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第2話 香りを纏う手
しおりを挟む週末の午後、僕は神谷くんの自宅マンションを訪ねた。最寄り駅から徒歩10分ほど、築浅で外観も小綺麗な、いかにも20代の独身男性が住んでいそうな一人暮らし用のマンションだった。
インターホン越しに案内されて中に入ると、室内は思っていた以上に整っていて、無駄がなく、どこか神谷くんらしい。
「わあ、すごい……」
僕は思わず声を漏らしていた。部屋の隅に設けられた作業机の上に、大小さまざまな瓶が整然と並び、棚には英字が刻まれたラベルのついたボックス。理科室とアロマショップの中間のような空間に、完全に圧倒された。
「親が香料とか扱う会社やってて……小さい頃から身近だったんです。久しぶりに手を出したら、止まらなくなっちゃって」
神谷くんはどこか照れたように笑いながら、箱の中からガラス棒やスポイト、白い紙を取り出す。
「これ、試香紙っていって、ここに香りを垂らして確認するんですよ」
差し出された細長い紙を受け取りながら、僕は首をかしげる。
「なんだか、理科の実験みたいだね」
「まさにそんな感じです。じゃあ、いくつか試してみますか?」
彼は手慣れた様子で、透明な瓶のひとつを持ち上げた。
「これはベルガモット。トップノートに使われる香りです」
「“トップノート”……って?」
「香水の構成って、だいたい三段階に分かれてるんですけど――」
神谷くんはそう言いながら、ムエットに精油を垂らす。
「最初に香るのが“トップ”、少し経ってからが“ミドル”、そして最後に残るのが……“ラストノート”」
言葉に合わせて、香りが変化していく様子が目に浮かぶようだった。
「トップは第一印象。ミドルがいちばん香る本体みたいなところで、ラストは肌に残る余韻……って感じですね」
ふむふむと頷きながら、ムエットを鼻先に近づける。その瞬間、ふわりと軽やかな、けれど芯のある柑橘の香りが舞った。
「わあ、爽やかな香り……」
香りを楽しんでいると、ふとあることに気づく。
「……あ、これ、神谷くんの香りだ……」
僕がぽつりと呟くと、彼は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ゆるやかに微笑んだ。
「正解です。よく分かりましたね」
なんとなく気恥ずかしくて視線を逸らす。この香りが、神谷くんのものだと思った瞬間、なぜか胸の奥が熱くなった。
彼は、そのまま次の瓶を手に取った。
「じゃあ、これはどうでしょう。ラベンダー。これも、俺はよくミドルに入れてます。
定番ですけど、好みは分かれますね」
香りを嗅ぐと、どこか懐かしいような、けれど少し乾いた印象が鼻先に残る。
「……あれ、なんか……思ってたより薬草っぽい?」
「そうですね、いわゆるラベンダー香料とは少し違っていて……
鎮静作用があるけど、人によっては“おばあちゃんのタンスの匂い”って言われたりもします」
思わず吹き出してしまう。
「確かに、ちょっとそれ分かるかも」
次に彼が取り出したのは、スモーキーな色合いの瓶だった。
「これはベチバー。渋めの香りです」
ひと嗅ぎして、眉を寄せる。
「……これ、なんか湿った土みたいだ」
「独特でしょう。でも香水のラストノートに深みを出すには、欠かせないやつです」
次々と出てくる香りの数々。爽やかなグレープフルーツ、甘いけどちょっとクセのあるイランイラン、ウッディで落ち着くシダーウッド。どれも個性的で、鼻と脳が少しずつ麻痺していく。
「なんか、嗅げば嗅ぐほどわからなくなってきた……」
「香水屋の人は、コーヒー豆とか用意してますからね。リセット用に」
そう言いながら神谷くんが差し出した次のムエットから、ふわっと漂ってきたのは、いままでとまったく違う、柔らかくて透き通るような香りだった。
「あ……」
口から、自然に声が漏れた。
「これ、好きかも……」
神谷くんの手元を覗きこむと、彼はラベルを一瞥して、にこりと微笑む。
「ネロリ、ですね。ビターオレンジの花から採れる精油です。甘いけど、少し苦さもある……とても、繊細な香り」
「へえ……なんだか、気持ちがふっと軽くなる感じで……すごく良いな……」
「じゃあ、少し調香してみましょうか?」
神谷くんは手際よく瓶を選び、スポイトを使って慎重に数滴ずつ精油を混ぜ合わせていく。
「ネロリをベースに、サンダルウッドを少し、ラベンダーもほんの少し……」
あっという間にひとつの香りが生まれ、再びムエットに落とされる。
「どうぞ」
差し出された紙を鼻先に持ってくると――
「……わあ、すごくいい香り……!」
まるで温かい春の風に包まれるような、優しくも艶のある香りが広がった。
「気に入ってもらえて嬉しいです。でも――」
神谷くんがふっと笑みを深める。
「香水は……肌に触れて初めて、本当の香りになるんですよ」
そう言うなり、彼は僕の手を取った。
「――っ!」
不意の接触に、思わず肩が小さく跳ねた。けれど、それを悟られたくなくて、すぐに目線を逸らしながら、香水が落とされた手首に意識を向ける。
ひやりとした感触。少しでも動揺をごまかすように、自分の指でそっと香りを馴染ませた。
「……うん、なんか……さっきとは違う気がするけど……」
言葉を探すように、つい曖昧な調子になる。
「体温とか、肌質でも結構変わるんです。こうやって、少し暖めれば……」
そう言いながら、神谷くんは僕の手首に指を添えた。
そのまま、指先がゆっくりと、何度も円を描くように肌の上を滑る。
……すり、すり。
言葉もないまま、神谷くんはただ黙って僕の手首を撫でていた。
力が入っているわけでも、雑でもない。ただ丁寧に、香りを馴染ませる仕草。
誰かに、こんなふうに丁寧に触れられたことなんてなかった。
でも、なぜだろう。そんな静かな動きだけで、胸の奥がざわめいて仕方なかった。
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