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# いけない言葉
しおりを挟むアンナの足は大分腫れが引いてきて、不自由はあったが始終松葉づえに頼らなくてもいいくらいに回復してきた。
相変わらずジェイダンからの電話と花束が続いているが、アンナは受け止める覚悟がいまだ持てずにいた。
そして、波江の結婚式の日も刻々と近づいてきている。
当日までには足は何とか回復するだろう。
先日、波江からケーキのデザインについて電話があった。
「すごくいいわ、もう今から楽しみになっちゃった!」
波江が喜んでくれるのはうれしいし、素直にふたりの幸せを祝いたい。
だが、会場で日向に会うと思うとそれだけでアンナの気分は落ち込んだ。
母とあんな話をしたせいもあって、アンナの心は穏やかではなかった。
「お母さん、わたし足もまあまあ良くなってきたし、和泉の家に戻るわね」
「あら、まだゆっくりしていけばいいのに」
「マリヤのお友達が注文をくれたの。それに波江のウェディングケーキの準備もあるから」
「そうね、わかったわ。無理しないのよ」
「うん、ありがとう」
エリナは少しぐずったが、いつものようにアンナがなだめると、すぐに笑顔になって送り出してくれた。
その日の昼過ぎにはアンナは母の運転で和泉の家に戻ってきた。
アンナはキッチンに立ちながら自分の胸に問いかける。
(現実と向き合って、折り合いをつけるの……。そう、どうしたらいいか、よく考えて……)
母の告白は、少なからずアンナの意識に影響を与えていた。
それがはっきりとした結果をもたらすものではなかった。
それでも、アンナは自分で口にしたことに今向き合おうとしているのだ。
(本当の問題は……)
アンナはさっきまで着信を受けていた携帯電話を見た。
すると、思いが通じたかのように、電話が鳴りだした。
しかし画面を見ると、マリヤからだった。
「ハイ、アンナ! その後どんな様子か気になって」
「マリヤ、ああ」
「なに、ため息? どうしたのよ」
アンナはなにから話せばいいのか一瞬止まったが、一番先に出てきたのはジェイダンから聞いた話についてだった。
「ジェイダンはあなたにそこまで話したのね。そう……、よっぽどあなたには心を開いているのね」
「あのときは狭くて暗い場所だったから、きっと心細くて言いたくないことまで話してしまったのよ」
「ううん、違うわ。ジェイダンはあなたに本気よ」
「マリヤ……」
「わたしにはわかるの。ねえ、あなたはどうなの? 今でも恋人は作らないっていう気持ちは変わらない?」
「……」
「……好きなのね、ジェイダンが」
「違うの、わたし……」
「違わないじゃないの、アンナ。あなたはジェイダンに恋してるわ」
電話越しでもマリヤの言葉はキッパリとしていた。
「ねえ、アンナ。これまではっきり聞かなかったけれど、あなたが恋人を作らないと決めているのはどうしてなの? なにか理由があるんでしょう?」
「それは……」
「わたしに無理に言わなくてもいいけど、それが解決しない限り、本気でジェイダンに向き合えないんじゃないの? あなたはずっと、そのままのあなたでいるつもりなの?」
「わ、わたし……」
電話口の先でマリヤのため息が聞こえた。
「アンナ、これだけは言っておくわ。好きな人に好きって言ってもらえるのは、奇跡なのよ。それ以上の喜びはないわ、断言する」
「マリヤ……」
「また電話するわ、じゃあね」
マリヤはやけにあっさりと電話を切った。
(奇跡……)
好きな相手と結ばれず、親の薦めた相手と婚約したマリヤ。
だからこそ、わけのわからない理由でうじうじしているアンナに呆れたのかもしれない。
(嫌われたくない……。本当の私を知ればきっとジェイダンはわたしを拒絶する……。きっと……)
立て続けに電話が鳴った。
携帯電話の画面をみると、ジェイダンだった。
(ああ、ジェイダン……)
アンナは思わず額に手をやった。
(……あんな想いを繰り返したいの?……)
アンナは自問し、唇を薄くかんだ。
(恋はしないと誓ったじゃない……。きっとうまくいくはずない……。
ジェイダンはあんなふうに私に過去を打ち明けて心を開いてくれたのに……。
わたしは本当のことを怖くて言えないんだもの……。
本当の自分を隠したままじゃ、ジェイダンのことを真正面から受け止められない。
……ああ、このままじゃ傷つくのは自分だけじゃない。
きっとジェイダンも傷つけることになる……)
アンナは首を左右に振った。
(これ以上ジェイダンの中にわたしが踏み込む前にぬけださなくちゃ……。今度こそちゃんときっぱり断るのよ……)
意を決して電話に出ようとした瞬間、インターフォンが鳴った。
アンナは瞬間的に、ジェイダンが来たと思った。
アンナはゆっくり近づくと、思い切ってドアを開けた。
「やあ」
アンナは硬直した。
ドアの向こうに立っていたのは、アンナが思い描いた人物ではなかったからだ。
アンナの頭は一瞬にしてパニックになっていた。
(なぜ……)
そこにあったのはほぼ九年越しに合う幼馴染の顔だった。
日向潤一。すっかり大人びた青年の随所に、幼い日の面影があった。
「ごめん、驚かせたかな」
(不意打ちだわ)
アンナは止まっていた息を吸って、なんとか返事をした。
「ど、どうも……」
「休みがとれたんで打合せがてらこっちへ来ていたんだ。
この間も急だったし、今回も突然じゃ迷惑だろうと思ったんだけど……」
日向の言葉は右から左に流れていくように、アンナには届いていなかった。
「でも、こうでもしないとなかなか会ってもらえない気がして……。
俺も勢いが必要だったっていうか」
アンナの手の中で着信音が鳴り響いている。
「宮岡さん……、電話鳴ってるけど、出なくていいの?」
「……あ……」
アンナは思わず電話を手にしたまま奥へ引っ込んだ。
(こんなのってないわ……、わたし一人でどうしたらいいの……)
アンナは救いを求めるように携帯電話の画面を見た。
安心を求めて、アンナの指は通話ボタンをタップしていた。
「ジェイダン……」
「アンナ? ああっ、よかった、やっと繋がった!」
ジェイダンの声を聴くと、アンナはようやく息ができる気がした。
「ジェイダン……たすけて……」
止められずにこぼれたアンナの言葉は、今までに聞いたことがないほど小さくかすれていた。
「アンナ……?!」
電話口の向こう側でジェイダンが驚いたように声を上げた。
「どうしたの、なにがあったんだ、アンナ?」
「……おねがい、来て……」
アンナはすがるように言いながらも、ジェイダンがすぐに来れないことなどをわかっていた。
今から東京を出たところで三時間かかる。
「わかった、すぐ行く! 待ってろ!」
電話が切れた。アンナが、待ってという前に。
アンナはできることなら、切らずにいてほしかった。
電話で繋がっている間は気が休まるし、日向の相手をしなくてもすむ。
通話が途絶えた携帯電話を手に、アンナは体が冷たくなっていくのがわかった。
ジェイダンは自分が頼るべき相手ではないと、本当ならわかっていたはずなのに、アンナは思わず弱音を漏らしてしまった。
ジェイダンはきっと来てくれるだろう。ただし日向が帰った後に。
ジェイダンの好意に付け込んでしまった自分の脆弱さが痛い。
たとえ、今ジェイダンがこの場にいたとしても、ジェイダンにしてもらってもいいことなどあってはいけないのに。
アンナは過去のことをジェイダンに打ち明けるつもりがないのだから。
ベンが言ったように、現実から目を背けることはできない。
唐突にやってきたが、アンナにとってはそれが今だった。
(怖い……)
唐突に込み上げてくる不安。
気がつくと爪が食い込むほどに手を握っていたが、感覚がむやみに鈍くまた指の先まで冷たくなっていた。
それでもアンナは何度か息を深く吸うと、携帯電話をジ―ンズのポケットに押し込んだ。
日向に立ち向かうことは、アンナ自身の過去と立ち向かうことに等しかった。
この先ジェイダンからは逃げることができたとしても、今この目の前にある過去から逃げ切ることはできないのだ。
(おねがい、ヒュー、力を貸して。きりぬけだけの勇気をちょうだい……)
アンナは息を整え、ゆっくりと振り向いた。
ドアの前で長身で肩幅の広い日向が手を前で組んで佇んでいた。
猫毛の柔らかな明るい髪、垂れた右目の下にある泣きほくろ。
ふっくらとした唇の形、少し尖った耳。
紺のシャツにコットンジャケットを合わせたラフなスタイルが雰囲気によく合っている。
(青色が似合うのは今も変わらないのね……)
アンナはそっと胸の中で独り言ちた。
アンナの脳裏には少年だった日向の姿がフラッシュバックしていた。
サッカーボールを手に、クラブチームのユニフォーム姿で玄関のドアの前に立っていた姿。
「アンナ」
そう呼ばれてアンナは、はっとした。
見ると、日向も自分の言葉に戸惑ったように首を左右に振っていた。
「ごめん、つい……昔に戻ったみたいな気がして……。えっと、宮岡さん、あのケーキのことなんだけどさ……」
「ええ……」
キッチンの作業テーブルをはさんで向かい合って座った。
事務的な話は思ったよりスムーズにいったが、打合せが進んでも互いの距離は縮まらない。
「前日から受入できるようにしておくけど、ケーキの搬入は何時ごろになりそう?」
「灯台の光の仕掛けの後に、仕上げの確認をする時間が欲しいから、前日の午後くらいに搬入して、式の始まる前に少し時間をもらえるといいんだけど。でも、そちらの状況もあるでしょ? 高さがあるから、本当はそちらの場所を借りて組立したいところなんだけど」
「保冷設備はあるから……。そうだね、夕方搬入でどうかな。それで、当日式の少し前に来てもらって最終確認をしてもらうのはどうだろう」
「それで構わないわ。じゃあ、衣裳室を予約していい? なければ近くのコテージでも構わないけど」
「大丈夫だよ。三原高原のいくつかのコテージには話をつけてあるから」
アンナは手帳に予定を書きこみながら、息を詰めていた。
「わかったわ」
(お茶を出すべき……? でも、早く帰ってもらいたいわ……)
アンナは手帳を畳むとペンと重ねて手元にまとめた。
「この家の匂い、懐かしい」
「え……」
アンナが顔を上げると、日向はあたりを見渡して鼻をくんくんとさせていた。
「この家をお店にするんだってね。今は改装中なんだね?」
「ええ……」
「この家と、君を見た途端、昔のことが全部よみがえって来たよ」
(このまま彼と楽しく思い出話……? そんなのできるわけない……)
アンナは唐突に立ち上がった。
「これから人が来ることになっているの。悪いけど」
日向も立ち上がった。
「アンナ、……いや、宮岡さん。あの……」
(彼の口から、昔の話なんか聞きたくない、やっぱり今すぐ出てって言ってほしい……)
仕事モードで押さえられていた感情が一気に噴き出しそうになる。
「波江と悟君のためにうまくやりましょう。お互いに大人なんだから」
アンナは抑えたつもりで言ったが、それでも自分の耳には皮肉っぽく聞こえた。
「宮岡さん、君のことはずっと気になってた。あの日のこと、俺はずっと後悔してた……」
(やめて……)
「今回悟と浪江さんの結婚式の件で君に会えたら、真っ先に謝ろうと思ってた」
アンナは平常心を装おうとしていたが、体中が小刻みに震えているのが自分でもわかった。
「……もういい」
「いや、聞いてほしいんだ、アンナ。あのときの俺は自分でもどうしようもない気持ちを……」
「聞きたくない!」
アンナは思わず叫んでいた。
日向は口を閉ざし、アンナを見つめた。
アンナは自分でも驚くほどの大声に、逆に冷静さをかき寄せるだけの自制心を取り戻した。
「……ごめんなさい、大声を出して。今日のところは帰ってもらえるかしら……」
アンナはこれ以上の動揺は見せまいと、目を見開いて気丈に振舞った。
だか、アンナの脚は震えていた。今、気を抜いたら膝からガクッといきそうなくらいだ。
「……うん、わかった……。突然押しかけて、本当に悪かったよ……」
日向は幾重にも含んだ様子を見せたが、アンナに背を向け玄関に向かった。
その様子を見た瞬間、アンナの心のどこかから気が抜けて、捻挫した足首がカクンッと力を失った。
慌ててテーブルに手を伸ばしたが、緊張のせいでこわばった手は空を切り、アンナの身体は砂の城のように一瞬で崩れた。
それと同時に捻挫した足首に体重が乗った。
「痛たっ……!」
振り返った日向がテーブルの先にアンナが消えているのを見るや駆けて戻ってきた。
「大丈夫か、アンナ?」
アンナは床に尻もちをつきながら、足首を押さえていた。
日向がそばに寄ろうとすると、アンナはすぐに拒絶した。
「構わないで!」
「でも……、来たときから痛そうだったけど、また同じところを痛めたんじゃないか?……」
「平気だから、帰って」
アンナの強がりを日向はとうに見抜いていた。実際、アンナは支えなしには一人で立てなかった。
「捻挫は癖になるよ」
「いいから帰ってよ」
「手当だけしたら帰るよ」
「必要ないから、帰って!」
「手当だけさせてくれたら、帰るよ」
アンナには大人になった日向の顔に幼いころの日向の顔がだぶって見えた。
それを見たくなくて、アンナは下を向いた。
「お願いだから帰って……。これ以上いるとあなたにひどい言葉を言ってしまいそうだから」
すると、アンナには思ってもみなかった言葉が降ってきた。
「言ってくれよ、アンナ」
「……?」
「俺は君の怒りもそしりもすべて聞く。どんなひどい言葉でも全部聞くよ」
日向はアンナの隣でしゃがみこんだまま、うつむくように言った。
「そうじゃなきゃ、俺は許してもらえないだろ……?」
「……」
「静岡の叔父の養子になってから、俺は少しも不幸じゃなかったんだ……」
日向はそのまま昔の話を口にしだした。
アンナと日向の決別の日が訪れるまで、二人は互いになんの確執もない幼馴染だった。
和泉にある宮岡家と日向の家は道伝いで、幼いころから互いに行き来があり、親同士の仲もよく、小学一年生の時から登校の際にはよく一緒に通ったものだ。
一緒にいると、時々兄妹に間違えられることがあった。それは、スポーツ万能で体格にも恵まれていた日向に比べ、アンナは身長が低くその幼顔のサイズも小作りだったので、同級生だと言い当てるほうが難しいくらいだった。
それでも、体格のわりに大人しい日向の性格は、くったくなくどこか夢見がちなアンナの性格と相性が良かったのだろう。ふたりは仲のいい友達だった。そして、二人の弟の兄であった日向は、エリナにもどこか自分の妹のような感覚する抱いていた。
学年が上がると日向はサッカーチームに入り、アンナと日向はそれぞれの友達も増えた。
それでも不思議とふたりの仲は変わらなかった。
休日練習を終えた日向が家に戻る途中、アンナの家の前を通ると必ずと言っていいほど甘い匂いが漂っている。
庭を覗くと、薔薇の垣根の向こうでアンナが祖母とお茶していたり、キッチンの窓からはアンナがシャカシャカと泡立て器を振るっている姿が見えた。そういうとき、日向は決まって家の前をゆっくり通った。
「潤ちゃん、よってかない?」
そういってアンナが手作りのお菓子に呼んでくれるのを待つのだ。
これが弟たちのいるときではまた違う。弟たちは不遠慮にキッチンの窓まで行ってガラスべったりもみじをつけて、アンナが気がつかなければ大声でを呼ぶくらいのことを平気でやってのけた。大人しい日向にはまねできない図々しさだった。
そういうときでも、アンナは気前よく家に招いてくれた。
兄弟たちはお腹がすくと誰とも知れず「アンナの家に行こう」と言い出して、それはつまりアンナのお菓子を食べに行こうということだった。三人ともアンナのお菓子が焼きあがるまで並んだ犬のように大人しく待っているということも度々あった。
日向三兄弟を犬みたいだと笑ったのは、足の悪かったアンナの祖母で、いつも紅茶に庭に咲いたバラで作ったジャムを入れて飲んでいた。
アンナの母親について覚えていることはよく本を読んでいたことだ。エリナの発達障害がわかってからは、もっとたくさんの本が部屋の壁際に積んであった。
エリナはアンナの隣にいるといつもにこにことしてかわいかったが、ひとたび機嫌を損ねるとなかなかいうことを聞いてくれない子だった。それでもアンナはうるさがらずによく世話をしていた。日向の中にはそうした光景が今もはっきりと残っている。
言葉にはしなくても、潤一はアンナのことが好きだった。アンナも同じように思ってくれている、そういう気がしていた。
(アンナがずっとここに住んでいますように)
子どもらしく自分勝手にそう願っていたことを今も覚えている。
そのときは、自分もずっとそこに住んでいられると思っていたからだ。
そもそも日向家の本家が養子をもらい受けることになったのは、日向の父の兄である日向幸一夫妻に子どもができないとわかったときだ。幸一夫妻は静岡で代々から続く冠婚葬祭事業を営んでおり、地元ではちょっとした名家だった。幸一の弟であり、日向潤一の父の名は太一といい、結婚を機に妻愛子の実家がある長野に居を移し、三人の子宝に恵まれた。幸一と太一の間で、本家存続のために三人のうちの誰かを幸一夫妻の養子にするということはかなり早いうちから話にのぼっていたそうだ。その時期と誰が養子になるかについては、三人の成長を待って性格や適性を見て判断しようということになっていたらしい。
だが、三人目が生まれて三年目の年、太一が交通事故で亡くなった。愛子は働きに出るようになったが、それでも男子三人の養育費とこれからの教育費を賄うのは容易なことではなかった。そこへ、支援を申し出たのが幸一夫妻だった。三人の子の一人はいずれ本家の跡取りになるのだから、当然といえば当然の申し出だった。ところが、愛子を動揺させたのは、幸一夫妻のもう一つの申し出だった。
それは、いずれ本家の跡取りとなる子を、今から日向本家で育てたいという話だった。早い話が、本家は太一がいなくなった以上、愛子の胸先一つで養子話を白紙にされてしまうかもしれないことを案じてのことだった。幸一夫妻は今跡取りに入ってくれるなら、あとの二人の子に対しても不自由しないだけの支援をすると相応の金額を準備してきてのことだった。結果として、愛子はその申し出を受けることにして、三人の中で一番年長で聞き分けのいい潤一を跡取りとして養子に出することにしたのだった。
静岡の叔父のもとへ自分が養子に出されるということを唐突に知らされたとき、日向潤一はまだまだ子どもだった。
大人になった今ならわかる複雑な事情も、その当時十二歳の少年にはもやのようにしか理解できていなかった。
「静岡には強いサッカークラブがあってね、そこで練習すればもっとうまくなれるよ。おじさんの家から通うってのはどうだい?」
「潤一、清水のおじさんがそう言ってくれてるの。行ってみる気はない?」
潤一の記憶では、初めはそんなような誘い文句からはじまり、養子という話やそれに引き換えに受けられる支援の話はあとから小出しに出てきたように覚えている。
そして、何回かにわたって開かれた食事会という名の大人たちの説得により、ついに潤一は養子縁組を承知した。
大人たちは安堵したが、潤一の心の中にはどこにも行き場のない複雑な思いが満ちていた。
(俺がいかなければ、壮一か雄一が行かされるんだ……)
自分よりまだ幼い弟たちを家族から切り離して遠い静岡へやるなんて、子どもながらに備わっている兄心がそれを許さなかった。
父が死んだ今、母や弟たちを守るのは自分だという自負もあった。
静岡の伯父夫婦のことが嫌いというわけではない。
母が苦労も感じている。
それでも、父というかけがえのない家族の一部を失ったばかりなのに、今度はそのすべてを置いて一人だけで他の家へ出なければならない。
(なんで俺が……、なんで俺だけ……)
母が三人のうちで一番年かさの自分を選んだことは理解に固くはなかった。
それでも、どこか売られたというか、捨てられたように気がした。
(別にお母さんは俺を見放したわけじゃない。これからだってまたみんなに会える。兄弟だってことには変わりはない)
わかる。わかっている。
言葉や状況は理解できる。
だが、感情がそれに追いつかない。
いくら子どもとはいえ、十二ともなれば子どもなりの大事に感じることや人間関係も培われてくる。
雨の日は水たまりがたくさんできる舗装の悪いの通学路と裏道、グッピーの水槽があるクラスの雰囲気。
厳しいけど話が面白い社会科の先生の授業、気の合ういつも顔ぶれのくだらない話題と冗談。
サッカーチームの仲間、五年生のときにようやくつかんだ今のポジション。
すぐ怒るけどよく見て指導してくれるコーチ、グランドそばの青い屋根の家にいる白い老犬。
運動が得意な兄を尊敬の目で見てくれる壮一と、やんちゃで目の離せない雄一。
薔薇の庭と甘い焼きお菓子の香り、気心の知れたアンナとその一家。
(なんで、俺だけがここを離れなきゃいけないの……)
ふたりの弟に比べ感情表現が穏やかな潤一は、そうした気持ちを押し隠した。
自分以上に兄が家を出ていかねばならない理由に納得できない二人の弟を、母と一緒になって説得しなければならない。
(お母さんを困らせたらいけない)
大人にならなければいけないんだ、と潤一は自分に言い聞かせた。
それでも、潤一の胸にはふつふつと心細さと切なさが湧いていた。
これまで自分を自分たらしめていた人や物との関わりを一気に失うような気がした。
子どもなりの理解力でわかったつもりでいるものの、言いようのない不安や疑問がぬぐえない。
(なぜ……俺が……)
アンナと日向との間でトラブルが起こったのは、彼が養子になることを承諾したそのあとのことだった。
いつものようにサッカーの練習が終わった帰り道。
(みんなとあとどれくらいプレイできるんだろう……)
日向はことあるごとに、今ある環境との別れを感じて、気持ちがふさぐようになっていた。
「潤ちゃん、これからガレットつくるのよ。よってかない?」
いつものようにアンナが日向を呼び止めた。
「うん……」
その日はおばあさんの通院があって家にはアンナとエリナしかいなかった。
日向は椅子に座って、アンナとエリナがお菓子作りをするのを眺めた。
といっても、エリナはアンナの隣でにこにこしているだけだった。
「ヒュー、ヒュー!」
エリナが腕をぐるぐる回しながら大きな声をたてた。
自分が呼ばれたのかと思って日向は、ぱっと顔を上げた。
日向は学校では名字で呼ばれることが多い。
同音異語のじゅんいちがクラスに三人もいるせいだ。
しかも、有雅(ゆうが)という名のクラブメンバーもいて、呼びわけされていくにしたがって次第にヒューというあだ名が定着したのだ。
顔を上げた日向に、アンナは笑った。
お菓子を作っているとのアンナはとても楽しそうで幸せそうに笑うのだ。
「ごめん、潤ちゃんのことじゃないの。ヒューはわたしたちのお友達なの」
「友達?」
日向は後ろを振り返った。
その友達とやらが来ているのかと思ったからだ。
するとアンナはまたもくすくすと笑いだした。
「違うの、秘密のお友達なの。わたしとエリナにしか見えないのよ」
アンナは不思議なことを言った。
アンナはときどき妙なことを言う癖がある。
それは幼いのころからだった。アンナはもともとどこかふわふわとした雰囲気があり、ときに空想や現実ばなれした発想を口にするような子どもだった。
夢見がちな少女らしさは成長するにしたがってその頻度は少なくはなっていったが、それでもアンナのまとう雰囲気やちょっとした奇妙な発言がなくなることはなかった。
それが一体なんなのか日向は特別検めたことはなかったが、なぜかその日はやけにそのことが日向の気分を逆なでた。
「なに、それ?」
「ヒュー、ヒュー!」
アンナの隣でエリナがまた空中に向かって手を伸ばしている。
アンナはそれをやさしい顔で見つめながら、微笑んでいる。
「だから、それ、なに?」
日向はもう一度言った。
アンナは少し考えるようなそぶりを見せた後、声を低くした。
「誰にも言わない?」
「うん……」
するとアンナはもう一度考えるように首をかしげた。
「なんなの……?」
「潤ちゃん、一つだけ約束できる?」
「え?」
アンナは神妙な顔寄せて、日向の耳元にささやいた。
「あのね、言っちゃいけない言葉があるの」
「……なに?」
「否定の言葉」
「否定……?」
「そう」
アンナは振るい器を手に取ると、シャカシャカと握り、テーブルに小麦粉をふりかけた。
(なにをするんだろう……)
日向の見ているその場で、アンナは指でそこに『 い 』と書いた。
(い……?)
日向が見たのを確認するや、アンナはすぐに文字を消した。
そして今度は『 な 』と書きすぐに消した。
(全部書けばいいのに)
いつもなら感じないのに、日向は回りくどさに胸のどこかがイライラとした。
そしてもう一度『 い 』と書いて、すぐに消した。
(いない……)
「これだけは絶対に言わないって約束できる?」
「……うん、わかった……」
「絶対だよ?」
「うん」
その後もアンナは何度も念押しした。
普段の日向なら、さほど気にも留めないでその念押しに付き合ったことだろう。
だが、ざらついた気分の今はなぜかアンナがやけにもったいぶって見える。
(なんだろう、早く言ってくれないかな……)
するとアンナは、エリナの方を見た。
「潤ちゃん、あそこに何か見える?」
「え?」
「このへんに、何か見えない?」
アンナはエリナの隣に行くと、手で大きな丸をつくって見せた。
「……別に何も見えないけど……」
「そっか……」
アンナはため息をついた。
(なんだよ……?)
日向はまたじらされたと思い、苛ついた。
日向は少し低いトーンで言った。
「……それで、なんなんだよ?」
「ああ、ごめん……。あのね、今、ここにお菓子の妖精がいるの」
(はあ……?)
日向は心の中だけでそう言ったつもりだったが、それは声に出ていた。
「はあ……?」
「すぐには信じられないかもしれないけど、ほんとにね、今ここにいるの」
「……なに言ってるの、アンナ……?」
アンナは無理もないなという顔で小さく笑って見せた。
「あのね、ヒューはお菓子の妖精で、わたしにお菓子の作り方を教えてくれるの。エリナにも見えてるの。でも、お父さんとお母さんには見えない。おじいちゃんとおばあちゃんも見えないけど、時々ヒューの方を振り返ることがあるの。きっと気配を感じるのね」
日向にはまるで絵本を読み聞かせを聞いているかのように思えた。
「ヒューはね、お菓子のことなら何でも知ってるの。材料も混ぜ具合も、焼き加減も全部教えてくれるの」
アンナとエリナは一様に、おなじ空間の一点を見つめている。
まるで、本当にそこに何かがいるかのように。
「え、どうして?」
アンナが急に質問をした。
しかし、日向に話しているでも、エリナに聞いているでもなかった。
なにやら、アンナはなにもないその空間に向かって話しかけているのだ。
(なにそれ……)
心の奥で日向は冷ややかな気持ちでそれを見ていた。
「ああ……、そういうことなら……」
日向は怪訝に眉を寄せた。
「なに?」
「ああ、今ね、ヒューが粉砂糖を降れっていうから。ちょっと待っててね」
「何やってるの、アンナ?」
「だから……」
「バカじゃないの?」
日向の冷たい言葉に、アンナが驚いたように顔を向けた。
「ねえ、いくつだと思ってるの、自分のこと? ははっ、うけるんだけど!」
未完成の器に溜まっていた苛立ちの蓋が開いた。
「潤ちゃん……」
「いつまでも夢みたいなこと言ってさあ! エリナに合わせてるのかと思えば、アンナ、それはない! ないない!」
開いた蓋から漏れ出した感情は、日向が抱えていた不安や押し殺していた感情をずるずると引きずり出した。
「ほんと、ばっかじゃないの? お菓子の妖精、なにそれ? 子どもじゃないんだからさあ!」
「潤ちゃん、やめて……」
いつもとちがう日向の態度に驚くと同時に、アンナは懇願にも近い表情を浮かべた。
「あはは、なにいってんの、まじで、頭おかしいよアンナ!」
「潤ちゃん、だめ!」
アンナは日向に駆け寄ると、日向のユニフォームの裾を掴んだ。
「約束したでしょ?」
日向は鼻で笑った。
「約束? 約束も何も、いないだろ、お菓子の妖精とか! どんなだけ夢見てるんだよ! そんなのいるわけないだろ!」
「潤ちゃん!」
アンナは思わず日向の口を閉ざそうと手を伸ばした。
しかし、日向はそれを楽によけて、エリナとエリナの隣のなにもないその空間を見た。
そしてなにもない空間に手を伸ばし、これ見よがしにテーブルを強くたたいた。
その拍子にテーブルの上の小麦粉袋が床に転げ落ち、白い粉をはき散らした。
「ここのどこにそんなもんがいるんだよ!」
キッチンに響いた大音に驚いたエリナがわっと泣き出した。
アンナもみたことのない日向の姿に凍り付いた。
しかも、同級生とはいえ、一回り以上大きな日向に大声や乱暴な態度に否応がなく体がこわばる。
アンナは初めて日向に対して恐怖を抱いた。
「アンナがわかってないみたいだから言ってやるよ! そんなもんはいない! 絶対いない!」
「やめて、言わないで!」
アンナは泣きそうな顔を浮かべて叫んだ。
すると、日向はまるでアンナをねじ伏せるかのような勢いで詰め寄った。
「いないもんはいないんだよ! 何回でも言ってやる! そんなもんはいない! いない! いない!」
「言っちゃだめ!」
アンナが叫ぶと、エリナの泣き声がますますひどくなった。
「いない! いない! いない!」
「やめて、潤ちゃん!」
「いない、いない、いない! いなんいだよ!」
「やめて!」
気がつくと、日向はアンナを壁際まで追いつめ、日向の口をふさごうと伸ばしたアンナの手をつかみ取り、その手を封じるように強く握りしめていた。
アンナがその痛みに顔をゆがめ、目に涙を浮かべても、暴れ出した日向の激情はとまらなかった。
「そんなもんはいないんだよ! この世にいない! 絶対いない! その歳になってもそんなこと信じてるなんて、本当にバカなんじゃないの! バカなアンナ!」
「もうやめて……」
「いい加減大人になれよ!」
「……」
「大人になれよ!」
噛みつくように吐き出された言葉は、アンナに向けられた言葉ではなかった。
大人にならなければいけない自分に、まだ大人になりたくない自分が叫んでいるのだ。
日向は無我夢中で怒鳴り散らしながら、感情を吐き出しつづけた。
大人になり切れない自分に向けた未消化で不安定な気持ちを、ただ偶然目の前にいるというだけの相手にぶつけ続けた。
物理的にやり返されることのないアンナが相手だったから、余計に日向は増長した。
己の醜さや暴力性をさらけ出し発散させても、アンナに抵抗する力がないのは明らかだった。
どれだけ叫んでいたかわからない。
気がつくと、喉がひりひりと痛むほどに声がかすれていた。
泣き続けていたエリナの大声に隠れて気がつかなかったが、しだいに別の泣き声がするのに気が付いた。震えながらすすり泣くアンナの声だった。
手をはなすと、アンナの細い手首は赤く染まっていた。
アンナはその場で崩れるようにしゃがみこみ、顔を隠して泣き出した。
エリナもぐしゃぐしゃの顔で激しく泣き続けている。
日向は自分のしたことを呆然として眺め見た。
うずくまり震え泣いているアンナ、床を真っ白に染める粉。
調理器具が散乱し、割れた卵が足元でつぶれていた。
激しい感情の噴出に自分を見失い、日向は自分のしたことが怖くなった。
日向は走りその場を逃げた。
それが、アンナと日向の決別となったのだった。
アンナと日向はそれ以来一度も口をきくことはなく、家を行き来することもなくなった。
アンナはあとになって日向が養子に出された理由を耳にし、普段とは別人のようにふるまわざるを得なかった彼の心境を察し、時間を経て理解と同情をした。
けれども、あの日受けた衝撃や恐怖から立ち直るのは、アンナにとっては容易なことではなかった。
翌日から学校を休んだアンナが再び登校できるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
だが、アンナが日向に感じた恐怖は簡単にぬぐえなかったし、日向も罪の意識を抱きながらもアンナに謝ることができなかった。
そして、二人が和解し合うまでの時間は残されていなかった。
その春の卒業を機に、日向は静岡へ、母と子二人になった一家は母の実家に身を寄せて越していった。
あの日、家に大人が一人いれば、ああはならなかったろう。
あるいは、アンナが子どもっぽい打ち明け話などしなければ、日向は自分を見失うことはなかったかもしれない。
そして、日向の心境が落ち着いたときだったなら、アンナの空想にも普通に付き合っていられただろう。
交通事故ようなものだった。
たまたま道ばたで蝶やら花をみつけて遊んでいたところに、コントロールを失った暴走車両が突っ込んできたようなものだ。
子どもがゆえにどちらも抑えがきかず、不可抗力の出来事だったのだろう。
偶然のタイミングが重なって、日向の感情のはけ口にアンナが選ばれてしまった。
時や場合が違えば、それとふさわしい大人が日向の感情の吐露につきそうはずだったのだ。
そして、アンナの母久美子が話を聞いてやれなかったと気にかけているのはこのときのことだった。
だが、トラブルというのは重なるときには重なるものだ。
普段から久美子はエリナを気にかけ、そしてその対応には手を焼いていた。
それに加えて、その日は急きょ祖母が入院をすることになったのだ。
祖母は脚を診てもらった後、ときどき下腹部に痛みがあるとの自覚症状を訴えた。
念のため行った血液検査の結果を受けて、そのまま検査入院となったのだった
入院の支度をしに家に戻ってきた母は、キッチンの有様を見て反射的にエリナがそれをやったのだと勘違いした。
アンナはショックもあって、母にそのときなにがあったかをうまく話すことはできなかったのだ。
愛は平等ではない。
愛はその時もっとも必要なところへ配られ、ときに傷ついた誰かには届かない。
アンナの心の傷を受け止める受け皿は、このときここにはなかったのだ。
たしかに、アンナの話を丁寧に聞くことができる大人がいれば、その後のアンナは少し違ったかもしれなかった。
「静岡に行ってから、父と母……本家の両親は、俺にすごくよくしてくれたんだ。俺が心配に思ったり不安に思ったりしていることを、辛抱強く聞いてくれたし、寄り添ってくれた。本当の父や母と同じくらいに。俺は少しも不幸じゃなかったんだ。あの時はなにがなんだかわからなくてパニックになっていたけど、落ち着いて考えたら、なにもかも腑に落ちた。離れたからって縁が切れたわけじゃないからって、それまで以上に親戚付き合いも増えて、俺は壮一と雄一は今もすごく仲がいいんだ」
日向の言葉は明るかった。
少年だった日向の様子がまざまざと浮かぶような懐かしい響きがあった。
だが、いい話であるほど、声が明るいほど、アンナの胃は重く冷たくなっていった。
「サッカーも続けさせてくれたんだ。そりゃあ、名門チームには俺よりすごい奴が山のようにいて、俺なんか大したことないってすぐにわかったけど、それでも高校で足の腱を壊すまでずっと好きにさせてくれた。親父の会社に入ったのは高校を出てすぐだ。親父は大学まで行かせてくれるつもりだったけど、サッカーをやめた後アルバイトで手伝うようになったら、意外と仕事が面白くて。こんなでかい図体してウェデングプランナーだなんて思われるかもしれないけど、自分では結構向いてると思ってるんだ」
「……」
アンナは足首を押さえたまま下を向き、じっと身動き一つせずに聞いていた。
立ち上がれない以上、聞くしかなかった。
それが聞きたくないことであろうとも。
「アンナのことが……、ずっと気になっていた。悟からときどき君の話を聞いて、いつもあの日のことを謝らなきゃって考えてた。アンナ……」
「……聞きたくない……」
アンナは押し殺すようにつぶやいた。
日向は瞳を揺らしてうつむいたままのアンナを見つめた。
「ねえ、アンナ……。あの日君を傷つけたこと、俺はずっと……。本当に悪かったと思ってる」
「……帰って」
アンナはかたくなに言った。アンナがかたくななのには理由があった。
日向は一旦は立ち上がり変えるそぶりを見せたが、思い直したようにもう一度アンナを見た。
長い時間、彼なりに罪の意識を今日まで抱えてきて、どうしても言わなければならない言葉があったからだ。
「あの時は本当にごめん……、君は、何一つ悪くなかった」
しかしアンナはわななくように、いやもう泣いているかのように震える声で言った。
「いいから、帰って……!」
一見すればアンナは意固地になっているかのように見えたかもしれない。
だが、日向から見た視点以上のことが日向にはわかるはずもなく、またアンナは何も語ろうとはしない。
「帰って」
全身から気力を集めてアンナはまるで色を失った顔を上げた。
その追い詰められたような表情に、アンナの苦しみがいまだ解けていないことを日向は思い知った。
まるで、あの日のやめてと泣きながら訴えていた子どものアンナそのものだった。
(アンナ、君はずっと……)
日向はかける言葉が見つからなかった。
(俺が静岡で幸せに暮らしている間も、君は……)
「わかった、ごめん。帰るよ……」
正直、自分の感情の制御を失っていた日向は、自分の行ったことの結果はよく覚えているものの、実際壁際に追い詰めたアンナにどれだけの間拘束し、罵声を浴びせ続けたのかははっきりしない。今ならわかる。同じ年の子ども同士とはいえ、もとからあった体格差に加え、男女の力の差もはっきりとしていた。今も小柄なアンナと自分の体格差を比べれば、あの時以上の恐怖を感じてもおかしくない。
それを思えば、アンナはよく家に入れてくれたものだ。
(アンナはずっと苦しんでいたんだ……ずっと……。俺のせいで……。それなのに、のうのうと俺は……)
自分なりに罪の意識を抱いていたきたのだから謝って許してもらおうなどと、自分が楽になりたいという都合だけでよく押しかけてこれたものだ。
今までのことがまるでなかったかのような顔をして、友人の結婚式の打ち合わせなどして、アンナが今までもそして今もどれほど心をすり減らしていたかに気がつきもしないで。なんという無神経さだったのだろう。
日向は、ようやくそのことに気がつき始めた。
日向はようやく立ち上がると、玄関へと向かった。
そのとき、インターフォンが鳴った。
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