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第四章『王女2人』
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机の上に所狭しとばかりに並べられた料理を見て修也は思わず生唾を飲み込む。
机の上には修也の好物である唐揚げにキャベツを添えたもの、ひじきの煮物、茶碗の中に古墳のように行儀よく積まれた白米、豆腐と白菜の味噌汁が並んでいた。
修也は「いただきます!」と叫んだ後で唐揚げへと手を伸ばす。皿の上に載っていた唐揚げの数は4個ほど。それも冷凍食品ではない。全てがひろみによって作られた手作りのもの。
塩やマヨネーズ、レモンをかけるといったこんな美味そうな唐揚げに調味料を掛けるのは作ってくれたひろみに対しても唐揚げに対しても失礼というものだろう。
修也は用意された不恰好かつ大きくボリュームのある唐揚げを箸で切り、食べやすくした後に口の中へと放り込む。同時に口の中一杯に旨みというものが広がっていく。
唐揚げのサクサクとした衣と鶏肉のジューシーな食感が合わさり、口の中で絶妙なハーモニーを奏でていた。
よく料理番組や漫画で見るような旨さの洪水というのは今のような状況を指していうのかもしれない。
修也は唐揚げの楽しさを味わうのと同時にこの旨さが失われることがない世界が存続したことに感謝の念を送りながら唐揚げを噛みしめる。修也はふと食卓で食事を取る家族へと目を向けた。何かを意識したり、深い意味を持つわけではない。ただ気になったから向いた、それだけのこと。
麗俐も悠介も唐揚げに夢中だ。二人とも互いの唐揚げに視線を向け、隙あらば奪い取ろうと睨み合う。ライオンに奪われた獲物を狙おうとするハイエナのように虎視眈々と。
宇宙にいる間は見ることができなかったような光景である。生きて人間の料理を食べられることができるのも地球上にいるお陰。
宇宙の果てではその星の料理以外はレトルト食品を口にすることかしかできない。修也の頭の中に思い浮かぶのはこれまで辿っていった星の記憶。
あらゆる星々で使節として歓待を受け、その星のその地域におけるご馳走を口にしたが、やはり家庭の味には変えられない。どこかSFじみた話とはなるのだが、もし世界最後の日。最後に食べたいのかを聞かれれば、やはり家庭の料理と答えるだろう。
それも自分が作るものではなく、ひろみが作る手作りの料理。どこの星のご馳走よりも変え難い存在であるには違いない。
平穏な食卓。誰にも犯されることがない幸せな時間。
だが、その落ち着いた時間も今日が最後となるだろう。修也は気怠る気な様子で中央に置かれたテレビに映るニュース映像を見やっていく。残業中の書類を見るかのような鬱陶し気な顔を浮かべて。
ニュース内には異星の星の王女二人の姿が連日映し出されていた。ゴシップに飢えていたこともあってか、二人を持ち上げる報道はどのニュースよりも多い。
どこにいてもカメラのフラッシュが焚かれたり、記者からインタビューのためのマイクが向けられる様子に2人も辟易しているだろうが、仮にも2人は国賓。
カメラやマイクから逃げることができないのは宿命というべきだろう。2人の動向に日本人のみならず世界中の人々が注目の目を向けているのだから。
しかしその一方で政府が対応に窮しているのも事実。国会では連日、伊達首相に対して二人の王女の処遇を求める議会が開かれていた。
やはり現実的な問題として国賓待遇にかかる資金や諸外国との関係問題、それにまつわる今後の処遇に関して議論が起きるのは当然というべきだろう
それに加えて、毎日のように襲いくる『賞金稼ぎ』の存在。毎度、毎度失敗に終わるとはいえ警備の費用もばかにならないだろう。インターネットの情報によると警視庁からも批判の声が上がっているらしい。
修也はそうした諸々の事情によって四方八方から責められる伊達首相を哀れに思いつつも唐揚げへと手を伸ばす。
しかし同情ばかりもしていられない。自分も明日になれば伊達首相と同じ立場、もしくはそれ以上の窮地へと追い込まれてしまう羽目になるのだ。少し顔を合わせただけの首相に対して同情を示すよりも体力をつけるなければならない。白米をかき込み、唐揚げを口にするのはそういった事情が含まれている。
すっかりと狸のように膨らんだ腹を摩り、お腹を落ち着かせた後で修也が食事を終え、ひろみの代わりに食器を洗い、乾燥機へとかけていた時のこと。
「ねぇ、そういえば明日だよね」
ひろみが不安そうに目を泳がせながら言った。寿司屋のお湯呑みに入った緑茶を差し出す彼女の手が震えていたのは不安からきたものだろう。
当然といえば当然だ。相手は国賓。他の星から来たといっても外国の首脳に相当する人物であるには違いない。下手なことをすれば修也の人生にも影を差す。ひろみが不安に陥るのも仕方がない。期末テストが近付くにつれて落ち着きがなくなっていくようなものだ。
そんなひろみの手を優しく握り、落ち着かせるようなゆっくりとした音色で話しかけていく。
「大丈夫だよ。デ・レマ殿下とは惑星オクタヴィアでは随分と親しくしていたのだし、シーレ殿下に至っては悠介の彼女だぞ」
「そ、そうだよね。あなたがそう言うんだったら」
表面上は安心したように言っていたが、ひろみの目は落ち着きがなかった。これこそが一市民の感覚。当然の反応を見せたに過ぎない。
一市民というのであればひろみにはそう言ったものの、修也とて不安に苛まれている。
もし、下手なことをすればもう一度会社をクビになってしまうかもしれない。日本の法律的に修也はお咎めなしなのだろうが、それでも社会的な地位の低下は避けられないだろう。
うだうだと悩みの多い知識人のように頭を抱えなければならない修也であったが、ひろみと同様に取り乱すことがなかったのは宇宙での長い経験が彼の心を頑強にしたからというより他にない。
どのような事情があるにしろ、時間というものは平等に過ぎていく。
結局、覚悟が決まらぬまま翌日を迎えた。
朝の8時。修也は悠介の声で目を覚ます。正確にいえば心地良い夢の世界から現実の世界へと引き戻されたといった方が正しいだろう。パジャマ姿の修也は両目を擦りながら上半身を起こす。
「おぉ、悠介。おはよう」
「おはようじゃないよ。もうそろそろ時間だよ。これ飲んで早く着替えてくれ」
悠介は机の上に置いていた栄養剤を手に取ると、それを修也の掌の上へと握らせる。リレー競技でバトンを渡すかのように。
修也は風邪薬を飲み込むように栄養剤を口の中へと放り込む。悠介が用意したペットボトルの水を使って飲み干すと、体を屈伸させた後でフラフラの状態となって洗面場へと向かう。洗面場で自動カミソリを使って夕方髭もろとも今日の髭を剃り落とし、化粧水と乳液による洗顔を行う。洗顔で目を覚ました後で修也はもう一度部屋へと籠り、備え付けられていたクローゼットからスーツを取り出す。
三日前にスーツを持ってきた青いワンピースを着た秘書こと水嶋さくらの言葉によればこの日のために用意した特別なスーツだとのこと。
その証明とでも言わんばかりに用意されたネイビーのスーツは光沢を放っていたし、極め付けは普段着ないようなお洒落なベスト。これを最後に身に付けたのは学生時代の打ち上げが最後ではなかっただろうか。
今、修也が着用しているようなスーツは通訳として同行するジョウジとカエデの両名にも同様のものが与えられるとのこと。
秘書の話によれば悠介と麗俐には制服だそうだ。やはり2人の年齢が学生であるからだろう。
学生の年齢であれば礼装として身に付けるのに最適であるのはスーツよりは学生服で間違いない。
修也がイギリス製の名のあるブランドが作ったというゴールドとブルーのストライプネクタイをクローゼットに備え付けられた鏡の前で巻いていると、階下から2人の呼ぶ声が聞こえる。
そろそろ行かなくてはならない。修也がネクタイを締め終えると、そのままクローゼットを閉めて階下へと降りていく。
既に玄関の前では青いワンピースを着た例の秘書がいつもの機械のような張り付けた不気味な笑顔を浮かべて待ち構えていた。
「お久しぶりです! 大津さん!」
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
相変わらずのハイテンションと保育士が幼児に接するような態度。自分は既に成人してから20年以上も経つというのに……。どこか侮辱されているような気になってしまう。
部屋に隅に集めた練り消しのように小さな不満が溜まっていることもあってか、入社して数ヶ月が経つというのに秘書の不自然な態度には未だに慣れない。部屋に棲みつく幽霊を見ているような感覚といえばいいだろうか。
まさしく塵が積もったような不安を胸に秘めていたこともあってから困ったような顔を浮かべていた修也を青いワンピースを着た秘書が強引に自宅の玄関から引き摺り出し、家に前に停めていたと思われる黒塗りの高価な中へと押し込む。
有無を言わさずと言わんばかりの強引さ。修也は思わず辟易してしまった。
既に黒塗りの浮遊車の後部座席にはメトロポリス社が経営している私立高校の制服に身を包んだ悠介と麗俐の姿が見えた。
どうやら子どもたちは先に乗っていたらしい。修也は苦笑しながら逃げるように窓の外へと視線を移す。
浮遊車は見慣れた町田市の町をゆっくりと過ぎ去っていく。待ち合わせとなる東京方面へと向かって。
助手席に腰をかける秘書の話によれば東京の最高級ホテルで二人の王女と相棒のアンドロイドは待ち構えているとのこと。
修也は改めて胸を弾ませていった。オクタヴィアヌスでは敬意を持って接していたはずだし、今回の来訪も同様に敬意を持って接するつもりではいるが、修也はあくまでもただの会社員。
外交官が行うような完璧な礼儀作法を取れと言われれば自信はない。
修也が落ち着かない様子で指を動かしたり、足をそわそわとさせている様子とは対照的に悠介はといえば久し振りに会うガールフレンドにすっかりと胸を弾ませていたらしい。
もう少しで最愛の恋人に会えるという喜びからか、隣に座る麗俐にもしきりとシーレの思い出を語っていた。
何度も何度も同じような話を繰り返すので、いい加減にしろとばかりに目を伏せていた麗俐であったが、修也も緊張のせいで助け舟を出すどころではない。
結婚式に出席するかのような気軽な態度をしている子どもたちを羨ましく思っていると、浮遊車が急ブレーキを立てて止まった。シートベルトをしていなければ車の天井にまで飛び跳ねていたかもしれない。トランポリンのように。
堪らなくなった修也は頭を抱えながら、
「何があったんですか?」
と、後部座席にいた修也が助手席に座っていた秘書に向かって問い掛けた。彼女は満面の笑みを浮かべながら、
「運転手さんがお手洗いに行きたいんですって。ちょうどいいからこの辺りで休憩にしまーす」
なんとでもないかのような口調で事情を説明するばかりか、休憩時間まで勝手に決定付けた。いや、実際になんてことはないのだが……。
どこか釈然としない思いを胸に抱えつつも修也たちはコンビニエンスストアの前で休憩となった。運転手の後で各自お手洗いを済ませることになっていたが、麗俐や悠介はコンビニの雑誌スペースで自身の端末から最新のデータを入れている姿が見えた。
無駄遣いかと目を光らせたが、すぐに事情を理解した。2人がダウンロードしたのは立ち読み分。言うなれば無料で読めるお試しの部分。そうであれば特に咎める必要もあるまい。
そこまで考えたところで修也は2人が共通で好きであったバスケットボールを題材にした漫画の発売日が今日であったことを思い出す。2人とも手洗いへま行かず盛り上がっている姿から察するに十中八九違いあるまい。
溜息を吐いた後で修也が暇つぶしがてらにコンビニエンスストアを物色しいた時のこと。
「お疲れ様です。大津さん」
と、飼い猫が撫でてほしいと言わんばかりに喉を鳴らすような甘い口調で言った。
「あっ、はい」
「今から戻りますんで、よろしくお願いします」
修也は声に従ってコンビニエンスストアを出ようとしていたが、その前にある商品が目に飛び込む。惣菜や菓子の役割を果たす多くのパンが並べられた昔ながらのコーナー。そのコーナーの目立つ中央部分、それはコーナーを訪れた人が目を引くように並べられていた。
間違いない。鳩の顔と翼が記されたビニールパックの中に仕舞い込まれていたのは惑星オクタヴィアの宴席で口にした三角形のパイの姿。
これからデ・レマと会いに行くという前になんという偶然だろうか。物珍しさに負けた修也は早速パイを購入したのであった。
「お父さん? そのパイは?」
車の中で大事そうに抱えるパイを見ながら麗俐が問い掛けた。
「あぁ、これはね。私が惑星オクタヴィアで口にしたパイだよ。中に鳥の肉が詰まっていてとても美味しいんだよ」
修也はまるでグルメ漫画に登場する主人公のようなねっとりとした口調で購入したパイを2人の子どもたちへと見せていく。
パイのせいか、修也の中からはすっかりと緊張というものが消え去っていた。まるで、最初からそんなものは存在していなかったとでも言わんばかりに。
緊張でガチガチとなっていた先ほどの修也とは対照的に穏やかな笑みを浮かべる修也。こちらの方が安心して外交に臨めると考えるのは気のせいではあるまい。
心の軽くなった修也の前で車が停まり、目的地である高級ホテルの前へと辿り着いた。高級ホテルという名称に相応しく、赤くて長い絨毯が敷かれ、巨大な回転扉が門番のように立ち塞がっている。
生まれて初めて高級ホテルを見たことで、気後れしてしまい巨人に睨まれたかのようにその場で立ち尽くす大津一家を放って先に秘書が扉をくぐっていく。チェックインを行うために。
コンビニやスーパーに行くかのような気軽さでエントランスをくぐる秘書を見て、修也は改めて感覚の差を見せつけられた。
と、ここで弱気になってはならない。修也は心を落ち着かせながらエントランスをくぐり、ホテルの中へと足を踏み入れた。
机の上には修也の好物である唐揚げにキャベツを添えたもの、ひじきの煮物、茶碗の中に古墳のように行儀よく積まれた白米、豆腐と白菜の味噌汁が並んでいた。
修也は「いただきます!」と叫んだ後で唐揚げへと手を伸ばす。皿の上に載っていた唐揚げの数は4個ほど。それも冷凍食品ではない。全てがひろみによって作られた手作りのもの。
塩やマヨネーズ、レモンをかけるといったこんな美味そうな唐揚げに調味料を掛けるのは作ってくれたひろみに対しても唐揚げに対しても失礼というものだろう。
修也は用意された不恰好かつ大きくボリュームのある唐揚げを箸で切り、食べやすくした後に口の中へと放り込む。同時に口の中一杯に旨みというものが広がっていく。
唐揚げのサクサクとした衣と鶏肉のジューシーな食感が合わさり、口の中で絶妙なハーモニーを奏でていた。
よく料理番組や漫画で見るような旨さの洪水というのは今のような状況を指していうのかもしれない。
修也は唐揚げの楽しさを味わうのと同時にこの旨さが失われることがない世界が存続したことに感謝の念を送りながら唐揚げを噛みしめる。修也はふと食卓で食事を取る家族へと目を向けた。何かを意識したり、深い意味を持つわけではない。ただ気になったから向いた、それだけのこと。
麗俐も悠介も唐揚げに夢中だ。二人とも互いの唐揚げに視線を向け、隙あらば奪い取ろうと睨み合う。ライオンに奪われた獲物を狙おうとするハイエナのように虎視眈々と。
宇宙にいる間は見ることができなかったような光景である。生きて人間の料理を食べられることができるのも地球上にいるお陰。
宇宙の果てではその星の料理以外はレトルト食品を口にすることかしかできない。修也の頭の中に思い浮かぶのはこれまで辿っていった星の記憶。
あらゆる星々で使節として歓待を受け、その星のその地域におけるご馳走を口にしたが、やはり家庭の味には変えられない。どこかSFじみた話とはなるのだが、もし世界最後の日。最後に食べたいのかを聞かれれば、やはり家庭の料理と答えるだろう。
それも自分が作るものではなく、ひろみが作る手作りの料理。どこの星のご馳走よりも変え難い存在であるには違いない。
平穏な食卓。誰にも犯されることがない幸せな時間。
だが、その落ち着いた時間も今日が最後となるだろう。修也は気怠る気な様子で中央に置かれたテレビに映るニュース映像を見やっていく。残業中の書類を見るかのような鬱陶し気な顔を浮かべて。
ニュース内には異星の星の王女二人の姿が連日映し出されていた。ゴシップに飢えていたこともあってか、二人を持ち上げる報道はどのニュースよりも多い。
どこにいてもカメラのフラッシュが焚かれたり、記者からインタビューのためのマイクが向けられる様子に2人も辟易しているだろうが、仮にも2人は国賓。
カメラやマイクから逃げることができないのは宿命というべきだろう。2人の動向に日本人のみならず世界中の人々が注目の目を向けているのだから。
しかしその一方で政府が対応に窮しているのも事実。国会では連日、伊達首相に対して二人の王女の処遇を求める議会が開かれていた。
やはり現実的な問題として国賓待遇にかかる資金や諸外国との関係問題、それにまつわる今後の処遇に関して議論が起きるのは当然というべきだろう
それに加えて、毎日のように襲いくる『賞金稼ぎ』の存在。毎度、毎度失敗に終わるとはいえ警備の費用もばかにならないだろう。インターネットの情報によると警視庁からも批判の声が上がっているらしい。
修也はそうした諸々の事情によって四方八方から責められる伊達首相を哀れに思いつつも唐揚げへと手を伸ばす。
しかし同情ばかりもしていられない。自分も明日になれば伊達首相と同じ立場、もしくはそれ以上の窮地へと追い込まれてしまう羽目になるのだ。少し顔を合わせただけの首相に対して同情を示すよりも体力をつけるなければならない。白米をかき込み、唐揚げを口にするのはそういった事情が含まれている。
すっかりと狸のように膨らんだ腹を摩り、お腹を落ち着かせた後で修也が食事を終え、ひろみの代わりに食器を洗い、乾燥機へとかけていた時のこと。
「ねぇ、そういえば明日だよね」
ひろみが不安そうに目を泳がせながら言った。寿司屋のお湯呑みに入った緑茶を差し出す彼女の手が震えていたのは不安からきたものだろう。
当然といえば当然だ。相手は国賓。他の星から来たといっても外国の首脳に相当する人物であるには違いない。下手なことをすれば修也の人生にも影を差す。ひろみが不安に陥るのも仕方がない。期末テストが近付くにつれて落ち着きがなくなっていくようなものだ。
そんなひろみの手を優しく握り、落ち着かせるようなゆっくりとした音色で話しかけていく。
「大丈夫だよ。デ・レマ殿下とは惑星オクタヴィアでは随分と親しくしていたのだし、シーレ殿下に至っては悠介の彼女だぞ」
「そ、そうだよね。あなたがそう言うんだったら」
表面上は安心したように言っていたが、ひろみの目は落ち着きがなかった。これこそが一市民の感覚。当然の反応を見せたに過ぎない。
一市民というのであればひろみにはそう言ったものの、修也とて不安に苛まれている。
もし、下手なことをすればもう一度会社をクビになってしまうかもしれない。日本の法律的に修也はお咎めなしなのだろうが、それでも社会的な地位の低下は避けられないだろう。
うだうだと悩みの多い知識人のように頭を抱えなければならない修也であったが、ひろみと同様に取り乱すことがなかったのは宇宙での長い経験が彼の心を頑強にしたからというより他にない。
どのような事情があるにしろ、時間というものは平等に過ぎていく。
結局、覚悟が決まらぬまま翌日を迎えた。
朝の8時。修也は悠介の声で目を覚ます。正確にいえば心地良い夢の世界から現実の世界へと引き戻されたといった方が正しいだろう。パジャマ姿の修也は両目を擦りながら上半身を起こす。
「おぉ、悠介。おはよう」
「おはようじゃないよ。もうそろそろ時間だよ。これ飲んで早く着替えてくれ」
悠介は机の上に置いていた栄養剤を手に取ると、それを修也の掌の上へと握らせる。リレー競技でバトンを渡すかのように。
修也は風邪薬を飲み込むように栄養剤を口の中へと放り込む。悠介が用意したペットボトルの水を使って飲み干すと、体を屈伸させた後でフラフラの状態となって洗面場へと向かう。洗面場で自動カミソリを使って夕方髭もろとも今日の髭を剃り落とし、化粧水と乳液による洗顔を行う。洗顔で目を覚ました後で修也はもう一度部屋へと籠り、備え付けられていたクローゼットからスーツを取り出す。
三日前にスーツを持ってきた青いワンピースを着た秘書こと水嶋さくらの言葉によればこの日のために用意した特別なスーツだとのこと。
その証明とでも言わんばかりに用意されたネイビーのスーツは光沢を放っていたし、極め付けは普段着ないようなお洒落なベスト。これを最後に身に付けたのは学生時代の打ち上げが最後ではなかっただろうか。
今、修也が着用しているようなスーツは通訳として同行するジョウジとカエデの両名にも同様のものが与えられるとのこと。
秘書の話によれば悠介と麗俐には制服だそうだ。やはり2人の年齢が学生であるからだろう。
学生の年齢であれば礼装として身に付けるのに最適であるのはスーツよりは学生服で間違いない。
修也がイギリス製の名のあるブランドが作ったというゴールドとブルーのストライプネクタイをクローゼットに備え付けられた鏡の前で巻いていると、階下から2人の呼ぶ声が聞こえる。
そろそろ行かなくてはならない。修也がネクタイを締め終えると、そのままクローゼットを閉めて階下へと降りていく。
既に玄関の前では青いワンピースを着た例の秘書がいつもの機械のような張り付けた不気味な笑顔を浮かべて待ち構えていた。
「お久しぶりです! 大津さん!」
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
相変わらずのハイテンションと保育士が幼児に接するような態度。自分は既に成人してから20年以上も経つというのに……。どこか侮辱されているような気になってしまう。
部屋に隅に集めた練り消しのように小さな不満が溜まっていることもあってか、入社して数ヶ月が経つというのに秘書の不自然な態度には未だに慣れない。部屋に棲みつく幽霊を見ているような感覚といえばいいだろうか。
まさしく塵が積もったような不安を胸に秘めていたこともあってから困ったような顔を浮かべていた修也を青いワンピースを着た秘書が強引に自宅の玄関から引き摺り出し、家に前に停めていたと思われる黒塗りの高価な中へと押し込む。
有無を言わさずと言わんばかりの強引さ。修也は思わず辟易してしまった。
既に黒塗りの浮遊車の後部座席にはメトロポリス社が経営している私立高校の制服に身を包んだ悠介と麗俐の姿が見えた。
どうやら子どもたちは先に乗っていたらしい。修也は苦笑しながら逃げるように窓の外へと視線を移す。
浮遊車は見慣れた町田市の町をゆっくりと過ぎ去っていく。待ち合わせとなる東京方面へと向かって。
助手席に腰をかける秘書の話によれば東京の最高級ホテルで二人の王女と相棒のアンドロイドは待ち構えているとのこと。
修也は改めて胸を弾ませていった。オクタヴィアヌスでは敬意を持って接していたはずだし、今回の来訪も同様に敬意を持って接するつもりではいるが、修也はあくまでもただの会社員。
外交官が行うような完璧な礼儀作法を取れと言われれば自信はない。
修也が落ち着かない様子で指を動かしたり、足をそわそわとさせている様子とは対照的に悠介はといえば久し振りに会うガールフレンドにすっかりと胸を弾ませていたらしい。
もう少しで最愛の恋人に会えるという喜びからか、隣に座る麗俐にもしきりとシーレの思い出を語っていた。
何度も何度も同じような話を繰り返すので、いい加減にしろとばかりに目を伏せていた麗俐であったが、修也も緊張のせいで助け舟を出すどころではない。
結婚式に出席するかのような気軽な態度をしている子どもたちを羨ましく思っていると、浮遊車が急ブレーキを立てて止まった。シートベルトをしていなければ車の天井にまで飛び跳ねていたかもしれない。トランポリンのように。
堪らなくなった修也は頭を抱えながら、
「何があったんですか?」
と、後部座席にいた修也が助手席に座っていた秘書に向かって問い掛けた。彼女は満面の笑みを浮かべながら、
「運転手さんがお手洗いに行きたいんですって。ちょうどいいからこの辺りで休憩にしまーす」
なんとでもないかのような口調で事情を説明するばかりか、休憩時間まで勝手に決定付けた。いや、実際になんてことはないのだが……。
どこか釈然としない思いを胸に抱えつつも修也たちはコンビニエンスストアの前で休憩となった。運転手の後で各自お手洗いを済ませることになっていたが、麗俐や悠介はコンビニの雑誌スペースで自身の端末から最新のデータを入れている姿が見えた。
無駄遣いかと目を光らせたが、すぐに事情を理解した。2人がダウンロードしたのは立ち読み分。言うなれば無料で読めるお試しの部分。そうであれば特に咎める必要もあるまい。
そこまで考えたところで修也は2人が共通で好きであったバスケットボールを題材にした漫画の発売日が今日であったことを思い出す。2人とも手洗いへま行かず盛り上がっている姿から察するに十中八九違いあるまい。
溜息を吐いた後で修也が暇つぶしがてらにコンビニエンスストアを物色しいた時のこと。
「お疲れ様です。大津さん」
と、飼い猫が撫でてほしいと言わんばかりに喉を鳴らすような甘い口調で言った。
「あっ、はい」
「今から戻りますんで、よろしくお願いします」
修也は声に従ってコンビニエンスストアを出ようとしていたが、その前にある商品が目に飛び込む。惣菜や菓子の役割を果たす多くのパンが並べられた昔ながらのコーナー。そのコーナーの目立つ中央部分、それはコーナーを訪れた人が目を引くように並べられていた。
間違いない。鳩の顔と翼が記されたビニールパックの中に仕舞い込まれていたのは惑星オクタヴィアの宴席で口にした三角形のパイの姿。
これからデ・レマと会いに行くという前になんという偶然だろうか。物珍しさに負けた修也は早速パイを購入したのであった。
「お父さん? そのパイは?」
車の中で大事そうに抱えるパイを見ながら麗俐が問い掛けた。
「あぁ、これはね。私が惑星オクタヴィアで口にしたパイだよ。中に鳥の肉が詰まっていてとても美味しいんだよ」
修也はまるでグルメ漫画に登場する主人公のようなねっとりとした口調で購入したパイを2人の子どもたちへと見せていく。
パイのせいか、修也の中からはすっかりと緊張というものが消え去っていた。まるで、最初からそんなものは存在していなかったとでも言わんばかりに。
緊張でガチガチとなっていた先ほどの修也とは対照的に穏やかな笑みを浮かべる修也。こちらの方が安心して外交に臨めると考えるのは気のせいではあるまい。
心の軽くなった修也の前で車が停まり、目的地である高級ホテルの前へと辿り着いた。高級ホテルという名称に相応しく、赤くて長い絨毯が敷かれ、巨大な回転扉が門番のように立ち塞がっている。
生まれて初めて高級ホテルを見たことで、気後れしてしまい巨人に睨まれたかのようにその場で立ち尽くす大津一家を放って先に秘書が扉をくぐっていく。チェックインを行うために。
コンビニやスーパーに行くかのような気軽さでエントランスをくぐる秘書を見て、修也は改めて感覚の差を見せつけられた。
と、ここで弱気になってはならない。修也は心を落ち着かせながらエントランスをくぐり、ホテルの中へと足を踏み入れた。
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地味なスキル**【収納】**しか持たないと馬鹿にされ、勇者パーティーを追放された主人公。しかし、その【収納】スキルは、ただのアイテム保管庫ではなかった!
無限にアイテムを保管できるだけでなく、内部の時間操作、さらには指定した素材から自動でアイテムを生成する機能まで備わった、規格外の無限チートスキルだったのだ。
追放された主人公は、このチートスキルを駆使し、収納空間の中に自分だけの理想のダンジョンを創造。そこで伝説級のアイテムを量産し、いずれ世界を驚かせる存在となる。そして、かつて自分を蔑み、追放した者たちへの爽快なざまぁが始まる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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