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しおりを挟む「すっかり暗くなってしまいました。それに、小雨も降り始めましたか」
赤岩村の医者・湯本開斎は、隣の日影村で本日最後の病人を診た後、提灯を借りると帰路に就いた。
この辺りで医者というのは他にいないので、開斎は忙しい日々を送っていた。歩きではとても間に合わないため、開斎は馬に乗って近くの村々を診て回っていた。
「家に帰ったら、沢山干し草をやりますからね」
開斎は馬に跨ると、屋敷のある赤岩村へ向かう。
日影村と赤岩村の間には谷があり、底には須川という大きな川が流れている。
その須川に架かる出立橋に差し掛かった時、馬が急に歩みを止めた。
開斎たちの後ろ、橋の袂近くの茂みがざわざわと音を立てる。
「怖がることはありません。狸か狐ですよ」
開斎は茂みの方へ振り返らず、馬の頭を優しく撫でる。
「早く帰りましょう。粉糠雨とはいえ、長く当たっていては風邪を引いてしまいます」
その時であった。馬が急に嘶き暴れ出し、開斎は鞍から振り落とされた。
「ぐっ!」
提灯の火が消え、辺りが闇に包まれる。
「一体、何なのですか?!」
開斎が身を起こすと、
「ヤッパリ馬などの獣より、人の驚いたのが最も面白いナ!」
暗闇の中でどこかから、子供のような笑い声が聞こえてきた。
「日影か赤岩の子ですか? 暗くなってから外へ出るのはいけません。それにさっき馬の尾を引っ張ったのですか?……いやっ、違う!」
目を凝らすと、馬の後ろに赤茶色の何かが立っていた。
「ククク、逃がしはしないゾ!」
その何かは開斎の方へゆっくりと近づいてくる。子供くらいの背丈。頭には皿のようなものが乗っている。
「……そこにいるのは、須川の河童ですか!」
橋の下を流れる須川には河童が棲みついており、時に人や馬を襲うとの噂を、開斎は耳にしたことがあった。
「アア、そうダ! おまえと馬の尻子玉を寄越セ! 我らが主様へ捧げてヤル! まずはおまえダ!」
河童は甲高い声で叫び、狂ったように飛びかかってくる。
開斎は咄嗟に横に転がってそれをかわす。そして素早く立ち上がる。
「須川で溺れた者たちは大抵が命を落とす……運良く助かっても腑抜けとなり、ただ死を待つ生ける屍となる……これは今、尻子玉が欲しいと言った須川の河童……貴方の仕業ですか?」
開斎の元には、稀に腑抜けとなった者が運び込まれてくる。彼らは眠ることも、食べることも、泣くことも笑うことも……一切できない。
腑抜けになった者には、どんな薬も効かなかった。
「スグに尻子玉を抜いてやるカラ、その身をもって確かめるがイイ!」
「それは困ります。私は湯本開斎。医者です。明日も、明後日も、その先の日々も。病に苦しむ人々が、私を待っているのです」
「何でもいいカラ、早くおめえの尻子玉を抜かせロ!」
叫んだ河童の手が、青や緑と怪しく光り始めた。開斎はそれに身の毛もよだつ恐ろしさを覚える。
「不殺生……私は人ならず、すべての命に刃を向けぬと誓っております。ですが今回ばかりは、手加減している余裕はなさそうですね」
開斎が静かに刀に右手を添えた。鞘には湯本家を表す三日月の紋が入っている。
湯本家の祖は、この地でも名を馳せた侍だった。その血を引く開斎もまた、医術こそ主としたが、刀の腕にも確かな自信を持っていた。
河童のような類を相手にするのは初めてであったが。
「目潰しッ!」
河童が叫ぶと、口から水をぴゅーっと吹きつけてきた。狙いは開斎の顔。開斎は素早く腰を落とし、それをかわす。すかさず河童は間合いを詰めてきたが、
「非為を作すなかれ! 逆袈裟斬り!」
開斎が左下から右上へ一思いに刀で斬ると、血飛沫があがった。
「ギャァァァァ!」
河童は開斎に背を向けて駆け出すと、橋から飛び降りた。続いて下の須川からドボンと音が聞こえてきた。
開斎は橋の上から身を乗り出したが、暗闇に包まれた谷底の須川の様子はわからなかった。
「……逃してしまいましたか。しかし、今のは痛かったでしょう。これに懲りて、人や馬に悪戯するのをやめてくれればいいのですが」
開斎は血で濡れた刀を拭うと、鞘に戻した。そして馬の元へ戻ろうとしたその時、ふと足元に何かが落ちているのに気づいた。
「これは……河童の腕ですか。ふむ、これは珍しい。このまま放っておくのも忍びない、とりあえず持ち帰るとしましょう」
開斎はそれを懐にしまうと、馬に跨った。
出立橋を渡り切ると、道端には男女が頬を寄せ合う道祖神が見えた。矢ノ下の部落を抜け、たかやのおねの山道に来たところで、開斎はふと思い出したように懐から腕を取り出した。
「……それにしても、何と珍しい! 河童の腕だなんて! 草花の標本なら沢山ありますが、これも標本にして家宝の一つにしちゃいましょうか!」
開斎が馬の上で肩を揺らして笑っていると、いつの間にか飯綱神社の鳥居が見えてきた。
村の真ん中に構える湯本家にたどり着くと、開斎は愛馬に干し草をやる。そして家の中へ入ると河童の腕を丁寧に包んでしまい込んだ。
「今日はまさか、帰り道で河童を斬ることになるとは思いませんでしたよ……」
そう呟いた開斎は、どっと疲れを覚え、いつもより早く床に就いた。
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