【完】こじらせ女子は乙女ゲームの中で人知れず感じてきた生きづらさから解き放たれる

国府知里

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#16、 6人目の攻略キャラ、王弟アキュラス

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 潤んだ瞳が、奈々江の心臓に突き刺さる。
 どくんどくんと、心臓が波打っているのが自分でもわかった。
 奈々江はひどく困惑している。
 現実の男性にはこんなふうに感じたことなど一度もない。
 誰かにいい寄られた記憶もないし、気になる異性がいたこともない。
 だから、背中に汗をかきそうなほど熱くなったり、息がしずらいほど心臓が高鳴るなんてことも経験したことがなかった。
 百メートルを全速で走ったり、クロールで五十メートルを全力で泳いだときの息苦しさや鼓動の激しさとはまた全然違う。
 これが、恋なのだろうか?
 だとしたら、世の中の人々はいつもこんなままならない状態に陥りながら生活しているということなのか。

(も、もしかしたら、このまま、はいっていって指輪を受け取ったら、ゲームクリアなんじゃ……?)

 奈々江の頭にそんな思いがかすめた。
 ラリッサがいうように、今がまさに、自然となるようになる状況なのではないのか。
 したこともない恋にびくついて、頭でいろいろ考えてゲームから抜け出そうとしていたけれど、今まさにこれがゲームクリアのチャンスのような気がする。
 奈々江は気持ちを定めて、いざ、はいと返事をしようと口を開きかけた。

 そのとき、軽やかなフルートの音が突然鳴り出した。
 はっとして、その音がするほうを見やると、アキュラスがそこにいた。
 風のわたる川辺のようなさわやかな曲。
 思わず、奈々江もグレナンデスもその音色に聞き入ってしまった。
 一曲吹き終わると、アキュラスは舞台でするようにお辞儀をして見せた。

「いかがでしたか、ナナエ姫。
 初夏のせせらぎという曲です」
「……あ、えと、素敵な演奏でした。
 聞き惚れてしまいました……」
「ありがとうございます。
 グレナンデス、私も混ぜてもらってもいいかな」
「伯父上……、今しばらくご遠慮願えませんか」

 グレナンデスが明かに不満げな顔をして、アキュラスを拒んだ。
 彼からしたら当然だろう。
 たった今、奈々江はグレナンデスの思いに応えようと気持ちが傾きかけていたのだ。
 どれだけ素晴らしい演奏だろうと、グレナンデスからすれば、いいところを邪魔されたというほかない。
 しかし、いかに皇太子といえども、王位継承権の順位で行けばグレナンデスよりアキュラスのほうが上。
 アキュラスは柔和な雰囲気をまとわせていたが、態度には明らかな威圧が感じられた。

 王弟アキュラス。
 くせのあるクリームっぽい金髪に、薄い青の瞳。
 精悍で男っぽい兄に比べて、いかにも頼りない印象のアキュラスだが、実は音楽家になりたかったというほど音楽に傾倒している。
 フルートのみならず、ピアノやバイオリンも達者で、自ら作曲もする。
 社交界では彼の才能がひっぱりだこで、これまで多くの女性と浮名を流してきた。
 未だ未婚なのは、芸術家気質がひとりに縛られるのを嫌うからだという。

「おや、今日は身内だけのお茶会のはずだろう? 
 お茶会では私の演奏をお聞かせするのが常のはず。
 ナナエ姫にもお聞かせしたいと思っただけなのだが」
「そ、それはそうですが……」
「そうだろう?
 では、もう一曲。
 とっておきの曲をナナエ姫にお聞かせしよう」

 有無をいわさずにアキュラスが演奏を始めた。
 今度の曲は、遠い世界に連れ出されるかのような誘われる調べで、どこか艶っぽくて強い吸引力があった。
 奈々江は一小節を聞いただけで、頭がぼうっとなり、曲の世界に引き込まれていた。
 アキュラスの周りがきらめいて見えて、甘いムスクの匂いさえしてくる。
 これは並みの奏者ではない。
 アキュラスはすごい。
 素直に奈々江は、演奏するアキュラスの姿に見入った。
 すると、突然、ぱっと音が遠のいた。

「ナナエ姫、聞いてはだめだ!」
「え……」

 気がつくと、グレナンデスが奈々江の両耳を両手で覆っていた。

「伯父上の音楽には魔力がある。
 あの曲は、叔父上が女性を口説き落とすときに演奏する妖しの夜想曲だ。
 ひとたび聞けば、心を奪われて、女性なら誰でもみな伯父上を好きになってしまう!」

 それを聞いてようやく、はっとした。
 そういえば確か、アキュラスルートにはそんなくだりがあった。
 グレナンデスが恋の進展度合いによってロイヤルクラスの贈り物をしてくるように、アキュラスはイベントごとに主人公に音楽を贈ってくる。
 その総仕上げというべく最後の曲が、この妖しの夜想曲なのだ。

(こ、怖っ……!
  いくらなんでも強引すぎでしょ、アキュラス!)

 優男らしからぬアキュラスの支配的な姿に奈々江はどん引きだ。
 これも太陽のエレスチャルの力が影響しているに違いなかった。
 太陽のエレスチャルしかり、本当に魔法というのはどうしてこうもやっかいなのだろう。
 ゲーム世界では当たり前のことでも、奈々江の現実と常識の中では、全くありえなかったことばかりが起こる。
 ゲーム制作会社に努めているのに自分でもなんだと思うが、ほとんどパズルゲームしかやり込んできていない奈々江には、魔法に関する知識はほぼ”恋プレ”に関するものしかない。
 それも、今回ゲームをつくることになったから知識として知っているというだけで、まして自分が剣と魔法の世界観を継承している乙女ゲームに迷い込んでしまうなどと考えたこともない。
 魔法を知っているのと経験するのとでは実際かなり違う。
 いや、逆に下手な知識が、夢の補正がかかって、奈々江自身を翻弄してくるのだ。
 ファンタジーRPGをやり込んでいれば、もっと慎重に対処できたのだろうか。

「ナナエ姫、私を見て!
 曲に惑わされないように、私を見つめてください!」
「えっ、あ、はい!」

 耳をふさぐグレナンデスの両手に包まれ、慌てて正面を向いた。
 アキュラスに対する防御策とはいえ、いわれた通りにしたことを後悔した。
 グレナンデスの青緑色の瞳を目の前に、解くことができない彼の両手。
 耳からかすかに聞こえてくる甘く官能的な調べ。
 正気でいろというほうが無理だ。

(きゃあぁーっ!)

 体温が爆発的に上昇した。
 アキュラスに対する警戒を抱きつつ、抜き差しならないこの状況の中で、グレナンデスが自分を守ろうとしてくれているのがわかる。
 その瞳はまっすぐで、真摯な愛と大切なものを守りたいという気持ちに溢れている。

(なにこれ……)

 胸がどきどきしてどうしていいのかわからない。
 世にいう吊橋効果というやつだろうか。
 いや、それとも、これが恋?

 そのとき、アキュラスが音量を上げてこちらへ近づいてきた。
 グレナンデスの手の平越しの音が大きくなる。
 聞いてはだめと思うと、耳が勝手にフルートの音色を拾ってしまう。
 グレナンデスが小さく息を吸うと、素早くいった。

「ナナエ姫、御無礼をお許しください」

 次の瞬間、奈々江はグレナンデスの腕の中にぎゅっと閉じ込められた。
 両耳を大きな手が包み、その上からグレナンデスの腕や肩が妖しの音の魔法を防御した。
 音が遠くなった。
 その代わりに、ドレスコート越しにもグレナンデスの体温が間近に感じられる。
 ローズマリーの香りが鼻をつく。
 目の端に移るロイヤルカーマイン。
 今、わたしはグレナンデスの中にいる。
 言葉ではなく、全身でそれを強く感じた。
 男性の腕の中がこんなにも心地いいなんて、知らなかった。
 父のそれとはまったく違う。
 親しみや安らぎ、安心感という父性に感じるものに確かに近いが、それよりも明らかに強いなにかがあった。
 それがあることに、奈々江の心と体は呼応するように反応していたのだ。

(なに、これ……)

 体の奥の方が熱い。
 息をするのも苦しくて、熱におぼれそうだ。
 遠くで聞こえるフルートの音。
 早く終わって欲しいような、終わって欲しくないような、気持ちが定まらずに揺れている。
 この温もりの心地よさに身を投げ出してしまいたい。
 その一方で、感じたことのない奥底からあふれてくるエネルギーの行き先が見えなくて怖い。
 熱い、とにかく熱い……。

 曲が終わり、アキュラスが静かにフルートを唇から話した。
 グレナンデスが明らかな敵意を眉に乗せて伯父をねめつけた。

「伯父上、あんまりではありませんか!」
「私の演奏はそんなに酷かったか?」
「演奏のことではありません!
 エレンデュラ王国の姫に向かって洗脳魔術を発するなど、外交問題を起こすおつもりですか?」
「私の作った夜想曲を聞かせれば、ナナエ姫の心は余すことなく私の物になったのに。
 お前のほうこそ、外交上の火種を残してどういうつもりだ」
「伯父上!
 この方は私の妃になる方なのですよ!」
「今はまだ候補のひとりにすぎない。
 現に、皇太子妃選びはこれから行われるのだろう?
 ナナエ姫は数ある皇太子妃候補のひとり。
 であるなら、そのひとりを王族の私がもらってなにが悪い。
 むしろ、より早く次期王の妃になれる方が、ナナエ姫にとっても喜ばしいはず」
「ご、御冗談もほどほどになさってください!
 伯父上は独身主義だとおっしゃっていたではありませんか!」
「それがなぜかわからないが、ナナエ姫を見たときから私もついに結婚したくなったようなのだ。
 驚くね、まったく」

 アキュラスが再びフルートに唇を寄せようとしたのを見て、グレナンデスがぱっと懐の短剣の柄に手をやった。

「私に歯向かう気か、グレナンデス」
「伯父上に物の道理を思い出して欲しいだけです」

 その時、剣を取るために手放した側から、ずるっと奈々江の体が横すべりした。
 皇太子とその伯父が目をやると、奈々江は顔を真っ赤にして気を失っていた。

「ナ、ナナエ姫……!」
「なんと……!
 誰か、王室医師を呼べ!」

 グレナンデスの腕の中で、ひたすら冷めない熱に捕らわれて、奈々江は壊れた人形のようにくったりとしている。
 人生初の失神だった。
 それも、まさか夢の中で失神するとは、奈々江本人も思いもよらなかった。



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