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海辺の君
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まだ冬の寒さの名残がある冷たい風の吹く海で、彼はひとりぼっちで居た。
強い潮風に裾がはためくのは、それを眺めている僕、高校教師である志水孝文が務める学校の制服だった。
かつて暮らしていた土地からは遠く離れた海沿いの町。住んでいる家から少し歩いたところに、海に沿って高く続く堤防がある。大の大人でもよじ登ることは難しいくらいの高さで、その向こうはすぐ海だ。波も風も荒れていてひどく寒いし、たまに見かける堤防釣りをしているおじさんたちもその日は誰も居なかった。
人通りの少ないそこを歩いていたのは、ただの散歩目的だった。土曜日の昼過ぎ、どうして制服を着た生徒がこんなところにいるのかと思わなくもなかったが、見つけてしまった手前なにもしないというわけにもいかないだろうと僕は考えた。本当であれば、面倒くさがりであまり人と関わることを好まない僕はそれを見逃したいと思うところだった。
「おい、きみ。そこ、危ないだろ」
そう声をかけると、ゆっくりと振り返る彼。
「別に落ちやしないよ」
彼は僕にそう言った。風の音も荒れた波音もうるさいのに、不思議とよく通る声だった。のんびりとした口調で応える彼は、降りる気はなさそうだった。
「だいたいそんなところ、どうやって登るんだ……」
「そこに窪みがあるじゃん、そこから登れるよ。そこの棒につかまってさ」
僕の小さな独り言に返すように教えてくれる彼。これでは僕がそこに登りたいみたいだ。
「登りたいわけじゃない。風も強くて危ないから降りなさい」
「眺めいいよ。ちょっと見てみたら」
微妙に話が噛み合わないのは何も話を無視されているわけではない。本当に風と波音がうるさくて、よく聞こえていないのだ。ひとつ前のやりとりでは、僕の言った「どうやって」の部分だけを聞き取れたということだったようだ。こううるさくては無理もないと、僕は観念して微妙にできた堤防の窪みに足をかけ、そこへ登ろうとした。近くに行けばちゃんと声も届いて降りるように促せるだろう。
「……うわ、」
そう思ったものの、堤防の向こうの海は想像以上に荒れていた。波が高くてしぶきがすごいし、登ってみるとより高さを感じる。風よけのないそこではこの強風を直に身に受けてよろけそうになる。いざ登ろうとしてみると、彼が腰かけている場所も思っていたよりずっと幅が狭いことがわかる。バランスを崩してここから落ちれば、その下はテトラポッドが積まれた海だから、きっと戻ることは叶わない。
「どうしたの?」
「……むり、怖い」
足がすくんで、堤防から上半身だけ乗り出している姿勢からさらに足を乗り上げることは考えられなかった。そんな僕を見て、彼は少し固まった後、笑った。
「あははっ、わかったよ。一緒に降りよう」
一緒にも何も、僕はこのまま足をかけた窪みから戻ればいいだけで登れちゃいない。無造作に突き出た金属の錆びた棒を手すり代わりにしてしがみついているだけで、登れなかった僕を彼は笑っていたけれど、バカにされているわけではないようだった。
彼は身軽に立ち上がり、猫のようにそこからぴょんと跳んで降りた。僕が僅か三十センチほどの石の窪みから足を外すのにもたもたしていると、彼は手を貸してくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。っていうのもなんか変だな」
地面に降りて同じ高さに立って向かい合うと、意外に小さな子どもだとわかる。けれどずいぶんと綺麗な顔をした男の子だと思った。最近の子らしくゆるい着こなしをしていて似合っているが、少し制服の丈が余っているようだった。
「そうだ、こんなとこ登っちゃだめだろ。こんな風がある日は特に」
「心配かけてごめんなさい」
危険なことをしていたり、整った顔立ちと着崩れた制服からどこか軽薄な雰囲気を感じるのに、鈍くさい僕に手を貸してくれたり素直に謝れるところに戸惑ってしまう。
「……もうしないこと。きみは、一年生?」
「そう。お兄さんはこのへん住んでる人?」
「通りがかりの近所の人で、きみの学校の教師だよ」
彼の着ている制服を軽く指さして言うと、彼は少し驚いた顔をしていた。髪を長く伸ばした僕は一見して教師らしくはないだろうから、驚かれるのも無理はない。
「え、そうだったんだ」
「今年度は三年生の教科担任だったから、一年生はあまり知らないだろう」
彼はなるほどね、とつぶやき、それから少し納得したような顔をした。
そこから特に広げる話もないので僕も彼もそのまま帰ろうとした。別れ際、じゃあ、と言いながら軽く上げた手が目について、僕は彼を少し引き留めた。
「これ、あげる」
「……いいの?」
渡したのは、コートのポケットに入れていた小さなカイロだった。彼の指先は真っ赤になっていて、さっき手を貸してくれたときに触れた指はひどく冷たかった。それが気になっていたのだ。
「僕はこれ着てるから。まだ寒いし、風邪ひくんじゃないよ」
「ありがと。そういえば、寒いや」
そんな会話をして、彼とは別れた。
週明け学校に行っても彼と話すことはなかった。そういえば名前も聞いていなかったし、一年生の教室がある階には用事がなく立ち寄らないため、たまたま会うということもない。そのまますぐに春休みに入って、新学期への準備で僕も忙しくしていた。
そんな忙しいなかでも、あの日のことをふと思い出すことがあった。なんで彼はあんなところにひとりでいたんだろう。どうしてあの背中は、あの笑った顔は、どこか寂しそうに見えたんだろう。
今は知る由もなく、なので考えても仕方のないことはすぐに忘れるだろうと思っていた。
けれどあの光景だけは、何故か時折思い出されたのだった。
強い潮風に裾がはためくのは、それを眺めている僕、高校教師である志水孝文が務める学校の制服だった。
かつて暮らしていた土地からは遠く離れた海沿いの町。住んでいる家から少し歩いたところに、海に沿って高く続く堤防がある。大の大人でもよじ登ることは難しいくらいの高さで、その向こうはすぐ海だ。波も風も荒れていてひどく寒いし、たまに見かける堤防釣りをしているおじさんたちもその日は誰も居なかった。
人通りの少ないそこを歩いていたのは、ただの散歩目的だった。土曜日の昼過ぎ、どうして制服を着た生徒がこんなところにいるのかと思わなくもなかったが、見つけてしまった手前なにもしないというわけにもいかないだろうと僕は考えた。本当であれば、面倒くさがりであまり人と関わることを好まない僕はそれを見逃したいと思うところだった。
「おい、きみ。そこ、危ないだろ」
そう声をかけると、ゆっくりと振り返る彼。
「別に落ちやしないよ」
彼は僕にそう言った。風の音も荒れた波音もうるさいのに、不思議とよく通る声だった。のんびりとした口調で応える彼は、降りる気はなさそうだった。
「だいたいそんなところ、どうやって登るんだ……」
「そこに窪みがあるじゃん、そこから登れるよ。そこの棒につかまってさ」
僕の小さな独り言に返すように教えてくれる彼。これでは僕がそこに登りたいみたいだ。
「登りたいわけじゃない。風も強くて危ないから降りなさい」
「眺めいいよ。ちょっと見てみたら」
微妙に話が噛み合わないのは何も話を無視されているわけではない。本当に風と波音がうるさくて、よく聞こえていないのだ。ひとつ前のやりとりでは、僕の言った「どうやって」の部分だけを聞き取れたということだったようだ。こううるさくては無理もないと、僕は観念して微妙にできた堤防の窪みに足をかけ、そこへ登ろうとした。近くに行けばちゃんと声も届いて降りるように促せるだろう。
「……うわ、」
そう思ったものの、堤防の向こうの海は想像以上に荒れていた。波が高くてしぶきがすごいし、登ってみるとより高さを感じる。風よけのないそこではこの強風を直に身に受けてよろけそうになる。いざ登ろうとしてみると、彼が腰かけている場所も思っていたよりずっと幅が狭いことがわかる。バランスを崩してここから落ちれば、その下はテトラポッドが積まれた海だから、きっと戻ることは叶わない。
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彼は身軽に立ち上がり、猫のようにそこからぴょんと跳んで降りた。僕が僅か三十センチほどの石の窪みから足を外すのにもたもたしていると、彼は手を貸してくれた。
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「そうだ、こんなとこ登っちゃだめだろ。こんな風がある日は特に」
「心配かけてごめんなさい」
危険なことをしていたり、整った顔立ちと着崩れた制服からどこか軽薄な雰囲気を感じるのに、鈍くさい僕に手を貸してくれたり素直に謝れるところに戸惑ってしまう。
「……もうしないこと。きみは、一年生?」
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彼の着ている制服を軽く指さして言うと、彼は少し驚いた顔をしていた。髪を長く伸ばした僕は一見して教師らしくはないだろうから、驚かれるのも無理はない。
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そこから特に広げる話もないので僕も彼もそのまま帰ろうとした。別れ際、じゃあ、と言いながら軽く上げた手が目について、僕は彼を少し引き留めた。
「これ、あげる」
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渡したのは、コートのポケットに入れていた小さなカイロだった。彼の指先は真っ赤になっていて、さっき手を貸してくれたときに触れた指はひどく冷たかった。それが気になっていたのだ。
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