アデルの子

新子珠子

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第二章 深窓の君

52. デート

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 ハリスとの約束の日は過ごしやすい天気の日となった。

 タウンハウスの車寄せにカイザーリング家の紋章が入った立派な箱馬車が止まる。馬たちをいなすと、御者がステップを引き出し、恭しく扉を開けた。
 僕は中の人物が降り立つ前に馬車に近づいて、さっと手を差し出す。

「お手をどうぞ。」

 馬車から降りてきたハリスは驚いたように僕を見た後、美しく微笑んだ。

「ありがとうございます。」

 僕の手を取り、ゆっくりと馬車から降り立つ。
 久しぶりに再会したハリスは、すらっとしたしなやかな身体付きになっており、僅かに幼さを残していた輪郭もすっきりとして、美しい青年になっていた。

 僕が彼の変化を感じた様に、ハリスも僕の姿を見つめていて、ふ、と目が合う。

「今日はワガママに付き合ってくれてありがとう。」
「いいえ、お誘いいただけてとても光栄です。」

 ハリスは僕を見つめ、恥ずかしそうに目を細めた。

「ティト様…雰囲気が変わられましたね、背も僕より高くなってるし…その……すごくカッコいいです。」
「ありがとう。ハリスもすごく大人っぽくて素敵だ。」

 そう言うと、ハリスは少し嬉しそうに微笑んだ。ウェーブのかかった透き通る様な美しいアッシュブランドの髪がさらりと目元に流れる。ハリスは慣れた仕草でその髪を耳に掛けた。
 その仕草は以前にも見た事があるはずなのに、どこか色気を感じさせた。血色の良い艶のある肌に長い睫毛の影が落ちていて、清廉ではあるものの艶がある。彼は素直に美しいと感じさせる青年となっていた。

「お会いできて本当に嬉しいです。」
「うん、僕もすごく嬉しいよ。」

 彼は少し恥ずかしそうにしながらも、優しく微笑む。僕たちはハグをして、互いに久しぶりの再会を喜んだ。





「ティト様、クローデル侯爵とリノ様にご挨拶はしなくても大丈夫でしょうか。」

 一通り挨拶と出発の準備を整えてしまうと、ハリスが心配そうにそう言った。

 今日はハリスが考えてくれた外出先に向かうため、僕もカイザーリング家の馬車に乗せてもらう。馬車の中には僕とハリスが乗り、護衛としてジェイデンとカイザーリング家の護衛が1名同行してくれる。
 レヴィルもリノも同行しない王都での外出は本当に久しぶりだ。態度にこそ出しはしないが、きっと2人とも心配しているだろう。ハリスはその事情を知ってくれているからこそ、挨拶をしなくてはと思ったのだろう。

「今日はハリスと僕とのデートだから邪魔はしない様に気を遣ってくれたみたい。挨拶は次の機会にでも。」

 僕がデートと言う言葉を使ったからか、彼はぱちぱちと瞬きをした。そして花の様に綻んで笑う。

「はい、承知しました。今日はよろしくお願いします。」




 乗り込んだカイザーリング家の馬車はとても豪華だった。内装はカイザーリングの紋章が描かれたシルクサテンですべて覆われており、たっぷりとした布団張りの座席は、贅沢に綿が使われているのかとても座り心地が良かった。さすがは南側の領地の貿易を一手に引き受けるカイザーリング家といった印象だ。

 僕は奥側に座らせてもらい、隣にそっとハリスが座る。ハリスは膝に乗せていた僕の手にそっと触れた。

「今日はどちらへご案内しようか考えたんですが…図書館はどうかなって思ってるんです。」
「図書館?」
「ええ、国立図書館です。行かれた事はありますか?」
「いや、ないと思う。」
「そうですか、たくさんの蔵書があって、建物もとても素晴らしいんですよ。本当にどんな本でもあって…きっと中に入られたら蔵書数に驚かれると思います。」
「へえ、それは行ってみたいな。」

 僕が反応を示すとハリスは嬉しそうに微笑んだ。

 前世の記憶を思い出す前までの僕は外の世界とアクセスする手段は限られていて、本は数少ない手段の一つだった。あの当時、僕は何度も本に慰められた。今では読書をする時間は少なくなっているが、それでも本を読むことは好きだ。ハリスとも何度か読んだ本についての話をしたことがある。きっとそれを覚えていてくれたのだろう。

「良かった…デートに図書館なんて…と思われるかもしれないと心配していたので…。」
「ううん、嬉しいよ、考えてくれてありがとう。楽しみだな。」
「はい。」

 ハリスは美しい笑みを浮かべて頷いた。
 彼が御者に行先に変更がない事を伝えると、ゆっくりと馬車が進みだす。


「今日は初めてですから滞在は短い時間にしましょう。もし気にいられたらまた足を運んでください。」
「うん…気を遣ってもらってごめんね。」
「ううん、楽しみは何度もあった方がきっと嬉しいですから。」

 彼はそう言って少しだけ笑うと、瞳を伏し目がちにして、僕に触れていた手をきゅ、と握った。

「図書館を訪れる人は皆、本を探しに訪れていますから、僕たちが特別に目立つ行動をとらない限りは注目もそこまで浴びないと思います。……でも、お加減が優れなくなる可能性はあるかと思いますので、その時は絶対にご無理をなさらずに教えてください。今日が難しくてもまた挑戦すればいいんです、無理は駄目ですよ。」

 ハリスは真剣な表情だった。僕は彼の手を少しだけ握り返す。

「分かった、必ず言うよ。」
「うん…約束です。」

 ハリスは小さく頷いた。きっと僕のために一所懸命考えてくれて、図書館が一番いいと思ったのだろう。なんだかその気持ちだけでとても嬉しくて、僕はもう不安な気持ちよりも楽しみな気持ちが強くなっていた。

「今日は本当にありがとう。」
「ふふ、ティト様。それは終わってからにしましょう。」
「そうか、そうだね。」

 ハリスがくすり、と笑うのにつられて僕も笑う。僕たちは図書館に着くまで他愛のない話をして笑いながら過ごした。





 国立図書館は博物館や議事堂が建ち並ぶ王都の中心部に位置していた。
 馬車を止め、図書館前の広場に降り立つ。
 広々とした広場の正面には広場の間口と同等の巨大な石造の大階段があり、その上に素晴らしい彫刻の施された8本の列柱に支えられた古代の神殿の様な建築が聳え立っていた。
 僕たちは手を繋ぎ、大階段を登り始める。

「すごく立派だね。」
「はい、元々はエレディウス1世の時代に収集された蔵書が保管されていた場所だったらしいです。生誕200周年の折にこの建物を建てたと聞きました。」
「エレディウス1世の時代と言うと…400年前くらい?」
「ええ、そうですね。この建物は200年前くらい前のものだと思います。」
「そうか、すごいな…」

 僕はマジマジと正面の建物を見据える。階段の下からでも立派だった列柱は間近で見るととても高く、壮大だ。この柱の高さだけで3、4階分の高さはあるかもしれない。

「図書館の内装も素晴らしいんです。館内は不要な私語を慎むのがマナーなので、何かあったら展示室を出るか、ごく小さな声でお話ししましょう。」
「うん、分かった。」

 僕たちは頷き合い、手を繋いだまま館内に入った。





「……わ…ぁ………」

 私語厳禁と聞いていたのに思わず小さく声を漏らす。

 図書館の中はまるで大聖堂に来たのかと思うほど、高い吹き抜けと奥にいる人か小さくて見えないほどの奥行きのあるロングルームになっていた。

 途方もなく高い吹き抜けに美しいアーチ状の柱梁が立ち並び、両側にたくさんの本棚が並ぶ空間がある。本棚が置かれている部分は2階建てになっていて、吹き抜けを介して2階の様子が分かるようになっていた。
 本はロングルームの端から端まで、天井まで高く並べられていて、本当に途方もない蔵書数である事が分かる。壮大さと神聖さを感じるその空間は、まるで物語の世界に入り込んで来てしまったような素晴らしい空間だった。

 僕は息を呑むようにその景色を見回した。


「…少し歩いて周りましょうか。」

 ハリスがごく小さい声でそう囁いた。
 僕たちは手を繋いだまま、ゆっくりと館内を見て周る。
 本は分野ごとに整理されており、所々本棚の前には大理石の胸像が飾られていた。おそらく本を寄贈した偉人の像なのだろう。様々な分野の人が収集した本たちが寄贈され、今の状態が築かれていったのかも知れない。本棚は所々に梯子が掛けられるほど高くまで収納されていて、迷ってしまいそうになるほど素晴らしい蔵書の数だった。

 館内にはそれなりに人が居るが、すれ違う人は皆本に視線を向けていて、こちらに視線を向ける人は居ない。館内は何とも言えない心地良い静けさで、僕は緊張せずに、ただその空間を楽しむことができた。




 ロングルームをゆっくりと歩き、途中で2階に上がる。2階から見下ろすロングルームの景色もまた素晴らしくて、僕たちはしばらくその景色を眺めて過ごした。

「…体調は大丈夫そうですか?」
「うん…素晴らしくて緊張するのも忘れてたよ。」

 僕が小さな声でそう答えると、ハリスは安心した様に笑った。

「良ければ少し本を読んで過ごしてみたいな…いいかな?」

 僕がそう強請ると、ハリスは嬉しそうに頷いてくれた。僕たちは本棚の奥にある窓際の閲覧席を2席確保し、そこを待ち合わせ場所にしてそれぞれ本を探す事にした。


 実は初めて訪れた場所を1人で歩くと言う事を、事件以来ほとんど経験をした事がない。実際には後ろに静かにジェイデンが付いてきてくれているので1人ではないのだが、それでもありがたい経験だ。それをこんなにワクワクとした気持ちで過ごせるなんて思ってもいなかった。時々人とすれ違う事もあったが、僕はごく自然に歩き回り、過ごす事ができていた。

 素晴らしい空間でばたばたと本を探すのも何だかもったいなくて、僕は目当ての本を探すというよりは散策をする様にゆっくりと本の間を歩いた。いくつかの本棚をみて周り、気になるタイトルを見つけて、それを手に取る。何度かそれを繰り返し、読む本を決めた。








――――――――――――――――――


「疲れていませんか?」
「ううん、本当に素晴らしくて、とても素敵な時間を過ごせたよ。」

 図書館で本を読んで過ごした後、僕たちは馬車に乗り帰路に就いていた。おそらく図書館に滞在した時間は2時間くらいだったが、穏やかに過ごすことができ、本当にあっという間の時間だった。

「良かった、僕もすごく楽しかったです。」

 ハリスは優しく微笑んだ。
 彼は本を読んで過ごしてみたいと言う僕のお願いを尊重してくれ、無理に話しかけたり意識を向けたりはせず、彼自身も静かに本に向き合って一緒に時間を過ごしてくれた。今日僕が楽しめたのは彼が僕のために一所懸命どこに出かけるか考えてくれて一緒に過ごしてくれたおかげだ。

「今日楽しめたのはハリスのおかげだよ。本当にありがとう。」
「ふふ、こちらこそありがとうございます。また、どこか出かけましょうね。」
「うん、また一緒に出かけよう。」

 僕たちは笑いあって次にまた会う約束をした。






 そろそろ屋敷に着く頃になって、僕はようやく彼に"花"について話す決心をつけ、話を切り出した。

「…ハリス、今日は受け取って欲しいものがあるんだ。」

 僕は馬車に置かせてもらっていた荷物の中から彫刻の施された木製の小物入れを取り出した。

「…僕にですか?」

 ハリスは少し不思議そうに僕の顔を見た。僕は僅かに微笑んで小物入れをゆっくりと開け、彼に差し出す。
 小箱の中には白い花と緑の花が繊細にあしらわれた品の良いコサージュが入っている。“花”だ。

 彼はそれを見ると目を見開き、息を呑んだ。

「僕と揃いの"花"だよ。」

 受け取ってもらえないだろうか、と僕が言うと、ハリスは驚いた表情のまま、僕を見た。

「っ……本当、に…?」
「うん、このタイミングで成人を迎える事になって“花”を渡すならハリスに、と思ったんだ。共に過ごすならハリスと過ごしたい。」

 今年、精通を迎えたことにより、僕はハリスと同じ来春に成人の儀礼を迎えることになった。"花"は新成人の社交界デビューの際に一番初めにダンスを踊りたいと思った相手に送るものだ。

 ハリスはじっと"花"を見つめるだけで手には取らない。何か迷っている様だった。

「……揃いの……"花"をつける事が…どう言う意味に捉えられるか…分かっていらっしゃいますか…?」
「もちろん、ただのダンスの相手の印ではない事は分かっているよ。」

 成人の儀礼は式典と舞踏会の2段立てで、この舞踏会が上流階級の新成人にとっての社交界デビューになる。
 舞踏会には新成人だけではなく、上流階級のアデルや、評判の良い保護地区のアデル、そして一部の上流階級のエバが招待される。新成人は彼らや新成人同士でダンスを踊る。けれど、実は舞踏会のメインはダンス以外にもう一つある。
 会場には個室がいくつも用意されていて、新成人は舞踏会が終わる深夜までに、招待されたアデル達によって純潔を散らす。

 その日、初めてアデルに抱かれる。

 それがエバにとっては社交界デビューとしての大きな意味を持つらしい。


 揃いの”花”を身に着けた2人は社交界デビューの際にパートナーとして入場し1曲目を踊る。その後はそれぞれ別の人と踊ることもあるが、他の人が"花"を付けた人物を個室に誘う事はない。"花"は一夜を過ごす相手をもう決めている事を示す証にもなるからだ。

 つまり、"花"をハリスに渡す事は、社交界デビューの夜に抱きたいと、彼に言っている意味になる。

「……侯爵とリノ様は…良いと仰っているのですか…?」
「ああ、リノが"花"の話を勧めてくれたんだよ。もちろん、レヴィルも認めてくれている。」

 アデルが成人する際は婚約者をエスコートする事が多いらしい。きっと普通にいけば僕はレヴィルかリノと舞踏会に出席するはずだっただろう。
 けれどずっと懇意にしてくれているハリスと同じ成人のタイミングになったのだから、彼に譲りたいとリノが提案してくれた。リノに説得されたのかレヴィルもそれを認めてくれ、僕はハリスを誘う事に決めた。

 彼は硬い表情のまま、僕を見た。

「以前…リノ様と関係を持つまでは僕とは難しいと……そう仰っていらっしゃいました…。」
「うん…そうだね。…詳しく話をするつもりはないんだけど…ハリスを誘う事を相談した時にリノとレヴィルと話して今の関係の期限を決めた。それは社交界デビューよりも前に期限を迎える。」

 僕たちはレヴィルだけと関係を持っている状況の期限を決め、それ以降はリノとも関係を持つ事にしようと取り決めをしていた。ハリスに"花"を渡す事を決めた段階でその期限を少し早める事にしたのだった。


「…僕は君にお膳立てをしてもらわないと外出もろくに出来ないようなアデルだ。きっと舞踏会に出席するアデルの中で一番頼りないと思う……それに…君に想いを伝える事も出来ていない。…でも…僕は君と同じタイミングで成人を迎えられると分かって…嬉しいと思った。それは本当なんだ。」

 これは彼にとって大事な節目の誘いだ。それなのに僕は彼に好きだとか、そう言う言葉を出す事はできなかった。

「本当に情け無い相手で申し訳ないけど……もし良ければ…"花"を受け取って欲しい。」

 僕は少しだけ震える声を抑え、"花"を差し出した。
 彼はそっと僕が差し出した"花"に触れる。彼の瞳からはらりと涙が溢れた。

「喜んでお受けいたします。」

 彼は涙を流しながらも本当に美しく微笑み、そっと"花"を受け取った。

「ありがとう…ティト様……」

 ハリスはそっと僕に寄り添った。

 僕たちは"花"を潰してしまわない様に膝の上に置き、馬車が屋敷に到着するまで、優しい口付けを交わした。
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