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「結婚記念日だよ、秀さん」
「そうだったか?」
「嘘っ! 忘れてたの?ひどい!」
別に忘れちゃあいない。箱詰めにした茜の衣服と少々の本を車に積んで、自分のアパートに運んだ。新しい布団を買いに行き、箸だけでも揃えようと食器売り場を歩いた。あれから一年も経ったのか、それともまだ一年なのか。
「たまには外で待ち合わせするか」
予約の必要な店でなくとも、少々の特別感は味わえるだろう。お互い昼間は仕事があるのだから、家で用意させるよりも負担が少なくなる。
「でも、作業着じゃ居酒屋でしょ?」
「バカにすんな、車に乗っけとけばいいだけじゃねえか」
まあ相手は相手だし、あんまり期待しないで置こうと思いながら茜はその日一日を過ごした。自分も仕事帰りだしなーなんて、期待しないフリでお気に入りのピンクのバッグとお揃いのパンプス。可愛いと言ってくれるわけじゃないし、下手すると何を着ているのかも気がつかない男だ。秀一が持って出たのはシャンブレーのシャツとブレザーなのだから、(っていっても、コーディネートしたのは茜である)少なくとも焼き鳥屋じゃない。どこか店を予約しているのでもないし、落ち合ってからどこに行くか考えよう。イタリアンかな、秀さんは和食のほうがいいんだろうなあ。
「お、平野さん珍しいね。どこか寄り道?」
ロッカールームで着替えた秀一に、同僚が声をかけた。
「いや、メシ食いに」
「そのカッコ、三沢ちゃんの見立てだろ? 若い嫁さん貰うと、若返るねえ」
アイボリーのシャツとチャコールグレーのブレザーは、そんなに値の張らないものだ。最近の若い奴は金をかけずに着まわしの利くアイテムを揃えるのが上手で、秀一の服は大して増えていないのに、なんとなくスマートに見えるらしい。
「そんなカッコしてるとなりゃ、どこか予約してるんだ。何、誕生日?」
「結婚記念日……」
言葉が尻切れになった。気恥ずかしいこと、この上ない。
「ああ、一年目かあ。俺も昔は、花なんて買って帰ったことある。子供ができるとそっちにバタバタして、忘れちゃうけどな。今じゃ母ちゃんも忘れちゃってるし、なーんもしねえけど」
同僚がけらけらと笑う。
「甘やかしていられるうちは、甘やかしてやった方がいいよ。女はいろいろ大変だから。ところで、どんなとこ行くの?」
「困ってんだ、女連れてくとこなんて知らないから」
仁王の困り顔に、同僚は吹き出した。
「四十過ぎた男の悩み事じゃないな、平野さんらしいや。おい、ちょっと女の子たち!」
ロッカールームを出たところで同僚は数人の女子社員に声をかけて、勝手に場所をリサーチしはじめた。
「え、結婚記念日? 羨ましー! 夜景のきれいなとこ、とか?」
「三沢ちゃんなら、どこでも喜ぶんじゃない? 平野さんがフレンチとかって、無理そうな気がする」
「多国籍料理なら大丈夫かなあ。あんまりロマンチックじゃないけど」
「簡単な懐石なら知ってる! 予約なしで行ける」
わいわいと案が出て、箸で食べられる気楽なフレンチが良いと勝手に決めつけられ、誰かが早々に予約を入れる。秀一の意思はこの際、全然関係ない。女の子たちがノリノリで予定を決定してしまうのを、呆然と見ているだけである。
「な? こういうことは女の子の頼むに限るんだ。奴ら、妙なパワーがあるから」
ニヤリと笑う同僚に、無言で頷く。確かに自分の知識では、考えもつかない。
「はいっ、ここの予約しましたー。地図はこれね。あとね、今駅前の花屋さんにも電話しといたから、行きがけに受け取ってね」
「花ぁ?」
素っ頓狂な声が出る。花なんか持って電車に乗れってのか、こいつらは。
「それはね、私たちから三沢ちゃんにプレゼント。よろしく言っといてね。わざと忘れちゃダメだよ?」
「おまえらが茜に直接渡しゃいいだろうが」
面白がられているのがわかっているのに、好意の皮を被っているので拒否できない。
「だーめっ! それを渡す平野さんの顔まで、プレゼントだから」
ウウと唸りながら、秀一は店までの地図を受け取った。
「……おっさん、からかいやがって」
「からかってませーん。幸せの恩恵に与ろうとしてるんでーす」
「言っとけ、バカども」
社内の女の子たちと気軽に話すようになったのも、茜の置き土産だ。すぐに入れ替わってしまう若い女たちなんて、正確に仕事してくれれば、どうでも良かった。
「何の騒ぎっすか?」
若い同僚が、女の子の固まりの中に頭を突っ込みたがる。
「平野さん、結婚記念日なんだって」
「三沢ちゃんが平野さんに捕まっちゃってから、一年も経ったのかあ」
失礼な言い草だが、外側から見ればそんなものだろう。若い女を嫁に貰った幸福な男、それが自分の評価だ。
「娘くらいの嫁さんって、どんな感じっすか? 可愛くてしょうがないんじゃ」
「一年も一緒に住んでりゃ、そんなんじゃ済まねえ」
まだ未婚の同僚には、わかりにくいだろう。
「またまたぁ。三沢ちゃんって家ではどんな感じです? やっぱり可愛いんじゃないっすか?」
可愛いのは否定しないが、口に出しての肯定もできない。秀一が外に向かって言えることは、これだけだ。
「どんなって言ったってなあ。朝起きると見る最初の女で、寝る前に見る最後の女だ」
これの言外の意は、誰にも言わない。茜本人にすら、言うつもりはない。
「そうだったか?」
「嘘っ! 忘れてたの?ひどい!」
別に忘れちゃあいない。箱詰めにした茜の衣服と少々の本を車に積んで、自分のアパートに運んだ。新しい布団を買いに行き、箸だけでも揃えようと食器売り場を歩いた。あれから一年も経ったのか、それともまだ一年なのか。
「たまには外で待ち合わせするか」
予約の必要な店でなくとも、少々の特別感は味わえるだろう。お互い昼間は仕事があるのだから、家で用意させるよりも負担が少なくなる。
「でも、作業着じゃ居酒屋でしょ?」
「バカにすんな、車に乗っけとけばいいだけじゃねえか」
まあ相手は相手だし、あんまり期待しないで置こうと思いながら茜はその日一日を過ごした。自分も仕事帰りだしなーなんて、期待しないフリでお気に入りのピンクのバッグとお揃いのパンプス。可愛いと言ってくれるわけじゃないし、下手すると何を着ているのかも気がつかない男だ。秀一が持って出たのはシャンブレーのシャツとブレザーなのだから、(っていっても、コーディネートしたのは茜である)少なくとも焼き鳥屋じゃない。どこか店を予約しているのでもないし、落ち合ってからどこに行くか考えよう。イタリアンかな、秀さんは和食のほうがいいんだろうなあ。
「お、平野さん珍しいね。どこか寄り道?」
ロッカールームで着替えた秀一に、同僚が声をかけた。
「いや、メシ食いに」
「そのカッコ、三沢ちゃんの見立てだろ? 若い嫁さん貰うと、若返るねえ」
アイボリーのシャツとチャコールグレーのブレザーは、そんなに値の張らないものだ。最近の若い奴は金をかけずに着まわしの利くアイテムを揃えるのが上手で、秀一の服は大して増えていないのに、なんとなくスマートに見えるらしい。
「そんなカッコしてるとなりゃ、どこか予約してるんだ。何、誕生日?」
「結婚記念日……」
言葉が尻切れになった。気恥ずかしいこと、この上ない。
「ああ、一年目かあ。俺も昔は、花なんて買って帰ったことある。子供ができるとそっちにバタバタして、忘れちゃうけどな。今じゃ母ちゃんも忘れちゃってるし、なーんもしねえけど」
同僚がけらけらと笑う。
「甘やかしていられるうちは、甘やかしてやった方がいいよ。女はいろいろ大変だから。ところで、どんなとこ行くの?」
「困ってんだ、女連れてくとこなんて知らないから」
仁王の困り顔に、同僚は吹き出した。
「四十過ぎた男の悩み事じゃないな、平野さんらしいや。おい、ちょっと女の子たち!」
ロッカールームを出たところで同僚は数人の女子社員に声をかけて、勝手に場所をリサーチしはじめた。
「え、結婚記念日? 羨ましー! 夜景のきれいなとこ、とか?」
「三沢ちゃんなら、どこでも喜ぶんじゃない? 平野さんがフレンチとかって、無理そうな気がする」
「多国籍料理なら大丈夫かなあ。あんまりロマンチックじゃないけど」
「簡単な懐石なら知ってる! 予約なしで行ける」
わいわいと案が出て、箸で食べられる気楽なフレンチが良いと勝手に決めつけられ、誰かが早々に予約を入れる。秀一の意思はこの際、全然関係ない。女の子たちがノリノリで予定を決定してしまうのを、呆然と見ているだけである。
「な? こういうことは女の子の頼むに限るんだ。奴ら、妙なパワーがあるから」
ニヤリと笑う同僚に、無言で頷く。確かに自分の知識では、考えもつかない。
「はいっ、ここの予約しましたー。地図はこれね。あとね、今駅前の花屋さんにも電話しといたから、行きがけに受け取ってね」
「花ぁ?」
素っ頓狂な声が出る。花なんか持って電車に乗れってのか、こいつらは。
「それはね、私たちから三沢ちゃんにプレゼント。よろしく言っといてね。わざと忘れちゃダメだよ?」
「おまえらが茜に直接渡しゃいいだろうが」
面白がられているのがわかっているのに、好意の皮を被っているので拒否できない。
「だーめっ! それを渡す平野さんの顔まで、プレゼントだから」
ウウと唸りながら、秀一は店までの地図を受け取った。
「……おっさん、からかいやがって」
「からかってませーん。幸せの恩恵に与ろうとしてるんでーす」
「言っとけ、バカども」
社内の女の子たちと気軽に話すようになったのも、茜の置き土産だ。すぐに入れ替わってしまう若い女たちなんて、正確に仕事してくれれば、どうでも良かった。
「何の騒ぎっすか?」
若い同僚が、女の子の固まりの中に頭を突っ込みたがる。
「平野さん、結婚記念日なんだって」
「三沢ちゃんが平野さんに捕まっちゃってから、一年も経ったのかあ」
失礼な言い草だが、外側から見ればそんなものだろう。若い女を嫁に貰った幸福な男、それが自分の評価だ。
「娘くらいの嫁さんって、どんな感じっすか? 可愛くてしょうがないんじゃ」
「一年も一緒に住んでりゃ、そんなんじゃ済まねえ」
まだ未婚の同僚には、わかりにくいだろう。
「またまたぁ。三沢ちゃんって家ではどんな感じです? やっぱり可愛いんじゃないっすか?」
可愛いのは否定しないが、口に出しての肯定もできない。秀一が外に向かって言えることは、これだけだ。
「どんなって言ったってなあ。朝起きると見る最初の女で、寝る前に見る最後の女だ」
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