推しの猫になりまして

朝比奈夕菜

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第二話

人は見かけによらない(2)

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 今日は大学が休みのようで、迅くんは散らかった部屋をひたすら片付けまくっていた。
 足の踏み場もなかったリビングはみるみるうちに整頓されていく。私はずっと見ているだけだったが、見ていて気持ち良いと思うくらいあっという間に片付いた。
 リビングを片付けると、次は遠くの方で水音がする。
 うずうずしてケージを出た。そろそろと足音を立てないように水音のする方へ向かう。
 猫って動いても音がしない。体も軽いし、柔らかい。
 猫になって冬馬くんに拾ってもらうまでは過酷な状況だったのであまり気付かなかったが、人間の時に毎日悩まされていた肩こり腰痛も、肩こりに伴う頭痛も全くない。たったそれだけのことでほっとしてしまう。
 いくら推しに癒してもらっていたとはいえ、社会人生活の過酷さを今更思い知った。
 音がするのは、どうやら浴室だった。迅くんはグレーのスウェットの袖口と裾をまくり、スプレー式の洗剤を左手に、歯ブラシを右手に持ってせっせと一心不乱に浴室の隅を洗っている。
 凶悪な表情でめちゃくちゃガンを飛ばしながらシャカシャカと歯ブラシを高速で動かしているので、汚れではなく何かの邪念をこすり落としているかのように見えた。
 迅くんは大学の友達と一泊二日で旅行に行っていたそうなので、そのたった二日間で冬馬くんが部屋をあそこまで散らかしたらしい。ある意味才能だ。いくら私でもそんな短期間に部屋を荒らせない。
 迅くんがどれだけの頻度で掃除をしているのかは知らないが、少なくとも私よりも丁寧に掃除をしているのは確かだ。
 掃除の様子は気になるが、これ以上近付くと迅くんに気付かれそうなので体を翻してケージに戻る。
 昨日は自分の置かれた状況に驚きすぎて家の様子が全く分からなかったので、軽い探検気分で帰る。
 どこもかしこも物で溢れかえっていたのに、今では塵一つ落ちていない。
 浴室とリビングのほかにもいくつか部屋があり、そのうちの一つの扉がわずかに開いていた。わずかに開いたその隙間になんだか体がうずうずしてしまい、じっと見つめてしまう。
 あそこに飛び込みたい。今すぐに。
 猫になって変わったものといえば味覚や嗅覚もそうだが、今まではなんとも思っていなかったものに急にときめいてしまう様になった。
 ひらひらと動くものや狭い所。それを見ると無性に飛びつきたくなる。おそらく猫の本能だ。
 でも、人の家で勝手に部屋を開けるのは人間としての良心が咎めた。
 ホラー映画なら碌なことにはならないし、私が逆にされる立場になるとマジでやめてくれと言う。
 猫の本能をなんとか人間の理性で押さえ込んで部屋の前を素通りしようとした時、
「……なにしてんだ」
『ひぃっ!?』
 地を這うような低い声が後ろから聞こえてきて、思わず飛び上がった。
 振り返ると、迅くんがものすごい凶悪な形相でこちらを見下ろしている。
『なななななななにも!?』
 迅くんが私が見ていた先を見て、チッと鋭い舌打ちをした。
「兄貴の奴、勝手に部屋に入りやがったな」
 凶悪な表情と声音ながらも、彼は丁寧な手つきで扉を閉めた。
 そして、ヤンキー座りをして私と目線を合わせに来る。人生ではじめてヤンキーにメンチ切られた。
「俺の部屋に勝手に入ったら」
『は、入ったら……?』
 ごくりと唾を飲み込んで、次の言葉を待つ。
 待ったのだが、いつまで経っても続きが出て来ず、迅くん本人も目線を右に左にと彷徨わせている。
「…………風呂に、入れるぞ」
『…………』
 散々迷った末の脅し文句がお風呂。
 多分、根がいい子なので暴力的な手段に出ることを躊躇われたのだろう。
 こっちもどう反応すればいいのか分からず無言になってしまい、向こうも言った後でやっぱ違うんじゃね? となっていることが窺えた。
『えっと、隙間が気になっただけで、人の部屋に勝手に入ろうとはゆめゆめ思わないので安心して下さい。私も自分の部屋に勝手に入られたら嫌ですし』
「……おう」
 許されていないのに勝手に人のプライベートを垣間見ることは大罪である。
 どうやら私の言いたいことは伝わったようで、迅くんはすくっと立ち上がって浴室の隣のトイレに入って行った。
 多分これからトイレを掃除するのだろう。
 本当に印象と本質が全く違っていて、分かっていても脳が混乱する。



 夕方を過ぎても冬馬くんは帰って来ず、迅くん一人の夕飯となるらしい。
 一人とはいえ餃子に青椒肉絲に卵スープという、私だったらやる気に満ち溢れた日に作るような贅沢メニューを涼しい顔をして作っていた。
「こっち来い」
 自分の夕飯の配膳が終わると、次は私の分のご飯の用意をしてくれたのだが、ケージの中に置くのではなく迅くんの前の席に置かれる。
『……一緒に食べていいの?』
「一人で飯食うのは味気ないだろ」
 なんでもないことの様にさらりと言って私の器を置くと、迅くんはさっさと自分の席に座って手を合わせる。
 何か話したいのだろうかとも思ったのだが、特に話を振られることも無く、迅くんは淡々と食事を口元に運んだ。少し量が多そうだな、と思っていた食事がみるみるうちに減っていく。
 私も迅くんが用意してくれていたご飯を頂いていたら、突然スマホのアラームが鳴った。
 迅くんがアラームを止め、リビングの大きなテレビを付ける。
『はうあっ!!』
 大画面に映し出されたのは、冬馬くんの姿だった。突然の推しの供給はやばいですって。事前情報ください。
 衣装を身につけ、ニコニコと笑ってMCの男性と話している。家にいる冬馬くんも素敵だけれど、プロ達が考えた最高に彼が輝く演出を施されて舞台に立つ姿はやはり一味も二味も違う。
 突然の冬馬くんで意識が飛びかけたが、年末にどこのテレビ局でも企画される歌番組だと気付いた。これからSeven Seasが曲をご披露してくださるらしい。ありがたや。
『ひぃっ!? ああああああ……!!!! そんなっ、ああっ、ご褒美ありがとうございます……!!』
 神懸かったカメラアングルで推しが抜かれた時は思わず悲鳴を上げてテレビに平伏す。どうかカメラマンさんのお給料を上げて欲しい。
 カメラ越しに推しに見つめられているのだ。トキメキが過ぎて命の危機を感じることもあるかもしれないので、危険手当もあった方がいいのかもしれない。
 推しを見る時に奇声を上げるのはいつものことなのだが、今は前の席に迅くんが座っている事を急に思い出した。
 やばい。兄を変な目で見ている気持ち悪いオタクだと思われたに違いない。
 別に自分が気持ち悪いオタクであり、自分たちが一般の方々には理解できない思考回路を持っていることも分かっている。
 理解できない自分たちの特殊な言動によって、一般人を怖がらせたり、不快な思いをさせてはいけない。オタクの中の不文律でもある。
 そして本性はどうであれ、一般人を装おって平穏無事に生きていたい気持ちも存在するのである。一般人の皮を被ることで要らぬ諍いを避けることもできる事も多いからだ。
 平然な顔を精一杯作って、バレないようにチラリと迅くんの様子を伺う。
『…………』
 最初は盗み見るだけのつもりだったのだが、迅くんがあまりにもテレビを熱心に見つめており、こっちの様子など微塵も気にしていないので思わずガン見してしまった。
 迅くんは両肘をついて両手を口元の前で組んでテレビを見つめている。某アニメの司令官のポーズだ。目を見開いて瞬きすらせず、ひたすらじっとテレビを見つめている。
 とりあえず向こうもこちらを気にしていなさそうなので、安心して推しを眺めることにした。
 自分の鼓動がうるさい。心臓にミュート機能って搭載できないのだろうか。いや、それ即ち死だと思うけれど。
 最後の決めポーズが致命傷だった。推しが輝き過ぎてつらい。うぐぐぐと蹲って自分の脳内で場面を反芻していて、再び迅くんの存在を思い出した。
 やばいやばいやばい。また自分の世界に没頭していた。今度こそ気持ち悪い奴って思われた。
 頭を上げてもう一度ちらりと迅くんの様子を伺う。
 迅くんは組んだ両手に額を乗せて沈黙していた。
 完全に身内がやらかした時の感じだ。そんなに目も当てられないほどの失敗とかあったっけ? MCは少しヒヤヒヤしたけど、トークがうまい他のメンバーが上手に回していたように見えたし、パフォーマンスだって良かった。
 たまに歌詞が飛んだりダンスのテンポがずれたりして、見ているこっちも心臓がヒュッとなることだってあるが、今日はそういう場面も特になかったと思う。
 やがて迅くんは大きく、そして長く息を吐き出して背もたれにもたれかかり、天井を見上げた。
 一体彼が何を思っているのか、私には全く分からなかった。
 その日は結局冬馬くんは帰って来ず、私は違法建築ケージで、迅くんは自分の部屋でそれぞれ就寝した。
 違法建築ケージの最上階でゴロゴロしながら、さっきの歌番組の場面を反芻していた。
 あああああ、自分の家だったら何度でも何度でも見直すのに……。せめてスマホがあれば……と思ったところではたと気付いた。
『私のスマホ!!』
 そうだ、私のスマホ。というかバッグ一式があったはずだ。確か冬馬くんが動物病院から帰ってくる時に飼い主に繋がる何かがあるかもしれないからって一緒に引き取っていたのを思い出す。もしかして警察に届けちゃったりとかしたのだろうか。
 あの時もどうにかしたかったのだが、私の言葉が通じない冬馬くんに言っても無理だと思ったのと、正直それどころではなくて頭の中からぶっ飛んでいた。
 しかも今は迅くんという意思疎通の可能な頼もしい味方がいる。
 自分のスマホさえあればこの状況がもっと打開できるのでは!? と一気に視界が開けたような気持ちになった。
 ウニャウニャ唸っていたら、向こうのほうで扉の開く音がして思わず固まった。
 リビングにやって来たのは人一人殺したのかと思うほど凶悪な顔をした迅くんだ。
「…………なんかあったか」
『い、イエ……』
 私が答えると、すぐにリビングから出て自分の部屋へ戻って行った。
 多分私がウニャウニャ言っていたから目が覚めたのだろう。悪いことをしてしまった。
 明日迅くんに事情を話して鞄を探してもらおう。
 そう決めて毛布の上で丸くなって目を閉じると、睡魔があっという間にやってきてうとうとする。人間だった頃は眠いのに眠れなくてうんうん言っていたのだが、それが嘘みたいだ。
 猫になるのも案外悪くないかもしれない。
 そう思ったのを最後に意識は途切れた。



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