怪異住居 ゼロ円の家―タダほど怖いものはない

ソコニ

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第16話「壁の罠」

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零が切り開いた壁の隙間に体を滑り込ませると、そこはさらに奇妙な空間だった。廊下のような形状だが、壁、天井、床の区別があいまいで、全てが同じ赤みを帯びた肉のような質感を持っていた。

「ここは…」

零は警戒しながら前進した。見回すと、至る所に人間の姿のようなものが壁に埋め込まれているのが見えた。ほとんどが上半身だけで、あたかも壁から生えているかのようだった。それらは動かず、眠っているようにも見えた。

「松永さんもこうなったのか…」

前方に目を向けると、壁の一部が波打ち、ゆっくりと人の形に変形していくのが見えた。それは上半身の姿になり、零の方を向いた。

「助けて…零くん…」

零は息を呑んだ。それは中村という住人だった。零が入居してすぐに知り合った男性で、数日前に行方不明になったと報告されていた人物だ。彼の顔は歪み、目は白く濁り、口からは黒い液体が垂れていた。

「中村さん…」

零は本能的に彼に近づこうとしたが、何かが違うという直感的な危険を感じ、足を止めた。何かがおかしい。中村の表情に人間らしさが感じられない。

「助けて…痛いんだ…」

中村の声が響く中、零は慎重に前進した。中村の上半身は完全に壁から突き出し、両腕を零に向かって伸ばした。彼の胴体の下部は切断されたようになっており、内臓が垂れ下がっていた。

零が中村に手を伸ばそうとした瞬間、恐ろしい変化が起きた。

中村の口が突然、耳まで裂け、そこから鋭い牙が露わになった。まるで顔の半分が開いたかのように、彼の顎は外れ、喉の奥まで丸見えになった。

「うわっ!」

零は反射的に身を引き、中村の牙が空を切った。間一髪で避けられたが、もう少しで零の腕は噛みちぎられるところだった。

「これは…罠か!」

中村—いや、かつて中村だった何か—は苛立たしげに唸り、再び零に襲いかかった。その動きは人間離れして速く、零は咄嗟に封魔竹刀を振るって応戦した。

竹刀が中村の首を切り裂くと、彼からは悲鳴のような音が上がった。しかし予想に反して、傷口からは血ではなく黒い液体が噴出した。それは床に落ちると煙を上げ、酸のように床を腐食させた。

「くっ…」

零が後退する間に、壁からは次々と住人たちの上半身が浮かび上がってきた。それぞれが「助けて」「痛い」「苦しい」と呻きながら、零に手を伸ばす。しかし、全員の目は同じく白く濁り、口は不自然に歪んでいた。

「全部、罠だったのか…」

零は警戒しながら周囲を見回した。上半身たちは次第に壁から完全に分離し、床を這って零に迫り始めた。彼らの腹部からは内臓が垂れ下がり、床に粘液のような跡を残していく。

零は竹刀を構え、最も近い上半身を斬りつけた。斬られた体は黒い液体を噴出し、痙攣しながらも前進を続けた。零は次々と迫りくる上半身を切り裂いたが、切断されても動きを止めないのみならず、その数はむしろ増えているように見えた。

「どれだけ倒しても…」

上半身の一人が零の隙をついて足首に飛びついた。鋭い爪が零の皮膚に食い込み、激痛が走る。

「ぐっ!」

零は悶絶しながらも、その上半身を蹴り飛ばそうとした。しかし、爪は深く食い込み、振り払おうとすると皮膚が裂け、鮮血が床に滴った。

「離せ!」

零は竹刀の柄で上半身の頭部を強打した。それでも離れない。むしろ他の上半身たちも加わり、零の両足を掴み、引きずり込もうとしていた。

「このままじゃ…」

零は必死に抵抗したが、上半身たちの数があまりにも多く、彼らは徐々に零を取り囲み、床に引きずり倒そうとしていた。

その時、零の足首の傷から突然変化が起こった。傷口から黒い筋が広がり始めたのだ。それは血管のように脈打ちながら、零の皮膚の下を這うように拡がっていった。

「これは…」

ゾクゾクとした感覚が零の全身を駆け巡り、彼の視界が突然変化した。周囲の空間が透けて見え始め、壁の向こう側まで見通せるようになったのだ。

「何が起きてる…?」

零の変化した視界の中、彼は壁の向こうに何かを見た。それは廊下全体を取り囲むように配置された、赤く光る線のようなものだった。その線は廊下の構造を支えているように見え、パルスのように脈打っていた。

「あれは…結界?」

零は本能的にそれが「無限ループの廊下」の核心部分だと悟った。しかし、上半身たちの攻撃が止むことはなく、彼らはより強く零を引きずり込もうとしていた。

「離せ!」

零は竹刀を強く握り、力を込めた。すると驚くべきことに、竹刀が彼の意図を察したかのように青白い光を放ち始めた。

零は直感に従い、光る竹刀を持って壁に向かって斬りつけた。

「はあっ!」

閃光と共に、壁が砕け散った。そこには零の視界で見えていた赤い線—結界—がむき出しになっていた。結界の中心には赤く脈打つ球体があり、それが廊下全体にエネルギーを送っているように見えた。

「これが26階の核か…」

零は躊躇なく封魔竹刀を振り上げ、核に向かって突き刺した。竹刀が核を貫いた瞬間、衝撃的な振動が走り、核から赤い液体が噴き出した。

「うわっ!」

液体が零の顔に飛び散り、皮膚が焼けるような痛みが走った。彼は顔を覆いながら後退したが、すでに周囲は急速に崩壊し始めていた。

壁が崩れ、床にひびが入り、天井が落下してくる。上半身たちは悲鳴を上げながら、壁の中に引き込まれていった。零の足を掴んでいた爪も力を失い、彼は何とか立ち上がった。

「出口はどこだ…!」

零は崩壊する廊下を走り抜けようとしたが、床が突然完全に崩れ落ち、彼は暗闇の中へと落下していった。

「うわああっ!」

闇の中を落ちていく感覚。零は何かに掴まろうとしたが、手に触れるものは何もなかった。

「これで…終わりか…」

彼の意識が遠のき始めたその時、何かが彼の体を捕らえた。それは人の腕のようだった。

「零さん…」

かすかに聞こえる声。蓮だろうか?それとも幻か?

零の意識は完全に闇に沈んでいった。

---

目を覚ますと、零は知らない場所にいた。暗い部屋で、彼はベッドに横たわっていた。体中が痛み、特に足首の傷が激しく脈打っていた。

「目が覚めたか」

声に振り向くと、静馬が椅子に座っていた。彼の顔には疲労の色が濃く、服は裂けていた。

「ここは…どこだ?」零は乾いた喉で尋ねた。

「25階だ。君が核を破壊したとき、26階の構造が崩壊し始めた。我々は皆、下の階に落下した」

「凛は?蓮は?」

「無事だ」静馬は安心させるように答えた。「二人とも少し怪我をしたが、命に別状はない」

零は安堵のため息をついた。ゆっくりと体を起こし、足首の傷を見た。傷は包帯で巻かれていたが、その周りには黒い筋が広がっているのが包帯越しにも見えた。

「あの上半身たちは…」

「26階の犠牲者だ」静馬は厳しい表情で言った。「無限ループの廊下に囚われ、最終的に壁の一部になったようだ」

零は震えた。あの松永も中村も、そして他の住人たちも、全て怪異に取り込まれていたのだ。もし自分がもう少し遅れていたら、同じ運命を辿っていたかもしれない。

「俺の体に起きていることは…」零は黒い筋を見つめた。

「わからない」静馬は正直に答えた。「だが、その力のおかげで核を見つけられたことは確かだ」

零は自分の手を見つめた。以前とは明らかに違う。彼の中で何かが変わっていた。怪異の力が彼の中に根付き、成長しているようだった。

「恐ろしいことだが…同時に武器にもなる」静馬は続けた。「この先の階を攻略するには、その力が必要になるかもしれない」

零はただ黙って頷いた。彼はベッドから立ち上がり、窓の外を見た。相変わらず暗い森が広がっているが、どこか景色が違って見えた。彼の視界は以前より鮮明で、暗闇の中でも細部まで見ることができた。

「今、何階まで攻略したんだ?」

「25階は既に別の住人によって攻略済みだ。次は24階だが…」静馬は言葉を濁した。

「何かあるのか?」

「24階は『鏡の間』と呼ばれる怪異がいる。鏡に映った自分の恐怖が実体化すると言われている」

零は自分の変わりつつある体を考えた。自分の恐怖が実体化するとしたら…一体何が現れるのだろうか。

「準備ができたら行こう」

静馬は頷き、部屋を出ていった。零は一人残され、手の中の封魔竹刀を見つめた。竹刀も彼と同様に変化しているようだった。より鋭く、より強力に。

彼は足首の傷をさすった。痛みはあったが、驚くべきことに急速に治癒していた。黒い筋が傷を修復しているかのようだった。

「これが…俺の新しい力…」

零は恐れと共に、この力を受け入れる必要があることを認識した。生き残るため、仲間を守るため、そしてこのマンションの謎を解き明かすために。

部屋の鏡に映った自分の姿を見ると、左目に微かな黒い色素が広がっていることに気づいた。

「俺は…まだ俺だ」

零は自分に言い聞かせるように呟いた。だが心の奥底では、自分が少しずつ何か別のものに変わりつつあることを感じていた。
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