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第一章 静かな目覚め
29. 嫉妬
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セレダとジェイデンと話を終え、皆で村屋敷を出た。玄関にはヒューゴが3人の馬を連れてきてくれていた。
誘拐された過去から僕は原則一人で行動を許されていない。手伝いの際は必ずジェイデンの送迎付きだ。きっと今日もジェイデンは屋敷まで付き合ってくれるのだろう。
僕はヒューゴに礼を言って、手綱を受け取る。僕が爺とヒューゴに別れの挨拶をしていると、庭の野ばら越しに小さな人影が走った。
「ままー!」
振り返ると前庭から小さな男の子が走ってきていた。
「…あれ?ユグ!?」
男の子はにこにこと笑い、ヒューゴの方へ駆け寄る。ヒューゴは驚いた顔をしながらも男の子をしっかり抱き上げた。
「お迎えの時間はまだなのに…一人で来たの?」
「んーん。」
ヒューゴが優しい声色でそう聞くと、男の子はふっくらとした腕を上げて庭の入り口を指さした。入り口には高齢の村人が優しい微笑みで立っていた。僕たちの姿を見て、帽子を取りゆっくりと礼をする。
「ああ、今日はお隣の爺が来てくれたのか。」
「うん!」
顔見知りだったのか、ヒューゴは老人に頭を下げて挨拶をした。老人は手をあげて挨拶を返すとゆっくりと引き返して行く。
老人を見送ると、ヒューゴは恐縮そうに僕に頭を下げた。
「ティト様、…すみません。お見送りの途中だったのに。」
「構わないよ。僕も久しぶりにユグに会えて嬉しい。すごく大きくなったね。」
僕は抱き上げられた男の子、ユグに視線を合わせ微笑む。ユグは促されてたどたどしく挨拶をしてくれた。その姿は愛らしく、僕は思わず頬が緩んでしまう。
「もう元気すぎるほどで、最近は目が離せませんよ…。」
「ふふ、そうか。」
ヒューゴはため息をつきながらもユグを優しく抱き直した。
ユグはヒューゴの息子だ。ヒューゴは成人をしてからずっと真面目に教会に通い続け、3年前に子を授かった。10年以上通い続け、ようやく授かったのだと聞いている。
夫婦という家族体系が滅多に取れないこの世界では、家族単位の社会制度が成り立たない。
そのため、この村では村全体で子供を育て、村全体で仕事をしている。
村に生まれた子供たちは、日中は教会に集まり、村の長老や手の空いた村人に勉強や仕事を教わる。そして、今日手伝いに出たイチゴ農家のように、たくさんの手が必要な時は、気持ちばかりの日当を対価に他の村人たちが手伝いに出る。そうやって互いに助け合いながら、なんとか村を成り立たせているのだ。
ユグはおそらく今日も教会に預けられていたのだろう。
ヒューゴは甘えるユグを爺に預け、僕の馬具の手間を手伝ってくれた。僕はヒューゴにしか聞こえない程度の音量で口を開く。
「……ヒューゴ…もし嫌じゃなければ教えて欲しいんだけど…。」
「はい、なんでしょう?」
「その……加護を受けるのは大変だった?」
ヒューゴがパッと僕を見た。真っ直ぐに彼の瞳と目が合う。
「……そうですね、とても大変でした。」
彼は珍しく真面目な顔で僕を見ていた。
「…加護は苦しいし、何度も何度も通わなくては行けない辛さも、将来の心配も、苦しくて心も身体もすり減ります。」
「そう…なんだ…。」
いつもにこにこしているヒューゴの真面目な表情に、少し気圧されそうになる。
「でも…ユグが生まれた時、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。人生の中に急にパッと温かいものが宿ったようでした。」
ヒューゴは表情を崩し、言葉を続けた。
「だから加護を頑張って良かったと思ってます。子育ては叫び出したくなるくらい大変だし、また加護を受けろと言われたら本当に嫌だけど、……でも良かった。おかげでユグに会えた。」
微笑む彼は、どこまでも優しい眼差しをしていた。
「…そうか………そう…だよね……、教えてくれてありがとう。」
「いーえ!またゆっくりユグの顔も見に来てください。」
僕が礼をすると、彼はにこっといつもの笑みを浮かべていた。
「もちろん。」
僕はヒューゴにアシストを受け、馬に乗る。
そして、振り返ってユグと爺の方を見た。
「ユグ!また今度、僕とも遊ぼうね。」
「うん!いいよー!」
そう元気に答えるユグに、爺が慌て、ジェイデンとセレダ、そしてヒューゴが穏やかに笑った。
「レヴィル、資料を検めていただけますか。」
「…ああ、できたのか。」
「はい、遅くなってすみません。お願いします。」
僕はレヴィルに決裁書を渡し、彼の書斎机にいくつかのしおりを付けた書類の束を置いた。彼は決裁書にしっかりと目を通し、僕の集めた書類を見始める。
ジェイデンの手伝いから数日が経ち、僕はレヴィルの書斎で彼の仕事を教わっていた。
バカンス前に急ぎの仕事を片付けたレヴィルは、少し時間の余裕ができたらしい。この数日、決裁をするために必要な資料を揃える手伝いをさせてくれている。これは普段はアズレトがやる仕事だ。しっかりと決裁書に目を通し、最終判断のためにどのような資料が必要かを考えて、目を通す作業は本当に勉強になる。そのため時間に余裕がある決裁書だけやらせてもらう事になっていた。
レヴィルは涼やかな瞳を資料に向けたまま、口を開いた。
「これを揃えるのにどれくらい時間がかかった?」
「3日ほど…決裁書を読み込むのも含めて5、6時間はかかりました。」
「…そうか、まあ初めてなら上出来だ。」
レヴィルは静かに頷いて、また資料に目を落とした。
そのまましばらく沈黙が続いた後、彼は何点か補足の資料を求めた。僕は指示通りに書類を探し、書斎の椅子に座る彼に渡す。少し資料を覗き込むと彼は資料の何を見て判断をしているのか静かに教えてくれた。僕は頷きながら自分の手帳にメモを取る。
レヴィルは一通り説明をしを得ると、決裁書にサインをした。流れるように美しい文字が紙面に綴られていく。
「…足りないものがいくつもありましたね。申し訳ありません。」
「一度でできるようにはならない、何度もやりながら覚えればいい。」
「はい。」
僕は頷いた。彼は決裁書のインクを乾かし、素晴らしい誂えが施された木製の文箱へそっと書類を入れた。
レヴィルがサインをした書類は家令のアズレトが回収し、順次適切に処理がされる。母の死後、アズレトは僕の世話という執事まがいの事も担ってくれているが、本来は当主に代わり領地の管理をするのが役目だ。
レヴィルからもアズレトからも教わらなくてはいけないことがまだまだ沢山ある。
やり取りを終え、レヴィルはまた別の書類に目を通し始める。僕は内心で彼の様子にため息をついていた。僕が書斎を訪れてから、ずっとレヴィルは伏し目がちで一度も視線を合わせていない。ここ数日ずっとこうだ。話すトーンは穏やかだが、どこかそっけないのだ。
「レヴィル……まだ…怒っていらっしゃるのですか?」
僕がそう問いかけると、彼はやっとダークブルーの瞳を僕に向けた。
「…何に?」
「……僕が…貴方に許しを得ずにジェイデンのフェロモンを試したことに。」
彼はしばしの沈黙の後、怒っていないさ、と短く答え、すぐに書類に視線を落としてしまった。
優しくて頼りがいのある彼からこのような態度を取られるのは初めてで、僕は少し戸惑う。
村屋敷から帰ってきた日、僕がジェイデンのフェロモンを試したことを知ると彼は烈火のごとく怒った。初めて見る兄の姿だった。
僕がいつまでもレヴィルに頼るわけにはいかないと反論し、その日は初めて口論になってしまったのだ。
彼はその日からずっと不機嫌だ。理由を知らないリノは、自分がバカンスに遅れると言い出したからこうなったのではないかと、気に病んでいる。
ここを逃したらさらに拗れてしまうような気がした。僕は資料をそっと脇机に置き、彼の横に移動した。
「レヴィル、申し訳ありません。僕は…なにか貴方を怒らせる事をしてしまったのだと思うのですが…どうしてなのか分からないのです。」
彼の涼やかな瞳がすっと僕を見上げた。
「貴方にこんな風な態度を取られるのは辛い…どうか話をする時間をいただけませんか。」
僕が縋るようにひじ掛けに置かれた彼の手にそっと手を伸ばした。
彼はしばらくその状態のまま黙っていたが、やがて静かにため息をついた。
「お前は悪くないよ。…俺の問題だ。」
「でしたらなおさら…教えてください…。貴方が辛い思いをしているのなら、支えになりたい。」
視線を反らした彼を逃がさないように、僕は少し手に力を入れ、やや強引に僕の方に身体を向けさせた。
レヴィルは眉間にシワを寄せて僕を見た。
ダークブルーの瞳と見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続く。
「………お前は…ジェイデンの事が好きなのか?」
彼はそう静かに問いかけた。
僕は彼の質問の意味を理解するために、ゆっくりと考える。
「………ジェイデンは素晴らしい人物なので、先生としても、人としても尊敬しています。でも……貴方に抱くような好きの気持ちとは違います。」
「………それは…妻にしたい好きではないと言う事か。」
「…そうですね……今まで、そういう感情で彼を見たことはありませんでした。…それに僕にはその資格もありません。」
そう、僕にはジェイデンのフェロモンは効かなかった。
村屋敷でフェロモンを試した際、フェロモンをいつ出し始めたのか気づかないくらい、彼からはフェロモンの匂いが全くしなかった。
アデルの人数が少なくなってしまった今の時代では、フェロモンの相性が悪ければ結婚という選択肢は取れない。
だから僕がジェイデンを妻にすることは、まずあり得ないのだ。
僕がそう答えるとレヴィルは眉間にシワを寄せた。
「フェロモンが効かなくても…加護に立ち会ったり…手伝いを重ねていけば……情が湧くこともあるだろう。」
僕は彼の言葉の意図が分からず、慎重に彼の様子を見る。
「………レヴィルは僕がジェイデンと心を通わせることが心配…なのですか…?」
「……………。」
レヴィルは額に手を当て、しばらく沈黙した。そして絞り出すように小さな声で、違うと答えた。
僕は手で顔を隠してしまった彼の顔を見るために彼の前に跪く。
「レヴィル……無理にとは言いません…。でも…許されるなら僕に話してほしい……。」
僕は彼の左手を取りそっとキスを落とす。そして、両手で彼の手を握り、祈るように額に当てた。
「…貴方の心に……もっと触れたいよ…。」
「ティト…。」
レヴィルは項垂れるように首を振った。
「俺は…お前が思っているような出来た兄ではない……心の内を知れば…きっと失望する。」
彼は少し怯えたような表情で僕を見下ろしていた。僕は堪らなくなって、身を起こし彼を抱きしめる。
「失望なんてしません。僕はいつまでも貴方に憧れる弟のままでいたくない…貴方の夫になりたいよ。弱い部分も全て愛したい。」
レヴィルはしばらく何も言わないまま、僕に抱かれていた。彼の首筋からは微かにジュニパーとグレープフルーツの香りがする。
「……そんなのは…幻想だ……。」
「そうですね…。」
「俺は……お前に…本当に愛されたいんだ…。」
「…愛していますよ。」
誰よりも。
そう言ってしまいそうになるのを、僕はなんとか堪えた。代わりにそっと彼の頬を撫で口付けを落とす。
彼はそれをやんわりと拒むように緩く首を振った。
「お前のその気持ちは…俺のフェロモンに惑わされただけだ…。」
レヴィルは小さな声でそう言った。
「俺はリノとは違う。…ただフェロモンの相性が良いというだけで、お前を惑わしてしまった。俺は…本当の意味でお前に…愛されたい…。」
彼は切なげに言った。
「……抱いてはいけない感情だと分かっていても…俺はジェイデンが羨ましくて仕方がない……フェロモンが効かないあいつは、お前に本当にありのままの人間性を見てもらえる……フェロモンなんて生理現象じゃなく…本当の人となりを見て…好いてもらえる。」
ダークブルーの瞳が揺れ、はらりと涙が一筋溢れた。彼は眉を歪めて無理やりに笑う。
「こんな事を思うなんて…卑しいだろう…?」
「……そんな、ことありません…。」
鼻の奥がジンと痺れる。いつの間にか僕は涙を流していた。
「……貴方にそんな想いをさせて…すみません。」
彼は泣いている僕を見て少し困ったような顔をし、僕の涙を指で拭った。僕は涙が止まらず、ぽろぼろと涙を零しながら彼をみる。
「僕は…貴方のことが好きです。フェロモンなんて関係なく、貴方自身が好きだ。」
涙を拭うレヴィルの手を取り、そっと頬を寄せた。
「今は信じられないかも知れないけど…僕は生涯をかけて……貴方を愛する事でそれを証明します。だからもう少し時間をください。」
「時間………時間ってなんだ…。」
「僕がフェロモンに惑わされているわけでなく、貴方自身を愛していると分かってもらえるように…誠意を尽くします。」
僕がそう言うと彼は困ったように僕を見ていた。そしてそのままぐっと引き寄せられる。僕は書斎の椅子に座るレヴィルに乗り上げるような格好になった。
「お前は…真面目だな…。」
「すみません…。」
たじろぐ僕をよそに、彼は僕の後頭部に手を差し入れ、僕の唇にキスを落とした。一度唇を離した後、僕の頬を伝う涙を拭う。そしてちゅっちゅっと何度か軽いキスをした。いつもの彼のキスの誘いだ。
「んっ………。」
緩く口を開くと彼の舌が僕を誘った。僕たちはこの数ヶ月で沢山のキスをしていて、お互いに好きなキスが段々と分かるようになっていた。
舌の力を抜き、ゆっくりとお互いの舌を舐め合う。粘膜に触れるだけで、気持ちが良くて脳が痺れるような感覚になる。僕たちは涙で苦しくなった呼吸を時々整えながら何度もキスを重ねた。
ちゅくちゅくと水音を立てながらキスをしていると、レヴィルが視線を動かし様子を伺うような素振りを見せた。
僕が不思議に思うと、ふいにジュニパーとグレープフルーツの香りが僕の鼻腔に漂う。
彼のフェロモンの香りだ。
「…っレヴィル?」
僕はびっくりして唇を離した。こんなにもしっかりと彼のフェロモンの匂いを嗅いだのは、熱を出した時以来だ。余りにも良い匂いに陶然としてしまいそうになる。
「…体調は…大丈夫か…?」
レヴィルはキスで上気した表情のまま、心配そうに僕を覗き込んだ。その度にふわりと彼の香りが漂う。それは脳が溶けてしまいそうな程、良い匂いだった。
「大丈夫…ですけど…その……いい匂いすぎて…我慢が……。」
僕は咄嗟に身を離そうとする。
フェロモンで僕が惑わされるのが嫌だと言われたばかりなのに、今フェロモンに当てられて彼を襲うわけには行かない。
けれど、身動ぎをすると僕は逆にレヴィルにグッと引き寄せられてしまった。
僕が抵抗しようとすると、彼は切なそうに眉を寄せる。
「……おかしいだろう…?フェロモンだけでお前に好かれたくないと思うのに……不安で…身体だけでも…お前のものになりたいと思ってしまうんだ…。」
「……っ。」
「俺自身を…好きになって欲しいのに……結局フェロモンで惑わすくらいしか……できもしない…。」
彼は自嘲気味にそう言った。彼は今まで見たことがないほど頼りなげな表情をしていた。
「ティト………抱いてくれ…。」
彼は泣きそうな声でそう言った。
誘拐された過去から僕は原則一人で行動を許されていない。手伝いの際は必ずジェイデンの送迎付きだ。きっと今日もジェイデンは屋敷まで付き合ってくれるのだろう。
僕はヒューゴに礼を言って、手綱を受け取る。僕が爺とヒューゴに別れの挨拶をしていると、庭の野ばら越しに小さな人影が走った。
「ままー!」
振り返ると前庭から小さな男の子が走ってきていた。
「…あれ?ユグ!?」
男の子はにこにこと笑い、ヒューゴの方へ駆け寄る。ヒューゴは驚いた顔をしながらも男の子をしっかり抱き上げた。
「お迎えの時間はまだなのに…一人で来たの?」
「んーん。」
ヒューゴが優しい声色でそう聞くと、男の子はふっくらとした腕を上げて庭の入り口を指さした。入り口には高齢の村人が優しい微笑みで立っていた。僕たちの姿を見て、帽子を取りゆっくりと礼をする。
「ああ、今日はお隣の爺が来てくれたのか。」
「うん!」
顔見知りだったのか、ヒューゴは老人に頭を下げて挨拶をした。老人は手をあげて挨拶を返すとゆっくりと引き返して行く。
老人を見送ると、ヒューゴは恐縮そうに僕に頭を下げた。
「ティト様、…すみません。お見送りの途中だったのに。」
「構わないよ。僕も久しぶりにユグに会えて嬉しい。すごく大きくなったね。」
僕は抱き上げられた男の子、ユグに視線を合わせ微笑む。ユグは促されてたどたどしく挨拶をしてくれた。その姿は愛らしく、僕は思わず頬が緩んでしまう。
「もう元気すぎるほどで、最近は目が離せませんよ…。」
「ふふ、そうか。」
ヒューゴはため息をつきながらもユグを優しく抱き直した。
ユグはヒューゴの息子だ。ヒューゴは成人をしてからずっと真面目に教会に通い続け、3年前に子を授かった。10年以上通い続け、ようやく授かったのだと聞いている。
夫婦という家族体系が滅多に取れないこの世界では、家族単位の社会制度が成り立たない。
そのため、この村では村全体で子供を育て、村全体で仕事をしている。
村に生まれた子供たちは、日中は教会に集まり、村の長老や手の空いた村人に勉強や仕事を教わる。そして、今日手伝いに出たイチゴ農家のように、たくさんの手が必要な時は、気持ちばかりの日当を対価に他の村人たちが手伝いに出る。そうやって互いに助け合いながら、なんとか村を成り立たせているのだ。
ユグはおそらく今日も教会に預けられていたのだろう。
ヒューゴは甘えるユグを爺に預け、僕の馬具の手間を手伝ってくれた。僕はヒューゴにしか聞こえない程度の音量で口を開く。
「……ヒューゴ…もし嫌じゃなければ教えて欲しいんだけど…。」
「はい、なんでしょう?」
「その……加護を受けるのは大変だった?」
ヒューゴがパッと僕を見た。真っ直ぐに彼の瞳と目が合う。
「……そうですね、とても大変でした。」
彼は珍しく真面目な顔で僕を見ていた。
「…加護は苦しいし、何度も何度も通わなくては行けない辛さも、将来の心配も、苦しくて心も身体もすり減ります。」
「そう…なんだ…。」
いつもにこにこしているヒューゴの真面目な表情に、少し気圧されそうになる。
「でも…ユグが生まれた時、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。人生の中に急にパッと温かいものが宿ったようでした。」
ヒューゴは表情を崩し、言葉を続けた。
「だから加護を頑張って良かったと思ってます。子育ては叫び出したくなるくらい大変だし、また加護を受けろと言われたら本当に嫌だけど、……でも良かった。おかげでユグに会えた。」
微笑む彼は、どこまでも優しい眼差しをしていた。
「…そうか………そう…だよね……、教えてくれてありがとう。」
「いーえ!またゆっくりユグの顔も見に来てください。」
僕が礼をすると、彼はにこっといつもの笑みを浮かべていた。
「もちろん。」
僕はヒューゴにアシストを受け、馬に乗る。
そして、振り返ってユグと爺の方を見た。
「ユグ!また今度、僕とも遊ぼうね。」
「うん!いいよー!」
そう元気に答えるユグに、爺が慌て、ジェイデンとセレダ、そしてヒューゴが穏やかに笑った。
「レヴィル、資料を検めていただけますか。」
「…ああ、できたのか。」
「はい、遅くなってすみません。お願いします。」
僕はレヴィルに決裁書を渡し、彼の書斎机にいくつかのしおりを付けた書類の束を置いた。彼は決裁書にしっかりと目を通し、僕の集めた書類を見始める。
ジェイデンの手伝いから数日が経ち、僕はレヴィルの書斎で彼の仕事を教わっていた。
バカンス前に急ぎの仕事を片付けたレヴィルは、少し時間の余裕ができたらしい。この数日、決裁をするために必要な資料を揃える手伝いをさせてくれている。これは普段はアズレトがやる仕事だ。しっかりと決裁書に目を通し、最終判断のためにどのような資料が必要かを考えて、目を通す作業は本当に勉強になる。そのため時間に余裕がある決裁書だけやらせてもらう事になっていた。
レヴィルは涼やかな瞳を資料に向けたまま、口を開いた。
「これを揃えるのにどれくらい時間がかかった?」
「3日ほど…決裁書を読み込むのも含めて5、6時間はかかりました。」
「…そうか、まあ初めてなら上出来だ。」
レヴィルは静かに頷いて、また資料に目を落とした。
そのまましばらく沈黙が続いた後、彼は何点か補足の資料を求めた。僕は指示通りに書類を探し、書斎の椅子に座る彼に渡す。少し資料を覗き込むと彼は資料の何を見て判断をしているのか静かに教えてくれた。僕は頷きながら自分の手帳にメモを取る。
レヴィルは一通り説明をしを得ると、決裁書にサインをした。流れるように美しい文字が紙面に綴られていく。
「…足りないものがいくつもありましたね。申し訳ありません。」
「一度でできるようにはならない、何度もやりながら覚えればいい。」
「はい。」
僕は頷いた。彼は決裁書のインクを乾かし、素晴らしい誂えが施された木製の文箱へそっと書類を入れた。
レヴィルがサインをした書類は家令のアズレトが回収し、順次適切に処理がされる。母の死後、アズレトは僕の世話という執事まがいの事も担ってくれているが、本来は当主に代わり領地の管理をするのが役目だ。
レヴィルからもアズレトからも教わらなくてはいけないことがまだまだ沢山ある。
やり取りを終え、レヴィルはまた別の書類に目を通し始める。僕は内心で彼の様子にため息をついていた。僕が書斎を訪れてから、ずっとレヴィルは伏し目がちで一度も視線を合わせていない。ここ数日ずっとこうだ。話すトーンは穏やかだが、どこかそっけないのだ。
「レヴィル……まだ…怒っていらっしゃるのですか?」
僕がそう問いかけると、彼はやっとダークブルーの瞳を僕に向けた。
「…何に?」
「……僕が…貴方に許しを得ずにジェイデンのフェロモンを試したことに。」
彼はしばしの沈黙の後、怒っていないさ、と短く答え、すぐに書類に視線を落としてしまった。
優しくて頼りがいのある彼からこのような態度を取られるのは初めてで、僕は少し戸惑う。
村屋敷から帰ってきた日、僕がジェイデンのフェロモンを試したことを知ると彼は烈火のごとく怒った。初めて見る兄の姿だった。
僕がいつまでもレヴィルに頼るわけにはいかないと反論し、その日は初めて口論になってしまったのだ。
彼はその日からずっと不機嫌だ。理由を知らないリノは、自分がバカンスに遅れると言い出したからこうなったのではないかと、気に病んでいる。
ここを逃したらさらに拗れてしまうような気がした。僕は資料をそっと脇机に置き、彼の横に移動した。
「レヴィル、申し訳ありません。僕は…なにか貴方を怒らせる事をしてしまったのだと思うのですが…どうしてなのか分からないのです。」
彼の涼やかな瞳がすっと僕を見上げた。
「貴方にこんな風な態度を取られるのは辛い…どうか話をする時間をいただけませんか。」
僕が縋るようにひじ掛けに置かれた彼の手にそっと手を伸ばした。
彼はしばらくその状態のまま黙っていたが、やがて静かにため息をついた。
「お前は悪くないよ。…俺の問題だ。」
「でしたらなおさら…教えてください…。貴方が辛い思いをしているのなら、支えになりたい。」
視線を反らした彼を逃がさないように、僕は少し手に力を入れ、やや強引に僕の方に身体を向けさせた。
レヴィルは眉間にシワを寄せて僕を見た。
ダークブルーの瞳と見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続く。
「………お前は…ジェイデンの事が好きなのか?」
彼はそう静かに問いかけた。
僕は彼の質問の意味を理解するために、ゆっくりと考える。
「………ジェイデンは素晴らしい人物なので、先生としても、人としても尊敬しています。でも……貴方に抱くような好きの気持ちとは違います。」
「………それは…妻にしたい好きではないと言う事か。」
「…そうですね……今まで、そういう感情で彼を見たことはありませんでした。…それに僕にはその資格もありません。」
そう、僕にはジェイデンのフェロモンは効かなかった。
村屋敷でフェロモンを試した際、フェロモンをいつ出し始めたのか気づかないくらい、彼からはフェロモンの匂いが全くしなかった。
アデルの人数が少なくなってしまった今の時代では、フェロモンの相性が悪ければ結婚という選択肢は取れない。
だから僕がジェイデンを妻にすることは、まずあり得ないのだ。
僕がそう答えるとレヴィルは眉間にシワを寄せた。
「フェロモンが効かなくても…加護に立ち会ったり…手伝いを重ねていけば……情が湧くこともあるだろう。」
僕は彼の言葉の意図が分からず、慎重に彼の様子を見る。
「………レヴィルは僕がジェイデンと心を通わせることが心配…なのですか…?」
「……………。」
レヴィルは額に手を当て、しばらく沈黙した。そして絞り出すように小さな声で、違うと答えた。
僕は手で顔を隠してしまった彼の顔を見るために彼の前に跪く。
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僕は彼の左手を取りそっとキスを落とす。そして、両手で彼の手を握り、祈るように額に当てた。
「…貴方の心に……もっと触れたいよ…。」
「ティト…。」
レヴィルは項垂れるように首を振った。
「俺は…お前が思っているような出来た兄ではない……心の内を知れば…きっと失望する。」
彼は少し怯えたような表情で僕を見下ろしていた。僕は堪らなくなって、身を起こし彼を抱きしめる。
「失望なんてしません。僕はいつまでも貴方に憧れる弟のままでいたくない…貴方の夫になりたいよ。弱い部分も全て愛したい。」
レヴィルはしばらく何も言わないまま、僕に抱かれていた。彼の首筋からは微かにジュニパーとグレープフルーツの香りがする。
「……そんなのは…幻想だ……。」
「そうですね…。」
「俺は……お前に…本当に愛されたいんだ…。」
「…愛していますよ。」
誰よりも。
そう言ってしまいそうになるのを、僕はなんとか堪えた。代わりにそっと彼の頬を撫で口付けを落とす。
彼はそれをやんわりと拒むように緩く首を振った。
「お前のその気持ちは…俺のフェロモンに惑わされただけだ…。」
レヴィルは小さな声でそう言った。
「俺はリノとは違う。…ただフェロモンの相性が良いというだけで、お前を惑わしてしまった。俺は…本当の意味でお前に…愛されたい…。」
彼は切なげに言った。
「……抱いてはいけない感情だと分かっていても…俺はジェイデンが羨ましくて仕方がない……フェロモンが効かないあいつは、お前に本当にありのままの人間性を見てもらえる……フェロモンなんて生理現象じゃなく…本当の人となりを見て…好いてもらえる。」
ダークブルーの瞳が揺れ、はらりと涙が一筋溢れた。彼は眉を歪めて無理やりに笑う。
「こんな事を思うなんて…卑しいだろう…?」
「……そんな、ことありません…。」
鼻の奥がジンと痺れる。いつの間にか僕は涙を流していた。
「……貴方にそんな想いをさせて…すみません。」
彼は泣いている僕を見て少し困ったような顔をし、僕の涙を指で拭った。僕は涙が止まらず、ぽろぼろと涙を零しながら彼をみる。
「僕は…貴方のことが好きです。フェロモンなんて関係なく、貴方自身が好きだ。」
涙を拭うレヴィルの手を取り、そっと頬を寄せた。
「今は信じられないかも知れないけど…僕は生涯をかけて……貴方を愛する事でそれを証明します。だからもう少し時間をください。」
「時間………時間ってなんだ…。」
「僕がフェロモンに惑わされているわけでなく、貴方自身を愛していると分かってもらえるように…誠意を尽くします。」
僕がそう言うと彼は困ったように僕を見ていた。そしてそのままぐっと引き寄せられる。僕は書斎の椅子に座るレヴィルに乗り上げるような格好になった。
「お前は…真面目だな…。」
「すみません…。」
たじろぐ僕をよそに、彼は僕の後頭部に手を差し入れ、僕の唇にキスを落とした。一度唇を離した後、僕の頬を伝う涙を拭う。そしてちゅっちゅっと何度か軽いキスをした。いつもの彼のキスの誘いだ。
「んっ………。」
緩く口を開くと彼の舌が僕を誘った。僕たちはこの数ヶ月で沢山のキスをしていて、お互いに好きなキスが段々と分かるようになっていた。
舌の力を抜き、ゆっくりとお互いの舌を舐め合う。粘膜に触れるだけで、気持ちが良くて脳が痺れるような感覚になる。僕たちは涙で苦しくなった呼吸を時々整えながら何度もキスを重ねた。
ちゅくちゅくと水音を立てながらキスをしていると、レヴィルが視線を動かし様子を伺うような素振りを見せた。
僕が不思議に思うと、ふいにジュニパーとグレープフルーツの香りが僕の鼻腔に漂う。
彼のフェロモンの香りだ。
「…っレヴィル?」
僕はびっくりして唇を離した。こんなにもしっかりと彼のフェロモンの匂いを嗅いだのは、熱を出した時以来だ。余りにも良い匂いに陶然としてしまいそうになる。
「…体調は…大丈夫か…?」
レヴィルはキスで上気した表情のまま、心配そうに僕を覗き込んだ。その度にふわりと彼の香りが漂う。それは脳が溶けてしまいそうな程、良い匂いだった。
「大丈夫…ですけど…その……いい匂いすぎて…我慢が……。」
僕は咄嗟に身を離そうとする。
フェロモンで僕が惑わされるのが嫌だと言われたばかりなのに、今フェロモンに当てられて彼を襲うわけには行かない。
けれど、身動ぎをすると僕は逆にレヴィルにグッと引き寄せられてしまった。
僕が抵抗しようとすると、彼は切なそうに眉を寄せる。
「……おかしいだろう…?フェロモンだけでお前に好かれたくないと思うのに……不安で…身体だけでも…お前のものになりたいと思ってしまうんだ…。」
「……っ。」
「俺自身を…好きになって欲しいのに……結局フェロモンで惑わすくらいしか……できもしない…。」
彼は自嘲気味にそう言った。彼は今まで見たことがないほど頼りなげな表情をしていた。
「ティト………抱いてくれ…。」
彼は泣きそうな声でそう言った。
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