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第5章 色々
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学校が終わって、冬休みに入った。冬休み、という言葉に、ほかの生徒はどのようなイメージを持っているのだろう、と月夜は思う。彼女はといえば、特にこれといって特別なイメージは持っていなかった。ああ、休みか、という程度でしかない。たしかに、夏休みよりは、冬休みの方が、穏やかなイメージはある。けれど、それは、きっと、気候的なイメージに起因しているのだろうし、仮に日本の入学制度が変わって、九月から学校が始まるようになれば、そんなイメージも多少は変化するかもしれない。いや、その前に、気候的なイメージと、日本の入学制度の間に、どんな関係があるのだろう、と月夜は考える。彼女には、ときどき、こんなふうに思考が飛躍することがあった。きっと、彼女が意識していないどこかに、その理屈を補強する何かが存在している。しかし、多くの場合、それを認識することはできなかった。
「何を考えているんだ?」
月夜の隣を歩くフィルが、彼女の足もとから声をかける。
「ん? 何も……」小首を傾げて、月夜は答えた。
「そんな格好で、寒くないのか?」
月夜は自分の服装を確認する。十二月を迎えても、彼女はコートを着ていなかった。
「特に、寒くは、ない」
「女生徒は、必ず、スカートを履かなくてはいけない、というルールでもあるのか?」
「服装は、自由だったと思う」
「私服でも?」
「ううん、男子用と、女子用の、どちらでもいい、という意味」
「なら、ズボンにすればいいじゃないか」
「今さら、新しいものを買おうとは思わない」
「分かった。寒くないんだな」
「うん。寒くない」
「お前の身体は、もともと、冷たいからな」
「そうかな」
「ああ。そして、その瞳も」
二人で、紗矢が住む山に向かう所だった。向かうと言っても、目と鼻の先なので、全然大した距離ではない。英語で言えば、put in という感じか。自宅の玄関を出て、右に曲がるとちょっとした坂があって、その坂の途中に開放的な草原がある。どうして、そこが、そんなふうに空き地になっているのか、月夜は知らなかった。かなり昔からこういう状態になっている。誰かが引っ越して土地が余ったから、というわけではなさそうだ。
草原を横切って、石造りの階段を上ると、山への入り口が見えてくる。木の根が張り巡る土の道を進んだ。左右には木々が立ち並んでいて、二人の来訪を歓迎している。今日は曇っていたから、木漏れ日の恩恵は受けられなかった。
「月夜は、自然が好きか?」フィルが訊いた。
「自然、とは?」
「木や、葉が、傍にある環境のことだ」
「好きだよ」
「人工物と、自然なものなら、どちらがいい?」
「私には、二つの違いが分からないけど」
「それ、言うと思ったよ」
「どうして、言うと思ったの?」
「なんとなくな。経験則、というものか。少しずつ分かってきたんだ、月夜が言いそうなことが」
「人が、地球に誕生した時点で、自然、というものは消えてしまった」
「そうかもしれないな……。しかし、俺は自然なものだよ」
「うーん、どうだろう」
「月夜が、もし、子どもを産んだら、それは自然なものと思えるか?」
「それこそ、自然、ではない。人為的、つまり、人工的」
「その理屈は、なかなか素晴らしい」
「どう素晴らしいの?」
「いや、別に」フィルは横を向く。「なんとなく、そう言いたかっただけだ」
間もなく、神社があるエリアに到着する。石段に少女が一人座っていた。
紗矢は、俯いて目を閉じていたが、二人が傍に近づくと、すぐに顔を上げてこちらを見た。
首を傾けて、紗矢は笑顔で手を振ってくる。
月夜もそれに応えた(しかし、笑顔ではない。ここが大事なポイントである)。
月夜は紗矢の隣に腰をかける。フィルは、紗矢の膝の上に乗って、大きな欠伸をした。
「今日は、早かったね」紗矢が笑顔で言った。「朝ご飯、食べてきた?」
「ご飯は、食べない」月夜は答える。
「お腹空かない?」
「空かない」
「そう……。不思議だね、月夜って」
「そう、かな……」
「うん。そんな感じがするよ」
「自分では、分からないけど、君がそう言うなら、そうかもしれない」
月夜がそう言うと、紗矢はにっこりと笑った。
乾燥した心地の良い風が、二人の間を通り抜ける。そこに、見えない壁があるみたいだった。壁だなんて、ありきたりな表現だな、と月夜は考える。しかし、そういった何らかの距離が、二人の間に存在するのは間違いない。それは、同じ人間同士でもいえることだ。紗矢が人間ではない、ということとは関係がない。
「月夜は、ほかに予定はないの?」紗矢はフィルの背を撫でる。
「予定は、ない。朝に、少し、勉強をしてきた」
「月夜、いくつ?」
「たぶん、十七」
「たぶんって、どういうこと?」
「誕生日が、分からないから、もしかすると、十六かもしれない」
「ああ、そういうこと……」
「紗矢は?」
「私は、うーん、なんて答えたらいいのかな……。まあ、でも、これ以上年をとらない、と考えれば、月夜と同い年だよ」
「いつ、死んだの?」月夜はダイレクトな質問をする。
「よく、そんなふうに訊けるね」案の定、紗矢に指摘された。「でも、いいなあ、そういうさばさばした感じ……。いや、さばさば、というのは、悪口じゃなくてさ、なんか、格好良いな、と思ってね。そういう女の子って、憧れるよね……。あ、そんなふうに思うのは、私だけかもしれないけど」
「うん……」
沈黙。
「もう、何十年も前だよ」紗矢は月夜の質問に答えた。「具体的な年数は、覚えていないけど……」
「ねえ、紗矢」
「何?」
「どうして、紗矢は、死のうと思ったの?」
月夜は紗矢の顔をじっと見つめる。紗矢は、今は笑っていなかった。けれど、不快そうではない。感情的に見えても、紗矢には論理的な思考力も備わっているようだ。
「前に、言わなかった?」
「言ったけど、もう少し、詳しく聞きたい、と思った」
「聞きたい、ということは、それは月夜の欲なんだね?」
「そう」
「素直でよろしい」紗矢は満足気に頷く。「うーん、どうやって説明したらいいかなあ……」
「でも、今日じゃなくても、いいよ」
「え? いやいや、そういうわけにいかないじゃん、タイミング的に……」
「タイミング、とは?」
「そういう話の流れだったってこと」
「うん」
フィルは相変わらず黙っている。紗矢の前では無口な猫を装っているのか、と月夜は思った。
風が吹いて、周囲の木々が揺れる。背後にある、賽銭箱の上に吊るされた鐘が、少しだけ音を鳴らした。雰囲気が出ていて、良いな、と月夜は感じる。和風ではなく、話風、という感じだった(意味が通じない可能性が高い)。
「彼はね、とってもいい人だったんだよ」紗矢は言った。「うーん、なんて言ったらいいのかな……。なんか、見た目は優しそうに見えないんだけど、でも、その、深いところに優しさが潜んでいる、というか……。私みたいに、溌剌とした感じじゃなかったけど、でも、心の内は明るくて、健気で、可愛かった」
月夜は黙って頷く。
「でもね、彼は、生きることを望んでいなかった。生きるのを苦痛に感じていた。何事にも諦めたような態度を貫いて、いつ死んでもいい、と考えていた。そう……。いつ、死んでも、いい……。本当は、いつ死んでもいいなら、今死ななくてもいいはずなのに、彼は、もう、死にたいって言っていた……。どうして、そんなふうに考えるんだろう? 生きるのが嫌なんじゃなくて、死ぬことに憧れてしまう……。私には、そんなふうに見えた」
フィルが欠伸を連発する。
月夜は、紗矢の膝の上からフィルを持ち上げて、自分の両腕に抱えた。
彼は満足そうな顔をした。
「そして、ある日、屋上で話していたとき、彼は死のうとした」紗矢は言った。「暑い、夏の夕方のことだった。焼きつくコンクリート……。あのときのことは、全部覚えている。柵を越えて、屋上の淵に立って、彼は私の方を見て薄く笑った。私は……。……自分でも、どうかしていたと思う。落ちそうになる彼を、必死に抱き上げて、代わりに、死んであげるから、死なないでって叫んで、落っこちた。とても、不思議な感覚だったよ。ああ、死ぬのって、気持ちが良いんだなって思った。魂が解放される感じ、とでも言えばいいのかな……。地面に当たる瞬間のことは、覚えていない。でも、一瞬だけ、アスファルトに触れた、という感覚はあったよ。痛くはなかった。きっと、もう、痛みを感じるほどの余裕がなかったんだろうね……。左腕がないことに気づいたけど、ああ、とれたんだ、としか思わなかった。だって、あんなに高い所から落ちたんだから、当たり前だよね、そんなの。頭から落ちなかったから、それを、見ることが、なんとかできたんだと思う。遠くの方に、彼の顔が見えた。表情は、よく分からなかったけど、驚いていたと思うな。驚かせることができて、よかった、とも思ったよ。うん……。これで、彼も、死なないはずだ、と確信した。……でも、彼は死んだ」
「どうして、彼が死んだ、ということが、分かったの?」
「彼に、会ったからだよ」
「どうやって?」
「死んだ、彼に、会った」紗矢は話す。「君が、今、私と話しているみたいに、会って、話した」
「今も、会って、話すことがあるの?」
「まあ、ときどきね」紗矢は言った。「でも、彼は、恥ずかしがりやでさ、なかなか素直に話そうとしてくれなくて……。……私を死なせたことを、後悔しているみたいなんだ」
「もう、取り返しは、つかない?」
「そうだね」
「紗矢も、後悔している?」
「うーん、どうかな……。もう、後悔しても、しょうがないかな、と思うよ。でも、どちらか一人が死ぬよりは、よかったと思う。本当は、どちらも死なないのが一番よかったけど、それは、達成できなかったから、その次に最良の手段として、二人で死んだ。そう……。きっと、彼も、同じように考えていると思う」
前回聞いた内容と重複していたので、月夜は具体的な質問をした。
「紗矢は、彼を愛していた?」
「うん、まあ……」紗矢は曖昧に答える。「自分では、そのつもりだったけど……」
「彼が、死のうと思ったのは、どうしてだと思う?」
「だから、生きるのが辛かったから、じゃないかな」
「どうして、生きるのが辛い、と感じたんだろう?」
「さあ、……。でも、そういうことって、あるよ。彼の場合、そう思うことが多かったんじゃないかな。……私には、分からない。一緒にいても、分からなかった」
「紗矢は、彼が死のうとする前から、彼に、死んでほしい、と言われたら、死ぬ覚悟があったの?」
「うーん、どうだろう……。それは、難しい質問だよね。口ではそう言えても、実際にできるかと言われたら、戸惑うと思う。まあ、結果的に、そうしたんだけどね」
「それは、誰のため?」
「誰のためって、どういう意味?」
「紗矢が死ぬことで、救われたのは誰? あるいは、救われるはずだったのは、誰? 紗矢? それとも、紗矢の彼氏?」
紗矢は、じっと月夜の顔を見る。月夜も彼女の顔を見つめ返した。
紗矢は目を逸らす。
それから、少しだけ悲しそうな表情をして、答えた。
「たぶん、私」
月夜は首を傾げる。
「うん、そう……。本当は、彼を救うためなんかじゃなかった。そうすれば、彼が満足するって、思ったのは本当だけど……。……でも、それは、自分自身のためだった。そうすれば、自分が救われるんだって、自分に価値を見出せるんだって思った」
「今でも、そう思っている?」
「どうかな……」紗矢は笑う。「もう、分からないよ」
「話してくれて、ありがとう」
「どうして、感謝なんてするの?」
「感謝したい、と思ったから」
「月夜は、自分に素直だね」
「そうかもしれない」
「彼氏は、いるの?」
月夜は考える素振りをする。
「いる、と思う」
「曖昧だね。もしかして、片想い?」
「うーん、どうかな……」
「そっか……。……でも、私たちみたいにならないように、願っているよ」
「願わなくても、そうはならない」
「本当に? 自信家だね。何か根拠でもあるの?」
「根拠は、ない」
「へえ、それは凄いなあ……。私も、そんなふうに、強く生きたかったよ」
月夜は、自信家だ、と言われた理由が分からなかった。自分でそんなふうに思ったことはない。むしろその反対だと思っている。何をするにしても、彼女が自分に自信があると感じたことはなかった。
「どうして、紗矢はここにいるの?」
顔を前に向けて、月夜は質問した。
「なんか、ここにいると落ち着いてさ」紗矢は答える。「静かで、いい場所でしょう? こんな場所、もう、どこに言ってもそうそう見つからないよ。滅多に人は来ないし、忘れ去られたような静けさが、性に合っている、と思って……。私も、昔は、そんなこと思わなかったんだ。でも、死んでから、ああ、こういう場所もいいな、と思うようになった」
「私の家は、このすぐ近くにある」
「そうなの? どこ?」
「この山の、裏」
「裏?」
「もしくは、表」
「表?」
「草原を抜けた先」
「そっか。じゃあ、フィルは、そこまで考えて、君を呼んだのかな」
「そんな思慮はしていない」フィルが突然口を利いた。「勝手な想像をするな」
「でも、絶対そうでしょう? ほかに理由なんてないし」
「まあ、お前に何も言っても、通じないだろうな」
「じゃあ、そういうことにしておくよ。どうもありがとう、お節介さん」
「ああ、どういたしまして」
「もしかして、機嫌を損ねちゃったかな?」そう言いながら、紗矢はフィルの腹部を擽る。
「やめろ」フィルは紗矢の手を払った。「気安く触らないでくれ」
「酷いなあ、まったく……」
月夜は二人の様子を観察する。特に喧嘩をしているわけではなさそうだ、と思って、彼女は二人のやり取りに干渉しなかった。
一日はまだ始まったばかりだ。腕時計を見ると、針は午前九時四十五分を示している。朝の空気はひんやりとしていて、とても心地が良い。寒くは感じなかった。傍に二人がいるからかもしれない。
目の前に小さな枝が落ちていたから、月夜はそれを拾った。
冬休みを、どうしようか、と彼女は考える。特にこれといった予定はない。月夜が通う学校は、なぜか冬休みが多少長い。その分、夏休みが短かった。プラスマイナスゼロなので、どちらの方が得か、という話にはならない。けれど、新年を迎える前の連休が長いと、少しだけ余裕が生まれる気がする。夏休みは、はっきりいって長すぎる。そんなに長期間休みでも、あっという間にやることはなくなってしまう。もっとも、彼女はもともと勉強と読書しかしないから、休みが長くてもまったく問題はなかった。
「紗矢は、ここから出られないの?」月夜は質問する。
「うん……。出られないわけじゃないけど、出たくないかな……」
「紗矢にとって、ここはお墓みたいな場所?」
「お墓?」
「もう、死んでしまったから」
「ああ、そうかもしれないね。外に出ても、仕方がないから……。何もできないし」
「何もできないの?」
「うーんと、私から干渉することはできない、という意味だよ。私の姿が見えるのは、ほんの一部の人だけ。だから、月夜は特別だよ。私だけじゃなくて、フィルの姿も見えているし。きっと、月夜には、何かあるんだろうね」
「何かとは?」
「普通の人にはない、何か」
「普通の人、とは?」
「質問が好きだね、月夜」
「ほかの人にも、そう言われたことがある」
「自覚はないの?」
「少し、ある」
「面白いなあ……。月夜は、普段、どんなことをして過ごしているの?」
「学校に行っている間? それとも、家にいる間?」
「どっちも」
「学校に行っている間は、授業を受けて、夜になったら、本を読んでいる」
「夜って……。……夜まで学校に残っているの?」
「そうだよ」
「そんなことをして、いいの?」紗矢は尋ねる。「先生に、怒られたりしない?」
「ほかの人には、ばれていない」
「へえ……。どうして、そんなことができるんだろう……」
「家にいる間は、勉強して、気が向いたらご飯を食べて、お風呂に入って、テレビを見て、本を読んでいる」
「健康的だね。フィルも一緒?」
「一緒のことが多い」
「一緒じゃないこともあるの?」
「ときどき、散歩に出かける」
「もう、ちゃんと相手してあげなよ、フィル」紗矢はフィルに声をかける。「そんなだから、いつまで経っても結婚できないんだよ」
「そんなことはない」フィルは抗議する。
「猫は、結婚するの?」月夜は訊いた。
「しないね」
「紗矢は、結婚したかった?」
「私? 私は、うーん、どうだろう……。できるなら、したかったかもしれないけど」
「まあ、一人ではできないからな」フィルが言った。
「煩い」
「事実を言ったまでさ」
「事実も何も、どうして、君がそんなこと言えるわけ?」
「フィルは、紗矢と結婚してあげないの?」月夜は尋ねる。
「どうして、俺が、こんなやつと結婚しなくちゃいけないんだ?」フィルは言った。「そんなことは、死んでもしないだろうね。もう、死んでいるが」
「私とは、してくれる?」
「しない」
「どうして?」
「どうしてもだ」
そう言ったきり、フィルはそっぽを向いてしまった。
「どういう意味?」月夜は紗矢に訊く。
「うーん、別に、深い意味はないんじゃないかな……。……彼、すぐ照れちゃうから」
「そうなの?」
「違うね」そう言うと、フィルは紗矢の膝から飛び降りて、茂みの中へ駆けていった。
太陽が見えないから、時間の経過が分かりにくい。月夜が腕時計を見ると、いつの間にか三十分が経過していた。しかし、それは彼女の体感とずれている。やはり、この場所に来ると、時間の感覚にずれが生じる。時間が速く進んでいるのか、自分の体感が早くなるのか分からないが、何らかの異常が発生しているのは確かだ。
月夜は、それを紗矢に尋ねようか、と少し考えたが、今はまだやめておいた。二回確認しただけでは、経験として充分とはいえない。データとして不足している。
月夜は、暫くの間、時計の文字盤を眺めていたが、いつもより速く針が進むことはなかった。つまり、一度時計を見て、次に確認したときに、時間の差が生じている可能性が高い。客観的な時間の流れではなく、主観的な時間の感覚に問題が起きるようだ。
「ねえ、月夜」紗矢が言った。「今度、ここで、クリスマスパーティーをしようよ」
月夜は彼女の方を見る。
「いいよ」
「やったね。じゃあ、何をしようか? ケーキとか、買ってきてもいいよ。私は食べられないけど」
「私も、食べないから、いらない」
「何か、ゲームでもする?」
「ビンゴとか?」
「そうそう。いいね。あ、でも、二人でやってもしょうがないか」
「紗矢は、何がしたいの?」
「私? うーん、そうだなあ……。特に、これといった候補はないけど……。……あ、じゃあ、サンタクロースに手紙を書く、というのはどう?」
「書いて、送るの?」
「いや、書くだけ」紗矢は笑った。「送るって、どこに送るつもり?」
「サンタクロースの国」
「それ、どこ?」
「分からないけど、封筒に、サンタクロースの国、と書いたら、届くと思う」
紗矢は真剣な表情になる。
「送ったことあるの?」
「ないよ」
紗矢は笑った。
「なんだあ……。まあ、書くだけでも、雰囲気出て、楽しいかもね。あ、じゃあ、便箋と、封筒を、持ってきてくれる?」
「分かった」
「あと、サンタクロースの帽子とか、あったら持ってきてよ」
「紗矢が、サンタクロースになるの?」
「いやいや、被るだけ」
「馴鹿は、必要?」
「それ、冗談?」紗矢は声を出して笑う。「月夜、けっこう面白いね」
「何が?」
「うーん、精神的に」
「精神?」
「あ、聖心、の方がいいか」
話題がなくなって、二人は黙り込む。話すことがなければ、何も話さなければ良い。無理に言葉を発するのはエネルギーの無駄だ。少なくとも、月夜はそう考えている。
人間は、話すとき、脳に記憶されている言葉を口にする。反対にいえば、脳に記憶されていない言葉は口にできない。しかしながら、もし、自分の頭の上にある雲が、電子的な「クラウド」だったとしたらどうだろう? すべての人の記憶がクラウドに保存され、他人の記憶まで参照できるようになれば、人間は自分の知らない記憶を取り出すことができるようになる。知らない記憶というよりも、すべてを知っている、といった方が近い。何かを発想するには、様々な種類の情報を脳内に取り入れなくてはならないが、脳がクラウドに接続された状態になれば、人間は無限の発想ができるようになる。
しかし、それは本当に発想と呼べるだろうか、と月夜は考える。
すべての人が他人の記憶を参照できるということは、言い換えれば、個々の人間としての価値が失われる、ということだ。
人間は、そんな自由を求めているだろうか?
人間が、人間という形を失ったとき、人間は人間として自由にはなれない。
それでも、人間の枠組みを越えて自由になりたいと思うのは、どうしてだろう?
「それにしても、月夜は本当に格好良いね」
遠くの方で紗矢の声が聞こえたが、月夜はそれを無視した。
「うん……」
しかし、口は勝手に動く。
「どうしたら、そんなふうに、素早く行動できるようになるの?」
それは、人はどうして生きているのか、という質問と同じだ、と月夜は思う。
どうして人は生きているのか?
そもそも、人は生きることを望んでいるのか?
死ぬのが怖いのではない。
苦しい思いをしたくない。ただそれだけのことだ。
それなら、苦しまずに死ねるのなら、人は今すぐに死にたがるだろうか?
分からない……。
たとえ苦しくても、自分は、死のうと思えばいつでも死ねる。
一瞬だけ苦しくても、死んでしまえば、その苦しみさえ忘れてしまう。
いや、忘れるのではない。
感覚は消えてなくなる。
主観もなくなってしまう。
すべてが客観と化す。
しかし、客観とはなんだろう?
客観的に自分を観察しているとき、その観察をしているのは、主観ではないのか?
そう……。
生き物は、永遠に客観的な視点を手に入れられない。
だから、いつまでも自分を可愛がることしかできないのだ。
「素早い、とは?」口を動かして、月夜は尋ねる。
「うん、なんていうか、行動に無駄がないな、と思って」
「そうかな」
「うん……。さては、月夜、自分のことが分かっていないな?」
紗矢の笑い声。
本当に自分を分かっていないのは、貴女の方だ、と月夜は叫びたくなる。
けれど、声は出なかった。
いつものことだ。
自分にはそんなことはできない。
「ねえ、紗矢」
「何?」
「紗矢の彼氏は、どこに行ったの?」
「え?」
「彼氏は、どこに行ったの?」
「……どうしたの?」
「どうして、いなくなってしまったの?」
「月夜?」
「いなくなったのは、どうして?」
「……大丈夫? ねえ、こっちを見て」
「死にたかった?」
「……月夜?」
「生きたかった?」
「月夜!」
気がつくと、紗矢の両手が月夜の肩に触れていた。
月夜の肩を掴んで、紗矢は険しい表情をしている。
「……何?」月夜は首を傾げる。
「大丈夫? なんか、具合が悪そうだけど……」
ああ、たしかに……。
朦朧としているな、と月夜は感じる。
石段から立ち上がり、肺に溜まっていた空気を吐き出す。紗矢の腕を優しく掴んで、負荷がかからないように静かに下ろした。それから、自分のお尻の裏を叩いて、捲れていた服の袖を直す。
「またね、紗矢」月夜は言った。「もう、帰る」
「え、どうして?」
月夜は歩き出す。
紗矢は引き止めなかった。
風が吹いて、木々が微かにざわめく。
この広場と、向こう側を区切る道の入り口に、黄色い目をした小さな黒猫が座っていた。
「何を考えているんだ?」
月夜の隣を歩くフィルが、彼女の足もとから声をかける。
「ん? 何も……」小首を傾げて、月夜は答えた。
「そんな格好で、寒くないのか?」
月夜は自分の服装を確認する。十二月を迎えても、彼女はコートを着ていなかった。
「特に、寒くは、ない」
「女生徒は、必ず、スカートを履かなくてはいけない、というルールでもあるのか?」
「服装は、自由だったと思う」
「私服でも?」
「ううん、男子用と、女子用の、どちらでもいい、という意味」
「なら、ズボンにすればいいじゃないか」
「今さら、新しいものを買おうとは思わない」
「分かった。寒くないんだな」
「うん。寒くない」
「お前の身体は、もともと、冷たいからな」
「そうかな」
「ああ。そして、その瞳も」
二人で、紗矢が住む山に向かう所だった。向かうと言っても、目と鼻の先なので、全然大した距離ではない。英語で言えば、put in という感じか。自宅の玄関を出て、右に曲がるとちょっとした坂があって、その坂の途中に開放的な草原がある。どうして、そこが、そんなふうに空き地になっているのか、月夜は知らなかった。かなり昔からこういう状態になっている。誰かが引っ越して土地が余ったから、というわけではなさそうだ。
草原を横切って、石造りの階段を上ると、山への入り口が見えてくる。木の根が張り巡る土の道を進んだ。左右には木々が立ち並んでいて、二人の来訪を歓迎している。今日は曇っていたから、木漏れ日の恩恵は受けられなかった。
「月夜は、自然が好きか?」フィルが訊いた。
「自然、とは?」
「木や、葉が、傍にある環境のことだ」
「好きだよ」
「人工物と、自然なものなら、どちらがいい?」
「私には、二つの違いが分からないけど」
「それ、言うと思ったよ」
「どうして、言うと思ったの?」
「なんとなくな。経験則、というものか。少しずつ分かってきたんだ、月夜が言いそうなことが」
「人が、地球に誕生した時点で、自然、というものは消えてしまった」
「そうかもしれないな……。しかし、俺は自然なものだよ」
「うーん、どうだろう」
「月夜が、もし、子どもを産んだら、それは自然なものと思えるか?」
「それこそ、自然、ではない。人為的、つまり、人工的」
「その理屈は、なかなか素晴らしい」
「どう素晴らしいの?」
「いや、別に」フィルは横を向く。「なんとなく、そう言いたかっただけだ」
間もなく、神社があるエリアに到着する。石段に少女が一人座っていた。
紗矢は、俯いて目を閉じていたが、二人が傍に近づくと、すぐに顔を上げてこちらを見た。
首を傾けて、紗矢は笑顔で手を振ってくる。
月夜もそれに応えた(しかし、笑顔ではない。ここが大事なポイントである)。
月夜は紗矢の隣に腰をかける。フィルは、紗矢の膝の上に乗って、大きな欠伸をした。
「今日は、早かったね」紗矢が笑顔で言った。「朝ご飯、食べてきた?」
「ご飯は、食べない」月夜は答える。
「お腹空かない?」
「空かない」
「そう……。不思議だね、月夜って」
「そう、かな……」
「うん。そんな感じがするよ」
「自分では、分からないけど、君がそう言うなら、そうかもしれない」
月夜がそう言うと、紗矢はにっこりと笑った。
乾燥した心地の良い風が、二人の間を通り抜ける。そこに、見えない壁があるみたいだった。壁だなんて、ありきたりな表現だな、と月夜は考える。しかし、そういった何らかの距離が、二人の間に存在するのは間違いない。それは、同じ人間同士でもいえることだ。紗矢が人間ではない、ということとは関係がない。
「月夜は、ほかに予定はないの?」紗矢はフィルの背を撫でる。
「予定は、ない。朝に、少し、勉強をしてきた」
「月夜、いくつ?」
「たぶん、十七」
「たぶんって、どういうこと?」
「誕生日が、分からないから、もしかすると、十六かもしれない」
「ああ、そういうこと……」
「紗矢は?」
「私は、うーん、なんて答えたらいいのかな……。まあ、でも、これ以上年をとらない、と考えれば、月夜と同い年だよ」
「いつ、死んだの?」月夜はダイレクトな質問をする。
「よく、そんなふうに訊けるね」案の定、紗矢に指摘された。「でも、いいなあ、そういうさばさばした感じ……。いや、さばさば、というのは、悪口じゃなくてさ、なんか、格好良いな、と思ってね。そういう女の子って、憧れるよね……。あ、そんなふうに思うのは、私だけかもしれないけど」
「うん……」
沈黙。
「もう、何十年も前だよ」紗矢は月夜の質問に答えた。「具体的な年数は、覚えていないけど……」
「ねえ、紗矢」
「何?」
「どうして、紗矢は、死のうと思ったの?」
月夜は紗矢の顔をじっと見つめる。紗矢は、今は笑っていなかった。けれど、不快そうではない。感情的に見えても、紗矢には論理的な思考力も備わっているようだ。
「前に、言わなかった?」
「言ったけど、もう少し、詳しく聞きたい、と思った」
「聞きたい、ということは、それは月夜の欲なんだね?」
「そう」
「素直でよろしい」紗矢は満足気に頷く。「うーん、どうやって説明したらいいかなあ……」
「でも、今日じゃなくても、いいよ」
「え? いやいや、そういうわけにいかないじゃん、タイミング的に……」
「タイミング、とは?」
「そういう話の流れだったってこと」
「うん」
フィルは相変わらず黙っている。紗矢の前では無口な猫を装っているのか、と月夜は思った。
風が吹いて、周囲の木々が揺れる。背後にある、賽銭箱の上に吊るされた鐘が、少しだけ音を鳴らした。雰囲気が出ていて、良いな、と月夜は感じる。和風ではなく、話風、という感じだった(意味が通じない可能性が高い)。
「彼はね、とってもいい人だったんだよ」紗矢は言った。「うーん、なんて言ったらいいのかな……。なんか、見た目は優しそうに見えないんだけど、でも、その、深いところに優しさが潜んでいる、というか……。私みたいに、溌剌とした感じじゃなかったけど、でも、心の内は明るくて、健気で、可愛かった」
月夜は黙って頷く。
「でもね、彼は、生きることを望んでいなかった。生きるのを苦痛に感じていた。何事にも諦めたような態度を貫いて、いつ死んでもいい、と考えていた。そう……。いつ、死んでも、いい……。本当は、いつ死んでもいいなら、今死ななくてもいいはずなのに、彼は、もう、死にたいって言っていた……。どうして、そんなふうに考えるんだろう? 生きるのが嫌なんじゃなくて、死ぬことに憧れてしまう……。私には、そんなふうに見えた」
フィルが欠伸を連発する。
月夜は、紗矢の膝の上からフィルを持ち上げて、自分の両腕に抱えた。
彼は満足そうな顔をした。
「そして、ある日、屋上で話していたとき、彼は死のうとした」紗矢は言った。「暑い、夏の夕方のことだった。焼きつくコンクリート……。あのときのことは、全部覚えている。柵を越えて、屋上の淵に立って、彼は私の方を見て薄く笑った。私は……。……自分でも、どうかしていたと思う。落ちそうになる彼を、必死に抱き上げて、代わりに、死んであげるから、死なないでって叫んで、落っこちた。とても、不思議な感覚だったよ。ああ、死ぬのって、気持ちが良いんだなって思った。魂が解放される感じ、とでも言えばいいのかな……。地面に当たる瞬間のことは、覚えていない。でも、一瞬だけ、アスファルトに触れた、という感覚はあったよ。痛くはなかった。きっと、もう、痛みを感じるほどの余裕がなかったんだろうね……。左腕がないことに気づいたけど、ああ、とれたんだ、としか思わなかった。だって、あんなに高い所から落ちたんだから、当たり前だよね、そんなの。頭から落ちなかったから、それを、見ることが、なんとかできたんだと思う。遠くの方に、彼の顔が見えた。表情は、よく分からなかったけど、驚いていたと思うな。驚かせることができて、よかった、とも思ったよ。うん……。これで、彼も、死なないはずだ、と確信した。……でも、彼は死んだ」
「どうして、彼が死んだ、ということが、分かったの?」
「彼に、会ったからだよ」
「どうやって?」
「死んだ、彼に、会った」紗矢は話す。「君が、今、私と話しているみたいに、会って、話した」
「今も、会って、話すことがあるの?」
「まあ、ときどきね」紗矢は言った。「でも、彼は、恥ずかしがりやでさ、なかなか素直に話そうとしてくれなくて……。……私を死なせたことを、後悔しているみたいなんだ」
「もう、取り返しは、つかない?」
「そうだね」
「紗矢も、後悔している?」
「うーん、どうかな……。もう、後悔しても、しょうがないかな、と思うよ。でも、どちらか一人が死ぬよりは、よかったと思う。本当は、どちらも死なないのが一番よかったけど、それは、達成できなかったから、その次に最良の手段として、二人で死んだ。そう……。きっと、彼も、同じように考えていると思う」
前回聞いた内容と重複していたので、月夜は具体的な質問をした。
「紗矢は、彼を愛していた?」
「うん、まあ……」紗矢は曖昧に答える。「自分では、そのつもりだったけど……」
「彼が、死のうと思ったのは、どうしてだと思う?」
「だから、生きるのが辛かったから、じゃないかな」
「どうして、生きるのが辛い、と感じたんだろう?」
「さあ、……。でも、そういうことって、あるよ。彼の場合、そう思うことが多かったんじゃないかな。……私には、分からない。一緒にいても、分からなかった」
「紗矢は、彼が死のうとする前から、彼に、死んでほしい、と言われたら、死ぬ覚悟があったの?」
「うーん、どうだろう……。それは、難しい質問だよね。口ではそう言えても、実際にできるかと言われたら、戸惑うと思う。まあ、結果的に、そうしたんだけどね」
「それは、誰のため?」
「誰のためって、どういう意味?」
「紗矢が死ぬことで、救われたのは誰? あるいは、救われるはずだったのは、誰? 紗矢? それとも、紗矢の彼氏?」
紗矢は、じっと月夜の顔を見る。月夜も彼女の顔を見つめ返した。
紗矢は目を逸らす。
それから、少しだけ悲しそうな表情をして、答えた。
「たぶん、私」
月夜は首を傾げる。
「うん、そう……。本当は、彼を救うためなんかじゃなかった。そうすれば、彼が満足するって、思ったのは本当だけど……。……でも、それは、自分自身のためだった。そうすれば、自分が救われるんだって、自分に価値を見出せるんだって思った」
「今でも、そう思っている?」
「どうかな……」紗矢は笑う。「もう、分からないよ」
「話してくれて、ありがとう」
「どうして、感謝なんてするの?」
「感謝したい、と思ったから」
「月夜は、自分に素直だね」
「そうかもしれない」
「彼氏は、いるの?」
月夜は考える素振りをする。
「いる、と思う」
「曖昧だね。もしかして、片想い?」
「うーん、どうかな……」
「そっか……。……でも、私たちみたいにならないように、願っているよ」
「願わなくても、そうはならない」
「本当に? 自信家だね。何か根拠でもあるの?」
「根拠は、ない」
「へえ、それは凄いなあ……。私も、そんなふうに、強く生きたかったよ」
月夜は、自信家だ、と言われた理由が分からなかった。自分でそんなふうに思ったことはない。むしろその反対だと思っている。何をするにしても、彼女が自分に自信があると感じたことはなかった。
「どうして、紗矢はここにいるの?」
顔を前に向けて、月夜は質問した。
「なんか、ここにいると落ち着いてさ」紗矢は答える。「静かで、いい場所でしょう? こんな場所、もう、どこに言ってもそうそう見つからないよ。滅多に人は来ないし、忘れ去られたような静けさが、性に合っている、と思って……。私も、昔は、そんなこと思わなかったんだ。でも、死んでから、ああ、こういう場所もいいな、と思うようになった」
「私の家は、このすぐ近くにある」
「そうなの? どこ?」
「この山の、裏」
「裏?」
「もしくは、表」
「表?」
「草原を抜けた先」
「そっか。じゃあ、フィルは、そこまで考えて、君を呼んだのかな」
「そんな思慮はしていない」フィルが突然口を利いた。「勝手な想像をするな」
「でも、絶対そうでしょう? ほかに理由なんてないし」
「まあ、お前に何も言っても、通じないだろうな」
「じゃあ、そういうことにしておくよ。どうもありがとう、お節介さん」
「ああ、どういたしまして」
「もしかして、機嫌を損ねちゃったかな?」そう言いながら、紗矢はフィルの腹部を擽る。
「やめろ」フィルは紗矢の手を払った。「気安く触らないでくれ」
「酷いなあ、まったく……」
月夜は二人の様子を観察する。特に喧嘩をしているわけではなさそうだ、と思って、彼女は二人のやり取りに干渉しなかった。
一日はまだ始まったばかりだ。腕時計を見ると、針は午前九時四十五分を示している。朝の空気はひんやりとしていて、とても心地が良い。寒くは感じなかった。傍に二人がいるからかもしれない。
目の前に小さな枝が落ちていたから、月夜はそれを拾った。
冬休みを、どうしようか、と彼女は考える。特にこれといった予定はない。月夜が通う学校は、なぜか冬休みが多少長い。その分、夏休みが短かった。プラスマイナスゼロなので、どちらの方が得か、という話にはならない。けれど、新年を迎える前の連休が長いと、少しだけ余裕が生まれる気がする。夏休みは、はっきりいって長すぎる。そんなに長期間休みでも、あっという間にやることはなくなってしまう。もっとも、彼女はもともと勉強と読書しかしないから、休みが長くてもまったく問題はなかった。
「紗矢は、ここから出られないの?」月夜は質問する。
「うん……。出られないわけじゃないけど、出たくないかな……」
「紗矢にとって、ここはお墓みたいな場所?」
「お墓?」
「もう、死んでしまったから」
「ああ、そうかもしれないね。外に出ても、仕方がないから……。何もできないし」
「何もできないの?」
「うーんと、私から干渉することはできない、という意味だよ。私の姿が見えるのは、ほんの一部の人だけ。だから、月夜は特別だよ。私だけじゃなくて、フィルの姿も見えているし。きっと、月夜には、何かあるんだろうね」
「何かとは?」
「普通の人にはない、何か」
「普通の人、とは?」
「質問が好きだね、月夜」
「ほかの人にも、そう言われたことがある」
「自覚はないの?」
「少し、ある」
「面白いなあ……。月夜は、普段、どんなことをして過ごしているの?」
「学校に行っている間? それとも、家にいる間?」
「どっちも」
「学校に行っている間は、授業を受けて、夜になったら、本を読んでいる」
「夜って……。……夜まで学校に残っているの?」
「そうだよ」
「そんなことをして、いいの?」紗矢は尋ねる。「先生に、怒られたりしない?」
「ほかの人には、ばれていない」
「へえ……。どうして、そんなことができるんだろう……」
「家にいる間は、勉強して、気が向いたらご飯を食べて、お風呂に入って、テレビを見て、本を読んでいる」
「健康的だね。フィルも一緒?」
「一緒のことが多い」
「一緒じゃないこともあるの?」
「ときどき、散歩に出かける」
「もう、ちゃんと相手してあげなよ、フィル」紗矢はフィルに声をかける。「そんなだから、いつまで経っても結婚できないんだよ」
「そんなことはない」フィルは抗議する。
「猫は、結婚するの?」月夜は訊いた。
「しないね」
「紗矢は、結婚したかった?」
「私? 私は、うーん、どうだろう……。できるなら、したかったかもしれないけど」
「まあ、一人ではできないからな」フィルが言った。
「煩い」
「事実を言ったまでさ」
「事実も何も、どうして、君がそんなこと言えるわけ?」
「フィルは、紗矢と結婚してあげないの?」月夜は尋ねる。
「どうして、俺が、こんなやつと結婚しなくちゃいけないんだ?」フィルは言った。「そんなことは、死んでもしないだろうね。もう、死んでいるが」
「私とは、してくれる?」
「しない」
「どうして?」
「どうしてもだ」
そう言ったきり、フィルはそっぽを向いてしまった。
「どういう意味?」月夜は紗矢に訊く。
「うーん、別に、深い意味はないんじゃないかな……。……彼、すぐ照れちゃうから」
「そうなの?」
「違うね」そう言うと、フィルは紗矢の膝から飛び降りて、茂みの中へ駆けていった。
太陽が見えないから、時間の経過が分かりにくい。月夜が腕時計を見ると、いつの間にか三十分が経過していた。しかし、それは彼女の体感とずれている。やはり、この場所に来ると、時間の感覚にずれが生じる。時間が速く進んでいるのか、自分の体感が早くなるのか分からないが、何らかの異常が発生しているのは確かだ。
月夜は、それを紗矢に尋ねようか、と少し考えたが、今はまだやめておいた。二回確認しただけでは、経験として充分とはいえない。データとして不足している。
月夜は、暫くの間、時計の文字盤を眺めていたが、いつもより速く針が進むことはなかった。つまり、一度時計を見て、次に確認したときに、時間の差が生じている可能性が高い。客観的な時間の流れではなく、主観的な時間の感覚に問題が起きるようだ。
「ねえ、月夜」紗矢が言った。「今度、ここで、クリスマスパーティーをしようよ」
月夜は彼女の方を見る。
「いいよ」
「やったね。じゃあ、何をしようか? ケーキとか、買ってきてもいいよ。私は食べられないけど」
「私も、食べないから、いらない」
「何か、ゲームでもする?」
「ビンゴとか?」
「そうそう。いいね。あ、でも、二人でやってもしょうがないか」
「紗矢は、何がしたいの?」
「私? うーん、そうだなあ……。特に、これといった候補はないけど……。……あ、じゃあ、サンタクロースに手紙を書く、というのはどう?」
「書いて、送るの?」
「いや、書くだけ」紗矢は笑った。「送るって、どこに送るつもり?」
「サンタクロースの国」
「それ、どこ?」
「分からないけど、封筒に、サンタクロースの国、と書いたら、届くと思う」
紗矢は真剣な表情になる。
「送ったことあるの?」
「ないよ」
紗矢は笑った。
「なんだあ……。まあ、書くだけでも、雰囲気出て、楽しいかもね。あ、じゃあ、便箋と、封筒を、持ってきてくれる?」
「分かった」
「あと、サンタクロースの帽子とか、あったら持ってきてよ」
「紗矢が、サンタクロースになるの?」
「いやいや、被るだけ」
「馴鹿は、必要?」
「それ、冗談?」紗矢は声を出して笑う。「月夜、けっこう面白いね」
「何が?」
「うーん、精神的に」
「精神?」
「あ、聖心、の方がいいか」
話題がなくなって、二人は黙り込む。話すことがなければ、何も話さなければ良い。無理に言葉を発するのはエネルギーの無駄だ。少なくとも、月夜はそう考えている。
人間は、話すとき、脳に記憶されている言葉を口にする。反対にいえば、脳に記憶されていない言葉は口にできない。しかしながら、もし、自分の頭の上にある雲が、電子的な「クラウド」だったとしたらどうだろう? すべての人の記憶がクラウドに保存され、他人の記憶まで参照できるようになれば、人間は自分の知らない記憶を取り出すことができるようになる。知らない記憶というよりも、すべてを知っている、といった方が近い。何かを発想するには、様々な種類の情報を脳内に取り入れなくてはならないが、脳がクラウドに接続された状態になれば、人間は無限の発想ができるようになる。
しかし、それは本当に発想と呼べるだろうか、と月夜は考える。
すべての人が他人の記憶を参照できるということは、言い換えれば、個々の人間としての価値が失われる、ということだ。
人間は、そんな自由を求めているだろうか?
人間が、人間という形を失ったとき、人間は人間として自由にはなれない。
それでも、人間の枠組みを越えて自由になりたいと思うのは、どうしてだろう?
「それにしても、月夜は本当に格好良いね」
遠くの方で紗矢の声が聞こえたが、月夜はそれを無視した。
「うん……」
しかし、口は勝手に動く。
「どうしたら、そんなふうに、素早く行動できるようになるの?」
それは、人はどうして生きているのか、という質問と同じだ、と月夜は思う。
どうして人は生きているのか?
そもそも、人は生きることを望んでいるのか?
死ぬのが怖いのではない。
苦しい思いをしたくない。ただそれだけのことだ。
それなら、苦しまずに死ねるのなら、人は今すぐに死にたがるだろうか?
分からない……。
たとえ苦しくても、自分は、死のうと思えばいつでも死ねる。
一瞬だけ苦しくても、死んでしまえば、その苦しみさえ忘れてしまう。
いや、忘れるのではない。
感覚は消えてなくなる。
主観もなくなってしまう。
すべてが客観と化す。
しかし、客観とはなんだろう?
客観的に自分を観察しているとき、その観察をしているのは、主観ではないのか?
そう……。
生き物は、永遠に客観的な視点を手に入れられない。
だから、いつまでも自分を可愛がることしかできないのだ。
「素早い、とは?」口を動かして、月夜は尋ねる。
「うん、なんていうか、行動に無駄がないな、と思って」
「そうかな」
「うん……。さては、月夜、自分のことが分かっていないな?」
紗矢の笑い声。
本当に自分を分かっていないのは、貴女の方だ、と月夜は叫びたくなる。
けれど、声は出なかった。
いつものことだ。
自分にはそんなことはできない。
「ねえ、紗矢」
「何?」
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「え?」
「彼氏は、どこに行ったの?」
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「どうして、いなくなってしまったの?」
「月夜?」
「いなくなったのは、どうして?」
「……大丈夫? ねえ、こっちを見て」
「死にたかった?」
「……月夜?」
「生きたかった?」
「月夜!」
気がつくと、紗矢の両手が月夜の肩に触れていた。
月夜の肩を掴んで、紗矢は険しい表情をしている。
「……何?」月夜は首を傾げる。
「大丈夫? なんか、具合が悪そうだけど……」
ああ、たしかに……。
朦朧としているな、と月夜は感じる。
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「え、どうして?」
月夜は歩き出す。
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風が吹いて、木々が微かにざわめく。
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