【完】こじらせ女子は乙女ゲームの中で人知れず感じてきた生きづらさから解き放たれる

国府知里

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#36、 回復魔法*

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 騒ぎがひと段落して、奈々江たちは再びツイファーの部屋にいた。
 ツイファーがお茶を振舞ってくれたので、それぞれにひと息をついた。
 ライスが喉を潤した後、深々とため息をつく。

「本当に、肝が冷えたぞ……。お前が戻らなかったら、兄上に顔向けができなかった。
 おい、ナナエ、お前は二度とひとりで出歩くな」
「はい、本当に申し訳ありませんでした。
 セレンディアス様もご無事で本当によかったです」
「僕は自分の力のなさを思い知りました。こんなことは二度と起こしません。
 ナナエ様をお守りできるよう、もっと魔法の修練に励みたいと存じます」

 ツイファーが静かにカップをソーサーに置いて、奈々江を見た。

「して、ナナエ殿下、今後はいかがなさるおつもりですかな?」

 奈々江もお茶を置き、居住まいを正した。

「はい。ツイファー教授のもとで魔法を学びたいと存じます」
「それはいかなる理由なのかお聞かせくださいますかな」
「わたしはツイファー教授のおっしゃる通りでした。 
 パズルの中に集中することで、周りの人々や出来事を排除して、自分を守っていたのです。
 でも、それではだめだと気がつきました。
 今度こそ、きちんと学び直したいのです」
「よろしいでしょう。ライス殿下、そういうことでいかがでしょう」
「無論、私に異論はない。厳重な警備を強いて、ナナエを学校に通わせよう」
「いえ、今回のことでは学校の警備側もことを重大にとらえております。
 万が一のことを考えて、わしが城へ通うほうが安全でしょう」
「そうしていただけるとありがたい」

 そわそわとセレンディアスが手を上げた。

「それなら! アトラ棟はいかがでしょう。
 僕もそこで今エベレスト様に指南を受けております。
 そこでしたらいざというとき僕もエベレスト様もすぐに駆けつけることができます!」
「お前はナナエの側にいたいだけであろう。個人的な口を挟むな」

 ツイファーが、ふうむと息を吐いた。

「いえ、ライス殿下、それはいい考えかもしれません。
 さきほど御覧いただいた通り、ナナエ殿下の立体魔法陣の技術は素晴らしいですが、魔力量はさほど多くはありません。
 本格的に高度な魔法陣の修練をはじめれば、ナナエ殿下は恐らくすぐに息切れしてしまうでしょう」
「確かに」
「そこで、豊富な魔力量とお見受けするセレンディアス殿の魔力をつかわせてもらうのです。
 つまり、ナナエ殿下には魔法陣の仕組みにのみ重きを置いていただいて、そこへながしこむ魔力はセレンディアス殿の力を借りるのです。
 そうすれば、ナナエ殿下はご自身の特性を十分に伸ばすことができるうえに、他者との関りを魔法に組み込むことができます」
「ほう……、初めから他者との協力を前提とした魔法陣か。
 私もいい考えのように思う。まずは兄上に進言してみよう」
「僕もいい考えだと思います!」
(えっと、つまりプログラムはわたしが書いて、プログラムを動かす電力はセレンディアスのを使うっていうことだよね)
「ナナエ殿下、いかが思われますか?」
「はい、とにかく、やってみたいと存じます」

 そうと話がまとまってくると、早速ツイファーが魔法陣と立体魔法陣の初歩の本を見せてくれた。

「魔法陣を構成するピースを組み立てることは、ナナエ様はすでにお出来になるので、どのピースがなんの要素であり、どれとどれがつながることで魔法が生成されるのかがわかればいいのです。
 きっとすぐご理解されるはずですよ」

 ツイファーのいう通り、五大要素の風、火、土、晶、水のピースの形は教えてもらえばすぐにわかった。

(ピースに色がついていると思えばいいのね)

 少し複雑な魔法陣も、風に関わるピース、火に関わるピース、五大要素のどれにでも使える汎用のピース、などとグループがあるとわかり、そこからすぐに推測がつく。

(そっか……、土のグループのこれと、これと、これ。三つが組み合わさると『生み出せ』っていう意味になるのね。
 こっち晶の五つのピースの塊は、これで『結束せよ』になるんだ。
 こっちの火の七つの塊は『分解せよ』か……。
 なるほど、数式みたいなものね)

 汎用ピースのまとまり方にも意味があるとわかると、奈々江の理解は飛び石のように進んだ。

「そうすると、これをこうしたら、『風』『癒せよ』で、回復魔法の魔法陣になるんですね」

 ツイファーがほっほっと笑った。

「その通り。難しいことはなかったでしょう、ナナエ殿下」
「はい。この魔法陣を使ってみてもいいですか?」
「その前に、風の要素で誰が誰を、あるいはどの程度、どこを癒すのかなどをあらかじめ組み立てておく必要があります。
 今ナナエ殿下がお作りになった魔法陣はとてもシンプルで、このまま使うと、ナナエ殿下の魔力が尽きるまで無尽蔵に回復魔法をかけ続けてしまいます。
 魔力が切れれば当然、ナナエ殿下は身動きが取れなくなってしまいます」
「そうなのですね……。
 じゃあどうすれば? ……あっ、確かこの丸は対象者を表すんですよね?」

 シュトラスからファルコンの羽根を送られてきたとき、手紙に託されていた魔法陣を思い出した。

「そうです。この丸の中には対象者の名を入れるのです。
 そして、具体的な癒しの程度はこのピースの集合体の体積で、範囲は外周と座標と角度で表します。
 例えば、半径五メートル以内の対象をすべてであれば、このように組みます」
(体積、外周、座標、角度……)
「具体的な部分を直したいとはっきりしている場合は、その部分を表すピースを組み込みます。
 例えば、傷ついた足を直したいという場合は、この足のピースをこのように組み入れます」
(具体的な固有名称)
「状況によっては、損傷の激しい個所のみを集中的に癒すために、あらゆる制約や、集約的な性能や、探索的な性能などを追加することもあります。
 魔法をかける場所が戦場であったりすると、敵を癒してしまう可能性がありますし、魔力はできるだけ節約しなくてはならないからです。
 あるいは、対象者が子どもであったり、気を失っていたりすると、外傷以外の傷を見落とすことがあるので、こうした性能を状況に応じて使いこなすことが大切です」
(複合的なシステムの構築、追加オプション)

 ツイファーの話を踏まえて、ナナエは改めて本を見つめた。

「じゃあ、これと、これと、これで、立体魔法陣を作れば、自分用の回復魔法ができるのですね」
「おや、回復させたいのは頭……ですか?」

 ライスが素早くいった。

「例えばということだな」

 ツイファーにはまだ太陽のエレスチャルの件は話していないので、ライスが取り繕ったのだ。
 ライスに睨まれ、奈々江はうなづいて話を合わせた。

「そ、そうです。手だったら、ここをこれと入れ替えて、お腹だったら、これってことですよね」
「左様です。では次回、早速立体魔陣を作成し発動してみましょう」

 見通しが立ったところで、次回の授業の日取りを決めた。

「では、明日の午後からということに」

 午前中は太陽のエレスチャルを取り出す方法を試みるために空けておくのだ。
 ツイファーの部屋を出ると、来たときよりもはるかに多い頭数を連れて城へ戻ることになった。
 それを見た奈々江は内心酷く反省をした。

(うわぁ……、わたしひとりのためにこんなにたくさんの人に迷惑を掛けちゃったよ……。
 夢の中だからまだいいけど、これが現実だったらほんといたたまれないよ……)

 馬車に乗るまでも、左右をラリッサとメローナが脇をがっちり固めている。

「ナナエ姫様、このメローナも多少は魔法の心得がございます。
 今度トラバットが顔を見せたら、わたくしの水魔法で撃退して見せますわ!」
「わたくしはメローナのような攻撃魔法は使えませんけれど、風のシールドが使えます。
 必ずナナエ姫様をお守りいたします!」
「ありがとう、ふたりとも。
 でも、一番注意しなきゃいけないのはわたしだから、ふたりに魔法を使わせるようなことにならないように気を付けるね」

 行きと同じく奈々江たちは馬車に乗り込んだが、その馬車の前後左右に騎馬隊が張り付いた。
 これまであまりに気にして見たことはなかったが、彼らはエレンデュラ王国の近衛兵たちだ。
 グランディア王国の兵が赤いライオンを身につけているように、グランディア王国は青いドラゴンのような生物の文様を身につけている。
 ファンタジー知識に乏しい奈々江はしばらくドラゴンなのだと思っていたが、ラリッサとメローナが聞きなれない言葉でそれについて話しているのを聞いて、奈々江はようやくその生物がコカトリスというものだとわかった。
 雄の鶏にドラゴンの翼と蛇の尾を持つ空想上の生き物だ。
 奈々江自身どこで見たのか少しも思い出せないが、どこかで見聞きしたコカトリスについての記憶がこのような形で表れているらしかった。

 コカトリスを身につけた兵士たちはみな、ブランシュ様の手配で既婚者のみが集められている。
 だが、まれにちらちらと視線を感じるのは、不貞の輩というのはどこにでもいるということのようだ。

(今日も前回と同じくらいしか飲んでないけど、全然眠くないし、魔法薬を飲む量をもう少し増やしてもよさそうだよね)

 これまでの様子から総合的に鑑みると、魔法薬の効果の現れ方はどうやら相手によってまちまちだ。
 今日学んだ魔法のことから推測すれば、魔法薬にも当然なにかしらの論理や法則があると思われる。
 バニティからもらった魔法薬をすべて飲み干せば、ほぼ百パーセントに近い減少効果が得られるかもしれない。
 だが、太陽のエレスチャルに関わらず奈々江への好感度が高まっている場合は、効果がないか、あるいは薄れるらしいことははっきりしている。
 それが、ブランシュやセレンディアスの例だ。

(ん……、でも、あれ、待って……?
 立体魔法陣で、魔法の対象や効果の範囲を制限できるのなら、この太陽のエレスチャルの効果も、魔法陣でコントロールできるんじゃ?)
「ナナエ様、ナナエ様!」
「あ、うん、なに?」
「明日から、またご一緒できるといいですね!」
「あっ、ええ、そうですね! わたしもセレンディアス様がいてくれると、とても楽しいし、ブランシュお兄様がお許し下さったらうれしいです」

 にこにとしているセレンディアスの顔を見ると、ふと、頬にわずかに擦れたような傷があった。

「セレンディアス様、その頬の擦り傷……」
「あ、これは大丈夫です。トラバットの魔法アイテムにやられたものですが、この程度自然に治りますから」
「どうして回復魔法を使わないのですか? セレンディアス様には使えるのでしょう?」
「それは……」

 セレンディアスがなにやらもじもじとした。

「少しでもナナエ様を守るための魔法を訓練することに使いたいからです」
(ちょっと、セレンディアス……、け、健気すぎるよ……)

 ライスがふんとあざ笑うかのように鼻を鳴らした。

「愚かすぎる。セレンディアスのその思いは単なる太陽のエレスチャルの効果にすぎぬというのに」
「そんなことはありません! 僕は僕の意思でナナエ様をお慕いしているのです!」
「勘違いだ」
「お言葉を返すようですが……!」

 なにやらいい合いになりそうだったので、奈々江は素早くセレンディアスの裾を引いた。

「セレンディアス様、なにか書くものを持っていませんか?」
「えっ、書くもの、ですか?」

 セレンディアスがローブの中に手を入れ、紐でつづられたメモ帳と木で木炭を挟んだ鉛筆のようなものを取り出して貸してくれた。
 揺れる馬車の中ではあったが、奈々江はふたつをしっかりとつかんで、紙に魔法陣を書きつけた。

「ナナエ様、これは……」
「『風』『癒せよ』『表面』『擦り傷』『セレンディアス様』これで、魔法陣の書き方は合っているでしょうか?」
「ナ、ナナエ様……」
「明日、一緒に勉強することになったら、一番初めにこれを発動してみたいと思います」

 奈々江は書いたメモをセレンディアスに差し出した。
 受け取りながらセレンディアスが感動してに涙を浮かべている。

「う、ううっ……。ナナエ様、僕は今日の日を、人生最良の日ベスト5に入れたいと存じます……」
(喜び方がオーバー……)

 思わず苦笑してしまったが、ある意味世間に擦れていないセレンディアスの態度には好感が持てる。

「ところで、魔法の発動とは、どのようにするものなのですか?」
「それはですね……」
「最も一般的なのは、発動の言霊を決めることだ」

 セレンディアスの言葉を遮って、ライスがいった。

「エベレストのように指を鳴らしたり、魔法アイテムを使うことで発動させたり、やり方はいろいろだが、ナナエの場合は恐らく言霊を決め、それを唱えることで発動させるやり方が一番適しているだろう」
「言霊ですか。それはどんな言葉を使うのですか?」
「それは自分で好きに決めればいい。魔法の内容は魔法陣に書かれているのだから、呪文のように長い言葉をいう必要はない。
 言霊は口に出してもいいし、出さなくてもいいが、当然いいやすく覚えやすい言葉がいい」
(そうか、わたしの場合は長い呪文を覚えたりする必要がないんだ。
 それはよかったよね。わざわざ五七五七七をいわなくていいんだから。
 とすれば、掛け声、みたいなことだよね。 
 えいっ、……とかじゃ当たり前すぎる? シンプルに、発動、とか? 
 うーん、ちょっといいにくいかな……)

 いろいろと考えあぐね、奈々江はぶつぶつと口にも出しながらさらに考える。

(アクション、スタート、レッツゴー……。うーん、ちょっとしっくりこないな……。
 はいっ、それっ、行け、ヨーイ・テ……。なんか違うな……。
 やっとな、えいさぁ、よいさ……。違うか……。
 犬に出すコマンドはどうだろう。ゴー、アップ、アウト、ゴアヘッド、ムーブ……。
 肯定する言葉はどうかな。オフコース、ザッツライト、イグザクトリー、アイベッド、ライトオン……)

 何度も口の中で繰り返して、一番なじみの良さそうな言葉を探す。
 次第に奈々江の中でしっくりとくる、はまる感覚があった。
 まるで立体パズルの最後のピースがはまるときのように。
 奈々江がぱっと顔を上げた。
 その言霊を発しながら、思わず奈々江は魔法陣に呼び掛けていた。

「ライトオン!」

 その瞬間、魔法陣から光線が湧きあがった。
 瞬く間に光がセレンディアスの周りに集まり、キラキラと細かな光の粒になって舞い踊る。
 光が風に乗っているかのように旋回して立ち上っていく。
 昇華するように光がすっかり登っていくと、セレンディアスの頬の傷は、すっかり消えていた。
 ライスとセレンディアスが目を丸くしていた。
 しかし、ふたりよりも驚いていたのは誰あろう、奈々江本人だった。

「う、うそ……」
「ナ、ナナエ様!」
「セレンディアス様……、き、傷が……」
「発動できましたね! すばらしいです! しかも本当に、僕のために初めての魔法をかけてくださったなんて、か、感激です!」
「し……信じられない……。わたし、本当に魔法が使えたんだ……」
「なにをおっしゃっているのですか! ナナエ様はすばらしい魔力の持ち主なのですよ! 
 使えないわけがないではないですか! 
 これからだって、もっともっといろんなことがおできになるようになれますよ!」
「セ、セレンディアス様……」

 驚きと興奮のあまり、思わずセレンディアスの手を掴んで前にのめり、まじまじと傷のあった個所を見つめた。
 本当に傷がひとつもない。

「ほ、本当に、傷がありません……。もう、痛くはないのですか?」
「ちっともです! ナナエ様のお陰です!」

 セレンディアスがぎゅっと手を握り返してきた。
 喜びに頬を染めるセレンディアスの顔と、傷跡ひとつないその頬をなんどもなんども見返して、奈々江はようやくこれが本当なのだと実感した。
 夢の中とはいえ、本当の魔法使いになれたのだ。

「す、すごいです……、すごい! 魔法って、すごいのですね!」
「すごいのはナナエ様ですよ! 普通言霊は体になじむまですぐには発動しないのですから! 
 初めてなのにたった一回で発動させてしまうなんて、さすがです!」
「そうなのですね! ますますびっくりです!」
「回復魔法だけでなく、これからはどんな魔法も使えますよ!」
「……夢みたいです。(夢の中だけど。)
 わたしにも本当に、魔法が使えるなんて……!」
「ナナエ様がうれしいと、僕もうれしいです!」
「セレンディアス様!」
「ナナエ様、よかったですね!」
「はい……!」

 ふたりで興奮して盛り上がり、手を取り合ったまま喜びを分かち合う。
 現実ではこんなに意気投合する男友達などひとりもできたことはなかったのに、奈々江は心からセレンディアスと笑いあった。
 本当にトラバットのいう通りかもしれない。
 人生は上書きでしか変えられない。
 今までだったら、こんなに親しい男友達が自分にできるなどと一瞬でも考えられただろうか。
 しかし、人生は変えられるのだ。
 その機会が訪れたとき、心を開いて、試みてみれば。

「ナナエ」

 ライスが口を開いた。
 奈々江とセレンディアスは興奮のままに気がつかず、他愛もないことをいいあいながら、きゃいきゃいと盛り上がり続けていた。
 すると、今まで発動されなかったライスの氷点下の怒りの鉄槌が振り落とされた。

「いい加減にしろ、ナナエ!」

 思わず御者が手綱を引いてしまうほどの大声だった。
 馬車全体が、びりりと振動する。
 冷や水をかぶせられたかのように奈々江の動きが止まった。
 暗い色のオーラをまとったライスを前に、奈々江はこれまでのライスとの冷たい関係性をすっかり思い出していた。
 まるで蛇に睨まれた小動物のように固まっていた。

「セレンディアス、いつまで皇女の手を無断で握っているのだ! 不届き者が、処罰を受けたいのか!」
「……もっ、申し訳ありません……!」

 セレンディアスが、ぱっと手を離し、拳を膝の上に握ると頭を下げて謝罪を体勢で示した。

「ナナエ、お前は皇女としての自覚が足らなすぎだ。
 誰でもできるような回復魔法ができたからといってなにをはしゃいでいるのだ! 
 それに、人前でそのように素手で男と触れ合うとはなにごとか。
 このような姿を人に見られでもしたら、あらぬ誤解を招くことになることぐらいお前でもわかるだろう!」
「……申し訳ありませんでした……」

 強張った口で、奈々江は細々と謝罪した。
 ライスの冷たく厳しいまなざしが怖すぎて、目も上げられない、
 馬車が城に着くまで、奈々江とセレンディアスは無言の圧と刺すような冷気にさらされた。
 最小限に呼吸するだけの恐ろしくも長い時間を、奈々江は震えながら耐えなければならなかった。

 ようやく城につき、ライスから解放され、奈々江は景牧の離宮に戻った。
 ライスはブルーノ城へ報告に行き、すっかり委縮したセレンディアスは瞳で別れを惜しむようにして言葉少なに別れた。
 駆け寄ってくるチャーリーのぬくもりに励まされ、奈々江の強張った心身を少しずつ解凍し始める。
 ラリッサとメローナがお茶を淹れる間に、心配そうにしてクレアがやってきた。

「今日は大変だったわね。知らせを聞いて、気が気じゃなかったのよ……。
 かわいそうに、こんなに顔色を悪くして、怖い思いをしたのね……」
(……一番怖かったのは、ライスだなんていったところで、信じてもらえないよね……)
「とにかく、あなたが無事でよかったわ」
「お母様、心配かけて申し訳ありませんでした。でも、もう大丈夫です。
 それに、ツイファー教授にまた立体魔法陣を教えていただくことになりました。
 ……そうだ。わたし、初めての魔法が使えるようになったのですよ」
「あら……、今まで興味のなかったあなたが……」
「ちょっと、お待ちくださいね」
 奈々江はチャーリーを放して、代わりに紙と羽ペンを取った。
 そこにセレンディアスにしたのと同じように、魔法陣を書いた。
「お母様、どこか痛いところや辛いところはございませんか?」
「そうね……、最近少し手首が痛いわ。
 刺繍のやりすぎかと思うのだけれど、好きだからなかなかやめられないのよね」
(なるほど、『手首』と……)

 魔法陣が書き上がると、奈々江は言霊を唱えた。

「ライトオン」

 魔法陣から光が溢れ、光の粒子がクレアを包む。
 クレアの手首の周りに光の粒がきらめきながら旋回する。

「あら、まあ」
「お母様、どう?」
「すごく楽になったわ。あなた、いつの間にこんなにできるようになったの? 
 今までちっとも魔法を使おうとも学ぼうともしなかったじゃないの」
「これからは、痛いところは全部わたしが治して差し上げますね」
「まあ、頼もしい」

 セレンディアスに続いてクレアへの回復魔法も成功した。
 魔法陣を書いて、ライトオン、これだけで痛みや怪我が治るなんて、我ながらすごすぎる。
 気をよくした奈々江は、今度はラリッサとメローナにも声をかけた。

「そ、そうですね……、わたくしは、最近少し肌荒れが……」
「わたくしは、ええと、手がささくれて……」
「わたしに任せて! ライトオン!」

 次にチャーリーを捕まえて座らせた。

「あなたは悪いところなさそうだけから、全体的にかけてみるわね。ライトオン!」

 チャーリーの瞳がきらきらと輝きを、毛並に艶が増す。
 チャーリーにも魔法が効いた実感があるようだ。
 うれしそうにしっぽを振っている。
 屋敷中の使用人を集めて、奈々江は全員の痛みや気になるところに回復魔法をかけて回った。

「よ、よろしいのですか? 皇女様にこのようなご厚意をいただくなんて……」
「練習台だと思って、受けてくれたらうれしいわ」
「では……ええと、先日段差を踏み外して足首をひねってしまいました」
「ライトオン!」

「わたくしのような、下々の者にも……? 実は、わたくしは昨日から少しお腹の調子が……」
「ライトオン!」

「わたくしはさっき火傷をしてしまって……」
「ライトオン!」

 なんと面白いのだろうか。
 魔法陣を書きつけて、言霊をいうだけなのに、怪我や痛みが一瞬で治り、感謝までされる。
 こんな楽な仕事だったら、医者になりたいと思うくらいだ。
 屋敷の全員に魔法をかけ終わった後、庭にでて、昆虫や草花に向かっても回復魔法をかけてみた。
 昆虫たちは見るも明らかに輝きを増し、動きが活発になった。
 種類によっては一回り大きく成長するものもあった。
 草花は成長と開花が進み、葉や茎の輝きが増した。
 あっという間に手元には魔法陣を書かれた紙であふれかえった。

「ラリッサ、次の紙をちょうだい」
「ナナエ姫様……、そろそろおやめになったほうが……」
「どうして? 
 あ、こっちの魔法陣はこの黄色い花、これはあっち白い小花の魔法陣。花の魔法陣は花でまとめてね。
 そういえば、さっきのルピナスにかけた魔法陣、指と髪とふたつに分けて書いたのも、一緒にしておいてくれる?」
「はい、しかし、あの……」
「ねえ、メローナ、あの魚にかけてみたいんだけど。
 そうだ、餌をあげて近くに呼び寄せてくれない?」
「は、はい……」

 ラリッサとメローナを巻き込んで、庭中の生物に回復魔法をかけて回ったので、庭全体が明るくなりいきいきとしている。

(こんなに便利なら、医者も獣医も庭師もいらなくなっちゃうんじゃない?)

 奈々江が魚にライトオンと呼びかけ、様子を見ようと身を乗り出したときだった。
 かくっと膝から力が抜けた。

「ナナエ姫様!」

 メローナが魚に投げ与えていたパンを投げ捨てて手を掴んでくれなかったら、池に落ちていたところだった。

「あれ……、なんか急に力が……」
「ナナエ姫様、魔力切れでございます! すぐ中に戻りましょう!」
「あ……」

 そういえば、ツイファーがいっていた魔力切れが、今まさにこの状況らしい。

(そ、そうか……。魔力は無限にあるわけじゃないんだった……。
 そっか、だからみんな、自分の些末な傷を回復魔法で癒したりしないのね)

 ラリッサとメローナに支えられてベッドに入った。
 驚くくらい、体に力が入らない。
 痛みも辛さもないが、一旦横になってしまうと、起き上がれない。

「申し訳ありません。魚に魔法をかけ終えたらお止めしようと思っていたのですが、魚の数が思ったより多かったので、一気に魔力を取られてしまったのですね。
 わたくしたちがもっと早くお止めするべきでした」
「……ううん、ラリッサ、わたしのせいよ。
 魔法が使えるのがあまりにも楽しくて、ちょっと調子に乗っちゃった」
「ナナエ姫様、とにかく今はお休みくださいませ。
 魔力切れの状態は、兵士でいえばいわば甲冑を脱いだ状態でとても無防備なのです。
 この状態で怪我などをすると、大きな損傷を受けてしまいます」
「そうだったの……。じゃあ、魔力を切らすのは危険なことなのね」
「申し訳ありません。ナナエ姫様がとても楽しそうにしていらっしゃたので、お止めするのが忍びなくて……。従者として失格です」
「そんな、メローナ、あなたのせいじゃない。ごめんね、心配をかけて」
「魔力の回復は、とにかく休むしかありません。魔力は回復魔法では回復できないのです」
「わかったわ、ラリッサ。静かに休んでる」

 一旦目を閉じると、まるで吸い込まれるように眠りに引き込まれた
 肉体的な疲労とは違うが、気力というか魂というか、なにかが激しく疲れていたのだとはっきりわかった。

(でもすごく楽しかった……。明日はどんな魔法が使えるんだろう……)


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「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」  弟のその言葉は、晴天の霹靂。  アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。  しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。  醤油が欲しい、うにが食べたい。  レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。  既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・? 小説家になろうにも掲載しています。

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