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生贄の少女 【5】
しおりを挟む「おやおや、問いかけに問いかけで返されてしまいましたか」
突風でも吹けば聞き逃してしまいそうなほどに、しわがれた声。
「シュギル様は、観月の散歩中であられるのでしょうか」
それを喉を鳴らすように震わせ、ザライアが静かに近づいてきた。
「私どもは、明日の祭祀の準備をしておるのですよ」
「生贄の儀式か」
「左様でございます」
「祭司長が自ら準備に携わっているのか?」
意外だった。ザライアは、この神殿の最高位の神官だ。先代の王が即位した時からこの任に就いていると聞いているが、本当だろうか。
「生贄の儀式は、我が国にとって大事な儀式ですから。まぁ、私はここで指図しているだけのお気楽な身分ですがね」
常に深くフードを被り、しわがれた声で話す、年齢不詳の老人。王家の薬師も兼ねており、私やカルスも幼い頃にはこのザライアが調合した薬に世話になったものだ。
ザライアの指揮のもと、下位の神官たちが忙しなく動き回り、儀式のための祭壇が整えられていくのを見守りながら、気になっていたことを尋ねてみる。
「ザライア。多頭竜は、今回、顕現なされてくださるだろうか」
創造神の神使、多頭竜。生贄を捧げ、儀式を開始しても、いつでも多頭竜がその姿を現すとは限らない。
神の眷属に連なる者らしく、その性は気まぐれなのだ。
「それは、儀式を始めてみなければ分かりかねます。……と、申し上げたいところではございますが、今回に限っては大丈夫でしょうと、お伝えしておきましょうか」
「……ほう。随分な自信だが。それは、今回手に入れた生贄が理由か? しかし、その者をまだお前も見てはいないだろう? 軍が凱旋するのは、明朝なのだから」
「ふふふっ……自信の裏づけについては、秘密です。いかにシュギル様といえど、お話するわけにはまいりません」
かろうじて見える口元に、笑いが浮かんだ。そこに刻まれたしわが深くなったと同時に、妖しい印象をも与えてくる笑み。
なぜだろう。周囲の闇が、濃くなったような錯覚に陥った。
月光から外れた位置に立つ、暗闇を取り込んだかのような黒ずくめの男から、もうひと言、届いてきた。
「私が申し上げたことの真偽については、儀式が始まれば、すぐに見てとれますよ」
「なるほど。それでは、儀式の開始までおとなしく待つとするか」
脇に立つ黒衣の老人の謎めいた言葉には、切り返しも問いかけも必要ない。
建国の神話に登場する創造神。その神を祀る神殿は、国王といえど、手は出せない。不可侵の聖域なのだ。
そこにおいて、長年に渡って絶対的な権威を持ち、祭司長として辣腕を振るってきたこの黒衣の老人には、ただ、「諾」と返せば良い。その儀式も、次に陽が沈む頃には、すぐに始まるのだから。
「ところで、シュギル様。もう夜半を過ぎて随分と経ちますが、このままこちらで祭祀の支度におつき合いいただけるのですか?」
「そうだな。そうさせてもらおうか。実はなかなか寝つけずに、気晴らしに外に出てきたのだ」
「左様ですか。それでは、こちらへどうぞ。供物に聖言を与えてやっていただけますれば、幸いに存じます」
「わかった」
『こちらへ』とザライアにいざなわれ、神殿の上階にある祭壇室に入った。どうせ、もうそれほど眠れはしない。供物に聖言を与えた後、夜明けを待って宮に戻るとしよう。
「――天に斎み、頭を垂れて奉らん――奉らん。……ふぅ。これで全部か。ザライアめ、存外に人使いが荒い。ふふっ」
予想していたよりも割り当てられた供物が多かったが、まぁ良い気晴らしになった。ザライアのことだから、それを見越していたのやもしれんが。
「……ん? あれは?」
祭壇室の円窓の向こうで、何かが煌めいたのが、目に入った。
「……っ!」
気になり、下を覗き込んだ自分の視界に飛び込んできたモノに、目を見張る。
きらりと、月光を弾くように輝いている“白”。
「……神の、使い……か?」
そこには、多頭竜と同じ白銀色を身に纏う“何か”が、いた。
「……白、だ」
あぁ、私は何を当たり前のことを口に出しているのだろう。
だが、他に言葉が見つからないのも、本当なのだ。
光輝く“白”。
多頭竜の鱗と同じ輝きを放つ、白銀色。それが、目の前にいた。そして、それはなぜか、こちらを見上げている。
「少女、か?」
神々しい光を放つその者は、幻でも何でもない。生きている人間なのだと、ようやく理解できた。
しかも、ごくごく若い、まだ少女といっても差し支えない年齢なのだとも。
理解した途端。その者しか見えていなかった私の視界に、少女を護るように取り囲んでいる兵士たちの姿も目に入ってくる。
私が光を見たと感じたのは、数人の兵士たちに担がれた輿から少女が地に降り立った瞬間だったのだろう。
腰から更に下、膝までを覆う、うねりを帯びた白金髪。
そこから伸びた細い手足は松明に照らされ、夜目にも鮮やかな、透き通るように真っ白な肌。
「美しい……」
気づけば、かすれた声が漏れていた。その言葉を発するまで、呼吸すら忘れていたかのようだ。
目が、離せない。
わかっている。この者は、駄目だ。ちゃんとわかっている。
だが、輿を護っていた兵士に促され、少女が神殿に足を踏み入れ始めるのを見とめた瞬間、弾けるように祭壇室を飛び出していた。
身体が動くのを、止められない。
あの少女が多頭竜への生贄なのだということを、王子である私は既に理解し、納得しなければいけないというのに――。
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