猫神と縁のお結び

甘灯

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三章

零話 朱い記憶

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「………さん」

 女は、か細い声で名を呼ぶと不格好な微笑みを浮かべた。
 懸命に口角をあげて“笑み”を浮かべようとしているが、上手くいかず口元は1文字に固く閉じたままただ震えていた。
 女の潤んだ瞳には、名を呼ばれた若い男が映っている。

(“俺”なのか…?)

 久瀬川くぜかわのぞむは妙な感覚に陥った。
 女の目に映っている男は望とよく似た顔立ちをしている。
しかし髪型や服装はまるで違っていた。
双方、髪色が黒なのは共通しているが短髪の望と違って、男の方は束ね髪だ。
 そして現代ではかけ離れている小袖と袴という、まさに時代錯誤の装いだった。

(いや…違う!誰なんだ…こいつは…)

 自分とよく似た、女の瞳に映る男に望は苛立ちを覚えた。
そしてな何故か、無性に男の胸倉を掴んでやりたい衝動に襲われたが、はたと気づいた。
 
 女の瞳に映っているのは、その“男”だけなのだ。
望も目の前の女を見ている筈なのに、何故か自分は映っていない。

(どういうことだ?)

 望は怖くなって後退りしようとした。
しかし金縛りにあったかのように手足を動かすことが全く出来ない。

(なんで…)

 望はただ女の目に映る男を見ることしか出来ない。
そのうち女の目から溢れた涙の一筋が、つーぅと頬を滑り落ちた。

 女の視線はゆっくりと下に向けられた。
足元には赤く染まった鉈が落ちている。
女は細い手でそれをゆっくりと拾い上げた。
望は息を呑んだ。

「だ…だめだ!!やめろ!やめろーー!!」

 望は叫んだ。

(!?)

 途端に、硬直していた身体が呪縛を解かれたかのように動き出した。

(あ…違う…俺じゃない)

 その時、望はやっと気づいた。
駆け出したのは“自分ではない”。
女に向かって、“男”は無我夢中で手を伸ばす。

「やめてくれーーー!!」

 断末魔のような悲痛な叫び。

しかしーー
                                     
「…さようなら」

 涙を流しながら女は口元に笑みを浮かべて静かに言った。
 悲しみと喜びが共存する…その表情を見て望は悟った。
 “彼女は壊れてしまった”のだと。
女は迷い無く、自分自身の首筋に刃先を沿わせた。


 紅い

 紅い


 望の視界は赤く染まった。




   ○     ○     ○




 血に染まった男は胸に抱えていた女の身体を、小さな祠の前にゆっくりと寝かせた。
 女はすでに事切れており、温もりはもう残っていない。
手はもう硬直し始めて、鉈の柄を握ったまま放さなかった。
 男は傍らで力なく項垂れた。
しばらく、まるで音のない世界にいるような錯覚がした。





 ーどのくらい時間が経ったのか。

 誰かの怒鳴る声が遠くから聴こえ、男は我に帰った。
振り向くと、無数の篝火の灯りがすぐ近くまで来ていた。

「……っ…!」

 男は決心したように懐にあった手拭いを取り出し、女の手首と自分の左手首に強く巻きつけた。
 そして右手で色を失った女の頬にそっと触れる。
そのゾッとする冷たい感触に、男の息は止まりそうになった。

“彼女を守ってやれなかった”

 悔しさでギリッと奥歯を強く噛み締めた。
女の頬から手を離し、白くなるまで膝に置いた拳をきつく握る。

『“今度”は絶対に守るから…約束する』

 男は感情を押し殺し、静かに誓いを立てた。

そして彼女の手ごと鉈の柄を強く握り、自分の首筋に刃を這わせる。

 紅い

 紅い

 そこで視界は、急に黒く暗転した。





「!?」

 望は飛び起きた。

 ーそこは夜の暗い森ではなく、自身のベッドの上だった。
バク、バクと脈打つ心臓の鼓動。
望は思わず、胸元をきつく鷲掴んだ。

「またか…」

 次第に現実に戻ってきた感覚がして、落ち着きを取り戻した望はカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びながら、深くため息をつく。

 何度も、何度も、望は悪夢を見る。

そして、悪夢から目覚めると決まって、望の手首には“紅い痣”が浮かび上がるのだ。

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