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3章 映画「怪人二十面相」
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梅雨の気配が忍び寄る六月の午後。控室では照明の調整待ちの間に、三浦なおが台本を膝の上でめくっている。
指先は動いていても、ページの内容はほとんど頭に入っていない。彼女の視線は、ガラス越しに見える別棟――録音スタジオの方を向いていた。
そこでは「二十面相」の独白シーンが別録りで進められている。
父・香山篤志の声がスピーカーを通して響き、なおの鼓膜を微かに震わせた。
――静かな声。低く、落ち着いた語り。
その抑揚の中に、幼い日の記憶がふとよぎった。眠れない夜、父が童話を読み聞かせてくれたあの声。けれどその温もりは、数年前に途絶えていた。
なおは小さく息を吐く。
「……別録り、また今日もか」
隣にいた昴が、軽く首を傾げた。
「そういうスケジュールらしいな。監督が“対峙する前に、距離の芝居を完成させたい”って言ってた」
「距離、ね……。本当に“距離”があるのは、僕とあの人のほうなのに」
ぽつりとこぼれた言葉に、昴は少しだけ目を細めた。彼は余計な慰めは言わない。ただ、その場にいて、黙って受け止める。
「……小さいころ、僕、あの人のこと“大きい怪人”って呼んでたんだよ」
「怪人?」
「うん。夜遅くに帰ってきて、いつも黒い服で、でも笑うと優しい顔になるから。 “おとうさんは怪人みたい”って。母が笑ってた」
なおは苦笑しながら台本を閉じた。机の上のペットボトルの水が、淡い蛍光灯の光を反射している。その光が揺れるたび、記憶もまた揺らいでいる。
「でも、僕とお母さんが家を出た日のことは、よく覚えてる。お母さんが泣いてて、僕、何もできなかった。そのあと会わないようにしていたけど……。なのに、映画でいきなり“父子役”って。ねえ、神様って残酷じゃない?」
昴は少しの間、答えを探すように天井を見上げた。そして、穏やかな声で言った。
「神は残酷じゃない。人の選択が、残酷になるだけだと思う」
なおが小さく息を呑む。昴の言葉には、彼自身の長い旅路の重みが滲んでいた。
「……昴さん、そういうの、どこで覚えたの?」
「昔、師匠が言ってた。戦場では、どんな敵よりも“選択”が人を傷つけるって」
「戦場……か。映画の中だけで十分だよ、そんなの」
なおは笑ってみせたが、その笑みはどこか脆かった。昴は黙って彼女を見つめる。
この世界の少女は、戦いではなく演技で傷を隠している。それがどれほど繊細なことか、彼にはわかっていた。
撮影再開の合図が鳴り、スタッフが慌ただしく動き出す。
なおは立ち上がり、衣装係に軽く会釈した。
昴はそれを見送りながら、ポケットの中の携帯電話を握りしめる。
彼の役目は、あくまで“守ること”。だが、守る対象が心の奥で戦っている時、自分は何をすればいいのか――
その答えは、まだ見えなかった。
夜、撮影が終わり、スタジオを出るころには雨が降り始めていた。昴は傘をさし、送迎車までの道を先に歩いた。なおは黙ってその後をついていく。佐倉の部下である日向も一緒だ。
遠く、駐車場の照明の下に立つ黒い車が、ぼんやりと光っていた。
「ねえ、昴さん」
「ん?」
「僕さ、お父さんとちゃんと話すべきなのかな。でも、話したら、何か壊れそうで……」
昴は立ち止まり、振り返る。雨粒が彼の髪に当たり、淡く光る。
彼は一拍置いてから、静かに答えた。
「壊れるかもしれない。でも、壊れたあとに残るものもある」
「残るもの……?」
「それが“絆”ってやつなんだろう。俺は、そう信じたい」
なおは驚いたように昴を見つめ、やがて小さく笑った。涙とも雨ともつかぬ雫が頬を伝う。
「……ずるいね、昴さん。そんなこと言われたら、ちゃんと向き合うしかないじゃん」
「逃げたいなら、俺が時間を稼ぐ」
「ふふ、頼もしいボディガードだね」
ふたりの頭上で、雨音が強くなる。日向の運転で送迎車が静かに発進し、街の灯がにじむ。
フロントガラス越しに見える景色は、どこまでも灰色だった。
後部座席でなおは小さくつぶやいた。
「もしあの人が“怪人”なら……僕は何だろうね」
昴は答えず、ただ前を見据えていた。彼にとってもまた、守ることとは何か、まだ見えない問いのままだった。
その夜。昴は自分のアパートに戻ると、濡れた上着を脱ぎ、静かに窓を開けた。
遠くの街灯の下を、なおの送迎車が通り過ぎていく。
その光の軌跡が、まるで異世界の流星のように一瞬だけ輝いた。
(……彼女が、光の中にいるなら。俺は、その影でいい)
昴はそう心の中でつぶやき、窓を閉めた。
机の上のノートには、勉強中の数式と英単語が並んでいる。
明日もまた、彼は学生として、そして“守る者”として一日を始めるのだ。
雨はまだ止まなかった。
指先は動いていても、ページの内容はほとんど頭に入っていない。彼女の視線は、ガラス越しに見える別棟――録音スタジオの方を向いていた。
そこでは「二十面相」の独白シーンが別録りで進められている。
父・香山篤志の声がスピーカーを通して響き、なおの鼓膜を微かに震わせた。
――静かな声。低く、落ち着いた語り。
その抑揚の中に、幼い日の記憶がふとよぎった。眠れない夜、父が童話を読み聞かせてくれたあの声。けれどその温もりは、数年前に途絶えていた。
なおは小さく息を吐く。
「……別録り、また今日もか」
隣にいた昴が、軽く首を傾げた。
「そういうスケジュールらしいな。監督が“対峙する前に、距離の芝居を完成させたい”って言ってた」
「距離、ね……。本当に“距離”があるのは、僕とあの人のほうなのに」
ぽつりとこぼれた言葉に、昴は少しだけ目を細めた。彼は余計な慰めは言わない。ただ、その場にいて、黙って受け止める。
「……小さいころ、僕、あの人のこと“大きい怪人”って呼んでたんだよ」
「怪人?」
「うん。夜遅くに帰ってきて、いつも黒い服で、でも笑うと優しい顔になるから。 “おとうさんは怪人みたい”って。母が笑ってた」
なおは苦笑しながら台本を閉じた。机の上のペットボトルの水が、淡い蛍光灯の光を反射している。その光が揺れるたび、記憶もまた揺らいでいる。
「でも、僕とお母さんが家を出た日のことは、よく覚えてる。お母さんが泣いてて、僕、何もできなかった。そのあと会わないようにしていたけど……。なのに、映画でいきなり“父子役”って。ねえ、神様って残酷じゃない?」
昴は少しの間、答えを探すように天井を見上げた。そして、穏やかな声で言った。
「神は残酷じゃない。人の選択が、残酷になるだけだと思う」
なおが小さく息を呑む。昴の言葉には、彼自身の長い旅路の重みが滲んでいた。
「……昴さん、そういうの、どこで覚えたの?」
「昔、師匠が言ってた。戦場では、どんな敵よりも“選択”が人を傷つけるって」
「戦場……か。映画の中だけで十分だよ、そんなの」
なおは笑ってみせたが、その笑みはどこか脆かった。昴は黙って彼女を見つめる。
この世界の少女は、戦いではなく演技で傷を隠している。それがどれほど繊細なことか、彼にはわかっていた。
撮影再開の合図が鳴り、スタッフが慌ただしく動き出す。
なおは立ち上がり、衣装係に軽く会釈した。
昴はそれを見送りながら、ポケットの中の携帯電話を握りしめる。
彼の役目は、あくまで“守ること”。だが、守る対象が心の奥で戦っている時、自分は何をすればいいのか――
その答えは、まだ見えなかった。
夜、撮影が終わり、スタジオを出るころには雨が降り始めていた。昴は傘をさし、送迎車までの道を先に歩いた。なおは黙ってその後をついていく。佐倉の部下である日向も一緒だ。
遠く、駐車場の照明の下に立つ黒い車が、ぼんやりと光っていた。
「ねえ、昴さん」
「ん?」
「僕さ、お父さんとちゃんと話すべきなのかな。でも、話したら、何か壊れそうで……」
昴は立ち止まり、振り返る。雨粒が彼の髪に当たり、淡く光る。
彼は一拍置いてから、静かに答えた。
「壊れるかもしれない。でも、壊れたあとに残るものもある」
「残るもの……?」
「それが“絆”ってやつなんだろう。俺は、そう信じたい」
なおは驚いたように昴を見つめ、やがて小さく笑った。涙とも雨ともつかぬ雫が頬を伝う。
「……ずるいね、昴さん。そんなこと言われたら、ちゃんと向き合うしかないじゃん」
「逃げたいなら、俺が時間を稼ぐ」
「ふふ、頼もしいボディガードだね」
ふたりの頭上で、雨音が強くなる。日向の運転で送迎車が静かに発進し、街の灯がにじむ。
フロントガラス越しに見える景色は、どこまでも灰色だった。
後部座席でなおは小さくつぶやいた。
「もしあの人が“怪人”なら……僕は何だろうね」
昴は答えず、ただ前を見据えていた。彼にとってもまた、守ることとは何か、まだ見えない問いのままだった。
その夜。昴は自分のアパートに戻ると、濡れた上着を脱ぎ、静かに窓を開けた。
遠くの街灯の下を、なおの送迎車が通り過ぎていく。
その光の軌跡が、まるで異世界の流星のように一瞬だけ輝いた。
(……彼女が、光の中にいるなら。俺は、その影でいい)
昴はそう心の中でつぶやき、窓を閉めた。
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明日もまた、彼は学生として、そして“守る者”として一日を始めるのだ。
雨はまだ止まなかった。
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