白猫と時渡りの杖

深山恐竜

文字の大きさ
21 / 44

第20話

しおりを挟む
 その夜、ネルケが自室に戻ったあと、キルクトーヤはひそかに厨に向かった。厨の戸を開き、肉を刻んで皿に移す。そして厨の裏口から外に出る。

「出ておいで~」

 キルクトーヤは小さな声で呼びかける。
 入院している間、野良猫に餌やりができなかったのだ。彼は野良猫一家を心配していた。
 しかし、いつまで経っても野良猫は現れなかった。いつもならキルクトーヤが来ただけでにゃあにゃあと鳴いて猫が集まるのだが。
 キルクトーヤは草むらの中をかき分けて猫の姿を探したが、結局猫は一匹も見当たらなかった。
 キルクトーヤはそのうち食べにくるだとうと思い、餌を乗せた皿をそっと置いて立ち去った。

 部屋に戻り、師に課された課題をこなしていると、キルクトーヤの部屋の窓がノックされた。飛行魔術の専門書と悪戦苦闘していたキルクトーヤであるが、すぐに顔をあげ、窓を開けた。ジークからの鳩が来たのかと思ったのだ。
 しかし、そこにいたのは鳩ではなく、ジーク本人だった。彼は茶色いコートを着ている。
 キルクトーヤは目を見開く。
「え……!」
「静かに」
 彼はいたずらが成功したときの子どものような笑顔を浮かべている。
「寮に見習いと老師以外が立ち入ると怒られてしまうらしいじゃないか? でも、面会室ではゆっくり話せないからね。いまいいかい?」
 そのまま立ち話を始めそうな勢いのジークに、キルクトーヤは慌てた。
「中に入ってください」
「いいのか?」
「まあ、ばれなければ」

 寮に部外者を入れるには許可が必要である。しかし、まさか英雄ジークを外に立たせたままというわけにもいかない。
 ジークは軽やかに窓枠を飛び越えて中に入った。彼の靴の音が部屋に落ちる。
 見慣れた見習いの部屋にジークがいる。キルクトーヤは彼を迎え入れたのはいいが、次に続けるべき言葉が見つからなかった。キルクトーヤの目には、部屋の質素さと、ジークの着ている高そうなコートの対比が奇妙に映った。

 ジークは部屋を見渡した。そしてすぐに机の上に彼が贈った星座図鑑が置かれていることに気が付いた。
 彼はその滑らかな表紙を撫でた。
「大事にしてくれていてうれしいよ」
 彼はそう言って笑う。
 図鑑は何度も頁がめくった跡がついている。今となっては、この図鑑はキルクトーヤにとって大事なお守りだ。

 キルクトーヤは礼を言った。
「ありがとう、ございました。図鑑、その、ちゃんとお礼、言ってなかった気がして」
「ふふ。礼としてあげたものだから、さらに礼はいらないよ」

 キルクトーヤは続ける。
「星の神の瞳の話も、ありがとうございます……。おかげで、よく眠れるようになりました」
 ジークは少し首を傾げた。
「……その話は十年前に君が私にしてくれた話なんだよ。その話が、ずっと私の支えだった」
「え?」
 キルクトーヤは驚く。キルクトーヤが驚いたことに、ジークも驚く。二人は無言で見つめ合った。

 沈黙を破ったのはジークだった。
「いや、この話はよそう」
 彼はキルクトーヤから目をそらした。そして話題を変える。
「それより、取り調べが終わったとき、迎えに行けなくて悪かったね」
「いえ、そんな。憲兵詰所から学校までは近いですから……。助けに来てくれて、ありがとうございました」
「惚れた人を助けるのは、当然だよ」
「ほっ……」

 ジークはキルクトーヤの顔を覗き込む。キルクトーヤは目をそらした。頬がかっと熱くなる。しかし、その熱は瞬く間に冷えていった。
 キルクトーヤはジークの命を救ったことなどない。ジークの言う「命の恩人」はキルクトーヤではないのだ。思い上がってはいけない。

 キルクトーヤが黙り込んでいると、ジークはふっと笑った。
「私の昔話をしてもいいかい?」
「昔話?」
「私も孤児なんだ」
「……はい」

 友人たちがそんな話をしていたのを思い出す。その話を聞いたときは何も思わなかったが、ジーク本人を目の前にすると、孤児でありながら子爵の地位まで上り詰めた彼がまぶしく思えた。

 ジークは続ける。
「人攫いにあってね。イカレた男に買われたんだ。私は目隠しをされていて、顔は見えなかったが……」

 言葉を区切る。それから目を伏せた。彼は何度が口を開けては閉めた。そして何度目かにようやく言葉を発した。

「ナハトが売買した子どものリストに、私の名前があったよ」
「……!」

 キルクトーヤは息を呑んだ。
 ジークは力なく笑った。

「私を買った男は、……ナハトは私を殺そうとしていたよ。……助けてもらえたのは奇跡だった」
「もしかして、そのとき……助けたのが僕……?」
「……そうだと思っていたんだ。でも、確かによく考えると、いまから十年も前の話だ。君であるわけがないな」
「……僕、その頃はまだ八歳で……」
 キルクトーヤは肩を落とす。
 反対に、ジークは身を乗り出す。
「でも、その時だけではないんだ。君には二度も助けられた」
「二度?」

 キルクトーヤは目を丸める。ジークは悲し気に笑った。

「覚えていない?」
「……覚えていないです。それは、いつですか」
「三カ月前だよ。私がグレンツェ地域で魔族を退治したときだ。そのとき確かに君に会って、名前を教えてもらったんだ」

 そこまで聞いて、ようやくキルクトーヤはジークが持っていた杖のことを思い出した。キルクトーヤの名が刻まれた杖だ。ジークはグレンツェ地域でキルクトーヤが落としたのだと言っていた。

「つまり、僕がグレンツェ地域で魔族と戦っていたあなたを助けて、杖を落としたってことですか?」
 ありえない、という気持ちで尋ねるが、ジークはあっさりとそれを肯定する。
「そうだよ」
 キルクトーヤは首を振る。
「……僕、ずっと学校にいました……」

 キルクトーヤはこの三年、ナハトの影を恐れて学校を離れたことは数える程度しかない。
 ジークはじっとキルクトーヤの目を見つめた。キルクトーヤの心の奥を見るような目だった。

 彼は言う。
「……すべて私の願望が見せた幻だったのかもしれないね」
「……」
 「でも」とジークは力強く言った。
「キルクトーヤ。君が覚えていなくとも幻であったとしても、私は君を見つけだした。君と今後いっしょに歩いていきたいと思っている」
「……」
「領地をいただいたんだ。結婚して、いっしょに領地に来てくれないか?」

 突然の申し出に、キルクトーヤは言葉がでなかった。
 ジークの命を救ったのは自分ではない。この結婚の申し出を、どう受け止めればいいのかわからなかった。

 キルクトーヤは言葉を絞り出した。
「少し、考えてもいいですか」
「もちろんだとも。ゆっくり考えてくれ」

 ジークは笑い、去っていった。

    *

 忘れている。自分は何か大切なことを忘れている。
 ナハトは言った。

 ――あの日のことをお前が覚えていないことだけは無念だ。

 そしてジークも言う。

 ――どうして君が覚えていないのか、それは僕にもわからないけれども。

 十年前、ナハトは孤児だったジークを買った。そのときに何かが起きたのかもしれない。ただ、そこにキルクトーヤはいなかったはずだ。少なくとも、キルクトーヤにそれらしい記憶はない。

 キルクトーヤは自室のベッドで横になりながら、ぼんやりと十年前の記憶をたどる。しかし、記憶の中には、両親と暮らしているただ幸せな八歳の子どもがいるだけだった。
 ごろりと寝返りを打つと、誰もいない自分の部屋を見渡す。部屋はいつもと同じだ。さきほどまでジークがいたとは信じられないくらいだ。

 ついさっき、キルクトーヤはここで結婚の申し込みをされたのだ。
 胸が痛い。
 差し出してくれた彼の手を何も考えずに取れたらどれほど幸せだろうと思う。
 しかし、ジークは十年前に彼の命を救い、結婚の約束をした人を探している。それはキルクトーヤではない。キルクトーヤ自身がわかっている。

 そしてそれを確信させたもうひとつの話。
「三カ月前、グレンツェ地域」

 ――確かに君に会って、名前を知ったんだ。

 ジークはそう言うが、その記憶もキルクトーヤにはない。
 十歳のときの記憶がないのはともかくとして、たった数か月前の記憶がないということはありえない。
 ぐるぐると思考し、さまざまな可能性を模索するが、どこまで考えても結局ジークの勘違いという結論以外にたどりつけない。他にない。キルクトーヤは彼と結婚できない。

 キルクトーヤはため息をついた。もうこれ以上考えるのはよそう。そう思って目をつむる。

 胸の奥のちくちくとした痛みには気が付かないふりをする。それに気が付いてしまうと、さらに自分が苦しむだけだ。
 そしてしばらくすると、息苦しさを感じた。まるで胸の上に重りを置かれたかのようだ。耐えかねて目を開くと、胸の上に白い毛玉がいた。

「猫?」

 思わず声が出た。毛の長い、白い猫。それがキルクトーヤの胸の上で丸くなって眠っていた。キルクトーヤが見つめていると猫はもぞもぞと動いて、のんびりとあくびをした。そして吊り上がった目をこちらに向ける。その瞳は虹色の光彩をもっている。

「やあ、いい夜だね」

 猫が、話した。キルクトーヤはしばし固まったあと、それからようやくこの存在が何であるかを理解した。虹色の瞳は、精霊の証である。

 キルクトーヤは口を開いた。
「……精霊?」
「そういうお前は見習いだね」
 白猫はしっぽをゆらす。キルクトーヤはそれを目で追った。
 白猫は高慢に言う。
「愛らしいだろう? 撫でてもいいんだよ?」
「え、いいの?」
「もちろんさ」

 キルクトーヤは毛布から片腕を出すと、その白い毛玉に触れた。やわらかく、あたたかい。ゆっくりと手を毛に沈めていく。長い毛はキルクトーヤの手をすっぽり飲み込んだ。

 キルクトーヤは感嘆した。
「もふもふだ……!」
 白猫は得意げに言う。
「自慢の毛並みさ」
「……なんで精霊が、ここに?」
 白猫はじっとこちらを見た。試すような、見透かすような目だ。そして言う。
「――そろそろ一人前になる時期だろう?」

 キルクトーヤは跳ね起きた。
 精霊の来訪。それは一人前の魔術師となるための試練の始まりだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聖獣は黒髪の青年に愛を誓う

午後野つばな
BL
稀覯本店で働くセスは、孤独な日々を送っていた。 ある日、鳥に襲われていた仔犬を助け、アシュリーと名づける。 だが、アシュリーただの犬ではなく、稀少とされる獣人の子どもだった。 全身で自分への愛情を表現するアシュリーとの日々は、灰色だったセスの日々を変える。 やがてトーマスと名乗る旅人の出現をきっかけに、アシュリーは美しい青年の姿へと変化するが……。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。

キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。 気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。 木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。 色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。 ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。 捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。 彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。 少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──? 騎士×妖精

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

攻略対象に転生した俺が何故か溺愛されています

東院さち
BL
サイラスが前世を思い出したのは義姉となったプリメリアと出会った時だった。この世界は妹が前世遊んでいた乙女ゲームの世界で、自分が攻略対象だと気付いたサイラスは、プリメリアが悪役令嬢として悲惨な結末を迎えることを思い出す。プリメリアを助けるために、サイラスは行動を起こす。 一人目の攻略対象者は王太子アルフォンス。彼と婚約するとプリメリアは断罪されてしまう。プリメリアの代わりにアルフォンスを守り、傷を負ったサイラスは何とか回避できたと思っていた。 ところが、サイラスと乙女ゲームのヒロインが入学する直前になってプリメリアを婚約者にとアルフォンスの父である国王から話が持ち上がる。 サイラスはゲームの強制力からプリメリアを救い出すために、アルフォンスの婚約者となる。 そして、学園が始まる。ゲームの結末は、断罪か、追放か、それとも解放か。サイラスの戦いが始まる。と、思いきやアルフォンスの様子がおかしい。ヒロインはどこにいるかわからないし、アルフォンスは何かとサイラスの側によってくる。他の攻略対象者も巻き込んだ学園生活が始まった。

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

【完結】その少年は硝子の魔術士

鏑木 うりこ
BL
 神の家でステンドグラスを作っていた俺は地上に落とされた。俺の出来る事は硝子細工だけなのに。  硝子じゃお腹も膨れない!硝子じゃ魔物は倒せない!どうする、俺?!  設定はふんわりしております。 少し痛々しい。

超絶美形な悪役として生まれ変わりました

みるきぃ
BL
転生したのは人気アニメの序盤で消える超絶美形の悪役でした。

処理中です...