながら言った。
「もしかしたら、なんとかなるかもしれない」
「なに、どういうことだ」
「今度、日野江藩の重役、千々石玄蕃さまにお目通りが叶うことになったのだ」
「千々石? 誰だ、それは」
「有馬晴信公にお仕えする重臣だ」
「ふうん、そんな男になぜ目通りを?」
訝しげに問う仁左衛門に、小次郎はここへ至るまでの顛末を語って聞かせた。
「なるほど、剣術指南役か。おぬしの腕なら、さもありなんだな」
ようやく合点がいった仁左衛門は、少し声を小さくして、
「で、おぬしはその千々石なんとかいう男に会いに行くのか」
「そのつもりだ。できればここで仕官を決めてしまいたい」
「まあ、それはそうだろうが……。信用できるのか、その男」
「新次郎さんは俺がもっとも尊敬する兄弟子だ。剣の腕は今となっては俺のほうが上へ行ってしまったかもしれないが、人間としては俺など足元にも及ばない」
「その人のことじゃない。千々石玄蕃って男のほうさ」
「有馬晴信公は俺たちキリシタンにとって希望の星ともいうべきお方だ。その晴信公が全幅の信頼を寄せ、上方外交の全権を委任しているのが千々石玄蕃という人物なのだ」
小次郎は語気を強めて言った。
「ひとかどの人物であることは間違いない」
「だとしても、とんだ喰わせ者かもしれないぜ」
仁左衛門が反駁する。
「なぜ、そう思うのだ」
「そりゃ、そうだろう。有馬晴信公といえば戦国生き残りの古強者だ。その晴信公が大切な上方外交をすべて任せているというのだから、一筋縄ではいかない人物であることぐらい容易に想像がつくさ」
「晴信公は人格者だ。いかがわしい人物を重職に就けたりするはずがない」
「わかるものか」
仁左衛門はにべもなく切り返す。
「そもそも、おぬしは晴信公に会ったことがあるのか」
「いいや、一度もない。あるはずがないだろう」
「ならば、なぜ晴信公が人格者だと言い切れるのだ」
「晴信公は、われら切支丹の間では伝説的なお方だ。今から二十年ほど前、この日本国から四人の少年たちが選ばれて海を渡り、遠くポルトガルへ行って国王に謁見を果たした。いわゆる天正遣欧使節というやつだ。おぬしも名前ぐらいは知っているだろう」
「いや、知らない」
「知らないのか?」
「知らないよ、そんなの。だって、俺たちが生まれる前のことだろう」
「それはまあ、そうだが……」
小次郎は苦笑して、「いいか」と説明を始める。
天正十年(一五八二)、宣教師ヴァリニャーノの勧めを受けた九州の切支丹大名たち――大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の三名によって選ばれた少年たちが、遥か遠いヨーロッパへ向かって出航した。イスパニア・ポルトガルの両国王に謁見して日本における布教活動への援助を取り付けるとともに、日本の少年たちにヨーロッパを見聞させることも目的としていた。
施設に選ばれたのは、当時、とりわけ熱心な信者だった有馬晴信が領内に開設していたセミナリオで学ぶ少年たちだった。いずれも十三、四歳と若く、将来を嘱望される優秀な少年たちである。
伊東マンショ(日向の太守伊東義祐の孫)
千々石ミゲル(有馬晴信の従兄弟)
中浦ジュリアン(肥前国中浦の領主の息子)
原マルティノ(肥前国大村の名士の息子)
彼等は一月に長崎を出航。マカオ・マラッカ・ゴアなどを経由して実に二年半もの長い航海の末にポルトガルの首都リスボンへと辿り着く。そこで数ヶ月を過ごした後、イスパニアへ移ってマドリードで国王に謁見。さらに翌年にはイタリアへ渡ってローマ教皇グレゴリウス十三世にも謁見。ベネチアやミラノなど諸都市を廻った後にふたたびリスボンへ戻り、そこから帰国の途に着いた。
優雅で理知的な振舞いと、確固たる意志の強さをヨーロッパの人々に称賛され、栄光に満ちた旅を終えた彼等を待っていたものはしかし、残酷すぎる現実だった。
折しも彼等が長崎へ帰り着いた頃、既に太閤秀吉は伴天連追放令を発し、キリスト教の布教を全面的に禁止していた。彼等がもっとも頼りにしていた切支丹大名の雄大友宗麟は既にこの世の人ではなく、大村純忠・有馬晴信はいずれも九州の小大名に過ぎず、数奇な運命を辿った少年たちを世に出すだけの力を持たなかった。
秀吉に拝謁し、楽器の演奏などを披露した少年たちは、それきり本来期待されていた活躍の場を与えられることはなかった。
秀吉の後を受けて天下人の座に着いた家康もまた、キリスト教に対して寛大ではなかった。四人の少年たちは苦境に喘ぎながらも懸命に布教活動を行った。
やがて徳川幕府が禁教の姿勢をより鮮明に打ち出すようになると、彼等はその純粋で真っ直ぐな生きざまゆえの悲劇に見舞われることとなるが、それはまだこの物語よりは少し後の話である。
「ほう」
仁左衛門は、小次郎が語る少年使節の波乱に満ちた歳月に思いを馳せ、大きな溜息を吐いた。苦難多き日々ではあったに違いないが、おそらく彼等は充実感に包まれていたことだろう。おのれの生きる意味や、おのれ自身の価値になど憂いを廻らせる暇もなく、ただひたすら真っ直ぐにおのれの進むべき道を進んできたのに相違ない。
それに引き換え、この俺は――。
そんなふうに胸の内で自虐しかけたところへ、
「しかし」
と、オインが口を開いた。
「有馬さま、そんなふうに自分の従兄弟を南蛮へ遣わすほどの人、だったら今の徳川さまの天下、快く思っていないはず」
「ああ、それもそうだな」
仁左衛門は大きく頷く。
「まして有馬晴信公といえば、九州に大友宗麟や龍造寺隆信、それに島津義久ら錚々たる武将たちが覇を競っていた時代からの生き残りだろう。きっとそれ相応の野心は胸に秘めているはずだぜ」
「乱世はもう終わったのだ。晴信公とて、それぐらいのことはわかっておられるだろう」
「いいや、終わっちゃいない。大坂に豊臣家が健在である今、徳川の天下は未だ盤石とはいえない」
なおも反論しようとする小次郎を、仁左衛門は手で制して、
「天下にふたたび大乱が起きた時に備えて力を蓄えておこうと考えるのは、大名ならば当たり前のことさ。それをしていたからといって、晴信公を悪党だと決めつけるつもりはない」
「あたりまえだ」
小次郎は憤然と口を尖らせる。
「晴信公はわれら切支丹の誇りであり、希望なのだ。これ以上の誹謗中傷は、この俺が許さぬ」
「わかったよ」
顔を強張らせる小次郎に向かって、仁左衛門は笑いかけた。
「友だからな。おぬしのことを信じよう」
「……ありがとう」
「なに、おぬしほどの腕があれば、いざ向こうで何かあったとしても、切り抜けられるだろうさ」
「何もないと言っているではないか」
小次郎の抗弁を、仁左衛門は受け流して、
「期待しているよ、小次郎」
ポンと肩を叩いた。
「その千々石なんとかいう奴から、サララックにつながる有益な情報を仕入れてきてくれ」
「私からもお願いします。小次郎さん、私、なんとしてもサララック、助けたい」
「ああ、任せておけ。必ず敵の正体を暴いてきてやるから、待っていろ」
いつもの屈託のない表情に戻って、小次郎は微笑んだ。
五
「ほう、新次郎の紹介とな」
手渡された書状を怪訝そうな面持ちで開いた千々石玄蕃は、ゆっくりとその文面に目を走らせた。
四十絡みの、やや肥り肉の男である。色は浅黒く、精悍な印象を与える。
「剣術指南役に就くことを所望とあるが、相違ないか」
「間違いありません」
「何流を遣う」
「されば、みずから編み出した流派にて、巌流と名づけております」
「がんりゅう?」
怪訝そうな顔をする玄蕃。
「聞きなれぬ流派だが……、つまり我流ということだな」
「はっ」
小次郎のこめかみが小さく震える。玄蕃の心にかすかな侮りが生まれたことを敏感に察知したのだ。
「恐れながら――」
勢い込んで身を乗り出した小次郎を、
「いや、よい」
玄蕃はしかし、笑顔で制してみせた。
「新次郎がこうして薦めてまいるのだ。腕はたしかであろう」
「恐れ入ります」
小次郎は胸を撫で下ろす思いで、平伏する。
――さすがは新次郎さんだ。ずいぶん信頼されているらしい。
「時に、佐々木とやら」
穏やかな声音のまま、玄蕃が重ねて問いかける。
「指南役に就くことのほかに、もうひとつ願いがあると記されているが、その願いとはなんだ」
「はっ、されば――」
小次郎は大きくひとつ深呼吸をして、
「朱印船に乗りとうございます」
と、語気を強めて言った。
「なに」
ジロリと小次郎のほうを見遣る眼光は、鋭い。常人ならば、この目で見据えられただけで委縮してしまうところだろう。
「朱印船とな」
だが、小次郎は真っ直ぐそれを受け止めて、
「はい」
些かも臆することなく、強い口調で応じた。
「交易がしたいのか」
「まあ、そのようなものです」
「そなたは武士であろう。なぜ交易になど興味を持ったのだ」
「恥ずかしながら、功名を望むゆえでございます」
「ほう、功名か」
「はい。去る関ヶ原の合戦によって、徳川の天下は盤石となりました。摂河泉六十万石の一大名に成り下がった豊臣家に再起する力は残されていないでしょう。万が一、再起したとしても、たちまち鎮定されてしまうのが落ちであると思われます」
「うむ、そうであろうな」
「さすれば、仕える主もなき身の上で武士として生きつづけたとて、浮かぶ瀬もないと考えておりました」
「なるほど」
「なんでも大御所家康公は朱印船貿易を推し進めることで、異国との交易をさかんにしようと考えておられるとか。現に有馬候をはじめとする西国諸大名は相次いで幕府の朱印を得て、シャムや安南などへさかんに船を送っていると聞き及びます」
「そのとおりだ」
「風聞によれば、これまでに彼の地に渡った多くの日本人たちは、日本人町と呼ばれる居住区に暮らし、時に現地の王侯貴族に傭兵として雇われることで生計を立てている元武士らも少なくないとのこと。彼等はみな貴重な戦力として重用され、生き生きとした日々を過ごしているとか。さような人生に憧れるようになったのでございます」
「異国の地で暮らすことが、そのほうの夢か」
「ただ暮らせればよいというものではありません。たとえば日本に暮らしながら交易に従事するのであっても、それが私にとって生き甲斐といえるような仕事であったならば、それでよいのです。もし私がめでたく剣術指南役としてお召し抱えいただけることとなったならば、そのようなことになるでしょう」
「なるほど。つまり、ただ剣術を教えて暮らすだけでなく、より強い生き甲斐を求めるために朱印船にも乗せて欲しいと、そう申すのだな」
「はい」
小次郎は力強く頷いた。
「ふうむ」
玄蕃は腕組みをして、考え込む。
――家中随一の知恵者
と新次郎が称賛していただけのことはあって、いかにも頭の回転は速そうだ。ただ、その賢さの質というものが、小次郎にはどうも引っ掛かった。もちろん第一印象だけですべてを決めつけるのは厳に慎むべきことだが、ひとことでいえば、この千々石玄蕃という男の持っている雰囲気は「聡明」というよりもむしろ「狡知」といったほうが近いように感じられたのである。穏やかな口調や物腰の裏に、何やら言い知れぬ不気味さを覚えてしまうのだ。
「重ねて問う。そのほう、剣の腕には自信があるのだな」
「いかにも、自負はあります」
小次郎はよどみなく言い切った。
「ふうむ」
玄蕃は、また腕組みをして、しばらく何か呻っていたが、やがてひとこと、
「よかろう」
と呟いた。
「お許しいただけますか」
前のめりになる小次郎。
「交易をすれば富が得られる。富を得れば余人の妬み嫉みを受ける。妬み嫉みを受ければ時として攻撃の対象となることもある。そうした折、腕に覚えのある者が身内にいるのは決して無駄なことではない。氏素性も定かならぬそのほうをいきなり剣術指南役――すなわち日野江藩士に取り立てるのは難しいが、さしずめ儂の中間ということでどうだ。そうすれば、儂とともに船に乗せてやることもできよう」
「ありがとうございます。肩書など中間でもなんでもかまいません」
「では、決まりだ。そのほうは本日ただ今より儂の中間である」
「承知いたしました」
「ついては明朝、この堺より肥前へ船出いたすゆえ、その供をせよ」
「明朝、でございますか」
小次郎は吃驚した。あまりにも急な話だったからである。
「どうした、何か不都合なことでもあるのか」
玄蕃がギロリと小次郎を睨みつける。
「ならば、今の話はなかったことにしてもよいぞ」
「いいえ、とんでもございません」
小次郎は慌てて首を横に振った。
「喜んでお供させていただきます」
「うむ」
玄蕃は鷹揚に頷く。
――これは、なんとも急な展開になったな。
小次郎は思ったが、この際、四の五の言ってはいられない。
玄蕃が有馬家の中で大きな力を持っているのは紛れもない事実なのだ。サララックの行方を掴むもっとも大きな手掛かりを、今ここで逃すわけにはいかなかった。
小次郎は両親の顔を知らない。
物心ついた時には、どちらもいなくなっていた。
母は産後の肥立ちが悪く、小次郎を生んで間もなくこの世を去ったという。
父のことは、よくわからない。なんでも秀吉の九州征伐に毛利軍の一兵士として従軍し、討死したと人伝に聞かされた。ただ、それだけだった。金も土地も記憶さえも息子に残さずに、父は逝ったらしかった。
行き場を失った小次郎は、しばらくは近所の寺の住職に引き取られて、そこで生活していたが、ほどなく夜逃げ同然に飛び出した。何が原因かは当の本人が語りたがらないため、よくわからない。住職の伽の相手――いわゆる衆道だ――を勤めさせられるのを嫌ったのだとか、兄弟子と殴り合いの喧嘩をして足腰が立たぬまでに痛めつけてしまい、居つづけることができなくなったのだとか、いろいろな噂が立ったが、本人はどの話に対しても肯定も否定もせず、沈黙を貫いた。
ともあれ諸国を放浪した後、越前へ流れついたところで、彼は病に倒れた。
看病してくれる者もおらず、死の淵を彷徨っていたところを、たまたま行きがかりの武芸者に助けられた。
病の峠を超え、息を吹き返した小次郎の枕元に立っていたのは、齢九十を超えると思しき老人だった。
「大丈夫かね」
しわがれてはいるが、矍鑠として張りのある声音で問いかけた老人は、
――富田勢源
と、名乗った。
「この近くで剣術の道場を開いている。よかったら、しばらくうちに来ないかね」
勢源はにこやかに笑いながら、そう言ったのだった。
小次郎は住み込みの弟子として富田道場の厄介になることとなった。
一応、弟子という名目だから、小次郎も剣の稽古をする。
はじめは何気なく稽古に参加させた勢源だったが、ほどなくその天稟に驚嘆した。
――これは、千人にひとりの逸材かもしれぬ。
そう直感した彼は、高弟のひとり鐘巻自斎に小次郎を託し、厳しく鍛えさせた。
小次郎の腕は見る間に上達し、やがて師の自斎をも凌ぐまでになった。
ほどなく小次郎はひとりの女性と恋仲になった。
結布である。
ふたりはやがて同棲を始めた。
決して裕福ではないが、幸福な日々――それはしかし、結布が病に侵され、帰らぬ人となったことで、儚く終わりを迎える。
それで自暴自棄になった――わけではないと思う。
少なくとも、彼自身がそう意識していたわけではない。
だが、最近になってようやく、
――どこかにそうした荒んだ気持ちがなかったとは言い切れない。
と、思い返すようにもなっている。
とにかく彼は、この頃から同門の弟子たちに向かって、こう公言するようになる。
――我等が稽古している富田流の小太刀は実戦向きではない。屋内のような狭い場所や深夜における斬り合いならばいざ知らず、白昼の野外において正面きって剣を交えるのならば、得物は長いほうが絶対に有利だ。
勢源も自斎も、その言い分を笑って聞いていたが、弟子たちの中には、
――不遜なり。
と、反発する向きも強かった。少々腕が立つからといって師の流儀を批判するとは何事か、というのである。
――了見の狭い奴等め。
小次郎はそうした連中をあからさまに嘲笑した。
剣の勝負は、つまるところ勝つか負けるかだ。そこに命を賭ける以上、より勝てる可能性の高い道を探るのは当たり前のことである。流儀に固執して負けたのでは何の意味もない。
「それほど言うのであれば、実際に試してみるがよかろう」
勢源のひと声で、小次郎と勢源の年齢の離れた弟である景政との立ち合いが決まった。
景政は、むろんひとかどの遣い手である。誰もが景政の圧勝を確信したが、結果は小次郎の勝ちに終わった。さすがに辛勝ではあったが、それでも勝ちは勝ちである。
小次郎はしかし、この勝ちに不満だった。
彼の心積もりでは、もっと完膚なきまでに打ちのめせるはずであった。長刀有利の理屈には、それだけ絶対的な自信を持っていたのである。
もとより相手は師匠筋の人間だ。とはいえ、舐めてかかったつもりはないし、むろん遠慮したわけではない。ごくふつうに持てる力を出し尽しての辛勝であった。
――俺は、まだまだだ。
小次郎は、そう思った。
彼の道場での居心地は既にかなり悪くなっている。師匠筋の人間を、それも流儀の教えに背く形で負かしたことへの反発は、それを決定的なものにした。
勢源も自斎も大度ある人物だったから、そんなことは気にも留めていない様子だったが、当の小次郎が疎外感に苛まれ、次第にいたたまれなくなった。
ひと月ほど経った時、彼は道場を辞めたいと申し出た。
自斎は彼の剣才を惜しみ、引き止めようとしたが、勢源は呵々と笑い、
「思うところあらば、それに向かって進むのみ。駄目になったら、また戻って来てやり直せばよい。若者の特権じゃな」
そう言って、小次郎の願いを許した。
旅立つ前の夜、部屋で荷造りをしている小次郎のもとを勢源が訪ねて来た。
「これは、お師匠さま」
慌てて姿勢を正そうとする小次郎を、
「ああ、よいよい」
と、笑って制する。
齢九十を超え、さすがに剣を取ることはなくなったが、足腰は未だ矍鑠としている。それでも上下動は大儀そうな様子で、
――よっこらせ。
と気合いを入れ、勢いをつけながらその場に腰を降ろした。
ふーっと大きく息をひとつ吐き、
「これからどこへ行くつもりじゃな」
柔和な口調で問いかける。
「これといった当てはありません。しかし、もう一度、諸国を廻って強敵にめぐり会いたいと思っています」
「そうか」
勢源は微笑みながら頷いた。
「おそらくこれより先、多くの腕自慢と立ち合う機会があるじゃろう。しかし、大概の者は、そなたの足元にも及ぶまい」
「さあ、それはどうでしょうか」
「儂は仮にもそなたの師匠の師匠じゃ。年老いたりとはいえ、それぐらいの見極めは、まだできる目を持っておる」
「恐れ入ります」
「小次郎、そなたは腕が立つ。だが、真に強き兵法者になるためには、ただいたずらに腕が立つだけではいかぬ。時にそれよりももっと大切なことがあるのじゃ」
「腕よりも大切なこと、でございますか」
「馬鹿なことを言うと思うであろう」
「いいえ、決してそのような――」
「隠すことはない。そなたの年頃であれば、それが自然な捉えようじゃ」
勢源は慈愛に満ちた眼差しで小次郎を見詰めながら、
「腕よりも大切なこと――それがなんであるかは、今は儂の口からは申すまい。言うたとてわかるはずもないし、また、無理にわかる必要もない。兎にも角にもそういうものがあるらしいとだけ、漠然と心の片隅で思うておればよい」
と、言った。
「はあ」
小次郎は不得要領な顔をする。
「まあ、いずれわかる日が来るわい」
高らかに笑いながら、勢源は帰って行った。
彼が世を去ったのは、これから数日後のことだったという。
六
「九州へ起つことになった」
小次郎から唐突にそのことを知らされた仁左衛門は、驚愕のあまり、しばし言葉を失った。だが、すぐに我に返り、
「仕官が決まったのか」
と、身を乗り出して問いかける。
「有馬候の剣術指南役か」
「いや、それはまだだ。とりあえず千々石玄蕃さまの中間として、朱印船に乗せてもらえることになった」
「中間?」
仁左衛門が素っ頓狂な声を上げる。
「おまえ、そんなものになるために千々石なんとかいう奴に近付いたのか」
「中間といっても、あくまで形だけのことだ。急遽、朱印船に乗り込むためには、そういうことにするのが一番手っ取り早いと、千々石さまが手配してくださったのだ」
口を尖らせる小次郎に、
「その千々石という男、信用できるのか」
今度は与五郎が訊ねた。
「わからぬ。だが、切れ者であることはたしかと見た」
「いつ出立する?」
「明日の朝だ。堺から出航する」
「なんと、また急な話だな」
「善は急げというからな」
小次郎は頷くと、オインのほうへ向き直り、
「九州へ行けば、朱印船の情報もたくさん耳に入ってくるだろう。なんとしても、おまえの大切な人――サララックの居場所を突き止めて、知らせてやる。だから、おまえはこの堺で待っていろ」
いいな、と言いながら、ポンポンと肩を叩く。
「小次郎さん、一緒に連れて行って」
オインはしかし、切実な声で小次郎に頼み込んだ。
「私、この手でサララック、助けたい。一緒に九州へ連れて行ってほしい」
「馬鹿なことを言うな。しがない中間の俺に、そんな力があるわけないだろう」
小次郎は苦笑する。
「いいから、ここで待っていろ。必ず悪党の尻尾を掴んできてやるから」
「そうしよう、オイン」
仁左衛門が取り成すように言った。
「せっかく小次郎が敵の懐へ入り込んでくれたんだ。余計なことをして邪魔になっちゃ元も子もない。ここは小次郎に任せよう」
「それがいい。頼んだぞ、小次郎」
与五郎も口を添える。
「おう、任せておけ」
力強く拳を握り締めながら、小次郎は言った。
「必ずいい知らせを届けてやる」
「しかし、小次郎」
しみじみと慨嘆するような口振りで言ったのは、与五郎である。
「本当によかったな。向こうへ着けば、もちろん正式な仕官の話ができるのだろう」
「ああ、千々石さまからはそのように言われている。むろん用意するお役目は剣術指南役だともな」
「そうか。俺はおぬしほどの腕があれば、いつか必ずその時が来ると信じていたが……、いざ本当にその夢が叶うとなると、やはり格別の喜びだな」
「ありがとう、与五郎」
小次郎もまた感激を露わにしながら、
「俺たち切支丹にとって、有馬晴信公は心から敬うべきお方だ。そのお方にお仕えできるかもしれぬと思うと、今から胸が高鳴る思いだ。晴信公には未だお目にかかったことはないが、きっと素晴らしいお方であるに違いない。俺が生涯を捧げるに足るあるじだ」
そう言って、莞爾と微笑んだ。
そのさまを見て、仁左衛門は心の底から、
――羨ましい。
と、思った。
仕官することが、ではない。いや、もちろんそれもあるのだが、それ以上に、彼がおのれの生き甲斐を見出せていることが羨ましくて仕方なかった。
「まあ、せっかくの話が流れてしまわぬよう、せいぜいうまくやってくるよ」
少し照れくさそうに笑う小次郎の姿が、仁左衛門には眩しく映った。
そこへいくと、与五郎はさすがに大名の息子だけあって、屈託がない。
「ああ、おぬしならば、きっと気に入られよう」
餞別の言葉を送る表情は、小次郎と同じか、あるいはそれ以上に晴れやかであった。
「仕官が決まったら遊びに行くよ。何しろ九州へも久しく足を運んでいないからな」
「歓迎するとも。どのみち、親父殿の元へ立ち寄る気もないのだろうしな。思う存分、逗留していってくれ」
「そうさせてもらおう。今さら父の前へ顔を見せたところで、追い帰されるだけだろうしな。それに、弟にも迷惑がかかる。あそこはもう俺の帰る場所じゃない。父上と、その後を継ぐ弟の国なんだ」
「そうか」
頷く小次郎は、多くを語らない。友の過去は、聞くまでもなくよく知っているのだ。この上、触れるべき話題ではないとわかっている。
「仁左衛門、おぬしもどこかよい務め口が見つかるとよいな」
殊更に仁左衛門に話を振ってきたのは、そのせいでもあったのだろう。
些か迷惑な展開に苦笑しながらも、
「ああ、そうだな」
とりあえずは頷いておく。
「だが、その前にサララックだ。オインの大切な人を一日も早く救い出し、シャムへ送り返す。俺の身の振り方は、それが済んでから考えるさ」
「ありがとう、仁左衛門さん。コープン・クラップ、コープン・クラップ」
「なあに、気にするな、オイン。マイペンライ、マイペンライさ」
快活な笑い声が響き渡る。
声を立てる仁左衛門の表情はしかし、どこか複雑であった。
一
小次郎は、京へ戻っていた。
ある男と、彼は落ち合う約束をしている。
その待ち合わせ場所へ向かっているのだった。
刻限までは、まだかなり余裕がある。だが、
――遅れるよりはいい。
そう思って、あえて寄り道はしないことにした。
このあたりは性分というしかないが、彼は約束や待ち合わせに遅れることを潔しとしなかった。相手に待たされるのは仕方ないが、相手を待たせるのは、おのれの矜持が許さない。
目的地へ着いてみると、はたして相手はまだ来ていないようであった。
――さすがに少し早かったか。
刻限まで、まだ一刻(約二時間)近くもある。
――しばらく休むとしよう。
小次郎は傍らにあった大きな松の木のほうへゆっくりと歩いて行く。
一乗寺下り松。
かつて小次郎が寄宿していた名門吉岡道場が、一介の武芸者によって、破滅の淵へ追いやられた因縁の地である。
忘れもしない、あの男――たしか名は、新免武蔵といった。
当時、吉岡家の当主清十郎の子又七郎が、十歳にも満たぬ少年であったにも関わらず一門の総大将に祭り上げられ、武蔵の手で惨殺された、その場所こそ今、小次郎の目の前に屹立している巨大な松の根元だった。
――かわいらしい利発な子だった。あんないたいけな少年の命まで奪うことが兵法者のなすべきことだろうか。
俺にはとてもできぬ、と小次郎は思う。
それでいいとみずからに言い聞かせる一方では、一度だけ顔を合わせたことのある新免武蔵という男の、どこか狂気を孕んだ目つきを、些か恐怖にも似た感覚とともに思い出していた。
あの目と対峙した時、はたして自分は平静を保って戦うことができるだろうか。
――清十郎さんも伝七郎さんも、ひとかどの遣い手だった。それが、ふたりとも手もなく捻られたのだ。今の俺が、もしあの男と立ち合うことになったら、とても勝ち目はないのではないか。
そんなことを考えているうちに、うとうとと眠気に襲われ始めた。
松の木に腰掛けて、静かに目を閉じる。
すぐに彼は眠りの世界へ誘われた。
どれぐらいの時が経っただろうか――。
ぼんやり目を開けると、ひとりの男がゆらりとそこに立っていた。まさしく、
――ゆらり
という表現がぴったりの、飄然とした佇まいである。
そのくせ総身に一点の隙もない。下手に斬りかかったりすれば、たちどころに返り討ちに遭ってしまうだろう。そのことは、小次郎のように剣の修行を積み、高い境地に到達している者ほどよくわかるのだった。
「久しぶりだな、小次郎」
「ああ、間さん。いつからそこに?」
「四半刻ほど前かな」
「さすが間さんだ。まったく気づかなかった」
「いい寝顔だったよ。俺にそのけがあったら、武者ぶりつきたくなっただろうな」
「笑えない冗談はやめてください」
「怒った顔もまた妖艶だ」
「間さん」
「すまん、すまん。久しぶりに会えた嬉しさで、ちょっとからかってみたくなっただけだ」
「ご無沙汰しております」
「ああ、一別以来だな」
間と呼ばれた男は松の大木をしげしげと見詰めながら、
「吉岡道場は閉鎖したよ」
ぽつりと呟くように言った。
「ここで武蔵に敗れた直後に、半数以上の弟子が出て行った。伝七郎さんも又七郎坊も死に、ただひとり生き残った清十郎さんも二度と剣を振るえぬ体になった。これでは道場など、とうてい立ち行かぬさ」
「そうですか」
残念なことですね、と小次郎は応じる。
吉岡家は、かつて室町将軍の剣術指南役を務めたほどの名門である。最盛期には門弟数百名とまでいわれた一大勢力が、たったひとりの道場破りに敗れたことがきっかけで、閉鎖に追い込まれてしまう。剣に生きる道の厳しさ、険しさを改めて思い知らされたような気がした。
「で、今日はどうしたのだ。わざわざこんなところへ呼び出して」
隣に腰を降ろして、屈託のない笑顔で訊ねる。
間新次郎――小次郎とともに吉岡道場に寄宿していた剣客である。小次郎よりはひと回りほども年上だが、少しも偉ぶったところがなく、小次郎を実の弟のように可愛がってくれていた。
「間さんは、九州のご出身でしたよね」
「ああ、そうだよ」
「たしか肥前日野江」
「いかにも、有馬公のご領地だ」
間は飄々とした口振りで、
「そうか、おぬしはキリシタンだったな。であれば、わが殿には格別の思い入れがあろう」
と、言った。
小次郎は無言のまま小さく頷く。
有馬公――有馬修理大夫晴信は、元亀・天正の争乱期を生き延びた古強者だが、同時に敬虔なキリシタン大名としても知られていた。彼はかつて協調関係にあった大友宗麟、大村純忠ら有力諸侯と相語らい、四名の優秀な少年たちを選抜して、宣教師ヴァリニャーノの引率のもと、スペインやポルトガルへ派遣したことがある。後に、
――天正遣欧少年使節
と呼ばれることとなるこの使節団に、晴信は従兄弟に当たる千々石紀員(洗礼名のミゲルで知られる)を加わらせていた。
既に大友、大村の両家は断絶してしまっている。唯一生き残った晴信は、今や全国のキリシタンにとって憧れの的であり、希望の星であった。
「それがどうかしたのか」
「有馬家は今、朱印船貿易を積極的に推し進めていますね」
「ああ」
「どなたか、そのあたりの事情に詳しい方を紹介していただけませんか」
「別にかまわないが……、どうしたのだ、藪から棒に。まさか剣の道を捨てて船乗りに転身しようというのではあるまいな」
「違いますよ。そんな才覚は俺にはありません」
「ならば、よかった。何しろ俺は、おまえはいつか必ず日本一の兵法者になると確信しているのだからな」
「ありがとうございます」
「周りの友人たちにもずいぶん吹聴してしまった。もしおまえが剣を捨てるなどと言い出したら、俺はそいつらみんなに謝ってまわらなければいけなくなる」
「悪いけれど、そんなことまで俺は責任を持てませんよ」
「いいんだ、いいんだ。おまえはただ剣の道に邁進していてくれればいい。そうしてくれれば、俺が言ったことはいずれ真実になる」
新次郎は軽い調子で言った。
「間さんもつづけているのでしょう」
「一応な。しかし、まあ微妙なところだ」
「微妙なところ?」
「おまえと違って、俺には天稟がない。このままつづけていたところで、これ以上の上達は望めないような気がするのだ」
小次郎は、あえて否定しない。
天下の吉岡道場に寄宿していたぐらいだから、新次郎もひとかどの遣い手ではある。しかし、その剣は性格同様、あまりにも淡々とし過ぎていて、勝利への執着というものが希薄に感じられた。道場では通用しても、いざ戦いの場へ出て真剣で命のやり取りをする段になると、その淡白さが致命的な弱点になるのではないかと小次郎は睨んでいた。
頭のいい新次郎は、自分でもその欠点に気がついていたらしい。
「最近、道場を開いたのだ。吉岡道場の門弟だった奴等にも手伝ってもらって、今はもっぱら近所の子どもたちを中心に剣術を教えている」
「なるほど、新次郎さんらしいな」
小次郎は笑った。
新次郎は昔から子ども好きだった。吉岡道場にいる時も、当主清十郎のひとり息子又七郎をずいぶんかわいがっていたものだ。その又七郎が新免武蔵に無惨に斬り殺されたことも、新次郎に虚しさを覚えさせ、求道の生きかたからの転身を図らせたのかもしれなかった。
「まあ、あまり立ち入ったことは聞くまい。おまえにはおまえの事情があるだろうしな」
新次郎はひとりごちると、懐から紙と筆を取り出して、何やらさらさらと書き始めた。
「ほれ」
と、差し出されたその紙には、
――この者は佐々木小次郎といって、私にとっては弟のような存在である。何か聞きたいことがあるようだから、そちらへ行かせることにした。手間をかけて申し訳ないが、いろいろ教えてやって欲しい。
そう記されていた。
「紹介状だ」
新次郎が微笑みながら言う。
「これを持って、日野江藩の千々石玄蕃殿を訪ねるといい。俺がまだ禄を食んでいた頃、ずいぶんと世話になったお人だ」
「千々石玄蕃殿、ですね」
「千々石姓といえば有馬家中では名門の家柄だが、玄蕃殿は飾らぬお人柄ゆえ、俺の紹介と聞けば必ずや親切にしてくだされよう」
「かたじけない。感謝します」
「おまえほどの腕があれば、そのまま有馬家に剣術指南役として仕官することも夢ではあるまい。なんならそれも、ひとこと書き添えておいてやろうか」
「本当ですか」
小次郎の顔がパッと明るくなった。
「有馬公といえば元亀・天正以来の家柄。しかも晴信公はキリシタン大名として有名なお方です。もし仕官できるのならば、これほど嬉しいことはありません」
「そうか。ただし、有馬家はそれほど大きな身代があるわけではない。仕官が叶ったとしても、禄高はそれほど期待できないぞ」
「かまいません。元より天涯孤独の身です。俺ひとり生きて行ける食い扶持さえいただければ、それで十分です」
「そうか、ならば改めて紹介状を書いてやろう」
新次郎は屈託なく笑いながら、ふたたび懐から紙と筆を取り出した。
そして、またさらさらと筆を軽やかに走らせる。
いかにも人の好さそうなその横顔を、小次郎は嬉しそうに見詰めていた。
二
新次郎と別れた小次郎は、夢見心地で自宅へ帰った。
五軒並びの襤褸長屋の一角である。
残る四軒にも小次郎と同じような独り者の浪人たちが住んでいる。ろくな金にもならぬ日雇い労働に精を出す者、傘張りの内職で細々と生計を立てている者……。
身の振りかたはさまざまだが、いずれも決して裕福な暮らしをしているわけではない。むしろ、その日の暮らしを満足に終えるのがやっとという生活だった。
みな淀んだ表情をして、疲れの色が濃い。
そんな中にあって、小次郎は明るさを失っていなかった。
物心ついた頃からずっと剣の稽古に明け暮れてきた。他にこれといった趣味も持たず、楽しみもなかったが、それだけ剣の修行には一心不乱に打ち込んだ。天稟に恵まれたこともあって、やがてこの道であれば誰にも負けぬという自信を持つことができた。
――いつか必ず剣で身を立ててみせる。
その一念が、彼の心に張りを持たせていたのだ。
だが、このところ少しずつその気持ちが揺らぎ始めていた。
関ヶ原の合戦が終わり、家康が江戸に幕府を開いてから、はや五年。未だ大坂に豊臣家は健在とはいえ、その勢力は摂河泉六十万石に抑えられ、もはや昔日の面影はない。徳川幕府による幕藩体制は急速に整備され、戦国乱世は一気に過去のものへと押し流されようとしていた。武士といえども内治に関する知識や算段の技術などを持ち合わせていなければ、これからの世の中では重用されぬと知った浪人たちは先を争うようにして学問に精を出し始めた。小次郎のように剣の腕だけを頼りに身を立てようとしている者には、仕官の口などそうたやすくは見つかりそうになかった。
――このまま陋巷で朽ち果てて行くのか。
焦燥と諦観がない交ぜになったようなもやもやした気持ちを胸の奥底で燻らせながら、小次郎は日々を過ごしてきた。
もし新次郎の紹介状がうまく功を奏して有馬家への仕官が実現したら――。
ようやくこれまで厳しい修行に耐えてきた労苦が報われるかもしれない。
湧き立つような気持ちを抑えながら、小次郎は奥の戸棚を開けた。
中から取り出したのは、掌におさまるほどの小さな十字架だった。
それを恭しく胸元に押し当てて、小次郎は目を閉じる。
そして、かすかに口を動かしながら何事かを呟く。
祈りを捧げているのだ。切支丹の祈りを――。
彼がキリスト教の教えに触れたのは、かつて恋仲だった女性を通じてのことだった。
彼女の名は、結布といった。
結布と知り合ったのは、小次郎がまだ越前にいた頃のことである。近在の百姓の娘だった結布は、縁あって富田道場の手伝いによく顔を見せていた。炊事・洗濯から庭木の手入れまで気立てよくなんでもこなす結布は、道場に通うむくつけき男たちに癒しと安らぎを与える存在だった。
そんな結布と、小次郎は恋に落ちた。
どちらが先に惚れ込んだのかは、よくわからない。とにかく気付いた時には、燃えるような熱い恋心が互いの胸を支配し、ごく自然な流れの中でふたりを結び付けていた。
やがてふたりは暮らしをともにし始めた。
一介の武者修行の身に過ぎない小次郎と、百姓の娘――若く夢見がちなふたりの、ともすればどこかままごとのような同棲生活ではあったが、当の本人たちは幸せそのものだった。
しかし、そんな満たされた日々の終わりは、あまりにも突然に訪れた。
結布が病に倒れたのだ。
医師に診せたところ、死病であるという。
――だいぶ進んでおるゆえ、おそらくそう長くはもつまい。
残酷すぎる宣告に、小次郎の頭は真っ白になった。
医師が帰った後、結布とどんなことを話したのか、ほとんど覚えていないほどだった。
医師の診立てどおり、結布の病状は悪化の一途を辿った。ふた月ほどで床から起き上がれなくなり、ふっくらとしていた頬は見る影もなくやつれていった。
小次郎は、わずかな手持ちから薬を買って来ては、結布に飲ませた。どんなに不味い薬でも結布は厭な顔ひとつせず飲み、
――私が早くよくならないと、小次郎さんが剣の修行に集中できないものね。
そう言って笑ったが、その笑顔も声の張りも日に日に弱くなっていく。
――剣の修行に身が入らぬのもたしかだが、このままでは金が尽きてしまう。そうなってしまっては、薬を買い与えることすらできない。
困り果てた小次郎のもとへ、
――いい儲け話がある。
と、持ち掛けてきた男がいた。日頃、小次郎とはほとんど会話すら交わしたことがなく、たまに道場ですれ違えば会釈をする程度の間柄である。それほど熱心に稽古をしているわけでもなく、悪所通いに明け暮れて身を持ち崩しているという噂だった。その男が突然、小次郎の傍へすり寄ってきて、
――たった一日で夢のような大金が稼げる仕事なんだ。乗らないか?
そう囁いたのだった。
不審に感じながらも、あるいは渡りに舟かもしれぬと思い、とりあえず話を聞いてみると、どうやら用心棒の口を持ち掛けてきたものらしい。
もとより剣の腕には自信がある。用心棒ならばやってやれぬことはなかろうとさらに詳しく話を聞いてみると、どうやらその用心棒を必要としている雇い主というのが、阿漕なことで名高い商人らしかった。はっきりとは言わないのだが、男の言葉を総合すると、どうやらその商人は近々、ご禁制の取引を極秘裏に行うらしい。商人は目当ての品を受け取った後、口封じのために取引相手を始末してしまう算段を立てており、その任務を遂行できる腕利きを探しているというのが事の真相のようであった。
――断る。
すべてを察した小次郎は、即座にこの申し出をはねつけた。
――俺の剣は、そのような卑怯者のために使うものではない。
男は鼻白んだ様子だったが、それ以上は何も言わなかった。小次郎の腕は知っている。下手なことを言って怒らせては元も子もないと思ったのだろう。
それから三日後に、結布の容体が急変した。
高熱を発し、朦朧とする意識の中で、彼女は懐中から見慣れぬ小さなものを取り出し、弱くなった握力で懸命に握り締めながら、繰り返し何事か呪文のような言葉を唱えつづけた。
「なんだ、これは」
小次郎の問いかけに、結布はほとんど聴き取れぬぐらいの声で、
「クルス……」
と、応える。
「クルス?」
「イエスさまの……教え、信じていれば……、死ぬのは、怖くない……。ハライソへ……行くことが……できるから」
「はらいそ? なんだ、それは」
「ハライソ……死後の、楽園」
「死後の楽園? 浄土のようなものか」
結布はそれには応えず、ただかすかに微笑みながら、手にしていた「クルス」をゆっくりと小次郎のほうへ差し出した。
小次郎はその端をしっかりと握り締める。
「ありがとう」
それが結布の最期の言葉になった。
「結布、しっかりしろ、結布!」
小次郎の懸命の呼び掛けにも、彼女の目がふたたび開くことはなかった。
結布を失った小次郎は、抜け殻になった。
事実、そうとしか言いようがないほどに、彼は虚ろになった。
日中から何もせず部屋の中で寝そべっているだけで、道場からもいつしかすっかり足が遠のいてしまった。
ろくに食事を摂ろうともせず、ふとしたはずみに暗がりのなかでひとりはらはらと涙を流す。そんな日々が何ヶ月もの間、つづいた。
しばらくすると、さすがに何日かに一度ずつぐらいは外出もするようになった。
かつてならば、とりあえず道場へ行ってひと汗流すところだったが、しばらく顔を見せなかっただけになんとなく気まずさがあり、ただこれといった当てもなく街中を彷徨い歩くだけだった。
そんな、ある日。
小次郎は道端に十数名の人だかりができているのに遭遇した。
――何事だろう。
ふらふらと近付いてみると、輪の真ん中で異相の男が何やら熱弁を振るっている。
――南蛮人か。
このところ町の至るところで姿を見るようになった。聞けば商人として諸大名に武器などを売り付ける者もいれば、イエスなる男が始めたキリスト教という宗教を広めるためにやって来た「伴天連」と呼ばれる僧侶のような者たちもいるという。見たところ、この南蛮人は「伴天連」のほうだろう。
片言の日本語で、大きな身振り手振りを交えながら、聴衆らに何事かを訴えかけようと必死に話す、その男――小次郎の目に止まったのは、彼が手に握り締めている小さな銀色のものだった。
「それは、なんだ」
人波をかき分けて伴天連の前まで進み出た小次郎は、訊ねる。
「クルス――ではないのか」
「おお」
伴天連は驚いた顔をして、
「そう、クルス。貴方、イエスの教え、知っている」
「いや、そういうわけではないのだが……」
困惑する小次郎に向かって、伴天連は嬉々として教えを説き始める。
行きがかり上、はじめは仕方なしにその話を聞いていた小次郎だったが、気付けばすっかりその虜になっていた。
――なんという素晴らしい教えだろう。
胸の奥底から熱いものが込み上げてきて、文字どおり小次郎の「魂」を激しく揺さぶった。
いつしかその双眸からは滂沱の涙が零れ落ちていた。
――主イエスの御魂のもとでは、人はみな平等である。
と、伴天連は言う。
結布は百姓の娘だった。
対する小次郎は、曲がりなりにも武士である。
普通ならば、結ばれる見込みのない間柄だった。
小次郎はそんなことを気にしたことはなかったが、やはり結布のほうは、心のどこかに引っ掛かりがあったのかもしれない。今、伴天連からイエスの教えを聞いていると、切支丹の教えにすがった結布の気持ちが無性に切なく、いじましいものに思われた。
――結布。
今は亡きその面影に、小次郎は誓いを立てた。
――いつまでも塞ぎ込んでいたところで、結布はもう戻ってこない。パライソへ召された結布が安心できるよう、俺がもっとしっかりしなければ……。
彼は陋屋へ帰ると、結布が大事にしていたクルスをそっとおのれの懐へ仕舞い込んだ。そして、この先たとえ何があろうとも、決してこれを肌身から離すまいと心に決めた。
これを境に小次郎はおのれを取り戻した。
これまで以上に激しく稽古に打ち込み、みるみる腕を上げていった。
こうして悲しみを乗り越えた小次郎は、深い信仰の力にも助けられながら、無双の剣を手にするに至ったのである。
三
「おい、よく見てみろよ」
ふたたび、場面は堺。
豪商丹波屋に隣接した小料理屋の二階席だ。
窓から顔を出しているのは、仁左衛門とオインである。
「いろんな奴が出入りしていやがる。あの中に、おまえの見知った顔はあるか」
身を乗り出すようにして、オインは玄関先を見遣る。
「どうだ」
「わからない。日本人、みんな同じ顔」
「そんなことはないだろう。たとえば俺と、ほら、あそこにいるひょっとこみたいな顔の親父とでは、ぜんぜん違うじゃないか」
「……よくわからない」
「なんでだよ。俺はあんなに不細工じゃないぜ」
仁左衛門は苛立ったが、オインは心底から困ったような顔をしている。どうやら見分けがつかないというのは本当のことらしい。
「弱ったな」
仁左衛門は溜息を吐いた。
さすがは名うての豪商だけあって、実に多くの人間が出入りしている。今のオインに、この中から見知った日本人を探せというのはたしかに酷な話かもしれない。
「まあ、もう少しだけ頑張ってみようか」
そう言って、ふと傍らに目を遣ると、さっきまでそこにいたはずのオインの姿がなくなっている。
「どこへ行くんだ、オイン」
ふらふらと夢遊病者のような歩みで階段のほうへ向かっているオインの背中に向かって、仁左衛門は声をかけた。
「諦めるのは、まだ早いぜ」
オインは振り返らない。覚束ない足取りで歩きつづけている。
「おい」
怒りを含んだ表情で、仁左衛門は立ち上がってオインの肩を掴んだ。
「待てったら」
「放して」
思いのほか強い口調で、オインが言い返す。
「日本人の顔、よくわからない。でも、あの中にサララック、必ずいる」
「サララック? ああ、おまえの想い人の名だったな」
「サララック、あの屋敷の中、閉じ込められている。私、助けに行く」
「助けに行くって、どうやって――」
仁左衛門の言葉をみなまで聞かず、オインは肩にかかった手を払い除けた。
「私、サララック、助けに行く!」
叫ぶや否や、脱兎の如く駆け出すオイン。
猛然と階段を駆け降りる。
そして、そのまま店の外へ――。
「おい、待て。無茶な真似はやめろ」
仁左衛門は慌ててその後を追った。
オインは一目散に丹波屋の屋敷内へ駆け込もうとする。
「お、なんだ、おまえは」
突然の闖入者に周章狼狽する門番を体当たりで吹き飛ばして、オインは門の中へ突入して行った。
――くそっ、あいつ、やりやがった。これじゃあ、殺されたって文句は言えないじゃないか。
チッと舌打ちをして、仁左衛門も倒れている門番の横を走り抜ける。
門を潜れば、そこはもう広大な庭だ。
その奥に屋敷がある。丹波屋の主は、そこに住んでいるのだろう。
「サララック!」
オインが喚いた。
「サララック! 私だ! オインだ!」
何事かと、屋敷の中から男たちが出て来た。
みな揃いも揃って、ごつい体つきをしている。人相の悪さからすると、用心棒として雇い入れられたごろつき連中だろう。
「助けに来た! どこだ、サララック!」
「おい、なんだ、てめえは」
男のひとりが庭へ降りて来た。左頬に大きな刀傷がある。それがいっそうこの男の人相を凶悪なものに変えていた。
「痛めつけられたくなければ、さっさと帰りやがれ」
「サララックはどこだ!」
「さら……、なんだ、それは」
「サララックだ!」
「そんな奴は知らん」
「おい」
ふたりがやり合っているところへ、もうひとり別の男がにやつきながら歩み寄って来た。痩せ型の優男だが、目つきはやはり凶暴だ。
「こいつ、日本人じゃないだろう」
「なに」
刀傷の男は身を屈めるようにしてオインの顔を覗き込み、
「本当だ。こいつはシャム人か何かだな」
と、せせら笑うように言った。
「そうか、こいつ、あの女のことを言っているのだな」
「女! やはりサララック、ここにいるのか!」
オインが激昂して男に掴みかかろうとする。
傍らから優男の手が伸びてきて、オインの腕を掴んだ。
「放せ」
「おまえ、あの女のなんだ」
「あの人……、サララック、俺の愛しい人だ!」
「ほう」
優男が舌なめずりをする。
「なかなかいい女ではないか。ちょっと肌が黒いのが気にかかるが、あれだけの美形ならば、それはそれでひとつの味だからな」
下卑た笑いを口辺に浮かべながら、優男は愚弄するような口振りで、
「依頼主もさぞ喜ぶことだろうよ」
「依頼主?」
オインの声が上ずる。
「依頼、許さない! サララック、連れて帰る!」
「それは駄目だ。あいにく俺たちは、もう金をもらってしまっている」
「金? サララック、どこへ売るつもりだ!」
「さあて、それは言えないな」
優男がオインの腕を掴んでいた手を放した。
よろめきながら、オインは優男をきっと睨みつける。
「おお、怖」
どこまでも揶揄するような声音で、優男は笑った。
「あの女を連れて帰りたいのならば、無駄だ。もうここにはいないのだからな。わかったら諦めて、さっさと失せろ」
代わって凄味を利かせたのは、刀傷の男である。
「嘘だ!」
オインは一歩も引かない。
「サララック、ここにいる。私、必ず連れて帰る」
「こいつ、さっさと消えなければ、本当に痛い目に遭うことになるぞ」
「おい、ちょっと待て」
ここまでずっと黙っていた仁左衛門だが、たまらなくなって前へ進み出た。
「なんだ、おまえは」
「突然、屋敷の中へ入り込んで来た無礼については謝る。だが、この男は想い人を探すために、はるばるシャムから危険を顧みずこの国へやって来たんだ。どうやらその想い人がこの屋敷の中にいるらしいと聞いて、居ても立ってもいられなくなってな。ちょっと無茶をやらかしてしまったというわけだ。悪気はない。どうか、許してやってくれないか」
「おまえは誰だ」
「俺か。俺は山田仁左衛門といって、まあ、こいつの友人だ」
「友人? シャム人のか?」
「友人に日本人もシャム人もないだろう。そんなことより、俺からも頼むよ。こいつの想い人に対する気持ちは本物なんだ。もし本当に、その女がここにいないと言い張るのならば、屋敷の中を改めさせてやってくれないか」
「なに」
刀傷の男が胴間声でがなり立てる。
「てめえ、何をふざけたこと言ってやがる」
「いいじゃないか、少しぐらい。どのみち、ここにはいないんだろう。自分の目でたしかめて、そうとわかれば、こいつだって諦めがつくさ」
「黙れ、若僧。いいから、そいつを連れてさっさと帰りやがれ」
「まあ、そうつれないことを言うなよ。ちょっと見るだけだからさ」
仁左衛門も引かない。
口調は穏やかだが、その目は笑っていなかった。
真っ直ぐに対手の男を見据える双眸には、傍で見ていても思わず背筋を伸ばしてしまうほどの鋭さが秘められている。
だが、敵もさるもの。譲る様子はない。
「あっ」
不意にオインが、なんとも素っ頓狂な叫び声を上げた。
「なんだ、どうした」
「サララック!」
「なんだって」
仁左衛門が制する間もなかった。
「サララック!」
オインは血相を変え、屋敷の中に向かって一目散に駆けて行く。
その視線の先で、かすかに何かが動いた。
柱の後ろにさっと隠れたのは、たしかに女人の影であった。
――あれがサララックか。
と、仁左衛門が思った瞬間である。
濡れ縁を駆け上がろうとしたオインが一転、地面に叩きつけられた。
「ぐうっ」
苦しげな声を上げて、腹部を手で押さえる。
「オイン!」
仁左衛門はすぐさま駆け寄り、オインの体を抱き起こした。
意識は朦朧として、口から泡を吹いている。どうやら木刀でしたたかに腹部を突かれたらしい。
「なんてことしやがる」
呻く仁左衛門を、黒い影が覆った。
ゆっくりと視線を上げる。
目の前に、ひとりの男が立っていた。
背丈は人並みだが、がっしりした体躯である。渋柿色の着物から覗く二の腕の筋肉は、ちょっと恐ろしいほどに発達している。
肌は浅黒い。
「く、くそっ……」
ようやく我に返ったオイン。
「サララックを、返せ……」
あれほどの痛手を被ったにもかかわらず、凄まじい執念だ。
「この先へは入れぬ」
男はしかし、低い声で冷酷に告げた。
「早々に立ち去れ」
「サララック!」
よろめきながら起き上がり、体当たりしようとするオインを、男はさらりとかわしてみせる。
次の瞬間――。
「ぐうっ」
ふたたび倒れ込み、悶絶するオイン。
男の木刀で、今度はしたたかに肩を打たれたのだ。
迅い。
目にも止まらぬ早業とは、まさにこのことだった。
男は横たわっているオインの体を片手で軽々と持ち上げると、勢いよく投げ捨てた。
襤褸雑巾のように転がったオインは、ぴくりとも動かない。どうやら失神したようだ。
「オイン!」
仁左衛門は叫び、男を睨みつける。
「何をしやがる」
男は顔色ひとつ変えない。何事もなかったような感情のこもらぬ目で、仁左衛門を見下ろしている。
「くそっ」
仁左衛門の胸に、沸々と怒りが湧き起こってきた。
――こいつ、馬鹿にしやがって。
徒手空拳のまま、対手に飛びかかって行く。
懐に入り、襟首を掴んだ。
――よし!
一気に足を払い、投げ飛ばそうとする。
が、しかし――。
男の足におのれの足を引っ掛けた瞬間、凄まじい力で地面に引き倒された。
「うっ」
背中を強打して、思わず気が遠のきそうになる。
「く、くそ……」
上体を起こそうとしたところで、第二撃が来た。
男の木刀が唸りを上げて仁左衛門の頭を襲ったのだ。
「うおっ」
体を横に回転させ、ぎりぎりのところで、なんとかこれをかわす。
――殺す気か。
仁左衛門の心を強烈な恐怖が捉えた。
男の目は相変わらず乾いていて、その奥にある感情を読み取ることができない。だが、今の攻撃の鋭さ、激しさは、どう考えても、
――ちょっと痛めつけてやろう。
という程度のものではなかった。間違いなく脳天を打ち割るつもりだった。
「わかった」
仁左衛門は手を上げた。
こんなところで殺されては元も子もない。ここは降参して、出直すのが得策だ。
「今日のところは帰るよ」
腰を押さえて、ふらふらと立ち上がる。
「悪いことは言わぬ。二度とこの屋敷へは近づかぬことだ」
男の声は穏やかだが、有無を言わさぬ強さがあった。
「もしふたたび狼藉に及べば、その時は迷わずおまえたちを叩き殺す」
気を失ったままのオインを肩に担いで、仁左衛門は足を引き摺りながら丹波屋の屋敷を後にする。
背中越しに、男たちの会話が聞こえてきた。
「先生、このままあいつらを逃がすおつもりですかい」
「いけないかね」
「丹波屋の主人が帰って来たら、怒られやしませんか」
「我等に課せられた役割は、闖入者を追い払うことのみ。それを果たしたのだから、これ以上、痛めつける必要もあるまい」
「しかし……」
「俺のやりかたに不服か」
「いや、そういうわけでは……」
「俺はあの者たちに警告した。二度目はないと。あの者たちが愚かでなければ、ふたたびこの屋敷の門を潜ろうとはしないはずだ。それでもなお異存があるというのならば――」
「ま、待ってください。宮本先生がそうおっしゃるのならば、あっしらに異議なんてあろうはずがないんでさ。へへへ。いやはや、それにしても、あいつら命拾いいたしましたなあ」
追従笑いを浮かべながら男たちが逃げるように立ち去って行く。
その後ろ姿に、宮本と呼ばれた男は乾いた眼差しを注いでいた。
四
逃げ込むようにして小次郎の陋屋へやって来た仁左衛門は、押し入れから見つけ出した膏薬を、未だ痛みの癒えぬオインの腰に塗りたくりながら、
「たしかか、オイン。たしかにサララックはあの屋敷の中にいたんだな」
額がつくほどの距離まで顔を近づけて、何度もそう訊ねた。
「間違いない。あれ、絶対、サララック。私、サララック見間違えるはずない」
「そうか」
「い、痛い! その薬、しみる。少し塗り過ぎ、ないか」
「ガタガタ言うな。薬ってのは、これぐらいじゃないと効かないものなんだよ」
小次郎は笑ってオインの頭をはたく。
「つまり、その丹波屋という商人が南蛮人と手を組んで人身売買を行っているというわけか」
「ああ、そうだ。間違いない」
仁左衛門が大きく頷く。
「丹波屋は日本国内だけでなく、シャムにまでその商いの手を広げている。シャムでは貴族たちの権力争いがつづいているから、奴等は巧みにそこに付け込んでいき、政争に敗れた貴族の家族や使用人たちを売り物にしているんだ」
「オインもその中に加えられようとしていた」
「そう、そして、みずから身代わりになることでそれを防いだのがサララックというわけさ」
「ああ、サララック……。こんな私たちなんかのために……」
膏薬を塗り終えたオインが、さめざめと泣き出した。
「今すぐにでも、私、代わりにつかまりたい。サララック、解放してあげられるのなら、私、辛い奴隷になってもかまわない」
「よせよ、オイン。それじゃあ、サララックの思いをまったく無にすることになってしまうじゃないか」
「でも……、でも……」
「仁左衛門の言うとおりだ。今は余計なことを考えず、どうすればサララックを丹波屋から救い出せるか、その一事のみを考えるべきだ」
強い口調で、小次郎が断じる。
「おまえたちも知ってのとおり、俺は切支丹だ。当然、南蛮の伴天連たちともいろいろな話をする。彼等はみな一部の南蛮商人たちがこの国で行っている悪事の数々を憂い、本国に対してもその振舞いをやめさせるよう訴えつづけてきた。彼等の本国であるポルトガルやイスパニアの政府は、口ではわかったと言い、なんとかしようと言って寄越すものの、実際のところは何ひとつ有効な手を打とうとしなかった」
「なぜだ」
「結局のところ、そうした南蛮商人たちは裏では本国の政府ともつながっているからさ」
「なんだって」
「奴等は政府の有力者に抜け目なく献金を行い、自分たちの悪事に目を瞑るよう働仕掛けている。だから、政府が本腰を入れて奴等を取り締まろうとすることはない」
「まったく……金と権力のある奴等が考えることってのは、どこでも同じなんだな」
仁左衛門が嘆息する。
「切支丹のおぬしには悪いが、いっそ南蛮人なんて、この国からいなくなってもらったほうがいいんじゃねえのか」
「たしかに、そういう考えを持つ人間も少なくはないだろう。現に亡き太閤秀吉は伴天連追放令を出し、長崎で多くの切支丹の命を奪った」
「……」
「だが、考えてもみろ。同じ人間なんだ。丹波屋のような悪徳商人の存在に目をつけ、それに手を貸すことでおのれの欲望を満たそうとする者が、この国にもいないとどうして言いきれる」
「というと、丹波屋の後ろには――」
「ああ、間違いなくこの国の有力者がいる」
「それか、例の九州の大名というわけか」
「たしかなことは、まだわからない。だが、与五郎さんが追っている長岡刑部という男が、何かを知っているのは間違いない」
「ああ、じれったいな。与五郎さんの線以外にも、俺たちで手繰れる伝手はないものか」
仁左衛門は歯噛みして口惜しがったが、冷静に考えてみれば、どだい無理な話である。何しろ今は籍を離れているとはいえ、与五郎は元を正せば大藩細川家の御曹司だ。それに引き換え仁左衛門と小次郎は、いってみれば野良犬同然の身なのである。大名家に伝手などあろうはずもない。
が、しかし――。
「実はな」
小次郎はニヤリと微笑みながら言った。
「もしかしたら、なんとかなるかもしれない」
「なに、どういうことだ」
「今度、日野江藩の重役、千々石玄蕃さまにお目通りが叶うことになったのだ」
「千々石? 誰だ、それは」
「有馬晴信公にお仕えする重臣だ」
「ふうん、そんな男になぜ目通りを?」
訝しげに問う仁左衛門に、小次郎はここへ至るまでの顛末を語って聞かせた。
「なるほど、剣術指南役か。おぬしの腕なら、さもありなんだな」
ようやく合点がいった仁左衛門は、少し声を小さくして、
「で、おぬしはその千々石なんとかいう男に会いに行くのか」
「そのつもりだ。できればここで仕官を決めてしまいたい」
「まあ、それはそうだろうが……。信用できるのか、その男」
「新次郎さんは俺がもっとも尊敬する兄弟子だ。剣の腕は今となっては俺のほうが上へ行ってしまったかもしれないが、人間としては俺など足元にも及ばない」
「その人のことじゃない。千々石玄蕃って男のほうさ」
「有馬晴信公は俺たちキリシタンにとって希望の星ともいうべきお方だ。その晴信公が全幅の信頼を寄せ、上方外交の全権を委任しているのが千々石玄蕃という人物なのだ」
小次郎は語気を強めて言った。
「ひとかどの人物であることは間違いない」
「だとしても、とんだ喰わせ者かもしれないぜ」
仁左衛門が反駁する。
「なぜ、そう思うのだ」
「そりゃ、そうだろう。有馬晴信公といえば戦国生き残りの古強者だ。その晴信公が大切な上方外交をすべて任せているというのだから、一筋縄ではいかない人物であることぐらい容易に想像がつくさ」
「晴信公は人格者だ。いかがわしい人物を重職に就けたりするはずがない」
「わかるものか」
仁左衛門はにべもなく切り返す。
「そもそも、おぬしは晴信公に会ったことがあるのか」
「いいや、一度もない。あるはずがないだろう」
「ならば、なぜ晴信公が人格者だと言い切れるのだ」
「晴信公は、われら切支丹の間では伝説的なお方だ。今から二十年ほど前、この日本国から四人の少年たちが選ばれて海を渡り、遠くポルトガルへ行って国王に謁見を果たした。いわゆる天正遣欧使節というやつだ。おぬしも名前ぐらいは知っているだろう」
「いや、知らない」
「知らないのか?」
「知らないよ、そんなの。だって、俺たちが生まれる前のことだろう」
「それはまあ、そうだが……」
小次郎は苦笑して、「いいか」と説明を始める。
天正十年(一五八二)、宣教師ヴァリニャーノの勧めを受けた九州の切支丹大名たち――大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の三名によって選ばれた少年たちが、遥か遠いヨーロッパへ向かって出航した。イスパニア・ポルトガルの両国王に謁見して日本における布教活動への援助を取り付けるとともに、日本の少年たちにヨーロッパを見聞させることも目的としていた。
施設に選ばれたのは、当時、とりわけ熱心な信者だった有馬晴信が領内に開設していたセミナリオで学ぶ少年たちだった。いずれも十三、四歳と若く、将来を嘱望される優秀な少年たちである。
伊東マンショ(日向の太守伊東義祐の孫)
千々石ミゲル(有馬晴信の従兄弟)
中浦ジュリアン(肥前国中浦の領主の息子)
原マルティノ(肥前国大村の名士の息子)
彼等は一月に長崎を出航。マカオ・マラッカ・ゴアなどを経由して実に二年半もの長い航海の末にポルトガルの首都リスボンへと辿り着く。そこで数ヶ月を過ごした後、イスパニアへ移ってマドリードで国王に謁見。さらに翌年にはイタリアへ渡ってローマ教皇グレゴリウス十三世にも謁見。ベネチアやミラノなど諸都市を廻った後にふたたびリスボンへ戻り、そこから帰国の途に着いた。
優雅で理知的な振舞いと、確固たる意志の強さをヨーロッパの人々に称賛され、栄光に満ちた旅を終えた彼等を待っていたものはしかし、残酷すぎる現実だった。
折しも彼等が長崎へ帰り着いた頃、既に太閤秀吉は伴天連追放令を発し、キリスト教の布教を全面的に禁止していた。彼等がもっとも頼りにしていた切支丹大名の雄大友宗麟は既にこの世の人ではなく、大村純忠・有馬晴信はいずれも九州の小大名に過ぎず、数奇な運命を辿った少年たちを世に出すだけの力を持たなかった。
秀吉に拝謁し、楽器の演奏などを披露した少年たちは、それきり本来期待されていた活躍の場を与えられることはなかった。
秀吉の後を受けて天下人の座に着いた家康もまた、キリスト教に対して寛大ではなかった。四人の少年たちは苦境に喘ぎながらも懸命に布教活動を行った。
やがて徳川幕府が禁教の姿勢をより鮮明に打ち出すようになると、彼等はその純粋で真っ直ぐな生きざまゆえの悲劇に見舞われることとなるが、それはまだこの物語よりは少し後の話である。
「ほう」
仁左衛門は、小次郎が語る少年使節の波乱に満ちた歳月に思いを馳せ、大きな溜息を吐いた。苦難多き日々ではあったに違いないが、おそらく彼等は充実感に包まれていたことだろう。おのれの生きる意味や、おのれ自身の価値になど憂いを廻らせる暇もなく、ただひたすら真っ直ぐにおのれの進むべき道を進んできたのに相違ない。
それに引き換え、この俺は――。
そんなふうに胸の内で自虐しかけたところへ、
「しかし」
と、オインが口を開いた。
「有馬さま、そんなふうに自分の従兄弟を南蛮へ遣わすほどの人、だったら今の徳川さまの天下、快く思っていないはず」
「ああ、それもそうだな」
仁左衛門は大きく頷く。
「まして有馬晴信公といえば、九州に大友宗麟や龍造寺隆信、それに島津義久ら錚々たる武将たちが覇を競っていた時代からの生き残りだろう。きっとそれ相応の野心は胸に秘めているはずだぜ」
「乱世はもう終わったのだ。晴信公とて、それぐらいのことはわかっておられるだろう」
「いいや、終わっちゃいない。大坂に豊臣家が健在である今、徳川の天下は未だ盤石とはいえない」
なおも反論しようとする小次郎を、仁左衛門は手で制して、
「天下にふたたび大乱が起きた時に備えて力を蓄えておこうと考えるのは、大名ならば当たり前のことさ。それをしていたからといって、晴信公を悪党だと決めつけるつもりはない」
「あたりまえだ」
小次郎は憤然と口を尖らせる。
「晴信公はわれら切支丹の誇りであり、希望なのだ。これ以上の誹謗中傷は、この俺が許さぬ」
「わかったよ」
顔を強張らせる小次郎に向かって、仁左衛門は笑いかけた。
「友だからな。おぬしのことを信じよう」
「……ありがとう」
「なに、おぬしほどの腕があれば、いざ向こうで何かあったとしても、切り抜けられるだろうさ」
「何もないと言っているではないか」
小次郎の抗弁を、仁左衛門は受け流して、
「期待しているよ、小次郎」
ポンと肩を叩いた。
「その千々石なんとかいう奴から、サララックにつながる有益な情報を仕入れてきてくれ」
「私からもお願いします。小次郎さん、私、なんとしてもサララック、助けたい」
「ああ、任せておけ。必ず敵の正体を暴いてきてやるから、待っていろ」
いつもの屈託のない表情に戻って、小次郎は微笑んだ。
五
「ほう、新次郎の紹介とな」
手渡された書状を怪訝そうな面持ちで開いた千々石玄蕃は、ゆっくりとその文面に目を走らせた。
四十絡みの、やや肥り肉の男である。色は浅黒く、精悍な印象を与える。
「剣術指南役に就くことを所望とあるが、相違ないか」
「間違いありません」
「何流を遣う」
「されば、みずから編み出した流派にて、巌流と名づけております」
「がんりゅう?」
怪訝そうな顔をする玄蕃。
「聞きなれぬ流派だが……、つまり我流ということだな」
「はっ」
小次郎のこめかみが小さく震える。玄蕃の心にかすかな侮りが生まれたことを敏感に察知したのだ。
「恐れながら――」
勢い込んで身を乗り出した小次郎を、
「いや、よい」
玄蕃はしかし、笑顔で制してみせた。
「新次郎がこうして薦めてまいるのだ。腕はたしかであろう」
「恐れ入ります」
小次郎は胸を撫で下ろす思いで、平伏する。
――さすがは新次郎さんだ。ずいぶん信頼されているらしい。
「時に、佐々木とやら」
穏やかな声音のまま、玄蕃が重ねて問いかける。
「指南役に就くことのほかに、もうひとつ願いがあると記されているが、その願いとはなんだ」
「はっ、されば――」
小次郎は大きくひとつ深呼吸をして、
「朱印船に乗りとうございます」
と、語気を強めて言った。
「なに」
ジロリと小次郎のほうを見遣る眼光は、鋭い。常人ならば、この目で見据えられただけで委縮してしまうところだろう。
「朱印船とな」
だが、小次郎は真っ直ぐそれを受け止めて、
「はい」
些かも臆することなく、強い口調で応じた。
「交易がしたいのか」
「まあ、そのようなものです」
「そなたは武士であろう。なぜ交易になど興味を持ったのだ」
「恥ずかしながら、功名を望むゆえでございます」
「ほう、功名か」
「はい。去る関ヶ原の合戦によって、徳川の天下は盤石となりました。摂河泉六十万石の一大名に成り下がった豊臣家に再起する力は残されていないでしょう。万が一、再起したとしても、たちまち鎮定されてしまうのが落ちであると思われます」
「うむ、そうであろうな」
「さすれば、仕える主もなき身の上で武士として生きつづけたとて、浮かぶ瀬もないと考えておりました」
「なるほど」
「なんでも大御所家康公は朱印船貿易を推し進めることで、異国との交易をさかんにしようと考えておられるとか。現に有馬候をはじめとする西国諸大名は相次いで幕府の朱印を得て、シャムや安南などへさかんに船を送っていると聞き及びます」
「そのとおりだ」
「風聞によれば、これまでに彼の地に渡った多くの日本人たちは、日本人町と呼ばれる居住区に暮らし、時に現地の王侯貴族に傭兵として雇われることで生計を立てている元武士らも少なくないとのこと。彼等はみな貴重な戦力として重用され、生き生きとした日々を過ごしているとか。さような人生に憧れるようになったのでございます」
「異国の地で暮らすことが、そのほうの夢か」
「ただ暮らせればよいというものではありません。たとえば日本に暮らしながら交易に従事するのであっても、それが私にとって生き甲斐といえるような仕事であったならば、それでよいのです。もし私がめでたく剣術指南役としてお召し抱えいただけることとなったならば、そのようなことになるでしょう」
「なるほど。つまり、ただ剣術を教えて暮らすだけでなく、より強い生き甲斐を求めるために朱印船にも乗せて欲しいと、そう申すのだな」
「はい」
小次郎は力強く頷いた。
「ふうむ」
玄蕃は腕組みをして、考え込む。
――家中随一の知恵者
と新次郎が称賛していただけのことはあって、いかにも頭の回転は速そうだ。ただ、その賢さの質というものが、小次郎にはどうも引っ掛かった。もちろん第一印象だけですべてを決めつけるのは厳に慎むべきことだが、ひとことでいえば、この千々石玄蕃という男の持っている雰囲気は「聡明」というよりもむしろ「狡知」といったほうが近いように感じられたのである。穏やかな口調や物腰の裏に、何やら言い知れぬ不気味さを覚えてしまうのだ。
「重ねて問う。そのほう、剣の腕には自信があるのだな」
「いかにも、自負はあります」
小次郎はよどみなく言い切った。
「ふうむ」
玄蕃は、また腕組みをして、しばらく何か呻っていたが、やがてひとこと、
「よかろう」
と呟いた。
「お許しいただけますか」
前のめりになる小次郎。
「交易をすれば富が得られる。富を得れば余人の妬み嫉みを受ける。妬み嫉みを受ければ時として攻撃の対象となることもある。そうした折、腕に覚えのある者が身内にいるのは決して無駄なことではない。氏素性も定かならぬそのほうをいきなり剣術指南役――すなわち日野江藩士に取り立てるのは難しいが、さしずめ儂の中間ということでどうだ。そうすれば、儂とともに船に乗せてやることもできよう」
「ありがとうございます。肩書など中間でもなんでもかまいません」
「では、決まりだ。そのほうは本日ただ今より儂の中間である」
「承知いたしました」
「ついては明朝、この堺より肥前へ船出いたすゆえ、その供をせよ」
「明朝、でございますか」
小次郎は吃驚した。あまりにも急な話だったからである。
「どうした、何か不都合なことでもあるのか」
玄蕃がギロリと小次郎を睨みつける。
「ならば、今の話はなかったことにしてもよいぞ」
「いいえ、とんでもございません」
小次郎は慌てて首を横に振った。
「喜んでお供させていただきます」
「うむ」
玄蕃は鷹揚に頷く。
――これは、なんとも急な展開になったな。
小次郎は思ったが、この際、四の五の言ってはいられない。
玄蕃が有馬家の中で大きな力を持っているのは紛れもない事実なのだ。サララックの行方を掴むもっとも大きな手掛かりを、今ここで逃すわけにはいかなかった。
小次郎は両親の顔を知らない。
物心ついた時には、どちらもいなくなっていた。
母は産後の肥立ちが悪く、小次郎を生んで間もなくこの世を去ったという。
父のことは、よくわからない。なんでも秀吉の九州征伐に毛利軍の一兵士として従軍し、討死したと人伝に聞かされた。ただ、それだけだった。金も土地も記憶さえも息子に残さずに、父は逝ったらしかった。
行き場を失った小次郎は、しばらくは近所の寺の住職に引き取られて、そこで生活していたが、ほどなく夜逃げ同然に飛び出した。何が原因かは当の本人が語りたがらないため、よくわからない。住職の伽の相手――いわゆる衆道だ――を勤めさせられるのを嫌ったのだとか、兄弟子と殴り合いの喧嘩をして足腰が立たぬまでに痛めつけてしまい、居つづけることができなくなったのだとか、いろいろな噂が立ったが、本人はどの話に対しても肯定も否定もせず、沈黙を貫いた。
ともあれ諸国を放浪した後、越前へ流れついたところで、彼は病に倒れた。
看病してくれる者もおらず、死の淵を彷徨っていたところを、たまたま行きがかりの武芸者に助けられた。
病の峠を超え、息を吹き返した小次郎の枕元に立っていたのは、齢九十を超えると思しき老人だった。
「大丈夫かね」
しわがれてはいるが、矍鑠として張りのある声音で問いかけた老人は、
――富田勢源
と、名乗った。
「この近くで剣術の道場を開いている。よかったら、しばらくうちに来ないかね」
勢源はにこやかに笑いながら、そう言ったのだった。
小次郎は住み込みの弟子として富田道場の厄介になることとなった。
一応、弟子という名目だから、小次郎も剣の稽古をする。
はじめは何気なく稽古に参加させた勢源だったが、ほどなくその天稟に驚嘆した。
――これは、千人にひとりの逸材かもしれぬ。
そう直感した彼は、高弟のひとり鐘巻自斎に小次郎を託し、厳しく鍛えさせた。
小次郎の腕は見る間に上達し、やがて師の自斎をも凌ぐまでになった。
ほどなく小次郎はひとりの女性と恋仲になった。
結布である。
ふたりはやがて同棲を始めた。
決して裕福ではないが、幸福な日々――それはしかし、結布が病に侵され、帰らぬ人となったことで、儚く終わりを迎える。
それで自暴自棄になった――わけではないと思う。
少なくとも、彼自身がそう意識していたわけではない。
だが、最近になってようやく、
――どこかにそうした荒んだ気持ちがなかったとは言い切れない。
と、思い返すようにもなっている。
とにかく彼は、この頃から同門の弟子たちに向かって、こう公言するようになる。
――我等が稽古している富田流の小太刀は実戦向きではない。屋内のような狭い場所や深夜における斬り合いならばいざ知らず、白昼の野外において正面きって剣を交えるのならば、得物は長いほうが絶対に有利だ。
勢源も自斎も、その言い分を笑って聞いていたが、弟子たちの中には、
――不遜なり。
と、反発する向きも強かった。少々腕が立つからといって師の流儀を批判するとは何事か、というのである。
――了見の狭い奴等め。
小次郎はそうした連中をあからさまに嘲笑した。
剣の勝負は、つまるところ勝つか負けるかだ。そこに命を賭ける以上、より勝てる可能性の高い道を探るのは当たり前のことである。流儀に固執して負けたのでは何の意味もない。
「それほど言うのであれば、実際に試してみるがよかろう」
勢源のひと声で、小次郎と勢源の年齢の離れた弟である景政との立ち合いが決まった。
景政は、むろんひとかどの遣い手である。誰もが景政の圧勝を確信したが、結果は小次郎の勝ちに終わった。さすがに辛勝ではあったが、それでも勝ちは勝ちである。
小次郎はしかし、この勝ちに不満だった。
彼の心積もりでは、もっと完膚なきまでに打ちのめせるはずであった。長刀有利の理屈には、それだけ絶対的な自信を持っていたのである。
もとより相手は師匠筋の人間だ。とはいえ、舐めてかかったつもりはないし、むろん遠慮したわけではない。ごくふつうに持てる力を出し尽しての辛勝であった。
――俺は、まだまだだ。
小次郎は、そう思った。
彼の道場での居心地は既にかなり悪くなっている。師匠筋の人間を、それも流儀の教えに背く形で負かしたことへの反発は、それを決定的なものにした。
勢源も自斎も大度ある人物だったから、そんなことは気にも留めていない様子だったが、当の小次郎が疎外感に苛まれ、次第にいたたまれなくなった。
ひと月ほど経った時、彼は道場を辞めたいと申し出た。
自斎は彼の剣才を惜しみ、引き止めようとしたが、勢源は呵々と笑い、
「思うところあらば、それに向かって進むのみ。駄目になったら、また戻って来てやり直せばよい。若者の特権じゃな」
そう言って、小次郎の願いを許した。
旅立つ前の夜、部屋で荷造りをしている小次郎のもとを勢源が訪ねて来た。
「これは、お師匠さま」
慌てて姿勢を正そうとする小次郎を、
「ああ、よいよい」
と、笑って制する。
齢九十を超え、さすがに剣を取ることはなくなったが、足腰は未だ矍鑠としている。それでも上下動は大儀そうな様子で、
――よっこらせ。
と気合いを入れ、勢いをつけながらその場に腰を降ろした。
ふーっと大きく息をひとつ吐き、
「これからどこへ行くつもりじゃな」
柔和な口調で問いかける。
「これといった当てはありません。しかし、もう一度、諸国を廻って強敵にめぐり会いたいと思っています」
「そうか」
勢源は微笑みながら頷いた。
「おそらくこれより先、多くの腕自慢と立ち合う機会があるじゃろう。しかし、大概の者は、そなたの足元にも及ぶまい」
「さあ、それはどうでしょうか」
「儂は仮にもそなたの師匠の師匠じゃ。年老いたりとはいえ、それぐらいの見極めは、まだできる目を持っておる」
「恐れ入ります」
「小次郎、そなたは腕が立つ。だが、真に強き兵法者になるためには、ただいたずらに腕が立つだけではいかぬ。時にそれよりももっと大切なことがあるのじゃ」
「腕よりも大切なこと、でございますか」
「馬鹿なことを言うと思うであろう」
「いいえ、決してそのような――」
「隠すことはない。そなたの年頃であれば、それが自然な捉えようじゃ」
勢源は慈愛に満ちた眼差しで小次郎を見詰めながら、
「腕よりも大切なこと――それがなんであるかは、今は儂の口からは申すまい。言うたとてわかるはずもないし、また、無理にわかる必要もない。兎にも角にもそういうものがあるらしいとだけ、漠然と心の片隅で思うておればよい」
と、言った。
「はあ」
小次郎は不得要領な顔をする。
「まあ、いずれわかる日が来るわい」
高らかに笑いながら、勢源は帰って行った。
彼が世を去ったのは、これから数日後のことだったという。
六
「九州へ起つことになった」
小次郎から唐突にそのことを知らされた仁左衛門は、驚愕のあまり、しばし言葉を失った。だが、すぐに我に返り、
「仕官が決まったのか」
と、身を乗り出して問いかける。
「有馬候の剣術指南役か」
「いや、それはまだだ。とりあえず千々石玄蕃さまの中間として、朱印船に乗せてもらえることになった」
「中間?」
仁左衛門が素っ頓狂な声を上げる。
「おまえ、そんなものになるために千々石なんとかいう奴に近付いたのか」
「中間といっても、あくまで形だけのことだ。急遽、朱印船に乗り込むためには、そういうことにするのが一番手っ取り早いと、千々石さまが手配してくださったのだ」
口を尖らせる小次郎に、
「その千々石という男、信用できるのか」
今度は与五郎が訊ねた。
「わからぬ。だが、切れ者であることはたしかと見た」
「いつ出立する?」
「明日の朝だ。堺から出航する」
「なんと、また急な話だな」
「善は急げというからな」
小次郎は頷くと、オインのほうへ向き直り、
「九州へ行けば、朱印船の情報もたくさん耳に入ってくるだろう。なんとしても、おまえの大切な人――サララックの居場所を突き止めて、知らせてやる。だから、おまえはこの堺で待っていろ」
いいな、と言いながら、ポンポンと肩を叩く。
「小次郎さん、一緒に連れて行って」
オインはしかし、切実な声で小次郎に頼み込んだ。
「私、この手でサララック、助けたい。一緒に九州へ連れて行ってほしい」
「馬鹿なことを言うな。しがない中間の俺に、そんな力があるわけないだろう」
小次郎は苦笑する。
「いいから、ここで待っていろ。必ず悪党の尻尾を掴んできてやるから」
「そうしよう、オイン」
仁左衛門が取り成すように言った。
「せっかく小次郎が敵の懐へ入り込んでくれたんだ。余計なことをして邪魔になっちゃ元も子もない。ここは小次郎に任せよう」
「それがいい。頼んだぞ、小次郎」
与五郎も口を添える。
「おう、任せておけ」
力強く拳を握り締めながら、小次郎は言った。
「必ずいい知らせを届けてやる」
「しかし、小次郎」
しみじみと慨嘆するような口振りで言ったのは、与五郎である。
「本当によかったな。向こうへ着けば、もちろん正式な仕官の話ができるのだろう」
「ああ、千々石さまからはそのように言われている。むろん用意するお役目は剣術指南役だともな」
「そうか。俺はおぬしほどの腕があれば、いつか必ずその時が来ると信じていたが……、いざ本当にその夢が叶うとなると、やはり格別の喜びだな」
「ありがとう、与五郎」
小次郎もまた感激を露わにしながら、
「俺たち切支丹にとって、有馬晴信公は心から敬うべきお方だ。そのお方にお仕えできるかもしれぬと思うと、今から胸が高鳴る思いだ。晴信公には未だお目にかかったことはないが、きっと素晴らしいお方であるに違いない。俺が生涯を捧げるに足るあるじだ」
そう言って、莞爾と微笑んだ。
そのさまを見て、仁左衛門は心の底から、
――羨ましい。
と、思った。
仕官することが、ではない。いや、もちろんそれもあるのだが、それ以上に、彼がおのれの生き甲斐を見出せていることが羨ましくて仕方なかった。
「まあ、せっかくの話が流れてしまわぬよう、せいぜいうまくやってくるよ」
少し照れくさそうに笑う小次郎の姿が、仁左衛門には眩しく映った。
そこへいくと、与五郎はさすがに大名の息子だけあって、屈託がない。
「ああ、おぬしならば、きっと気に入られよう」
餞別の言葉を送る表情は、小次郎と同じか、あるいはそれ以上に晴れやかであった。
「仕官が決まったら遊びに行くよ。何しろ九州へも久しく足を運んでいないからな」
「歓迎するとも。どのみち、親父殿の元へ立ち寄る気もないのだろうしな。思う存分、逗留していってくれ」
「そうさせてもらおう。今さら父の前へ顔を見せたところで、追い帰されるだけだろうしな。それに、弟にも迷惑がかかる。あそこはもう俺の帰る場所じゃない。父上と、その後を継ぐ弟の国なんだ」
「そうか」
頷く小次郎は、多くを語らない。友の過去は、聞くまでもなくよく知っているのだ。この上、触れるべき話題ではないとわかっている。
「仁左衛門、おぬしもどこかよい務め口が見つかるとよいな」
殊更に仁左衛門に話を振ってきたのは、そのせいでもあったのだろう。
些か迷惑な展開に苦笑しながらも、
「ああ、そうだな」
とりあえずは頷いておく。
「だが、その前にサララックだ。オインの大切な人を一日も早く救い出し、シャムへ送り返す。俺の身の振り方は、それが済んでから考えるさ」
「ありがとう、仁左衛門さん。コープン・クラップ、コープン・クラップ」
「なあに、気にするな、オイン。マイペンライ、マイペンライさ」
快活な笑い声が響き渡る。
声を立てる仁左衛門の表情はしかし、どこか複雑であった。
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でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~
古道 庵
歴史・時代
「母を、自由を、そして名前すらも奪われた。それでも俺は――」
天正十年、第六天魔王・織田信長は本能寺と共に炎の中へと消えた――
信長とその嫡男・信忠がこの世を去り、残されたのはまだ三歳の童、三法師。
清須会議の場で、豊臣秀吉によって織田家の後継とされ、後に名を「秀信」と改められる。
母と引き裂かれ、笑顔の裏に冷たい眼を光らせる秀吉に怯えながらも、少年は岐阜城主として時代の奔流に投げ込まれていく。
自身の存在に疑問を抱き、葛藤に苦悶する日々。
友と呼べる存在との出会い。
己だけが見える、祖父・信長の亡霊。
名すらも奪われた絶望。
そして太閤秀吉の死去。
日ノ本が二つに割れる戦国の世の終焉。天下分け目の関ヶ原。
織田秀信は二十一歳という若さで、歴史の節目の大舞台に立つ。
関ヶ原の戦いの前日譚とも言える「岐阜城の戦い」
福島正則、池田照政(輝政)、井伊直政、本田忠勝、細川忠興、山内一豊、藤堂高虎、京極高知、黒田長政……名だたる猛将・名将の大軍勢を前に、織田秀信はたったの一国一城のみで相対する。
「魔王」の血を受け継ぐ青年は何を望み、何を得るのか。
血に、時代に、翻弄され続けた織田秀信の、静かなる戦いの物語。
※史実をベースにしておりますが、この物語は創作です。
※時代考証については正確ではないので齟齬が生じている部分も含みます。また、口調についても現代に寄せておりますのでご了承ください。
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