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# あぶない嫉妬(2)
しおりを挟む店長はようやくその顔にサービス業らしい笑みを浮かべた。
「失礼いたしました。わたくしは店長の鏡見と申します」
鏡見はアンナを中へ案内した。
ジェイダンが見たのと同様に壁に並べられたガラスの棺おけを見た瞬間、アンナはめまいを覚えた。実際脚がふらついたのだろう。
「大丈夫ですか、レディ?」
鏡見は紳士的にアンナの体を支えて手を取った。アンナは慌ててその手から離れようとしたが、鏡見は簡単にアンナを離そうとはしなかった。
「レディ、失礼ですが、今なんのお仕事?」
「な、なんですか、離してください」
「今の収入に満足していますか? うちで働いてくださるならその二倍、いや三倍は約束いたしますよ」
「離して!」
鏡見はアンナが目をむいたのを見て、すばやくアンナを開放した。
「失礼いたしました」
鏡見は礼儀正しく頭を下げると、今度はまっすぐ席に案内した。
アンナはすっかり体中に嫌な汗をかいていた。
一刻も早くここを出たい。その思いだけだった。
ホールを見るとたった今ジェイダンと赤いドレスの女がルネたちと同じ席に着こうとしているところだった。
始終入り口を気にしていたジェイダンはすぐにアンナに気が付いた。
(来た……! アンナが来た!)
ェイクはすっかりアンナがジェイダンへの気持ちを自覚して来てくれたものだと思い込んでいた。
今まで思い通りに行かなかったアンナがようやく、ジェイダンの思いに応えようとしているのだ。ジェイダンは思わず有頂天になった。
ここで素直にそれを受け入れるのではなく、そこからさらに利益を引き出そうとするのがジェイダンのような弁護士の小賢しいところだった。
(もしも僕が彼女と奥の部屋へ消えるのを見たら、アンナはどう思うかな? さらに嫉妬して必ず追ってくるだろう。さっきの僕と立場が入れ替わる)
ジェイダンはすぐに実行に移した。
「すまないが、さっきいっていた個室を見てみたいんだ」
「ええ、いいわよ。多分一部屋空いていたから」
すると女はスタッフを呼びもせず自らジェイダンを案内した。店側もそれをとがめもしない。
彼女はそれだけの上客ということなのだろうか。とにかくジェイダンのたくらみはこれで果たされるはずだ。
ジェイダンはさらにアンナを試したいと思った。
これまでジェイダンのアプローチに対してつれなくまたはジェイダンの思い通りにいかない振る舞いをしてきたアンナに対して、知らしめてやりたかった。
自分だってそう簡単にアンナの思い通りになってたまるものか、というジェイダンの小さなプライドがそうさせたのだ。
(君をもっと嫉妬させたい。僕をもっと欲しがって欲しい。僕が思うのと同じように、君にも僕を愛して欲しい)
席につくかと思いきや、すぐに立ち上がって奥へ行こうとする二人に、アンナは思わず駆け寄った。
アンナは二人の行く先を塞ぐように立ちはだかった。しかしそれは決して勇猛というわけではなく、アンナの声はすっかり震えていた。
「わたしたちは全員帰ります。会計してください」
「会計って、たった今来たばかりじゃないの?」
女はわざとらしくのんびりとした口調でいった。
ルネとアンディ、吉村は一体アンナがなにをいっているのか、というように顔を見合わせた。
ルネがグラスを片手に聞き取りにくいフランス語で
「アンナ、座って一緒に飲もう!」
と楽しそうに笑う。
「そうだよ、アンナさん。面白い店でしょ?」
吉村も調子を合わせて気楽な声でいう。
訳知り顔のアンディはそれとなくジェイダンとアンナの顔を見比べている。
「いいえ、帰ります。お願い、ジェイダン」
アンナは必死な思いでジェイダンを見た。
ジェイダンはそれに応えるように赤いドレスの女の腕を払うと、アンナに手を差し伸べた。
その瞬間、女は憎しみを込めた目でアンナをにらみつけた。アンナはそれだけで気を失いそうになった。
「アンナ、君が来てくれてうれしい」
ジェイダンはすっかり悦に入っていた。アンナはジェイダンに構うどころではなかった。
さっきの口調とは打って変わって女は何かを噛み潰すような声で明らかにアンナを威嚇した。
「今さら横取りするなんて礼儀知らずな子ね」
「お願いだから、私たちに構わないで」
震える声でアンナは女に対して静かに語りかけた。
「構ってるのはどっちよ?」
ジェイダンは自分を中心に気まずくなった空気を取り繕うために赤いドレスの女にいった。
「君には悪いことをした。すまなかったよ。でも僕は彼女と帰る。君のためにこの店で一番高いワインを頼もう。ここはそれで収めてくれないか」
「帰ればいいわ」
女はちらりとジェイダンを見ただけで明らかにアンナに向かっていった。
「でも帰るのはその子だけ。あなたはここに残るのよ」
アンナはとっさにジェイダンをかばうように前に進み出た。女はホール中に響くような笑い声を上げた。
「あなた勇敢なのね! でも震えてるわ。わたしに歯向かうなんて無謀だとわかってるんでしょ?」
その瞬間、店にいた客を含めた全員がアンナのほうを見た。
アンナは射すくめられた小動物のようにぴくりとも身動きが取れなくなった。
「いいわ。あなたが今ここから出て行くのなら、そちらの三人にはゆっくりお酒を堪能してもらったあと無事にお返ししてあげる。あなたが思っている最悪の事態だけは避けてあげるといってるのよ」
ジェイダンはこの女のいっていることがどこか不自然だと気が付いた。
単純にジェイダンを取り合った縺れ話というには彼女のいっていることはおかしい。
彼女は思い込みが激しいのかどこかずれているのか、とにかく普通の思考を持った女性ではないようだ。
一方のアンナはなぜかその彼女にひどく萎縮している。ジェイダンはとりとめなく話がわからなくなってしまう前に釘をさした。
「最悪の事態にはならない。僕はアンナと一緒に店を出るからだ」
ジェイダンが思うアンナにとっての最悪の事態とは、いうまでもなく自分がこの赤いドレスの女と一晩を明かすことだろうと思った。
しかし本当のところアンナが心配していたのはそんな事態ではなかった。
そうとは知らないジェイダンは店長に目配せして
「彼女にこの店で一番いいワインを」
と指示をした。
しかし女はまるで動物のように歯をむいていった。
「そんなものじゃだめよ。わたしが欲しいボトルはあなたよ」
そのとき鏡見店長が割って入った。
「やめろ、ベニ。こちらは戸川グループの役員だ。失礼が過ぎるぞ。奥で頭を冷やして来い」
鏡見がいうとベニと呼ばれた赤いドレスの女は、思った以上にあっけなく矛を収めてさっさとホールを後にした。
鏡見は礼儀正しく頭を下げた。
「皆様どうか非礼をお許しください。彼女は今でこそここの客ですが以前はここで働いていた者です。よく知っている者でしたので、わたくしも容認が過ぎました。どうか気を取り直してどうかお席にお戻りください」
アンナはその申し出を毅然とはねつけた。
「いいえ、帰ります」
ただそういっているアンナの肩は小刻みに震えていた。それは見ていてもかわいそうなくらい明らかだった。
ジェイダンはアンナのいうとおりにした。アンナの気持ちを確かめるには今回の騒動は少々荒っぽかった。
これ以上アンナに精神的な疲労を与えるのはよくないだろうとも思ったのだ。
「彼女がそういっていますから帰ります。請求は僕の会社にまわしてください」
「はい、ではご依頼のものを」鏡見はワインを持って来させた。
「さあ」
ワインを受け取ったジェイダンがアンナの肩を抱いて出口へ促すと、アンナは首を振った。
「皆も一緒に帰るのよ」
鏡見がすかさず
「私が必ず無事ご自宅までお送りしますよ」
といった。アンナはその言葉を信じられる気がしなかった。
「これ以上他のお客様のご迷惑にもなるようなトラブルは避けたいのです。必ずお約束は守ります」
約束という言葉を使ったとき、鏡見はじっとアンナを見ていた。アンナが口を開く前にジェイダンがアンナを外に促した。
「大丈夫だよ、アンナ。少しでも能がある者なら戸川グループとどう付き合うのが得策なのかわかっているはずだから」
アンナはなんとかそれで納得することにした。店を出るなりジェイダンに向かってアンナは強くいった。
「ちゃんと三人が無事に戻ったことはあなたが確かめてね」
「わかったよ。君は心配性だな。こんなトラブル一日にそう何度もあることじゃないよ。むしろ交通事故のほうが心配だ」
ジェイダンの言葉にアンナは踵を返した。
「やっぱり、やっぱり皆で帰らなきゃだめよ!」
「待って、アンナ。待って!」
アンナを引き止めると、アンナは異常なほど青い顔で震えていた。ジェイダンはなにか不自然なものを感じずにいられなかった。
「どうしたんだ、アンナ。まだこんなに震えている」
ジェイダンがアンナを抱きよせると、アンナは抵抗さえ見せなかった。体もひどく冷たい。
「ジェイダン、皆を迎えに行きましょう。やっばり残してはいけないわ」
「大丈夫だよ。それより君のほうがよっぽど心配だ。顔も真っ青じゃないか」
確かにあのベニという女性はただならぬ気配の持ち主ではあったが、思い込みの激しい女性というのはどこにでもいる。
酒の出る店で起こるトラブルとしてはあれぐらいのことは日常茶飯だ。
それでもアンナはジェイダンが思った以上に怖い思いをしたのだろうか。
いつかアンナは自分のことをこういっていた。手におえないことはしない主義だと。
彼女にとっては今日の出来事はその類だったのかもしれない。
そう思った矢先、アンナは崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「アンナ!どうしたんだ?」
「怖いの……」
アンナは自分を守るように自分を抱きかかえた。ジェイダンはアンナを立たせると、リムジンに乗せた。
抱き寄せるとアンナは無抵抗にジェイダンの胸に抱かれた。
「出してくれ」
ジェイダンはすばやく運転手にいった。しかし発車しない。
「おい、車を出してくれ」
ジェイダンはもう一度いったが、返事もなければギアを入れる音さえしない。ジェイダンは仕方なくアンナをシートに預けると、運転席に近づいた。
「おい、聞こえないのか!」
運転席でジェイダンが見たのは、頭から血を流している運転手の男だった。ジェイダンは思わず悲鳴をあげた。
しかしジェイダンは次の悲鳴を聞いた瞬間、その状況を疑わずにいられなかった。
鋭く響いたその声のほうを見ると、なんとベニがアンナの首をしめているのだ。
ベニは車の中に潜んでいたのだろうか。いやドアがかすかにあいている。
ジェイダンたちが車に乗り込み、運転手が倒れているのを見て慌てているところへ乗り込んできたのだ。
運転手もまさか彼女の仕業なのだろうか?
「やめろっ!」
ジェイダンはとっさにベニに体当たりをした。
しかしベニは女とは思えない力でジェイダンを突き放してきた。アンナを見ると苦しそうにもがいている。
その首に当てられたベニの手は血管と筋が浮きだって、まるで動物の爪のようにアンナの柔肌に食い込んでいた。
突然アンナは力を失ったようにがくりとうなだれた。ジェイダンの脳裏に最悪のシナリオがよぎった。
ジェイダンはもう一度、今度はベニの軸足をめがけて体当たりした。
それはジェイダンの予想通りにベニのバランスを奪い、ベニはその勢いのままドアから転げ落ちていった。
「アンナ!」
ジェイダンは気を失ったアンナを抱き起こすと一も二も置かずにベニが落ちていった方とは逆側のドアから外へ出た。
足がもつれ転げ出るような形となった。
アンナを抱えたままアスファルトを這ったジェイダンは車越しにベニ落ちた方向を確かめた。そこにはもうベニの姿はなかった。
(あの女は一体なんなんだ! いくらなんでもここまでするか? ニューヨークでさえこんな事件に遭ったことはないのに!)
ジェイダンはなかばパニックを起こしかけていたが、気を失ったままのアンナが彼をそうはさせなかった。
ジェイダンは素早くアンディに電話をかけた。
「アンディ、来てくれ! 店の外だ! 早く!」
ジェイダンが助けを求めたのとほぼ同時に、ガシャンという破割音と共に血しぶきが振ってきた。ジェイダンはぎょっとしてリムジンを仰ぎ見た。リムジンの上には割れたワインボトルを手にしたベニがジェイダンたちを見下ろすように立っていた。
血しぶきだと思ったのはワインだった。ベニはぞっとするような冷たい目をしてにやりとした。その獲物を追い詰めるような目は尋常な人間のものではなかった。
ドラッグだ、とジェイダンは瞬間的に思った。
「狂ってる!」
ジェイダンは吐き捨てるように叫んで、アンナを抱いて立ち上がった。
逃げようと視線を上げると、そこにはすでにベニが立っていた。
ベニは雫の垂れているボトルの首を掴んだ手を、より強く握り締めた。そして思いもよらぬほど低く響くような声で笑った。
「わたし欲しいものすぐは手に入れる性格なのよ。それもなるべくすぐにね」
ジェイダンは背中に伝う冷たい汗を感じた。
ベニは明らかにおかしい。中毒的なドラッグ常用者に見えた。
普通の人間の認識や判断を彼女に期待しても無駄だ。
ベニにそのワインボトルを下ろさせて、無事にこの場面を切り抜けるにはどうしたらいいのだろう。
すくなくともベニはドラッグのせいなのかそもそも彼女はなにか特別に体を鍛えてでもいたのか、大の男である運転手を伸しつけ身軽に車から飛び降りるような身体能力を見せつけている。
普通に立ち向かえばどちらも無傷ではいられないだろうと直観した。
そこへビルのドアから慌てたようにアンディ、ルネ、吉村、そして店長の鏡見やその他の客やスタッフなどが次々と現れた。
「うわっ!」
「なんだあれ……」
それとほぼ同時に騒ぎを聞きつけた野次馬たちも集まりだした。すると鏡見と店員たちが素早くベニを羽交い絞めにした。
「やめろ、離せ!」
ベニは男たちにつかまれて騒いでいたが、なにかの小劇のようにビルの中に引きずり込まれて行った。
後には呆然唖然とする面々が残された。アンナを抱きかかえて立ち尽くすジェイダン意外になにがどうなったのか知っているものはいない。
そしてジェイダンはベニがその場から消えたことに心底ほっとした。
様子からすればあの鏡見はベニがああした問題を起こすことに慣れていたのかもしれない。
それほど彼らの撤退は簡潔で素早いものだった。そのすぐ後に鏡見が再びビルを出てきた。
鏡見は責任者らしいはっきりとした物言いをした。
「このような事態になってしまい本当に申し訳ありません。戸川様をはじめヴィアール様も今マスコミ沙汰はまずいときでは」
「しかしアンナさんは?」
アンディがアンナを指してどこか青ざめたようにいった。
「アンナは気を失っている。しかし運転手は……」
ジェイダンがいうと吉村が機敏に動いた。運転席を確認し吉村はそこ場から声を上げた。
「社長、気が付きました。……ただ、かなりひどい状態ですけど……」
運転手の息まで確かめる余裕のなかったジェイダンは二重の意味で安心した。
暴行も重罪に違いないが、人が死んだとあっては警察沙汰にならないわけには行かなかったからだ。
真っ白なリムジンにぶちまかれたワインは、スタッフがきれいにぬぐっていた。アンディはジェイダンを見て仰いだ。
「ひとまず、この場を離れたほうがよいのではありませんか? これ以上人が集まってルネや社長だと周りに気づかれでもしたらまずいです」
ルネは神妙にしていたが、なにが起こったのか一刻も早く聞きたい様子でそわそわとしている。
「戸川様、本当にもうしわけありません。取り急ぎベニのことはわたくしにお任せください。この件につきまして明日一番にオフィスにご連絡差し上げます」
「この落とし前はきっちりつけてもらう」
ジェイダンは脅し文句を残した。こういうときの戸川グループの名前は効果絶大だ。鏡見は深々と頭を下げた。
運転手を運転席から下ろして後部座席に横たわらせた。
幸い意識ははっきりしているようだ。頭や口からの出血は見た目ほどひどくはない、と自分で自分の状況を説明できるほどだった。
運転手の代わりにハンドルを握ったのはアンディだった。
「アンディ、君は飲んでいるだろ。僕が運転する。これ以上のトラブルは困る」
「酔いならとっくに覚めてます。まず病院に向かいます。戸川総合病院ならうまくやってくれるでしょう」
アンディは言葉の通り極めて明瞭な判断力で、グループの息のかかった病院の名前を口にした。
確かにこんな状況から突然日常に戻ると覚めたのは酒か夢かと思ってしまう。
ジェイダンは軽く手を振って任せた、と指示した。
「それで一体なにがあったんです?」
車が動き出すと案の定吉村とルネがジェイダンに迫った。
ジェイダンはアンナを腕の中に包みながら、端的に一連の話をした。
三人の中で一番酔っ払っていたルネは、もっとも被害をこうむった運転手が目の前で痛みに耐えているにもかかわらず目を輝かせた。
「狂った女だ、なんてやつだ! 僕も見たかったなぁ」
ジェイダンは折角の夜を台無しにされたと機嫌を損ねないだけよかったと思ったが
「こんな刺激的な夜は初めてだ!」
とはしゃぐルネを見ていると、その頬に拳を叩きつけてやろうかと思わずにはいられなかった。
事態を収拾するためのあらゆる処理をアンディと吉村に任せたあと、ジェイダンはアンナを連れてホテルへ戻った。
アンナをベッドに寝かせるとジェイダンはパソコンを開いた。アンディに状況把握を頼んではいたが、やはり自分でも確認しておこうとツイッターやフェイスブックに、先ほどの事件についてなにか書き込まれていないかどうかを調べた。
いくつかのそれと思われる書き込みが見つかったが、どこの誰と特定できるような情報はなにもなかった。
そのときアンディからのメールが入った。
「現段階でネット上に今回の件と我が社との関りが明確にされたものは上がっていません。取り急ぎご報告まで」
「引き続き状況確認を頼む」
ジェイダンは手短に返信をした。ジェイダンは椅子に腰掛けたまま、大きくため息をついた。そしてすぐに立ち上がると、アンナの眠っているベッドに向かった。
アンナは倒れたときのまま、静かに息をしながらみじろぎもしない。ジェイダンはその傍らに腰掛け、そっと髪をよけた。首にはベニがしめつけた跡がくっきりとついていた。
(かわいそうに……)
ジェイダンは思わず唇を近づけたが、途中で止めた。
(僕がアンナにやきもちを焼かせようなんてつまらないことをしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。そもそもアンナは店に入ることを嫌がっていた。今から思えばあれは日向に会いに行くためではなく、あの店がなんらかのいわくつきであることを知っていたと考えるほうが自然だ)
冷静になったジェイダンはようやく本来の論理的な思考を戻していた。
(それではなぜ彼女はそういわなかったんだろう。いや、僕が聞かなかったのか、それともアンナは僕にいっても無駄だと思ったのかもしれない。確かにあのときの僕はどうかしてた。仮に彼女がこの店はドラッグを使うような人間が来る場所だといったとしても、あのときの僕がそれを素直に信じたとは思えないな……)
状況を筋道立てて振り返ったジェイダンにはアンナを危険な目にあわせたのは自分だという自覚があった。アンナがはっきりそれといわなかったことを考えに入れたとしても、アンナの気持ちを試そうとベニを使ったことが結果として彼女の異常な心理に火をつけてしまったのだ。
そういえばアンナは最初からベニに対してどこかおびえるような態度を示していた。アンナはジェイダンより先にベニの危険性を敏感に察していたのだろう。
ジェイダンはそうとは知らず再三にわたってジェイダンを引きとめようとするアンナの言葉を無視し、そればかりかアンナに危険なゲームをけしかけたのだ。
そう思えば、アンナはよく店に入ってきてジェイダンたちを迎えに来てくれたものだと思う。危険だと知っていたなら、なおさら彼女は一人で帰るという選択をとってもおかしくなかった。
しかし彼女は全員で店を出ることにこだわった。そのときはそれがなぜだかわからずに、ジェイダンはアンナが自分を混乱させようとしていると勘ぐったが、今ならそのわけがわかる。
あの店がなんらかの理由で――おそらくドラッグ、もしくはそれに類する薬物やハーブなどの蔓延するといった――危険な場所だったからだ。
アンナはベニと対峙したとき、ジェイダンをかばうように立ちはだかった。それはいうまでもなくジェイダンを含め皆を守ろうという気持ちの現れだったに違いない。
彼女のような若くか弱い細腕で、何が起こるかわからない危険な巣窟に聞き分けのない男たちのために乗り込むなんて、アンナはどれだけの勇気と責任感を振り絞ったことだろう。
「アンナ……」
ジェイダンはそっとアンナの頬に指を滑らせた。アンナの横顔は天使のように清らかだった。
「君はこの小さな体のどこにそんな勇気を隠していたの? いみじくも彼女の言葉を借りれば、君がそんなに勇敢な女性だとは思わなかったよ」
ジェイダンはささやくほど小さな声でアンナに語りかけた。
「だけどアンナ、君が勇敢に彼女に立ち向かったおかげで、僕は結局君が僕のことをどう思っているのかわからなくなってしまった。せめて僕だけを取り戻すようにしてくれたら君にとって僕が特別な存在だとわかったのに。君は誰にでも優しいんだね、それ自体はいいことだけど……」
ジェイダンはアンナの髪にそっと唇を押し付けた。ジェイダンは眠れるアンナの介抱を始めた。
靴を脱がせると、左足首が腫れていた。
おそらくリムジンから二人で転げ落ちたときにひねったか打ったのだろう。ジェイダンはかかりつけの医師に連絡をした。
「一二〇八号室だ。遅くに悪いが急患だ。すぐに頼む」
ジェイダンは次にピンク色のファーマフラーを外しにかかった。手前のリボンを解くと黒のドレスに包まれたアンナの豊かな谷間が露わになった。自然とジェイダンの本能が揺さぶられた。
そのふくらみに触れたいという衝動を押さえてじっと我慢するジェイダンだったが、穢れのないアンナの寝顔とたわわな果実の構図は思った以上に抗いがたい魅力的なものだった。
ジェイダンは頭のどこかでだめだ、叫んでいるにもかかわらず、ブレーキを踏むべき足は司令塔の信号を無視してじりじりとアクセルを踏みつづけている。
ジェイダンはじっとアンナとそのバストを凝視しながら、次第にその場所へ顔を近づけていった。
そのときだった。何の前触れもなくアンナがぱっと目を覚ました。
「きゃああ!」
アンナは跳ね起きるように上体を起こすと胸元を隠して身を守るように自分の腕を抱いた。
ジェイダンは弁明しようと慌ててアンナからはなれようとするが、アンナはジェイダンの予想を覆して自らジェイダンの胸に飛び込んだ。
興奮したように息を荒げるアンナはおびえた声でいった。
「ここ、どこなの……?」
「僕の部屋だよ」
ジェイダンは内心ほっとしながらアンナの肩を優しく抱いた。アンナは震えながら周りを見渡した。
「どうなったの……みんな……」
「大丈夫だよ。もう心配ない」
「ルネさんは? アンディさんや吉村さんは?」
「大丈夫みんな帰ったよ」
アンナは納得したのかようやく震えるように息を吐き出して、今度は今にも泣き出しそうな顔をジェイダンに向けた。
「お願い、もう二度とあの店には行かないって約束して。皆にもそういって」
「わかった。約束する」
そのまましばらく抱きしめていると、アンナは次第に落ち着いてきた。
ジェイダンは腕の中でうずくまるアンナの感触を味わいながら、静かな口調でいった。
「今回のことは警察沙汰にはできないけど、あの女と店の責任については必ず言及するつもりだ。君を傷つけた彼女を僕は許さない」
アンナは必死に首を左右に振った。
「あの店とはもう関わらないで!」
「君はやっぱりあの店のことを知っていたんだね? だから君はあれほど店に入るのを拒否したんだろう? それなのに僕は君の話をちゃんと聞こうとしなかった」
アンナはじっとジェイダンの瞳を見つめた。ジェイダンはアンナが気を失ってから一体なにを見たのだろうと、まるで確かめるように。
「君は僕らを守ろうとしてくれていたんだね。彼女やあるいは店自体がドラッグかそれに類するものを扱っていることを君は知ってた。君は彼女が危険なことを犯しかねないことを察してた」
アンナはなにもいわずに下を向いた。
「君の話をよく聞くべきだった。あのときの僕は、今思えば恥ずかしいくらい嫉妬にかられてたんだ。君は楽しそうにルネと話をしていたし、日向という男友達からの呼び出しもあった。正直あのときの僕が何をいったのかはっきり覚えてないよ。君が僕に何をいっても無駄だと判断したとしても、それは頷ける」
ジェイダンはすっかり目を合わせてくれないアンナに熱心に語りかけた。
「僕が冷静さを失わなければ、結果として君をこんな目に合わせることはなかったと思ってる。本当にすまなかった。僕は君にも僕と同じ気持ちを抱いて欲しかったんだ。君に僕のことを好きになって欲しいとそればかり考えていた。君が店に入ってきたとき僕は君の心をなにも知らずに、ただうれしかったよ。君も僕が好きなんだと思って舞い上がった。でもそれだけじゃ足りなかった。僕はそれまで僕が感じたように、君にも嫉妬をさせたかったんだ。だからわざと彼女を奥の部屋へ誘って君の嫉妬心をあおろうとした。だけど実際あおられたのは君じゃなく、彼女のほうだったけど」
ジェイダンは腕の中のアンナを見つめた。アンナは今もわずかに震えているように見えた。
「アンナ?」
「彼女の話はやめて」
アンナは突然ジェイダンの腕から離れて、自分を抱きしめるようにしてうずくまった。
「彼女、ドラッグなんかじゃない……」
アンナはくぐもった声で、しかし明らかにそういった。ジェイダンがどういうことか聞こうと口を開きかけたとき、部屋のチャイムが鳴った。アンナは外敵を察知した捕食動物のように、はっと顔を上げた。ジェイダンはすぐにいった。
「大丈夫、医者を呼んだんだ」
ジェイダンは医師を迎えて、アンナのいる寝室へ連れてきた。アンナは相変わらずおびえたような目で訪問者を見た。
「足首を痛めたみたいなんだ」
アンナの代わりにジェイダンが説明すると、医師はアンナの容態を見る代わりにジェイダンの腕を取ってとなりの部屋へ連れて行った。隣の部屋へ入るなり中年の医師は行った。
「戸川さん、あなたがやったんですか?」
「え?」
ジェイダンはなんのことかわからず聞き返した。
「傷害やレイプの隠ぺい工作なら困ります。他の医師を頼んでください」
ジェイダンは一瞬なにをいわれたのかわからず目をぱちぱちとさせた。その次にジェイダンは顔を真っ赤にして医師を怒鳴りつけた。
「そんなことあるわけないだろ!よけいな詮索をしないで彼女を診てくれ!」
しかしそれがますます怪しいと思われたのか、医師は疑いのまなざしを強めた。
「あなたでないなら、どうしてそんなに取り乱すんですか」
「取り乱してない! あなたが無礼なことをいうからだ!」
ジェイダンはいらいらといったが、つい一時間ほど前には同じように無礼な疑いをアンナにかけたことを思い出した。蒔いた種は刈り取らねばならない。
人を疑えば同じように疑われるものだ。ジェイダンに熱心な宗教信仰はなかったがまるでカルマの法則とはこのことだと思った。
「疑うなら彼女に確かめてくれ」
「そうさせてもらいます。あなたは席を外してください。もし不自然だと思うことがあれば、私はその場ですぐ警察に通報しますよ」
「わかった、わかった!」
ジェイダンはそのまま隣の部屋で待たされた。しばらくすると医者が寝室から出てきた。ジェイダンはぶすっとした顔で目を向けた。
「容態は?」
「捻挫です。あとは擦り傷が少し」
「酷いのか?」
「捻挫は少し長引くでしょうね、全治一ヶ月というところです。もし痛みが続けばひびが入っているか神経をいためているかもしれませんので、経過要注意です」
「それから」
「それから?」
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「本当に、あなたは彼女に何もしてないんですね?」
「彼女に確かめたんじゃないのか?」
「ええ、確かめましたよ。彼女はあなたが自分を助けてくれたといいましたが、それは彼女が知らないだけで、例えば本当はあなたが騙して……そういう事件だっていろいろとあるでしょう」
ジェイダンはカチンと来た。この医者は初めからジェイダンがアンナを傷つけたものと決めてかかっている。
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