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8 出会い- Side 雄大
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雄大の育った家庭は、簡単に言えば、幼い頃から崩壊していた。
顔だけは良かった父はくずな女たらしで、雄大が物心つく頃にはほとんど家に寄りつくことがなかった。珍しく帰ってきたと思ったら、大酒を飲んでは、子供たちを怒鳴り散らし怯えさせ、母とは夜中まで大喧嘩していた。
母は母で、夜、飲み屋街で働き、男の影が途切れることはなかった。家にはお金を持って帰ってくるだけで、――雄大と2歳年下の弟・翔多はそれで生きのびたのだが――またすぐに出て行って男の家に入り浸る。学校から帰ってきてテーブルの上に置かれているお金があると一度は帰宅したのだなと分かったが、たいてい母の姿は既になかった。雄大は小学生のうちから、弟と自分が生きるために、最低限の家事をこなすことを覚えた。母が家で夜眠るのは、男が途切れた期間だけだった。
実の両親がいつ離婚したのか雄大は知らない。
いつの間にか父は家に帰ってこなくなり、中学生になるころは、知らない若い男が「おとうさん」として家で我が物顔でのさばるようになっていた。「おとうさん」と話すときの母はただの女で、そしてそれから二度と雄大たちの母には戻らなかった。「おとうさん」は仕事をしていなかったように思う。母がずっと夜の仕事をしながら、彼を養っていた。
中学生のある時、体調が悪くて学校を早退すると、居間のソファーでまるで獣のように絡み合う2人をみてしまい、そのままトイレで吐き続けた。そして、その出来事はひどいトラウマとして彼の心に爪痕を残した。しかも彼らはその後も、子どもがいようがいまいが身体を繋げあっていて、狭いアパートの中に響き渡る母親の喘ぎ声は雄大を苦しめ続けた。それから雄大は家の中ではヘッドフォンを手放せなくなった。うっかり母親の艶声を聞くと、吐き気がするからだ。
そして雄大は性的衝動が一切湧かなくなってしまったのだ。
顔立ちが整っていた雄大に寄ってくる女は事欠かなかったが、そんな女がすべて母に見え、汚らわしく感じ、冷たく拒絶し続けた。彼があまりにも潔癖気味なので、高校生の頃はひそかにゲイの噂が流れていたくらいだが、その方が煩わしい誘いが減るので、その方が良いとそのまま放置したくらいだ。
小さい頃から自分の心の支えにしていた弟は、雄大のようにトラウマにはならなかったようだ。翔多は高校生になるとすぐに彼女を作り、悪い仲間と遊びまわり、両親のように家に帰ってこなくなった。
弟の生活が崩れてしまった後、雄大は自分のことだけ考えよう、と思い至った。
この環境から脱するべくひたすら勉強に打ち込む。国立大学を目指したのは私立大学に行くような経済的余裕が一切なかったからだが、難しいハードルを自分で設定することは、他の全ての煩わしい現実を忘れるのにちょうど良かった。
そして無事に大学生になったらすぐに実家を出た。
奨学金と、バイトを掛け持ちしても生活は苦しかったがこれ以上、母と「おとうさん」とは暮らせなかった。彼らは相変わらず、昼も夜も時間があればセックスをしていて、知能の低い獣としか思えなかった。
大学時代も、相変わらず雄大の表面だけをみて、女はひっきりなしに寄ってきたが拒絶し続けた。誰に対しても特別な好意は持てず、性的衝動もわかないまま、自分はアセクシュアル――他の人に性的な魅力を感じない――なのかもしれない、きっとこのまま一人で死んでいくのだろう、それで構わない、煩わしいことは嫌だ、と一人で静かに生きる未来を望んでいた。
今の会社を選んだのは、堅実で穏やかな社風は長く勤めるのに値すると思ったからで、そして地元にもほど近く、やっと生活が落ち着いた翔多の近くにもいれる、というのも理由の一つだった。翔多は高校を中退した後、左官屋で仕事をし始め、やっと普通の生活を始めた。翔多から雄大に連絡が来て、また付き合いが始まると、弟の人生を見守りたいという気持ちが出てきた。幼い頃肩を寄せ合って一緒に生き延びてきた弟のことはやはり完全に切り離すことは雄大には出来なかった。
そして、入社式を前に同期と初めて顔を合わせた時に、雄大の運命は永遠に変わった。
『田中優実です』
初めて見た優実は、とてつもなく綺麗で、雄大は視線を逸らすことが出来なかった。
こんなに美人なのに、化粧もほとんどしていないことが意外だった。こんなに他人に興味を持ったのは生まれて初めてで、優実は今まで雄大に寄ってきたどの女とも違っていた。一言でいえば――彼女はとても抑制されていて寂しそうだった。そしてそのことが一番雄大の心を捉えたと言ってもいい。
同期で飲み会をしたときだっただろうか。
同期は男3人女2人のメンツで、同じ営業部に配属された雄大と優実以外はみな部署がバラけている。入社してすぐ同期で集まって飲んでいた時、いつものように優実をつい横目で追っていると、彼女が携帯電話を手にしているのを見た。彼女の眉には珍しいことに皺が寄っていたが、すぐにそれは消えた。おそらく何か不機嫌になるようなことがあったにも関わらず、彼女はそのことをおくびにも出さなかった。
(田中は、こういう時、何を考えているんだろう)
優実は亜紀とは特別仲が良く気を許しているように見えたが、同期の男3人にはいつも公平に優しく接する。とても礼儀正しいのだが、明確な見えない境界線が彼女の中にしっかりと敷かれていて、どれだけ彼女の内面に触れたくても、そこに触れるのは誰も許されていない。
同期として、少しずつ親しくなるにつれ、仕事をしながら一緒に過ごす時間が増えるにつれ、優実が何かに苦しんでいるのは伝わってくるのに、そのことを彼女は決して誰にも見せようとしなかった。数年経つと、出会った頃に比べると、心を許してくれていると思うし、随分気心も知れていて軽口をたたくことさえある。けれど、それでは足りないと思う自分がいた。誰にも見せていない彼女を自分だけが知りたい、という独占欲が湧いてきたのだ。
いつしか雄大は優実にとてつもなく恋焦がれていた。
同時に、自分のような欠陥品である男が手を伸ばしていい存在なのか、葛藤もしていた。
葛藤しながら、しかし優実のことを思うと、生まれて初めてこの人の全てが欲しい、と性的衝動が湧く自分にも気づいたのだった。
顔だけは良かった父はくずな女たらしで、雄大が物心つく頃にはほとんど家に寄りつくことがなかった。珍しく帰ってきたと思ったら、大酒を飲んでは、子供たちを怒鳴り散らし怯えさせ、母とは夜中まで大喧嘩していた。
母は母で、夜、飲み屋街で働き、男の影が途切れることはなかった。家にはお金を持って帰ってくるだけで、――雄大と2歳年下の弟・翔多はそれで生きのびたのだが――またすぐに出て行って男の家に入り浸る。学校から帰ってきてテーブルの上に置かれているお金があると一度は帰宅したのだなと分かったが、たいてい母の姿は既になかった。雄大は小学生のうちから、弟と自分が生きるために、最低限の家事をこなすことを覚えた。母が家で夜眠るのは、男が途切れた期間だけだった。
実の両親がいつ離婚したのか雄大は知らない。
いつの間にか父は家に帰ってこなくなり、中学生になるころは、知らない若い男が「おとうさん」として家で我が物顔でのさばるようになっていた。「おとうさん」と話すときの母はただの女で、そしてそれから二度と雄大たちの母には戻らなかった。「おとうさん」は仕事をしていなかったように思う。母がずっと夜の仕事をしながら、彼を養っていた。
中学生のある時、体調が悪くて学校を早退すると、居間のソファーでまるで獣のように絡み合う2人をみてしまい、そのままトイレで吐き続けた。そして、その出来事はひどいトラウマとして彼の心に爪痕を残した。しかも彼らはその後も、子どもがいようがいまいが身体を繋げあっていて、狭いアパートの中に響き渡る母親の喘ぎ声は雄大を苦しめ続けた。それから雄大は家の中ではヘッドフォンを手放せなくなった。うっかり母親の艶声を聞くと、吐き気がするからだ。
そして雄大は性的衝動が一切湧かなくなってしまったのだ。
顔立ちが整っていた雄大に寄ってくる女は事欠かなかったが、そんな女がすべて母に見え、汚らわしく感じ、冷たく拒絶し続けた。彼があまりにも潔癖気味なので、高校生の頃はひそかにゲイの噂が流れていたくらいだが、その方が煩わしい誘いが減るので、その方が良いとそのまま放置したくらいだ。
小さい頃から自分の心の支えにしていた弟は、雄大のようにトラウマにはならなかったようだ。翔多は高校生になるとすぐに彼女を作り、悪い仲間と遊びまわり、両親のように家に帰ってこなくなった。
弟の生活が崩れてしまった後、雄大は自分のことだけ考えよう、と思い至った。
この環境から脱するべくひたすら勉強に打ち込む。国立大学を目指したのは私立大学に行くような経済的余裕が一切なかったからだが、難しいハードルを自分で設定することは、他の全ての煩わしい現実を忘れるのにちょうど良かった。
そして無事に大学生になったらすぐに実家を出た。
奨学金と、バイトを掛け持ちしても生活は苦しかったがこれ以上、母と「おとうさん」とは暮らせなかった。彼らは相変わらず、昼も夜も時間があればセックスをしていて、知能の低い獣としか思えなかった。
大学時代も、相変わらず雄大の表面だけをみて、女はひっきりなしに寄ってきたが拒絶し続けた。誰に対しても特別な好意は持てず、性的衝動もわかないまま、自分はアセクシュアル――他の人に性的な魅力を感じない――なのかもしれない、きっとこのまま一人で死んでいくのだろう、それで構わない、煩わしいことは嫌だ、と一人で静かに生きる未来を望んでいた。
今の会社を選んだのは、堅実で穏やかな社風は長く勤めるのに値すると思ったからで、そして地元にもほど近く、やっと生活が落ち着いた翔多の近くにもいれる、というのも理由の一つだった。翔多は高校を中退した後、左官屋で仕事をし始め、やっと普通の生活を始めた。翔多から雄大に連絡が来て、また付き合いが始まると、弟の人生を見守りたいという気持ちが出てきた。幼い頃肩を寄せ合って一緒に生き延びてきた弟のことはやはり完全に切り離すことは雄大には出来なかった。
そして、入社式を前に同期と初めて顔を合わせた時に、雄大の運命は永遠に変わった。
『田中優実です』
初めて見た優実は、とてつもなく綺麗で、雄大は視線を逸らすことが出来なかった。
こんなに美人なのに、化粧もほとんどしていないことが意外だった。こんなに他人に興味を持ったのは生まれて初めてで、優実は今まで雄大に寄ってきたどの女とも違っていた。一言でいえば――彼女はとても抑制されていて寂しそうだった。そしてそのことが一番雄大の心を捉えたと言ってもいい。
同期で飲み会をしたときだっただろうか。
同期は男3人女2人のメンツで、同じ営業部に配属された雄大と優実以外はみな部署がバラけている。入社してすぐ同期で集まって飲んでいた時、いつものように優実をつい横目で追っていると、彼女が携帯電話を手にしているのを見た。彼女の眉には珍しいことに皺が寄っていたが、すぐにそれは消えた。おそらく何か不機嫌になるようなことがあったにも関わらず、彼女はそのことをおくびにも出さなかった。
(田中は、こういう時、何を考えているんだろう)
優実は亜紀とは特別仲が良く気を許しているように見えたが、同期の男3人にはいつも公平に優しく接する。とても礼儀正しいのだが、明確な見えない境界線が彼女の中にしっかりと敷かれていて、どれだけ彼女の内面に触れたくても、そこに触れるのは誰も許されていない。
同期として、少しずつ親しくなるにつれ、仕事をしながら一緒に過ごす時間が増えるにつれ、優実が何かに苦しんでいるのは伝わってくるのに、そのことを彼女は決して誰にも見せようとしなかった。数年経つと、出会った頃に比べると、心を許してくれていると思うし、随分気心も知れていて軽口をたたくことさえある。けれど、それでは足りないと思う自分がいた。誰にも見せていない彼女を自分だけが知りたい、という独占欲が湧いてきたのだ。
いつしか雄大は優実にとてつもなく恋焦がれていた。
同時に、自分のような欠陥品である男が手を伸ばしていい存在なのか、葛藤もしていた。
葛藤しながら、しかし優実のことを思うと、生まれて初めてこの人の全てが欲しい、と性的衝動が湧く自分にも気づいたのだった。
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