不眠症の上司と―― 千夜一夜の物語

菱沼あゆ

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遥人の結婚式 ―千夜一夜の物語―

最後のデート

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 カピバラだ……。

 那智は子供たちに混ざって、しゃがみ、カピバラを眺めていた。

 カピバラの浴槽にかぶりつきの位置に居るので他の人の邪魔にならないようにだ。

 結婚式までにあった唯一の自由な休日。

 遥人は約束通り、那智をカピバラの湯浴みを見に連れてきてくれていた。

 昨夜は遅くまで仕事だったので、遥人は少し眠そうだった。

 だから、気を利かせて、運転を代わると言ってみたのだが、激しく拒絶された。

 まあ、結婚前に別の女と居るときに事故を起こしてもな。

 復讐前の大事な身体だし、と多少やさぐれて那智は思う。

 カピバラの居る浴槽からは湯気が立ち上っていた。

 だが、当たり前だが、見ている方は寒い。

 このなんとかランドが、山の中腹で吹きっさらしの場所にあるからだ。

 遥人に言ったら、
『なにが、なんとかランドだ。
 名前くらい覚えろ。

 カピバラ以下の知能か、お前は』
といつものように罵られたのだが。

 このカピバラ以下ってどうなんだろうな。

 カピバラは相変わらず、思索にふけっているのか、ただまったりしているのかよくわからない顔で湯に浸かっている。

「……専務は何故、これを見て私だと思ったんですかね」

 不満げにしゃがんだまま訊いてみたが、後ろに立つ遥人は、
「可愛いじゃないか」
とあっさりと言う。

「可愛いからだったんですか?」

 本当か? と振り返り問いただすと、
「なにも考えてなさそうだしな」
と案の定、付け加えてきた。

 やっぱり、そっちじゃないですか……。

 カピバラを堪能したあとで、他の人に場所を譲った。

 立ち上がり、歩き出すと、いっそう寒い。

 手袋持ってくればよかった、と那智は手のひらをこすり合わせる。

「寒いか」
と訊かれ、はい、と答えると、

「そうか。
 さっきから、ハエのように手をこすり合わせているから、そうかなと思った」
と遥人は言う。

 那智ほどには寒さを感じていないようだった。

 当たり前だが、スカートでないせいかもしれない。

 湖にかかった橋を渡りながら、
「その辺に手袋でも売ってないか」
と訊いてくる。

「あの、二、三、突っ込みたいことがあるんですが。
 まず、年頃の娘をハエに例えるのはどうでしょう。

 もうひとつ、こんなときは、カップルだったら、手とか握ってくれるんじゃないんですか?
 そういうセリフのあとには」

「……そんな高校生みたいな恥ずかしい真似はできん」

 少し赤くなって遥人は言った。

「でも、うちのお母さんと桜田さん、よく手をつないで歩いてましたよ」

「俺はできないんだ。
 人前では」

「人が居なかったらいいんですか?」

 突っ込んで訊いてくるなあ、という顔をする。

「だって……ちゃんとしたデートなんて、たぶん、これが最初で最後だから」

 ああ、言うまいかと思ったのに、言ってしまった。

 しんみりしてしまうではないか。

 そう思い、那智は話を切り替えた。

「映像見てるときはあったかそうだなって思ったんですけど。
 あれ、あったかいのは、カピバラだけですね」

「……当たり前だろうが」

 温かいのは湯に浸かっているカピバラ様だけ。
 人間は吹きっさらしで、ただ寒かった。

 あの映像での湯気の上がりようから察して、防寒着を増やしてくるべきだった。

「でも、見られて満足ですっ」
と拳を作ると、遥人は笑う。

「なにか食べるか」
と訊いてきた。

 はいっ、と那智は、先程までの物悲しい雰囲気を吹き飛ばすように、勢いよく答える。

 ともかく、なにか食べて温まりたかった。

「なにがいい?」
と訊かれ、結構たくさんあるレストランをパンフレットを眺めたあとで、那智は目の前を指差し、

「あそこで」
と言った。

「近いからか」

 ともかく中に入りたいんだろう、と遥人は笑う。

「それもありますけど。
 この強烈な匂いに惹かれない人は居ませんよっ」
と那智は力説した。

 那智が指差したそこは焼き肉屋だった。

 わかったわかった、と那智の勢いに押され気味な遥人がなだめるように言う。

 焼き肉を堪能したあと、他の動物も見に行った。

 膝を抱え、イジけているような手の長い猿が、厭世的になっているときの桜田に似ていると言って笑うと、遥人は、
「あの人でも、落ち込むときがあるのか」
と意外そうに言ってくる。

「結構ありますよ~。
 普段、自信満々なだけに、落ち込むと鬱陶しいこと、この上ないです。

 専務が尊敬するような人ではないですよ」
と言ってやると、遥人はこちらを見て笑う。

「なんですか」
とその顔つきの優しさに、ちょっと緊張しながら訊くと、

「いや、お前にとって、あの人は本当に家族なんだなと思って」
と言ってくる。

 那智はまだ、膝を抱えている猿を見ながら言った。

「家族ですよー。
 あの人が何者でも。

 お母さんと喧嘩して、長い間、私を放ったらかしにしていた人でも」

 遥人はなにか考えているようだった。

「……そうだな。
 家族ってのは、血のつながりじゃないよな」

「あの、専務」
と那智は遥人を見上げたが、今はなにも言わない方がいい気がして、

「次はあっち見たいです」
と指差した。

「そうか。
 俺はこの首に巻ける蛇とやらが気になるが」

「……冬眠してますよ、きっと」
「動物園だぞ、此処」

「冬眠してますよ」
と繰り返しながら、道端の看板を眺める遥人の腕をつかみ、引きずって逃げた。

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