★忘れた女と忘れられた男

菊池昭仁

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第1話

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 その女のことはもう思い出せなくなっていた。
 どんな顔をして、どんなカラダをして、何が好きで何が嫌いかも忘れてしまった。
 いや、正確には「忘れようとした」のが正しいのかもしれない。
 亜希子と別れて10年が過ぎた。未練はない。
 俺たちには縁がなかった。ただそれだけのことだ。
 だが、今でも記憶にあるのは秋になると、彼女が寂しげにポツリと呟いた言葉だった。

 「日が短くなるのは嫌いよ、夜が長くなるから」

 亜希子の夫は11月に死んだらしい。
 だから日没が早くなると、その亡夫のことを思い出すのだと彼女は言った。
 「死にたくない」と言って死んで逝った夫のことを。

 くだらない女だと思った。人はいつか必ず死ぬ。それが遅いか早いかの違いだ。
 不慮の事故や病気で死ぬか? 老衰で天寿を全うし、家族に看取られ、惜しまれて終焉を迎えるかの違いだけである。
 死ぬことに変わりはない。
 人は神から「忘れる」という恩恵を貰ってこの世に産まれて来る。
 忘れることで人は生きて行けるのだ。
 いつまでも悲しみを抱いて生きることは愚か者のすることだ。
 


 その日、俺と亜希子は深夜のファミレスで遅い夕食を摂っていた。

 「私はネギトロ定食がいい」
 
 俺はウエイトレスを呼んだ。

 「お決まりですか?」
 「ネギトロ定食とグラタン、それからピザに生ビールとノンアルビール、飲物は食事と一緒に出してくれ」
 「かしこまりました」

 目鼻立ちの整った、アイドルグループにいるようなウエイトレスだった。
 慣れた手つきでオーダータブレットを操作して、そのウエイトレスは去って行った。
 俺はその娘の小さな尻を目で追った。

 「やっぱり小娘の方がいいわよね? こんなおばさんのお尻より」
 「あんな小さなケツで、よく子供が産めるもんだな?」
 「悪かったわね? 大きなお尻で」
 「今日は俺がノンアルでいいからお前は好きなだけ飲んでいいぞ」
 「どこか体の調子でも悪いの? 大丈夫?」
 「いつも亜希子が運転手だからな? たまには俺が運転手になるよ」
 「だったら中華にすれば良かった」
 「ここのピザ、冷凍だがチーズが旨い。冷えたビールにはよく合うぞ」
 「唐揚げも頼んでいい?」
 「ああ」

 亜希子は感情の起伏が激しい女だった。軽い躁うつ病なのかもしれない。
 焼き餅焼きで我儘、情緒不安定でよく泣く女だった。
 亜希子は夏でも長袖を着ていた。手首の傷を隠すために。
 前の旦那との子供はすでに成人していた。長女の里菜と息子の剛はそれぞれ結婚して所帯を持って家を出ている。
 亜希子は俺との結婚を望んでいたが、俺は結婚に関心がなかった。
 一緒に暮らしていればそれでいいと思っていたのである。
 だが女は所有に拘る生き物だ。「これは私の物」という証を欲しがる。
 俺たちの気持ちはいつも平行線のままだった。

 
 その日、亜希子はかなり酔っていた。
 帰りのクルマの中で亜希子は俺に絡んで来た。

 「いつになったら私の苗字を染谷にしてくれるのよ!」
 「名前なんて渾名みたいなもんだ」
 「でも女には意味があるのよ! 好きな男の姓を名乗ることが」
 
 たまにすれ違う対向車のヘッドライト。私は彼女を黙らせるためにLed Zeppelinの『Stairway to Heaven』をかけた。
 亜希子は諦めて静かになった。
 だがそれは諦めたのではなく、疲れて眠っているようだった。
 かわいい女だと俺は笑った。

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