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本編
第八十話 夜の約定
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◆◆◆◆◆
墨の匂いに混じって、ほのかに焚かれた香の香りが漂っていた。
紙束が高く積まれ、版木と刷毛が並ぶその部屋は、武士の集う座敷というよりも、戦の前の陣のような、張り詰めた空気を孕んでいた。
「どうぞ」
静かに声をかけたのは、大石内蔵助だった。
桐原は礼を尽くして膝を進め、正面に座を取る。
その一挙手一投足を、少年――大石主税がじっと見つめていた。年の頃は十五、六。細身ながら背筋は真っ直ぐに伸び、目の奥には年齢にそぐわぬ鋭さがあった。
「上杉吉憲さまの名代にて参上仕りました。桐原清十郎と申します」
内蔵助は頷くと静かに口を開いた。
「伏見でお会いしましたな。たしか、吉憲殿の近習であったか?」
「はい、左様にございます」
主税の視線がわずかに揺れ、そして静かに問いを重ねた。
「……吉憲殿は、お見えにならぬのですか」
その声には、若者らしい張りとともに、どこか探るような色があった。
「恐れながら、主君の御身を案じ、私ひとりにて参りました」
「案じて、来ぬ……」
主税の目が細くなる。
「それは……臆病風に吹かれたと、そういうことでは?」
空気がきしむような沈黙が流れた。
桐原は即座に反応せず、ただ静かに主税の眼差しを見返す。
ふっと、ごくわずかに空気が張り詰めた。
口角は動かぬまま、けれど、その身体から放たれる気配が微かに変わる。
――殺気。
主税の喉が、ごくりと鳴った。
気づかぬうちに、指が刀の柄に添っていた。
「主税」
鋭くはない、だが空気を断ち切るような声が、父の口から落ちた。
「……下がれ」
「しかし――」
「無礼を詫びよ。客人だ」
しばしの沈黙ののち、主税は視線を伏せ、口を結んだ。
「……不躾を、詫びます」
言い置いて立ち上がり、紙束の横をすり抜け、音もなく部屋の奥へと姿を消した。
残された空間には、墨と香の香り、そして若い熱の余韻が、かすかに漂っていた。
内蔵助は、穏やかに視線を戻し、微笑を浮かべる。
「……若い者は血が騒ぐものです。どうかご容赦を」
「いえ、礼を尽くしていただき、感謝申し上げます」
桐原は変わらぬ姿勢で、静かに頭を下げた。
ややあって、内蔵助は積まれた紙束のひとつに手を伸ばし、手元に引き寄せる。
刷り立てのかわら版――
墨の乾ききらぬその紙面には、大きくこう記されていた。
「吉良討つべし――民の声、空を裂く」
「……お目通しになりましたかな」
「はい」
「それでも、参られた」
「……はい」
視線が交わる。
内蔵助の瞳は、笑っているようにも見えた。だが、その奥底は深く、決して読めぬ。
桐原は悟っていた――試されているのは、言葉だ。
この場で武器となるのは、刀ではない。言葉こそがすべて。
桐原は静かに身を起こし、凛とした声音で言った。
「申し上げたいのは、ただひとつ。吉良家に討ち入りし、必ずや吉良上野介の首を取っていただきたい。ただし――義周様にだけは、手出しをお控え願いたい」
わずかに間を置き、言葉を継ぐ。
「もしもこの願いが聞き入れられぬのであれば、我らは吉良家の防備を固め、徹底して抗戦いたします」
その声は、決して強くはなかった。
だが、その一語一語は胸の奥で研ぎ澄まされた刃のように、まっすぐに澄み切っていた。
◆◆◆◆◆
墨の匂いに混じって、ほのかに焚かれた香の香りが漂っていた。
紙束が高く積まれ、版木と刷毛が並ぶその部屋は、武士の集う座敷というよりも、戦の前の陣のような、張り詰めた空気を孕んでいた。
「どうぞ」
静かに声をかけたのは、大石内蔵助だった。
桐原は礼を尽くして膝を進め、正面に座を取る。
その一挙手一投足を、少年――大石主税がじっと見つめていた。年の頃は十五、六。細身ながら背筋は真っ直ぐに伸び、目の奥には年齢にそぐわぬ鋭さがあった。
「上杉吉憲さまの名代にて参上仕りました。桐原清十郎と申します」
内蔵助は頷くと静かに口を開いた。
「伏見でお会いしましたな。たしか、吉憲殿の近習であったか?」
「はい、左様にございます」
主税の視線がわずかに揺れ、そして静かに問いを重ねた。
「……吉憲殿は、お見えにならぬのですか」
その声には、若者らしい張りとともに、どこか探るような色があった。
「恐れながら、主君の御身を案じ、私ひとりにて参りました」
「案じて、来ぬ……」
主税の目が細くなる。
「それは……臆病風に吹かれたと、そういうことでは?」
空気がきしむような沈黙が流れた。
桐原は即座に反応せず、ただ静かに主税の眼差しを見返す。
ふっと、ごくわずかに空気が張り詰めた。
口角は動かぬまま、けれど、その身体から放たれる気配が微かに変わる。
――殺気。
主税の喉が、ごくりと鳴った。
気づかぬうちに、指が刀の柄に添っていた。
「主税」
鋭くはない、だが空気を断ち切るような声が、父の口から落ちた。
「……下がれ」
「しかし――」
「無礼を詫びよ。客人だ」
しばしの沈黙ののち、主税は視線を伏せ、口を結んだ。
「……不躾を、詫びます」
言い置いて立ち上がり、紙束の横をすり抜け、音もなく部屋の奥へと姿を消した。
残された空間には、墨と香の香り、そして若い熱の余韻が、かすかに漂っていた。
内蔵助は、穏やかに視線を戻し、微笑を浮かべる。
「……若い者は血が騒ぐものです。どうかご容赦を」
「いえ、礼を尽くしていただき、感謝申し上げます」
桐原は変わらぬ姿勢で、静かに頭を下げた。
ややあって、内蔵助は積まれた紙束のひとつに手を伸ばし、手元に引き寄せる。
刷り立てのかわら版――
墨の乾ききらぬその紙面には、大きくこう記されていた。
「吉良討つべし――民の声、空を裂く」
「……お目通しになりましたかな」
「はい」
「それでも、参られた」
「……はい」
視線が交わる。
内蔵助の瞳は、笑っているようにも見えた。だが、その奥底は深く、決して読めぬ。
桐原は悟っていた――試されているのは、言葉だ。
この場で武器となるのは、刀ではない。言葉こそがすべて。
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「申し上げたいのは、ただひとつ。吉良家に討ち入りし、必ずや吉良上野介の首を取っていただきたい。ただし――義周様にだけは、手出しをお控え願いたい」
わずかに間を置き、言葉を継ぐ。
「もしもこの願いが聞き入れられぬのであれば、我らは吉良家の防備を固め、徹底して抗戦いたします」
その声は、決して強くはなかった。
だが、その一語一語は胸の奥で研ぎ澄まされた刃のように、まっすぐに澄み切っていた。
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